君がいなくなる前に、十個だけ
第08話 同時に叶う
七つ目と八つ目の願いを叶える日、俺と彩乃は王子動物園へ向かった。神戸市立王子動物園は、動物を見られるだけでなく、園内に遊園地も併設されている、神戸では昔から親しまれている場所だ。俺にとっては小学生の頃に遠足や写生大会で来た記憶が残っているが、高校三年生になった今、自分から足を運ぶとは思っていなかった。入口へ近づくと、彩乃は園内を見渡してから、持っていたノートを胸の前で開いた。
「今日は七つ目と八つ目を叶えるんだよ」
「二つも?」
「うん。七つ目は、王子動物園に行くこと」
「なるほどな」
「それと、八つ目は遊園地で観覧車に乗ること」
彩乃が指でノートの二つの欄を示す。俺は入口の向こうへ視線を向けた。動物園の園内に入れば、動物を見ることができる。その先には遊園地があり、観覧車にも乗れる。二つの願いを同じ場所で叶えられることに気づいた瞬間、俺は思わず笑ってしまった。
「それやったら、ここに来たら二つとも叶うやん」
「そうなの。だから今日にしたの」
「何や、意外と効率ええやん」
そう言った直後、俺は自分の言葉を後悔してしまった。二つの願いが一日で終わる。つまり、彩乃のノートに書かれた願いが、それだけ早く残り少なくなるということだ。俺はこれまで、願いが叶うたびに彩乃が嬉しそうにする姿を見るのが楽しみだった。それなのに、いざ二つが同時に終わると考えると、もっとゆっくりでいいと思ってしまう。彩乃は何も気づいていないように笑っているが、俺だけが胸の奥で焦りを感じていた。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
「変なの」
彩乃は笑いながら入園券を受け取り、俺の少し前を歩き始めた。俺もその後を追いながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返していた。
二つとも叶う。
自分でそう言ったのだから、今さら取り消すこともできない。だったら今日は、彩乃が楽しめるようにするしかない。そう思い直して園内へ入ると、木々の間から動物の鳴き声が聞こえ、子どもたちの声が重なって広がっていた。彩乃はその音に誘われるように顔を上げ、目を輝かせている。その表情を見た瞬間、俺は余計なことを考えるのをやめた。少なくとも今は、卒業のことも、転勤のことも忘れて、目の前の時間を大切にしたかった。
「陽介くん、あっち行こう!」
「待ってや、そんな急がんでも動物は逃げへんって」
「でも、早く見たいんだもん」
「高校三年生が動物園でそんなに走るなや」
「陽介くんだって楽しそうじゃん」
図星だった。彩乃に言われて周囲を見回すと、俺自身も思っていた以上に園内を楽しんでいることに気づいた。小学生の頃に見た景色と同じ場所が残っている一方で、今の自分には違って見える。彩乃が隣にいるからなのだろう。動物を見つけて笑う姿や、写真を撮ろうとして何度も角度を変える姿を眺めていると、俺まで自然に笑ってしまう。七つ目の願いは、ただ王子動物園へ来ることだった。それなのに、俺にとっても今日という一日そのものが大切な思い出になり始めていた。
園内を歩きながら、彩乃は何度もノートを開いていた。七つ目の欄には、今日の日付と王子動物園の名前を書き込むつもりらしい。俺はその横からページを覗き込みながら、これまでの願いを思い返した。
長田の商店街を歩いた日も、モトコーの高架下を歩いた日も、新開地で食事をした夜も、須磨の海を眺めた日も、全部このノートの中に残っている。どれも俺にとっては普通の神戸の日常だ。それが彩乃にとっては、神戸を離れる前に残しておきたい大切な記憶なのだと思うと、ノートの一ページが埋まるたびに、嬉しさより寂しさが少しずつ大きくなっていた。
「ねぇ、陽介くん」
「ん?」
「次、遊園地行こう」
「八つ目やな」
「うん」
「ほんまに観覧車でええん?」
「いいの。ずっと乗ってみたかったから」
動物園を抜けて遊園地へ向かうと、視界の先に観覧車が見えた。ゆっくりと回るゴンドラを見上げていると、隣から彩乃の声が聞こえる。
「陽介くん、昔も乗ったことある?」
「小学生の頃にな。たぶん親と来たときやと思う」
「じゃあ、今日は二回目?」
「いや、何回か来てるで」
「そうなんだ。私は初めて」
「そりゃそうやろ。ここに来るんが初めてなんやから」
「へへっ、そうでした」
彩乃が嬉しそうに冗談を言う。その笑顔を見ていると、俺はさっき感じた寂しさを少しだけ忘れることができた。ゴンドラへ乗り込み、ゆっくりと上昇していくと、園内の景色が少しずつ小さくなっていく。建物の向こうには神戸の街が広がり、その先には海が見える。彩乃は窓から離れず、何度も景色を写真に収めていた。
「すごい……」
「神戸って、こうやって見ると結構広いやろ」
「うん。私、こんな景色を見られるのもあと少しなんだね」
「……そうやな」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。彩乃はすぐに笑顔へ戻ったが、その声に混ざった寂しさを聞き逃すことはできなかった。観覧車が頂上へ近づくにつれ、俺たちが歩いてきた神戸の街が一つの景色として見えてくる。長田も、須磨も、今日まで二人で歩いた場所も、この街のどこかにある。俺はその景色を眺めながら、彩乃がこの街を忘れないために願いを集めているのだと思った。
観覧車を降りると、彩乃はベンチに座ってノートを開いた。七つ目には王子動物園、八つ目には観覧車と書き込み、それぞれの欄に小さな印をつける。俺はその様子を見ながら、二つの願いが本当に終わってしまったことを実感した。
「これで七つ目と八つ目、終わったね」
「うん」
「……早かったな」
「そうだね」
彩乃がノートを閉じる。その仕草を見た瞬間、俺は胸の奥がざわつくのを感じる。残りは二つ。九つ目と十個目だけだ。最初は十個もあるなら、全部終わるまでまだまだ時間があると思っていた。それなのに、気づけばあと二つしか残っていない。俺は彩乃の手元に視線を落としながら、もっとゆっくり願いを叶えればよかったと思っていた。自分から「ここなら二つとも叶う」と言ったくせに、その言葉を今になって悔やんでいる。
「陽介くん?」
「何や?」
「どうしてそんな顔してるの?」
「……何でもないって」
「ふふっ。変なのー」
彩乃は笑ってノートを鞄へしまう。その笑顔を見ながら、俺はまだ二つ残っていることだけを考えていた。九つ目は何なのか。そして、最後の十個目には何が書かれるのか。観覧車から見た神戸の街が、さっきより少し遠く感じられる。俺はその理由を考えないようにしながら、彩乃の隣を歩き始めた。
「今日は七つ目と八つ目を叶えるんだよ」
「二つも?」
「うん。七つ目は、王子動物園に行くこと」
「なるほどな」
「それと、八つ目は遊園地で観覧車に乗ること」
彩乃が指でノートの二つの欄を示す。俺は入口の向こうへ視線を向けた。動物園の園内に入れば、動物を見ることができる。その先には遊園地があり、観覧車にも乗れる。二つの願いを同じ場所で叶えられることに気づいた瞬間、俺は思わず笑ってしまった。
「それやったら、ここに来たら二つとも叶うやん」
「そうなの。だから今日にしたの」
「何や、意外と効率ええやん」
そう言った直後、俺は自分の言葉を後悔してしまった。二つの願いが一日で終わる。つまり、彩乃のノートに書かれた願いが、それだけ早く残り少なくなるということだ。俺はこれまで、願いが叶うたびに彩乃が嬉しそうにする姿を見るのが楽しみだった。それなのに、いざ二つが同時に終わると考えると、もっとゆっくりでいいと思ってしまう。彩乃は何も気づいていないように笑っているが、俺だけが胸の奥で焦りを感じていた。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
「変なの」
彩乃は笑いながら入園券を受け取り、俺の少し前を歩き始めた。俺もその後を追いながら、さっきの言葉を頭の中で繰り返していた。
二つとも叶う。
自分でそう言ったのだから、今さら取り消すこともできない。だったら今日は、彩乃が楽しめるようにするしかない。そう思い直して園内へ入ると、木々の間から動物の鳴き声が聞こえ、子どもたちの声が重なって広がっていた。彩乃はその音に誘われるように顔を上げ、目を輝かせている。その表情を見た瞬間、俺は余計なことを考えるのをやめた。少なくとも今は、卒業のことも、転勤のことも忘れて、目の前の時間を大切にしたかった。
「陽介くん、あっち行こう!」
「待ってや、そんな急がんでも動物は逃げへんって」
「でも、早く見たいんだもん」
「高校三年生が動物園でそんなに走るなや」
「陽介くんだって楽しそうじゃん」
図星だった。彩乃に言われて周囲を見回すと、俺自身も思っていた以上に園内を楽しんでいることに気づいた。小学生の頃に見た景色と同じ場所が残っている一方で、今の自分には違って見える。彩乃が隣にいるからなのだろう。動物を見つけて笑う姿や、写真を撮ろうとして何度も角度を変える姿を眺めていると、俺まで自然に笑ってしまう。七つ目の願いは、ただ王子動物園へ来ることだった。それなのに、俺にとっても今日という一日そのものが大切な思い出になり始めていた。
園内を歩きながら、彩乃は何度もノートを開いていた。七つ目の欄には、今日の日付と王子動物園の名前を書き込むつもりらしい。俺はその横からページを覗き込みながら、これまでの願いを思い返した。
長田の商店街を歩いた日も、モトコーの高架下を歩いた日も、新開地で食事をした夜も、須磨の海を眺めた日も、全部このノートの中に残っている。どれも俺にとっては普通の神戸の日常だ。それが彩乃にとっては、神戸を離れる前に残しておきたい大切な記憶なのだと思うと、ノートの一ページが埋まるたびに、嬉しさより寂しさが少しずつ大きくなっていた。
「ねぇ、陽介くん」
「ん?」
「次、遊園地行こう」
「八つ目やな」
「うん」
「ほんまに観覧車でええん?」
「いいの。ずっと乗ってみたかったから」
動物園を抜けて遊園地へ向かうと、視界の先に観覧車が見えた。ゆっくりと回るゴンドラを見上げていると、隣から彩乃の声が聞こえる。
「陽介くん、昔も乗ったことある?」
「小学生の頃にな。たぶん親と来たときやと思う」
「じゃあ、今日は二回目?」
「いや、何回か来てるで」
「そうなんだ。私は初めて」
「そりゃそうやろ。ここに来るんが初めてなんやから」
「へへっ、そうでした」
彩乃が嬉しそうに冗談を言う。その笑顔を見ていると、俺はさっき感じた寂しさを少しだけ忘れることができた。ゴンドラへ乗り込み、ゆっくりと上昇していくと、園内の景色が少しずつ小さくなっていく。建物の向こうには神戸の街が広がり、その先には海が見える。彩乃は窓から離れず、何度も景色を写真に収めていた。
「すごい……」
「神戸って、こうやって見ると結構広いやろ」
「うん。私、こんな景色を見られるのもあと少しなんだね」
「……そうやな」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。彩乃はすぐに笑顔へ戻ったが、その声に混ざった寂しさを聞き逃すことはできなかった。観覧車が頂上へ近づくにつれ、俺たちが歩いてきた神戸の街が一つの景色として見えてくる。長田も、須磨も、今日まで二人で歩いた場所も、この街のどこかにある。俺はその景色を眺めながら、彩乃がこの街を忘れないために願いを集めているのだと思った。
観覧車を降りると、彩乃はベンチに座ってノートを開いた。七つ目には王子動物園、八つ目には観覧車と書き込み、それぞれの欄に小さな印をつける。俺はその様子を見ながら、二つの願いが本当に終わってしまったことを実感した。
「これで七つ目と八つ目、終わったね」
「うん」
「……早かったな」
「そうだね」
彩乃がノートを閉じる。その仕草を見た瞬間、俺は胸の奥がざわつくのを感じる。残りは二つ。九つ目と十個目だけだ。最初は十個もあるなら、全部終わるまでまだまだ時間があると思っていた。それなのに、気づけばあと二つしか残っていない。俺は彩乃の手元に視線を落としながら、もっとゆっくり願いを叶えればよかったと思っていた。自分から「ここなら二つとも叶う」と言ったくせに、その言葉を今になって悔やんでいる。
「陽介くん?」
「何や?」
「どうしてそんな顔してるの?」
「……何でもないって」
「ふふっ。変なのー」
彩乃は笑ってノートを鞄へしまう。その笑顔を見ながら、俺はまだ二つ残っていることだけを考えていた。九つ目は何なのか。そして、最後の十個目には何が書かれるのか。観覧車から見た神戸の街が、さっきより少し遠く感じられる。俺はその理由を考えないようにしながら、彩乃の隣を歩き始めた。