君がいなくなる前に、十個だけ

第09話 卒業前日

 卒業式を二日後に控えた放課後、教室にはまだ何人かの生徒が残っていた。黒板には明日の予定が残ったままで、窓から差し込む夕方の光が机の列を斜めに照らしている。
 
 俺が鞄を持って席を立とうとしたところで、彩乃が近づいてくる。いつものノートを胸に抱えているのを見て、俺は今日の予定を察した。
 
「陽介、今日って空いてる?」
 
「空いとるで。どうせなら、最初からそう言うてくれたらええのに」
 
「じゃあ、一緒に帰ろう」
 
「それだけ?」
 
「うん。それだけ」
 
 彩乃は笑った。その笑顔がいつもより少しだけゆっくりだったのが気になったが、俺は何も聞かなかった。九つ目の願いについては、もう知っている。卒業式前の最後の放課後を、俺と二人で過ごすこと。それなら今日は、何か特別な場所へ行く必要もない。俺たちは校舎を出て、いつもの道を並んで歩き始めた。校門の向こうには夕方の神戸が広がっている。三年間、何度も歩いた道なのに、今日だけは一歩進むたびに、この時間が終わりへ近づいている気がした。

 学校を出てしばらく歩くと、彩乃が小さな公園の前で足を止めた。道路沿いの木々はまだ少し寒そうで、ベンチには誰も座っていない。俺たちは並んで腰を下ろし、近くの自動販売機で買った温かい飲み物を手にしていた。彩乃は缶を両手で包みながら、向かいの道路を眺めている。
 
「ここ、覚えてる?」
 
「そら覚えとるよ。二年のとき、彩乃が財布落としたと思って大騒ぎした場所やろ」
 
「違うよ。財布じゃなくて、生徒手帳」
 
「似たようなもんやん」
 
「全然違うよ」
 
 彩乃が笑ったので、俺もつられて笑った。そんなくだらない話をしているだけなのに、胸の奥が少しだけ痛む。
 俺たちはこれまで、こういう時間を何度も過ごしてきた。学校帰りに寄り道をして、どうでもいい話をして、気がつけば日が暮れている。俺にとっては特別な予定を組まなくても続いていく日常だった。だからこそ、今日が最後だと分かっていることが、妙に落ち着かなかった。彩乃も同じことを考えているのか、笑いながらも、ときどき俺の顔を確かめるように見てくる。その視線に気づくたび、俺は何か言おうとして、結局いつものように話を続けた。

 公園を出たあと、俺たちは駅へ向かう道をゆっくり歩いた。途中の店先から夕飯の匂いが漂い、住宅街には帰宅した子どもたちの声が聞こえる。そんな何でもない景色の中で、彩乃が突然口を開いた。
 
「陽介に、まだ言ってなかったことがあるの」
 
「何や?」
 
「お父さんの次の転勤先、決まった」
 
 俺は歩きながら彩乃を見る。転勤という言葉自体には驚かなかった。彩乃の家では、それが今まで何度もあったからだ。俺は一瞬だけ黙ったあと、いつもの調子で答えた。
 
「そうなんや。次はどこなん?」
 
「沖縄にある、小さな島」
 
「島?」
 
「うん。国内だよ」
 
 俺はそこで少し安心した。海外ではない。それなら、会おうと思えば会える。新幹線や電車を乗り継いで、最後は船に乗ればいい。時間はかかるだろうが、日本の中ならどうにかなる。そう思った俺は、何も考えずに言ってしまった。
 
「なんや、国内やったら、また会えるやん」
 
 彩乃はすぐには答えなかった。夕方の風が二人の間を抜け、彼女の髪が頬にかかる。彩乃はそれを耳へかけながら、少し困ったように笑った。

「うん。会おうと思えば、会えるよ」
 
「やろ?」
 
「でも、今までみたいには会えない」
 
「……どういうこと?」
 
「お父さんの仕事が落ち着くまで、島を離れることはほとんどできないと思う。それに、私が高校を卒業したら、家族と一緒に引っ越すから」
 
 俺は黙って彩乃の話を聞いた。島へ行くには船に乗る必要がある。毎日のように学校帰りに会うことなんてできないし、仕事を始めた俺が思いつきだけで会いに行ける距離でもない。彩乃は新しい高校へ進むわけではなく、島で家族と暮らす。その先で父親の転勤がまた決まれば、別の場所へ移る可能性もある。
 
「次にいつ会えるか、私にも分からないの」
 
「……そうなんか」
 
「だから、神戸にいる間に、陽介とできるだけ一緒にいたかった」
 
 その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。彩乃が十個の願いを作った理由も、卒業までの日数を気にしていた理由も、全部ここにつながっていた。
 神戸を嫌いだから離れるわけではない。むしろ、好きになってしまったから離れるのが怖い。しかも、その次にいつ戻ってこられるのか分からない。俺はさっきまで「また会える」と簡単に考えていた自分が、急に恥ずかしくなってしまう。

 俺たちは駅へ向かわず、そのまま少し遠回りをすることにした。彩乃が「もう少し歩きたい」と言ったからだ。長田の住宅街を抜ける道には、夕方の明かりが家々の窓に灯り始めていた。俺は歩きながら、これまでの願いのことを思い返していた。
 
 商店街でそばめしを食べたこと。
 モトコーの高架下を歩いたこと。
 新開地で夕飯を食べたこと。
 須磨の海を見たこと。
 湊川隧道へ行ったこと。
 摩耶山から神戸を眺めたこと。
 王子動物園で笑ったこと。

 その一つ一つが彩乃にとっては「また今度」が存在しない時間だったのだ。
 
「彩乃」
 
「なに?」
 
「……もっと早く言うてくれたらよかったのに」
 
「言ったら、陽介が気を遣うと思ったから」
 
「そんなん気にせんでええやろ」
 
「でも、私は気にするよ」
 
 彩乃の横顔を見ながら、もっと何かできたのではないかと思う。でも、過ぎた時間をやり直すことはできない。それなら、せめて今日だけは、余計なことを考えずに一緒にいよう。そう決めると、俺は彩乃に合わせて歩く速度をさらに落とした。

 やがて俺たちは、二人で何度も立ち寄った小さな公園へ戻ってきた。空はすっかり夕暮れ色になり、街灯が足元を照らしている。彩乃はベンチに座ると、鞄からノートを取り出した。ページをめくるたびに、今までの願いが目の前を通り過ぎていく。
 
「九つ目、叶ったね」
 
「まだ何もしてへんで?」
 
「一緒に歩いたじゃない」
 
「それでええん?」
 
「うん。それがお願いだから」
 
 彩乃はそう言って笑った。俺はその言葉を聞いて、胸の奥が熱くなるのを感じた。九つ目の願いは、どこかへ行くことでも、何かを買うことでもない。ただ、卒業式前の最後の放課後を二人で過ごすこと。それだけだった。だから俺は、今日の時間を少しでも長くしたいと思った。彩乃がノートへ今日の日付を書き込む間、俺は黙って隣に座っていた。ページの余白には、彩乃が小さな文字で何かを書き足している。
 
「何て書いたん?」
 
「秘密」
 
「最後まで秘密ばっかりやな」
 
「だって、まだ十個目が残ってるから」
 
 その言葉に、俺の手が止まった。十個目。ノートの最後のページだけは、まだ開かれていない。

 
 日が落ちて、駅前の明かりが目立つようになっても、俺たちはすぐには別れなかった。話すことがなくなったわけではない。むしろ、今までなら何気なく話していたことまで、今日は一つ一つ覚えておきたいと思ってしまう。
 好きな食べ物の話をして、学校の先生の話をして、卒業したらどうするのかを話して、それからまた昔のくだらない話に戻る。彩乃が笑えば俺も笑う。その繰り返しが妙に心地よくて、同時に終わってしまうのが怖かった。
 
「陽介」
 
「なんや?」
 
「今日は、本当にありがとう」
 
「礼なんかいらんって」
 
「ううん。言わせて」
 
 彩乃は俺を見つめたあと、少しだけ目を細めた。
 
「神戸に来てよかったって、今日やっと思えた」
 
 その言葉に、俺は返事ができなかった。彩乃が神戸を離れる未来は変えられない。俺は神戸に残り、彩乃は離島へ行く。会おうと思えば会える。それでも、今までのように毎日の放課後を一緒に過ごすことはできない。その事実を、俺はようやく受け入れ始めていた。

 駅前で別れるとき、彩乃はいつものように手を振った。
 
「じゃあ、また明日」
 
「おう。また明日な」
 
 数歩進んでから振り返ると、彩乃もまだそこに立っていた。俺たちはもう一度手を振り、それぞれの帰り道へ向かう。
 家へ帰る途中、俺は何度も今日のことを思い返した。九つ目の願いは、ちゃんと叶った。そう思うと嬉しいはずなのに、胸の奥には妙な寂しさが残っている。残る願いは一つだけだ。彩乃が最後に何を望んでいるのか、俺はまだ知らない。卒業式の日、最後の願いを叶えるために、俺たちはもう一度神戸を歩く。その先にある十個目が、どんな願いなのか。俺はノートの最後のページを思い浮かべながら、明日という日を迎えることが少し怖くなっていた。
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