ベンチから始まる怪談譚

記憶

「全部思い出したよ……」

 雫が静かにそう言った。

 高台を吹き抜ける風が、二人の間を通り抜けていく。

 いつもなら遠くまで見渡せる夕暮れ色の街の景色も、今日はどこか切なく感じた。

「そっか……。私、人を殺してるんだ……」

 雫は悲しげな視線を、自分の赤黒く染まったワンピースへ向けた。

「私、殺人犯だったんだね……」

 小さな声が、風に消えていく。

「私も、自分のことを覚えてなかったんだな……」

 雫は空を見上げながら呟いた。

「怖い話を教えてくれた人はみんなさ、自分が死んでることを分かってなかったの。そして、ずっとそこに居続ける。毎日、毎日」

 風が止む。

 その瞬間だけ、この場所に残された時間が戻ってきたような気がした。

「私もそうだった」

 雫はベンチへ視線を落とす。

「毎日このベンチで、失くしたイヤリングを探し続けてたんだな」

 少しだけ寂しそうに笑った。

「君に出会うまでは」

 雫は僕の顔を見て、優しく微笑む。

「君が私に声をかけてくれてから、私は探し物をしていたことなんて忘れて、毎日君の書いた話を読ませてもらった。拙い文章でも、物語は先へ先へと進んでいって……。一人で同じことを繰り返していた私の日常が、少しずつおかしいって思い始めたの。あれ?って」

 雫は少しだけ顔を傾ける。

「もしかして……私、もう死んでるんじゃない?って」

 彼女の声は僕の頭の中にだけ静かに溶けていく。

「私がここから動けない理由なんて、最初は全然分からなかったし、考えもしなかった。でも、自分が生きていないんだって認めてからは、この場所から離れられるようになった」

 雫は血で染まった顔を僕に向けた。

「そこで、君の役に立てたんだよ」

 その瞳には嬉しそうな光が差した。

「名編集長の誕生だな」

 僕はそう言って、雫の話に合いの手を入れた。

「ふふっ。ありがと」

 雫は笑った。

「でも……」

 少しだけ視線を落とす。

「まさか、こんな過去が私にあったなんてね……」

「ごめんね……。今の話を聞いたら、こうして一緒にいるの怖いよね?」

 雫は少し寂しそうに笑った。

「あっ……そもそも私が幽霊ってだけで怖いか……」

 俺は一つ、大きく息を吸った。

「殺してない」

「えっ?」

「雫は、誰も殺してないよ」

「……気を使ってくれてるんだよね。でも……」

「違う」

 俺は首を横に振った。

「死んでないんだよ。その人」

「え……?」

「雫と初めてここで会った時、僕はすぐに君が幽霊だって気づいた」

 雫が目を見開く。

「でも、そんなことは関係なかった」

「雫は普通に僕と話をしてくれた。小説を読んでくれて、笑ってくれて……」

「だから調べたんだ」

「僕が生まれる前の出来事だったみたいで、ネットにはほとんど情報が残ってなかった。だから図書館へ行って、昔の新聞を手当たり次第に探した」

「そしたら……雫の名前を見つけた」

 俺はゆっくりと言葉を続けた。

「その頃はまだ『ストーカー』って言葉が一般的じゃなかったみたいでね。『女子高生に好意を寄せていた男子高生が付きまとい。女子高生は高台から突き落とされ死亡』って記事だった」

 雫の表情がわずかに曇る。

「でも、その記事には続きがあった」

「雫がナイフで刺した相手は……命に別状はなく逮捕されたよ」

 雫の表情が少しずつ変わっていく。

「僕は雫に何があったのか、なんとなく知っていたんだ。だから怖くなんてないよ」

 僕は雫に微笑んで見せた。

 雫が囚われていた過去が、少しでも軽くなるように。

 すると雫は「はぁ……」と大きく息を吐き出した。

「良かったー…生きてたー…」

 その場にしゃがみ込む。

「いや、良くはないよ。雫なんて突き落とされちゃってるんだから」

 思わずそう言うと、雫は顔を上げた。

 でも、その表情には怒りも憎しみもなかった。

 ただ、安心したように笑っていた。

(幽霊になってまで、自分を傷つけた相手の心配をするなんて……)

 僕には、雫の優しさが理解できなかった。

「ねえ、雫。今度は僕が君にイヤリングを贈らせてもらえないかな」

「小説を手伝ってくれたお礼に」

 僕は雫を見上げた。

 血で張り付いた長い髪に隠れて、耳は見えない。

 それでも、イヤリングを探し続けていた雫に贈りたくなった。

「先輩のイヤリングの代わりにはなれないけど……」

 僕は照れ隠しに頬を指で掻きながら、そっと視線を逸らした。

 雫から、ハッと息をのむ小さな音が聞こえた。

「本当? 嬉しい!」

 街には一つ、また一つと灯りがともり始める。

 オレンジ色に染まっていた空は、いつの間にかどこまでも続く藍色へと変わっていた。

 街の灯りにも負けない星だけが、静かに瞬いている。
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