ベンチから始まる怪談譚

編集長より

「今回はまた随分と短い話になったねぇ」

 僕の書いた『歩道橋』を読み終えた雫が、くすりと笑った。

「だって、雫の聞いてきた話ってこれだったじゃない。考えたんだけど、これ以上は膨らませられなかったよ」

「うん。でも、この『とんかつ』の設定はいいね」

「僕ね、こう見えて小学生の頃、野球をやってたんだよ。試合の前の日は、母さんがいつもとんかつを作ってくれてた」

「なるほど。君は野球少年だったんだね」

 僕は苦笑しながら肩をすくめた。

「いや、ずっとベンチだったよ。二年もしないうちに辞めちゃったし」

 両親は僕にスポーツをさせたかったみたいだけど、残念ながら僕は『運動神経』というものを持ち合わせていなかった。

「雫が話を聞いてきた人、おばさんだったって言ってたでしょ。だから、なんとなく母さんをイメージしちゃったんだよね」

 そう。

 今回、雫が話を聞いてきたのは四十代くらいの女性だったらしい。

 少しふっくらした体型で、どこにでもいそうな優しそうなお母さん。

「怖い体験をした人はいないかなって歩いてたらね、歩道橋の下で何かを探してる人がいたんだよ」

 雫はその時のことを思い出すように空を見上げた。

「『何か探してるんですか?』って声をかけたのがきっかけ。その人が、この話を聞かせてくれたんだ」

「ははっ。本当に雫のコミュ力の高さはすごいな」

 雫が動ける範囲だけでも、これだけ怖い体験をした人がいる。

 そう思うと、僕たちが見ている世界なんて、ほんの一部なのかもしれないと思った。

「そういえばさ、私が君に初めて会った時と同じじゃない?」

 そう言われて、僕は雫と出会った日のことを思い出した。

「あ、本当だ。あの時は僕が雫に声をかけたんだったよね。『何か探してるんですか?』って」

 初めて会った日。

 雫は地面にしゃがみ込み、這うようにベンチの下を覗き込んでいた。

 長い髪を揺らしながら、何かを必死に探している。

 その姿を見た瞬間、コミュ症な僕でも自然と声をかけていた。

(あの時の雫は何を探していたんだっけ……)

 僕はベンチの後ろに立つ雫を見上げた。

「どうした?」

 雫は不思議そうに首を傾げながら、長い髪を耳にかけた。

(そうだ……)

(イヤリングだ)

(「イヤリングを見ませんでしたか?」って聞かれたんだ)

 あの時は、まさか二年近くも雫が僕の小説を読み続け、こうして編集者みたいな存在になるなんて思ってもみなかった。

「なんだか私も君に話を聞いてもらいたくなっちゃったな」

 そうおどけて笑うと、雫は僕の前へ立った。

 高台から広がる青い夏空も、遠くまで続く街並みも、僕の視界からふっと消える。

 代わりに目の前を埋め尽くしたのは、風にひらりとなびく、雫の真っ赤に染まったワンピースだった。
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