経理課・木下紬の恋のバグ
第22話 夜の共同戦線
長谷川が梱包資材の確保のために夜の街へと飛び出してから、数時間が経過していた。
時計の針は、すでに夜の十一時を回ろうとしている。
ガランとした管理課のフロアでは、配送センターと直接やり取りをする管理課の社員たちが、血眼になって残業を続けていた。
そのすぐ隣のデスクで、経理課の紬もまた、一人パソコンの画面に向かっていた。
出荷遅延によって明日以降に城南電器やツクバカメラから請求されるであろう「機会損失の損害賠償」の試算と、緊急で梱包資材を買い付けるための「予備費の予算補正データ」を、経理のプロとしてひたすら整理し続けていたのだ。
「――その損害賠償の試算データ、僕に転送してください」
静寂を引き裂くように、すぐ隣から低く澄んだ声が降ってきた。
驚いて紬が顔を上げると、いつの間にか隣の藤沢先輩の席の椅子を引き、瀬尾蓮が座っていた。黒縁メガネの奥の瞳をディスプレイに向け、すでに仕事を始める態勢に入っている。
「瀬尾主任……。まだ、残ってくださっていたんですか?」
紬がパチパチと瞬きを繰り返すのをよそに、瀬尾は手際よくデスクトップパソコンの電源を入れ、自身の管理者IDでシステムにログインした。
「勘違いしないでください。僕はアベニールが外部倉庫のデータ不足によって一時的なエラーを起こしているのが、システムエンジニアとして気に入らないだけです。あなたの手伝いをしているわけではありません」
相変わらずのロボットのようなお堅い敬語と、理屈を並べた言い訳。
けれど、彼のネイビーのジャケットの袖口からは、あの日深夜にもらった、あのサプリメントと同じ、わずかに爽やかなシトラスの香りがふわりと漂っていた。
「わかりました。では、今から私が計算した、明日発生する見込みの損失予測の数値を送りますね」
紬はふっと息を整えると、手元の実務データを瀬尾の端末へと共有した。
「確認しました。……なるほど。アベニールは商品の体積だけで配送ルートを計算していましたが、現実の資材不足による遅延損害金のリスクまでは考慮していなかったようですね」
瀬尾はディスプレイの光を黒縁メガネに反射させながら、デスクトップのキーボードを猛烈な速度で叩き、アベニールのプログラムの裏側に直接、修正用のコードを打ち込んでいった。
静まり返ったオフィスに、カタカタカタ!という鋭いタイピング音が激しく響き渡る。
「今、アベニールの予測アルゴリズムに、あなたが出した経理の損失データを人間の手で直接インプットして、補正プログラム、つまりパッチを当てています。これで、現実の資材の数に見合った、本当に正しい出荷ラインが再計算されるはずです」
完璧だと言い切っていたAIの予測を、現場の数字を前にして、一切の迷いなく瞬時に書き換えていく。
紬は、その瀬尾の淡々とした背中を見つめながら、複雑な想いを抱いていた。
日中のあの態度は、今でも到底受け入れられないし、腹が立つ。
けれど、自分のミスをデータとして突きつけられた瞬間、プライドを捨てて即座にプログラムを修正する。その圧倒的な迷いのなさだけは、悔しいけれど認めざるを得なかった。
この人もまた、自分のやり方で、このシステムに責任を持っているのだ。
「瀬尾主任。データがすべてじゃないって言って、さっきはあんなに怒鳴ってしまって……すみませんでした」
紬が小さく俯いて、まずは仕事上の礼儀として謝ると、瀬尾はキーボードを叩く手をピタリと止めた。
ゆっくりと顔を上げ、黒縁メガネの奥にある一重の瞳で、真っ直ぐに紬の顔を見つめる。
「……謝る必要はありません。僕の予測に『外部資材の残数』という重要な変数が抜け落ちていたのは、厳然たる事実です。それを経理の視点から的確にハッキングしてみせたのは……他でもない、木下さん、あなたですから」
木下さん――。
瀬尾が初めて紬の名前を静かに口にした瞬間、紬の心臓がドクンと大きく波打った。
「それに、あなたがこれ以上残業して倒れられると、僕のシステムの運用効率が著しく低下して非常に迷惑です」
迷惑だ、と言いながらも、瀬尾の白い耳の裏が、液晶画面の光のなかでほんのりと赤くなっているのを、紬は見逃さなかった。
相変わらず理屈を崩さないが、そこには奇妙な不器用さが混ざっている。
「はい。迷惑をかけないように、私も最後まで頑張りますね」
紬が小さく微笑むと、瀬尾は気まずそうにフイッと顔を背け、再び猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
長谷川のまっすぐな情熱と、瀬尾のこのどこまでも不器用な態度。
二人の男の間で、紬の心の中に、アベニールには絶対に計算できない「奇妙なバグ」が、深夜の静かなオフィスのなかで、少しずつ育ち始めているようだった。
時計の針は、すでに夜の十一時を回ろうとしている。
ガランとした管理課のフロアでは、配送センターと直接やり取りをする管理課の社員たちが、血眼になって残業を続けていた。
そのすぐ隣のデスクで、経理課の紬もまた、一人パソコンの画面に向かっていた。
出荷遅延によって明日以降に城南電器やツクバカメラから請求されるであろう「機会損失の損害賠償」の試算と、緊急で梱包資材を買い付けるための「予備費の予算補正データ」を、経理のプロとしてひたすら整理し続けていたのだ。
「――その損害賠償の試算データ、僕に転送してください」
静寂を引き裂くように、すぐ隣から低く澄んだ声が降ってきた。
驚いて紬が顔を上げると、いつの間にか隣の藤沢先輩の席の椅子を引き、瀬尾蓮が座っていた。黒縁メガネの奥の瞳をディスプレイに向け、すでに仕事を始める態勢に入っている。
「瀬尾主任……。まだ、残ってくださっていたんですか?」
紬がパチパチと瞬きを繰り返すのをよそに、瀬尾は手際よくデスクトップパソコンの電源を入れ、自身の管理者IDでシステムにログインした。
「勘違いしないでください。僕はアベニールが外部倉庫のデータ不足によって一時的なエラーを起こしているのが、システムエンジニアとして気に入らないだけです。あなたの手伝いをしているわけではありません」
相変わらずのロボットのようなお堅い敬語と、理屈を並べた言い訳。
けれど、彼のネイビーのジャケットの袖口からは、あの日深夜にもらった、あのサプリメントと同じ、わずかに爽やかなシトラスの香りがふわりと漂っていた。
「わかりました。では、今から私が計算した、明日発生する見込みの損失予測の数値を送りますね」
紬はふっと息を整えると、手元の実務データを瀬尾の端末へと共有した。
「確認しました。……なるほど。アベニールは商品の体積だけで配送ルートを計算していましたが、現実の資材不足による遅延損害金のリスクまでは考慮していなかったようですね」
瀬尾はディスプレイの光を黒縁メガネに反射させながら、デスクトップのキーボードを猛烈な速度で叩き、アベニールのプログラムの裏側に直接、修正用のコードを打ち込んでいった。
静まり返ったオフィスに、カタカタカタ!という鋭いタイピング音が激しく響き渡る。
「今、アベニールの予測アルゴリズムに、あなたが出した経理の損失データを人間の手で直接インプットして、補正プログラム、つまりパッチを当てています。これで、現実の資材の数に見合った、本当に正しい出荷ラインが再計算されるはずです」
完璧だと言い切っていたAIの予測を、現場の数字を前にして、一切の迷いなく瞬時に書き換えていく。
紬は、その瀬尾の淡々とした背中を見つめながら、複雑な想いを抱いていた。
日中のあの態度は、今でも到底受け入れられないし、腹が立つ。
けれど、自分のミスをデータとして突きつけられた瞬間、プライドを捨てて即座にプログラムを修正する。その圧倒的な迷いのなさだけは、悔しいけれど認めざるを得なかった。
この人もまた、自分のやり方で、このシステムに責任を持っているのだ。
「瀬尾主任。データがすべてじゃないって言って、さっきはあんなに怒鳴ってしまって……すみませんでした」
紬が小さく俯いて、まずは仕事上の礼儀として謝ると、瀬尾はキーボードを叩く手をピタリと止めた。
ゆっくりと顔を上げ、黒縁メガネの奥にある一重の瞳で、真っ直ぐに紬の顔を見つめる。
「……謝る必要はありません。僕の予測に『外部資材の残数』という重要な変数が抜け落ちていたのは、厳然たる事実です。それを経理の視点から的確にハッキングしてみせたのは……他でもない、木下さん、あなたですから」
木下さん――。
瀬尾が初めて紬の名前を静かに口にした瞬間、紬の心臓がドクンと大きく波打った。
「それに、あなたがこれ以上残業して倒れられると、僕のシステムの運用効率が著しく低下して非常に迷惑です」
迷惑だ、と言いながらも、瀬尾の白い耳の裏が、液晶画面の光のなかでほんのりと赤くなっているのを、紬は見逃さなかった。
相変わらず理屈を崩さないが、そこには奇妙な不器用さが混ざっている。
「はい。迷惑をかけないように、私も最後まで頑張りますね」
紬が小さく微笑むと、瀬尾は気まずそうにフイッと顔を背け、再び猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
長谷川のまっすぐな情熱と、瀬尾のこのどこまでも不器用な態度。
二人の男の間で、紬の心の中に、アベニールには絶対に計算できない「奇妙なバグ」が、深夜の静かなオフィスのなかで、少しずつ育ち始めているようだった。