経理課・木下紬の恋のバグ
第25話 冷徹な査定
大逆転の出荷劇から一夜が明け、オフィスがすっかりいつもの穏やかな活気を取り戻した、その日の午後だった。
「木下さん、大河内だ。至急、営業部の長谷川くんを連れて、五階のDX改革推進本部・統括部長室まで行ってくれ。室井統括がお呼びだ。……頼むよ」
内線電話から響いた大河内部長の声は、いつになく怯えたように強張っていた。低く沈んだその声に、受話器を置いた紬の胸を、不穏な予感がよぎる。
紬は隣の藤沢先輩と顔を見合わせた。先輩もまた、不安そうに唇を固く引き結んでいる。
経理のデスクを立つと、パーテーションを回り込み、窓際にある営業部の長谷川のデスクへと歩み寄った。
「長谷川さん、あの……今、大河内部長から内線があって、室井統括が五階の部長室で私たちを待っているみたいです」
紬が声を潜めて伝えると、パソコン画面に向かっていた長谷川は、ゆっくりと顔を上げた。
「……室井統括が? わかった、行こう」
長谷川はいつもの笑顔を見せることなく、自分のジャケットを羽織ると、紬に向かって「大丈夫だよ」と小さく頷いてみせた。
二人は重苦しい沈黙が流れるエレベーターに乗り込み、役員フロアのある五階へと向かった。
五階の役員フロアの奥にある、ガラス張りの立派なDX改革推進本部・統括部長室。
重い防音扉を開けて中へ入ると、冷房が効きすぎた部屋のなかで、室井恭一郎がデスクの後ろに立っていた。
窓の外には東京のオフィス街が広がっている。けれど、この部屋のなかだけは、完全に隔離された別世界のようだった。
その傍らには、タブレットを手にした瀬尾蓮が、表情を変えることなく直立している。
「座りなさい。二人とも、昨日の千葉の配送センターにおけるトラブルの件、ご苦労様でした」
室井は仕立てのいいチャコールグレーのスーツのボタンを外し、どっしりとした革張りの椅子に深く腰を下ろした。
丁寧な敬語の言葉遣いとは裏腹に、スマートな眼鏡の奥にある切れ長の瞳には、部下を労うような温かさは微塵も感じられない。
「城南電器さんとツクバカメラさんからも、納品遅れに対する感謝と称賛の言葉が、我が社のトップ宛てに届いていますよ」
「ありがとうございます。現場の判断で別の老舗倉庫を動かし、梱包資材を緊急で補填しました」
長谷川が臆することなく一歩前に出て、真っ直ぐに報告すると、室井はふっと、嘲るような笑みを唇の端に浮かべた。
「ええ、報告はすべて受けています。ですが、長谷川くん。そして木下さん。今回の件におけるあなた方の今期の評価、査定は、アベニールのデータ規定通り『大幅な減点』といたします」
「……え?」
あまりにも予想外の宣告に、紬は自分の耳を疑った。頭の中が真っ白になり、思わず息を呑む。
「……室井統括。その査定は、到底納得できません」
長谷川は激昂する気持ちをぐっと堪え、握りしめた拳を震わせながらも、低く、確固たる意志を持った声で室井を見据えた。
「配送遅延による大炎上を寸前で食い止めて、我が社の信用を現場で守り抜いたのは、アベニールではなく私たち人間です」
長谷川はすっと背筋を伸ばし、室井の視線から一切目を逸らさなかった。
役員フロアの贅沢な静寂のなかで、彼の静かな主張が、かえって強い説得力を持って室井のデスクへと響いていく。
「長谷川くん。それはわかっています」
室井は眼鏡の位置を指先で小さく直し、長谷川と紬を順番に見た。
「アベニールは、日東ライフスタイル商事の利益を最大化するための、完璧なルールです」
室井は手元のペンをデスクの上に静かに置いた。
「あなた方の行った『特例での発注契約の結び直し』や『手動によるデータ補正』は、システムを無視した、ただの不合理なスタンドプレーです。重大な規約違反のバグに過ぎません」
そう淡々と言い放つと、室井は手元のタブレットの画面を白い指先で無造作に弾いた。
「結果が良ければルールを破ってもいいという、古い現場の感情論こそが、我が社の変革を最も遅らせる『非効率』そのものなのです」
画面に表示された二人の今期の営業評価と経理評価の査定グラフが、警告を示すように真っ赤な色へと染まっていく。
「どれだけ現場のバイヤーに感謝されようが、システムの指示に背いた人間を高く評価することは、私の組織では絶対にあり得ません」
一分の隙もない、懇切丁寧な言葉遣いのなかに、反論すら許さない冷酷なトップダウンの査定があった。
長谷川は口元を血がにじむほど強く引き結び、拳を壊れそうなほど震わせながら、室井の突きつける正論を睨みつけていた。
紬は隣に直立している瀬尾を、そっと盗み見た。
けれど瀬尾は、ディスプレイの光を黒縁メガネに反射させたまま、何も言わず、ただ真っ直ぐ前を見つめている。
昨夜、藤沢先輩の席で、一緒にデスクトップのキーボードを激しく叩き、プログラムにパッチを当ててくれた、あの不器用で必死だった横顔はどこにもなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように、いつものエンジニアに戻ってしまったように見えた。
「話は以上です。今後、二度とこのような勝手な例外処理は行わないように。持ち場に戻って仕事を続けてください」
室井の淡々とした声が、静まり返った広い部長室に響き渡る。
紬は手元の経理ノートを、指が白くなるほど強く胸に抱きしめた。
人間が必死に動いて会社の危機を救っても、それさえ数字とルールの前では「違反」として切り捨てられてしまう。
そんな経営陣の理不尽さを前に、激しい悔しさとやりきれなさを抱えながら、紬は長谷川とともに部長室を後にするしかなかった。
「木下さん、大河内だ。至急、営業部の長谷川くんを連れて、五階のDX改革推進本部・統括部長室まで行ってくれ。室井統括がお呼びだ。……頼むよ」
内線電話から響いた大河内部長の声は、いつになく怯えたように強張っていた。低く沈んだその声に、受話器を置いた紬の胸を、不穏な予感がよぎる。
紬は隣の藤沢先輩と顔を見合わせた。先輩もまた、不安そうに唇を固く引き結んでいる。
経理のデスクを立つと、パーテーションを回り込み、窓際にある営業部の長谷川のデスクへと歩み寄った。
「長谷川さん、あの……今、大河内部長から内線があって、室井統括が五階の部長室で私たちを待っているみたいです」
紬が声を潜めて伝えると、パソコン画面に向かっていた長谷川は、ゆっくりと顔を上げた。
「……室井統括が? わかった、行こう」
長谷川はいつもの笑顔を見せることなく、自分のジャケットを羽織ると、紬に向かって「大丈夫だよ」と小さく頷いてみせた。
二人は重苦しい沈黙が流れるエレベーターに乗り込み、役員フロアのある五階へと向かった。
五階の役員フロアの奥にある、ガラス張りの立派なDX改革推進本部・統括部長室。
重い防音扉を開けて中へ入ると、冷房が効きすぎた部屋のなかで、室井恭一郎がデスクの後ろに立っていた。
窓の外には東京のオフィス街が広がっている。けれど、この部屋のなかだけは、完全に隔離された別世界のようだった。
その傍らには、タブレットを手にした瀬尾蓮が、表情を変えることなく直立している。
「座りなさい。二人とも、昨日の千葉の配送センターにおけるトラブルの件、ご苦労様でした」
室井は仕立てのいいチャコールグレーのスーツのボタンを外し、どっしりとした革張りの椅子に深く腰を下ろした。
丁寧な敬語の言葉遣いとは裏腹に、スマートな眼鏡の奥にある切れ長の瞳には、部下を労うような温かさは微塵も感じられない。
「城南電器さんとツクバカメラさんからも、納品遅れに対する感謝と称賛の言葉が、我が社のトップ宛てに届いていますよ」
「ありがとうございます。現場の判断で別の老舗倉庫を動かし、梱包資材を緊急で補填しました」
長谷川が臆することなく一歩前に出て、真っ直ぐに報告すると、室井はふっと、嘲るような笑みを唇の端に浮かべた。
「ええ、報告はすべて受けています。ですが、長谷川くん。そして木下さん。今回の件におけるあなた方の今期の評価、査定は、アベニールのデータ規定通り『大幅な減点』といたします」
「……え?」
あまりにも予想外の宣告に、紬は自分の耳を疑った。頭の中が真っ白になり、思わず息を呑む。
「……室井統括。その査定は、到底納得できません」
長谷川は激昂する気持ちをぐっと堪え、握りしめた拳を震わせながらも、低く、確固たる意志を持った声で室井を見据えた。
「配送遅延による大炎上を寸前で食い止めて、我が社の信用を現場で守り抜いたのは、アベニールではなく私たち人間です」
長谷川はすっと背筋を伸ばし、室井の視線から一切目を逸らさなかった。
役員フロアの贅沢な静寂のなかで、彼の静かな主張が、かえって強い説得力を持って室井のデスクへと響いていく。
「長谷川くん。それはわかっています」
室井は眼鏡の位置を指先で小さく直し、長谷川と紬を順番に見た。
「アベニールは、日東ライフスタイル商事の利益を最大化するための、完璧なルールです」
室井は手元のペンをデスクの上に静かに置いた。
「あなた方の行った『特例での発注契約の結び直し』や『手動によるデータ補正』は、システムを無視した、ただの不合理なスタンドプレーです。重大な規約違反のバグに過ぎません」
そう淡々と言い放つと、室井は手元のタブレットの画面を白い指先で無造作に弾いた。
「結果が良ければルールを破ってもいいという、古い現場の感情論こそが、我が社の変革を最も遅らせる『非効率』そのものなのです」
画面に表示された二人の今期の営業評価と経理評価の査定グラフが、警告を示すように真っ赤な色へと染まっていく。
「どれだけ現場のバイヤーに感謝されようが、システムの指示に背いた人間を高く評価することは、私の組織では絶対にあり得ません」
一分の隙もない、懇切丁寧な言葉遣いのなかに、反論すら許さない冷酷なトップダウンの査定があった。
長谷川は口元を血がにじむほど強く引き結び、拳を壊れそうなほど震わせながら、室井の突きつける正論を睨みつけていた。
紬は隣に直立している瀬尾を、そっと盗み見た。
けれど瀬尾は、ディスプレイの光を黒縁メガネに反射させたまま、何も言わず、ただ真っ直ぐ前を見つめている。
昨夜、藤沢先輩の席で、一緒にデスクトップのキーボードを激しく叩き、プログラムにパッチを当ててくれた、あの不器用で必死だった横顔はどこにもなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように、いつものエンジニアに戻ってしまったように見えた。
「話は以上です。今後、二度とこのような勝手な例外処理は行わないように。持ち場に戻って仕事を続けてください」
室井の淡々とした声が、静まり返った広い部長室に響き渡る。
紬は手元の経理ノートを、指が白くなるほど強く胸に抱きしめた。
人間が必死に動いて会社の危機を救っても、それさえ数字とルールの前では「違反」として切り捨てられてしまう。
そんな経営陣の理不尽さを前に、激しい悔しさとやりきれなさを抱えながら、紬は長谷川とともに部長室を後にするしかなかった。