経理課・木下紬の恋のバグ

第26話 静かな反乱

第26話 静かな反乱

 五階の部長室から三階のオフィスへと戻るエレベーターのなか、紬と長谷川の間には重い沈黙が流れていた。

 スーッ……と、かすかな風切り音とともにエレベーターが静かに三階に到着し、金属製の重いドアが滑らかに左右へと開いた。

 チャイムの音すら鳴らないその無機質な静けさが、かえって部長室帰りの二人の重苦しい緊張感をそのままフロアへと引きずり出すようだった。

 フロアへ一歩足を踏み入れれば、そこには昼間の大炎上を人間の力で乗り越えて、安堵の表情を浮かべる佐藤や高橋たちの、いつもののどかな日常が広がっている。

「おかえり、二人とも。室井統括から、何か現場への労いや、お褒めの言葉でもあったかい?」

 営業部のデスクから、営業部のトップである鬼塚部長が、いつもの穏やかで紳士的な笑みを浮かべて声をかけてきた。

 長谷川はすぐには答えず、ただ唇を強く結んだまま、ゆっくりと自分のデスクの前へと歩みを進めた。

「……いえ。今回の緊急ルートによる出荷はシステムを無視したスタンドプレーであり、重大な規約違反だそうです。私と木下さんの今期の査定は、アベニールの規定通り、大幅な減点処分となりました」

 長谷川の低く掠れた、悔しさを押し殺した報告を聞いた瞬間、それまで賑やかだった営業部のフロアが一瞬で凍りついた。

「なっ……何だって!?」

「配送遅延を止めたのに減点なんて、そんなのあんまりだろ!」と、佐藤たちが一斉に激しい怒りの声を上げて立ち上がる。

 鬼塚部長はトレードマークである穏やかな微笑みをすっと消すと、組んでいた腕をゆっくりと解いた。

 いつも綺麗に一番上のボタンまで留められている彼のワイシャツの胸元が、激しい怒りを押し殺すように大きく上下している。

「……君たちのこれだけの成果が、ただの減点処分か」

 鬼塚部長の声は、驚くほど静かで、それゆえに冷たく響いた。

 しかし、その瞳の奥には、長年現場の最前線を預かって会社を支えてきた長としての、絶対に譲れない激しい怒りの炎がメラメラと燃え上がっているのが分かった。

「鬼塚部長、すみません。俺がもっと室井統括の気に入るように、システム上の要領よく立ち回っていれば……」

 長谷川が悔しそうに頭を下げると、鬼塚部長は彼の肩を、大きな手のひらで優しく、しかし力強く叩いてその言葉を止めた。

「謝るな、長谷川。理不尽なシステムに怯えず、会社の信用を現場で守り、ツクバカメラの棚を死守したのは、他でもないお前たち現場の人間だ。私はお前たちの誇りある仕事を、この営業部の長として、心の底から誇りに思っている」

 鬼塚部長はそう告げると、自分のデスクの引き出しから一通の、綺麗に封をされた厚手の白い書面を取り出した。

「大河内部長。少し、いいかね」

 鬼塚部長は隣の経理課の奥の部長席にいる大河内部長を、静かな、しかし有無を言わせない圧倒的な威厳に満ちた声で呼び止めた。

「は、はい! 鬼塚部長、どうしましたか?」

 ビクッと肩を大きく震わせた大河内部長に対し、鬼塚部長は真っ直ぐに歩み寄り、その白い書面を彼のデスクの上に静かに置いた。

「これより営業部は、アベニールが提示した次期売上目標の『一律一五%引き上げ』の承認を、全面的に拒絶しようと思う。これは私から室井統括部長、および役員会への正式な抗議書だ」

 抗議書、という重苦しい言葉に、紬は思わず息を呑んだ。フロア中のすべての視線が、今、鬼塚部長の大きな背中に集中している。

「ええっ!? 鬼塚部長、正気ですか!? そんなことを上の役員会に提出したら、営業部全体が室井統括からどんな報復人事を受けるか……!」

 大河内部長がハンカチを何度も握りしめ、青い顔をして引き留めようとするが、鬼塚部長は一歩も引かなかった。その鋭い眼差しが大河内を射抜く。

「データという冷たい物差しだけで、現場の人間たちの血の通った努力や誇りを『不要なバグ』として汚すというのなら、私は営業部の長として、徹底的にそのシステムの横暴と戦う。室井統括のやり方は、我が社の歴史と伝統に対する職務放棄だ」

 紳士的な言葉の端々に、現場を誰よりも愛する鬼塚部長の、退路を断った静かな決意が満ち満ちていた。

 長谷川を、高橋を、そして経理の自分を守るために、巨大な組織の壁に正面から反旗を翻してくれた鬼塚部長の横顔。

 紬は手元にある経理ノートを強く握りしめ、これから始まる人間とAIの本当の全面戦争の予感に、恐ろしさを感じながらも、胸の奥が熱く、激しく震えるのをどうしても止められなかった。
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