経理課・木下紬の恋のバグ

第39話 瀬尾の旅立ち

 室井の裏金横領事件がコンプライアンス委員会と警察の厳格な捜査によって完全に片付き、社内がいつもの穏やかな落ち着きを取り戻してから、早くも一週間ほどの月日が流れていた。

 初夏の爽やかな風が吹き抜ける昼休み、紬はふと思い立って、普段はあまり人の来ない本社ビルの屋上へと足を運んだ。

 フェンスに背を預け、一人で東京の青空を見つめていたのは、ネイビーのジャケットを端正に着こなした瀬尾蓮だった。

「瀬尾主任。やっぱり、こんなところにいたんですね。五階のオフィスを探してもいらっしゃらなかったので、もしかしてと思って上がってきたんです」

 紬が歩み寄りながら声をかけると、瀬尾は驚いたようにその両肩を微かに揺らし、すぐにいつもの冷淡な一重の瞳を黒縁メガネの奥で静かに細めてみせた。

「木下さんですか。……ちょうど良かったです。あなたには、僕がこの会社を去る前に最後の一言挨拶をしておくべきだと、思ってましたからね」

「え……? 会社を、去るってどういうことですか? まだアベニールの運用は始まったばかりなのに」

 瀬尾の口から飛び出した突然の告白に、紬は目を見開き、驚きのあまりに彼の一歩手前まで思わず歩み寄っていた。

「ええ。本日付を以て、僕は日東ライフスタイル商事のDX改革推進本部における、外部アドバイザーとしての常駐契約をすべて終了し、元のIT企業へと戻ります」

 瀬尾はそう淡々と告げると、黒縁メガネの位置を指先で静かに直した。

 そのあまりにも呆気ない引き際の言葉に、屋上のフェンスを揺らす初夏の風の音だけが、二人の間に寂しく響き渡る。

「室井のいなくなったこの会社で、アベニールの新しい仕様変更プログラムの適用はすべて正常に完了しましたからね。僕が毎日ここに常駐するフェーズはすべて終わりです」

「そんな……。では、これからのアベニールのシステム保守や管理は、一体どうなるんですか?」

 紬が思わず一歩踏み出して尋ねると、瀬尾は手元にあった最新のタブレットを少しだけ掲げてみせた。

「勘違いしないでください。システムを完全に放置して去るほど、僕は無責任なエンジニアではありません」

 瀬尾の黒縁メガネの奥の一重の瞳に、プロとしての確かな自負の光が宿る。

「明日からは元の会社に戻り、リモート(遠隔操作)による定期メンテナンスと、システム保守チームのバックアップを僕が裏からすべて統括します」

 瀬尾は手元のタブレットの画面を白い指先で軽くタップし、いつものスマートな動作でデータを手際よく同期させてみせた。

 常駐を終えてもなお、このシステムの未来に責任を持とうとする彼の姿勢に、紬はプロとしての深い敬意を抱かずにはいられなかった。

「画面の向こうから、僕がこのアベニールを常に監視し続けますから、安心してください。これからのアベニールは、現場の人間をただの数字のパーツとして冷酷に切り捨てることはありません」

 瀬尾はそう語ると、東京のオフィス街を見下ろすように、視線をゆっくりと遠くの地平線へと向けてみせた。

「激しい為替の乱高下も、主要国による不当な関税障壁の引き上げリスクも、すべてを考慮して人を支えるための優しい道具として、正しくこの会社で稼働し続けます。……僕のプログラムに不備はありません」

 瀬尾はそう告げると、清々しい表情のまま、自分の薄い胸元へとそっと手を当て、システムエンジニアとしての絶対的な自負を覗かせた。

「瀬尾さん……」

 紬は彼の真っ直ぐな横顔を見つめながら、胸の奥が少しだけ、切ない寂しさでキュッと強く締め付けられるのを感じていた。

 口は悪くて不器用で、最初はなんて冷たい人なんだろうと思っていたけれど、この人は誰よりも自分のシステム技術に誠実だった。

 最後は現場の味方になって夜を徹して一緒に戦ってくれた、最高のプロフェッショナルだったのだ。

 あの日、夜のオフィスの自分に、ぶっきらぼうにサプリメントを差し出してくれた彼の不器用な優しさが、今になって鮮烈に思い出される。

「そんな悲しそうな顔をするのは非常に非効率ですよ、木下さん。僕はただ、次の現場にある不合理なバグをデバッグしに行くだけのことです」

 瀬尾はそう冷たく言い放ったが、その黒縁メガネの奥にある瞳は、これまでにないほど柔らかく紬の顔を真っ直ぐに見つめ返していた。

「さらに、僕がこのフロアから常駐を外れたとしても、あなたにはあのうるさい営業部のエースがすぐ隣にいるでしょう。彼なら、アベニールが今後どんなに高い無理な売上予測を出そうが、すべてを現場の生身の力で、力ずくで超えてみせるはずです。……僕の計算の、完全に外側にある不合理な人間ですからね」

 瀬尾は少しだけ肩をすくめると、黒縁メガネの奥の一重の瞳をいたずらっぽく細めてみせた。

 その言葉の裏にある、長谷川へのエンジニアとしての確かな敬意を、紬ははっきりと感じ取っていた。

 瀬尾はそう語ると、いつもは能面のように冷徹だったその薄い唇の端を、ふっと、柔らかい一瞬の温かい微笑みへと変えてみせた。

 彼がこんな風に優しく微笑むのを、紬は初めて見た。

「……木下さん、あなたに完璧なはずのシステムのバグを指摘されたこと、システムエンジニアとして、僕は一生忘れません」

 瀬尾はゆっくりと顔を上げ、黒縁メガネの奥にある一重の瞳で、真っ直ぐに紬の顔を見つめた。

「優秀な経理職として、これからもその数字の裏側を見抜く目を、絶対に忘れないでください」

 瀬尾は最後にそう静かに告げると、紬に向かって一度だけ深く丁寧に頭を下げ、そのまま屋上の重い防音扉の向こうへと足早に去っていった。

 彼の通り過ぎたあとに、あの深夜のオフィスと同じ、わずかに爽やかなシトラスの香りがふわりと切なく残っていた。

 紬は手元にある経理ノートを強く胸に抱きしめ、彼の進む新しい真っ直ぐな未来に向けて、心からの大きな感謝を込めながら、その背中をずっと温かく見送るのだった。
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