君が思い出になる前に
第45話 知らなかった、今の君
土曜日の朝。
葵は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンを開けると、柔らかな光が部屋に差し込んでくる。
以前なら、休日でも目覚ましが鳴る前に仕事のことを考えていた。
メールは来ていないだろうか。
月曜日の打ち合わせに必要な資料は揃っているだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今日は、違った。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『昼くらいに、駅の近くまで来られる?』
葵は少しだけ笑った。
『うん。行く』
短い返信を送る。
それだけなのに、不思議と心が軽かった。
「今日はどこに行くの?」
駅で待ち合わせると、葵は尋ねた。
「特に決めてない」
「え?」
「いつも通りに過ごそうかなって」
悠真はそう言って歩き出した。
「いつも通り?」
「うん。俺が普段行くところとか」
その言葉に、葵は少し驚いた。
以前この街を訪れたときは、二人で過去の話をした。
昔のこと。
二人が付き合い始めた頃のこと。
これからのこと。
でも今日は違う。
悠真が今、ここでどう暮らしているのか。
それを知るための時間だった。
「まず、昼飯」
「そこから?」
「腹減ってるから」
あまりにも悠真らしい答えに、葵は笑った。
「変わらないね」
「何が?」
「そういうところ」
「四年も付き合ってたんだから、知ってるだろ」
「……うん」
葵は少しだけ間を置いた。
「でも、知らないことも多かったみたい」
悠真は何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
昼食を終えたあと、二人は商店街を歩いた。
悠真が立ち止まったのは、小さなパン屋だった。
「ここ、よく来るの?」
「うん。朝、時間があるとき」
「知らなかった」
「言ってなかったから」
「どうして?」
「聞かれなかったからかな」
その言葉に、葵は返事ができなかった。
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
聞かなかった。
知らなかった。
知らないままでも、四年間一緒にいた。
それが悪いことだったのかどうか、葵には分からない。
ただ、自分が思っていたほど、悠真のすべてを知っていたわけではなかったのだと気づいた。
「悠真って、朝はパン派だったんだ」
「そこ?」
「だって知らなかったから」
「じゃあ、今知った」
「うん」
葵は笑った。
悠真も小さく笑った。
それだけの会話だった。
でも、以前の二人なら、こういう何気ない話をもっとしていた気がした。
午後は、悠真がよく歩くという道を二人で歩いた。
川沿いの遊歩道。
ベンチ。
小さな公園。
遠くに見える山。
特別な場所ではない。
観光地でもない。
けれど、悠真にとっては日常の一部だった。
「ここ、毎日歩いてるの?」
「毎日じゃないけど、考え事するときは来る」
「何を考えるの?」
「いろいろ」
「たとえば?」
「仕事のこととか」
「家のこととか?」
「……うん」
悠真が少しだけ前を向いた。
「あと、葵のこと」
葵の足が止まりそうになった。
「私?」
「そう」
「何を考えてたの?」
悠真はすぐには答えなかった。
川の水面を見ながら、ゆっくりと言った。
「どうしたらよかったのかなって」
「……何が?」
「俺たち」
風が吹いた。
葵の髪が揺れる。
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
葵も聞かなかった。
今すぐ答えを出す必要はないと思った。
昔なら、答えを求めていたかもしれない。
どうして。
いつから。
何が悪かったの。
でも今は、それだけではない気がしていた。
二人とも、きっと同じように分からないのだ。
いつから少しずつ離れてしまったのか。
どこで何を言えばよかったのか。
何を諦めなければよかったのか。
「私も考えてた」
葵が言った。
「何を?」
「もっと、悠真の話を聞けばよかったなって」
悠真は葵を見る。
「今からでも聞けるよ」
その言葉に、葵は少しだけ笑った。
「うん」
恋人としてではない。
過去を取り戻すためでもない。
ただ、目の前にいる人のことを知るために。
帰り道。
葵はスマートフォンを取り出した。
以前なら、こんな時間になると仕事の連絡を確認していた。
けれど今日は画面を開かなかった。
「見ないの?」
悠真が聞いた。
「今日はいいの」
「仕事?」
「うん。でも、明日でもできるから」
そう言うと、悠真は少しだけ笑った。
「変わったな」
「そうかな」
「うん」
葵は歩きながら考えた。
自分は少しずつ変わっている。
悠真も変わった。
二人が変わったから、今の二人がある。
だからきっと、過去の二人に戻ることはできない。
でも。
過去に戻れないことと、今までの時間が無意味になることは違う。
それだけは、少し分かるようになってきた。
「悠真」
「ん?」
「今日、楽しかった」
「俺も」
「また、こういう時間があってもいいね」
悠真は少し考えてから、頷いた。
「そうだな」
駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。
昔のように手はつながない。
けれど、以前よりも互いの歩幅を気にしていた。
葵はふと思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でも、それを知ったことを、悲しいだけだとは思わなかった。
知らなかったからこそ、今日初めて知れたことがある。
そして、自分自身についても。
知らないまま過ごしてきたことが、まだたくさんある。
これからは、それを少しずつ知っていけばいい。
悠真のことも。
そして、自分のことも。
葵は、いつもより少しだけ早く目を覚ました。
カーテンを開けると、柔らかな光が部屋に差し込んでくる。
以前なら、休日でも目覚ましが鳴る前に仕事のことを考えていた。
メールは来ていないだろうか。
月曜日の打ち合わせに必要な資料は揃っているだろうか。
そんなことばかり考えていた。
けれど今日は、違った。
スマートフォンを手に取る。
悠真からメッセージが届いていた。
『昼くらいに、駅の近くまで来られる?』
葵は少しだけ笑った。
『うん。行く』
短い返信を送る。
それだけなのに、不思議と心が軽かった。
「今日はどこに行くの?」
駅で待ち合わせると、葵は尋ねた。
「特に決めてない」
「え?」
「いつも通りに過ごそうかなって」
悠真はそう言って歩き出した。
「いつも通り?」
「うん。俺が普段行くところとか」
その言葉に、葵は少し驚いた。
以前この街を訪れたときは、二人で過去の話をした。
昔のこと。
二人が付き合い始めた頃のこと。
これからのこと。
でも今日は違う。
悠真が今、ここでどう暮らしているのか。
それを知るための時間だった。
「まず、昼飯」
「そこから?」
「腹減ってるから」
あまりにも悠真らしい答えに、葵は笑った。
「変わらないね」
「何が?」
「そういうところ」
「四年も付き合ってたんだから、知ってるだろ」
「……うん」
葵は少しだけ間を置いた。
「でも、知らないことも多かったみたい」
悠真は何も言わなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ緩めた。
昼食を終えたあと、二人は商店街を歩いた。
悠真が立ち止まったのは、小さなパン屋だった。
「ここ、よく来るの?」
「うん。朝、時間があるとき」
「知らなかった」
「言ってなかったから」
「どうして?」
「聞かれなかったからかな」
その言葉に、葵は返事ができなかった。
責めるような口調ではなかった。
だからこそ、胸に残った。
聞かなかった。
知らなかった。
知らないままでも、四年間一緒にいた。
それが悪いことだったのかどうか、葵には分からない。
ただ、自分が思っていたほど、悠真のすべてを知っていたわけではなかったのだと気づいた。
「悠真って、朝はパン派だったんだ」
「そこ?」
「だって知らなかったから」
「じゃあ、今知った」
「うん」
葵は笑った。
悠真も小さく笑った。
それだけの会話だった。
でも、以前の二人なら、こういう何気ない話をもっとしていた気がした。
午後は、悠真がよく歩くという道を二人で歩いた。
川沿いの遊歩道。
ベンチ。
小さな公園。
遠くに見える山。
特別な場所ではない。
観光地でもない。
けれど、悠真にとっては日常の一部だった。
「ここ、毎日歩いてるの?」
「毎日じゃないけど、考え事するときは来る」
「何を考えるの?」
「いろいろ」
「たとえば?」
「仕事のこととか」
「家のこととか?」
「……うん」
悠真が少しだけ前を向いた。
「あと、葵のこと」
葵の足が止まりそうになった。
「私?」
「そう」
「何を考えてたの?」
悠真はすぐには答えなかった。
川の水面を見ながら、ゆっくりと言った。
「どうしたらよかったのかなって」
「……何が?」
「俺たち」
風が吹いた。
葵の髪が揺れる。
悠真はそれ以上、何も言わなかった。
葵も聞かなかった。
今すぐ答えを出す必要はないと思った。
昔なら、答えを求めていたかもしれない。
どうして。
いつから。
何が悪かったの。
でも今は、それだけではない気がしていた。
二人とも、きっと同じように分からないのだ。
いつから少しずつ離れてしまったのか。
どこで何を言えばよかったのか。
何を諦めなければよかったのか。
「私も考えてた」
葵が言った。
「何を?」
「もっと、悠真の話を聞けばよかったなって」
悠真は葵を見る。
「今からでも聞けるよ」
その言葉に、葵は少しだけ笑った。
「うん」
恋人としてではない。
過去を取り戻すためでもない。
ただ、目の前にいる人のことを知るために。
帰り道。
葵はスマートフォンを取り出した。
以前なら、こんな時間になると仕事の連絡を確認していた。
けれど今日は画面を開かなかった。
「見ないの?」
悠真が聞いた。
「今日はいいの」
「仕事?」
「うん。でも、明日でもできるから」
そう言うと、悠真は少しだけ笑った。
「変わったな」
「そうかな」
「うん」
葵は歩きながら考えた。
自分は少しずつ変わっている。
悠真も変わった。
二人が変わったから、今の二人がある。
だからきっと、過去の二人に戻ることはできない。
でも。
過去に戻れないことと、今までの時間が無意味になることは違う。
それだけは、少し分かるようになってきた。
「悠真」
「ん?」
「今日、楽しかった」
「俺も」
「また、こういう時間があってもいいね」
悠真は少し考えてから、頷いた。
「そうだな」
駅へ向かう道を、二人は並んで歩いた。
昔のように手はつながない。
けれど、以前よりも互いの歩幅を気にしていた。
葵はふと思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でも、それを知ったことを、悲しいだけだとは思わなかった。
知らなかったからこそ、今日初めて知れたことがある。
そして、自分自身についても。
知らないまま過ごしてきたことが、まだたくさんある。
これからは、それを少しずつ知っていけばいい。
悠真のことも。
そして、自分のことも。