君が思い出になる前に
第46話 君が選んだ暮らし
翌朝。
葵は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細く照らしている。
昨日、悠真と歩いた川沿いの道を思い出した。
パン屋のこと。
散歩道のこと。
考え事をするときに、悠真があの場所を歩いていること。
どれも、四年間付き合っていた自分が知らなかったことだった。
それなのに、不思議と胸は痛まなかった。
むしろ、もっと聞いてみたいと思っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『起きてる?』
葵は少し笑って返信した。
『起きてるよ』
すぐに返事が来る。
『じゃあ、朝飯食べに行かない?』
『行く』
短いやり取り。
けれど、それが少し嬉しかった。
「眠そう」
待ち合わせ場所に現れた悠真は、開口一番そう言った。
「そっちこそ」
「俺はいつもこんな感じ」
「じゃあ、私も今日からこんな感じにする」
「何それ」
二人で笑う。
昨日までより、少しだけ自然だった。
悠真が連れて行ったのは、駅から少し離れた食堂だった。
「ここ、朝早くからやってるんだ」
「よく来るの?」
「父さんと来ることもある」
葵は箸を持つ手を止めた。
「お父さんと?」
「うん」
「……最近?」
「最近も」
悠真は味噌汁を一口飲んだ。
「父さん、前より外に出なくなったから。天気がいい日は、なるべく連れ出すようにしてる」
淡々とした口調だった。
でも、その言葉の奥にあるものを、葵は少しだけ感じ取った。
「病院は?」
「定期的に行ってる。今のところは落ち着いてるよ」
「そっか」
葵はそれ以上、聞かなかった。
昨日までなら、もっと聞いていたかもしれない。
病状は。
いつから。
どれくらい大変なのか。
でも、今日は聞かないという選択もできた。
悠真が話したくなったら、話してくれる。
そう思えた。
「葵」
「ん?」
「父さんに会ってみる?」
一瞬、言葉を失った。
「……いいの?」
「うん。たぶん喜ぶ」
少しだけ緊張した。
以前にも会ったことはある。
けれど、そのときの自分は「悠真の恋人」として訪れていた。
今日は違う。
悠真が今暮らしている場所で。
今の悠真の生活の中で。
父親に会う。
その意味を、葵は考えていた。
悠真の家に着くと、玄関先で彼の父親が迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「葵ちゃんか。久しぶりだな」
穏やかな笑顔だった。
昔と変わらない。
そう思ったあとで、葵は少し違うことに気づいた。
悠真が自然に父親の歩く速度に合わせている。
玄関の段差では、何も言わずに手を差し出す。
父親が「大丈夫だ」と笑えば、少しだけ手を引く。
そんな何気ない動作を見ていると、昨日まで知らなかった悠真の姿が、またひとつ増えた。
「悠真は昔から変わらないだろ?」
父親が笑う。
「そうですか?」
「昔から、誰かのことばかり気にするんだ」
「父さん、それは言いすぎ」
「本当のことだろ」
葵は思わず笑った。
悠真が少し困った顔をする。
その表情を見て、葵も笑った。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
仕事の話もない。
将来の話を決める必要もない。
ただ、目の前にいる人たちと笑っている。
それだけだった。
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
「今日はありがとう」
葵が言う。
「何が?」
「お父さんに会わせてくれて」
「別に」
「でも、嬉しかった」
悠真は少し黙った。
「……俺も」
「何が?」
「葵が来てくれて」
その言葉に、葵は前を向いた。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
こういう瞬間があるから、離れたくないと思ってしまう。
でも同時に、分かっていた。
悠真には悠真の暮らしがある。
家族がいて。
仕事があって。
この街で過ごす時間がある。
自分にも、自分の暮らしがある。
東京での仕事。
自分の時間。
これから見つけていきたいもの。
昔は、それらを全部ひとつにしようとしていた。
二人の未来を決めれば、それでいいと思っていた。
でも今は、少し違う。
「悠真」
「ん?」
「私、昨日からずっと思ってたことがある」
「何?」
「私たち、知らないことがいっぱいあるね」
悠真は笑った。
「四年も付き合ってたのにな」
「うん」
葵も笑う。
「でも……それって、悪いことじゃないのかもしれない」
「どうして?」
「知らないことが残ってるってことは、まだ知れることがあるってことでしょ?」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そうだな」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。
でも、その沈黙は以前ほど苦しくなかった。
駅が近づいてくる。
やがて、葵の帰る時間が来る。
「また連絡する」
悠真が言った。
「うん」
葵は頷いた。
そして、駅へ向かって歩き出した。
振り返る。
悠真はまだそこにいた。
手を振ることもなく、ただ立っている。
葵も手を振らなかった。
ただ、目を合わせた。
それだけで、十分だった。
帰りの電車の中。
窓に映った自分の顔を見ながら、葵は思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でもきっと。
悠真も、私のことを知らない。
仕事に追われていた私。
休日さえ仕事のことを考えていた私。
本当は何をしたかったのか、自分でも分からなかった私。
恋人だから分かってもらえると思って、言葉にしなかったこと。
きっと、彼にもある。
四年間一緒にいたからこそ、分かっていると思い込んでいた。
でも。
二人の間にあったのは、知らないことではなく。
知らないままでも、一緒にいられると思っていたことなのかもしれない。
葵は窓の外を見た。
流れていく景色の向こうに、悠真の暮らす街が遠ざかっていく。
寂しかった。
それでも、昨日までとは少し違う。
ただ失うことを怖がるのではなく。
今の彼を、ちゃんと見ようと思った。
そして。
自分自身のことも、ちゃんと見ようと思った。
葵は、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床を細く照らしている。
昨日、悠真と歩いた川沿いの道を思い出した。
パン屋のこと。
散歩道のこと。
考え事をするときに、悠真があの場所を歩いていること。
どれも、四年間付き合っていた自分が知らなかったことだった。
それなのに、不思議と胸は痛まなかった。
むしろ、もっと聞いてみたいと思っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが届いていた。
『起きてる?』
葵は少し笑って返信した。
『起きてるよ』
すぐに返事が来る。
『じゃあ、朝飯食べに行かない?』
『行く』
短いやり取り。
けれど、それが少し嬉しかった。
「眠そう」
待ち合わせ場所に現れた悠真は、開口一番そう言った。
「そっちこそ」
「俺はいつもこんな感じ」
「じゃあ、私も今日からこんな感じにする」
「何それ」
二人で笑う。
昨日までより、少しだけ自然だった。
悠真が連れて行ったのは、駅から少し離れた食堂だった。
「ここ、朝早くからやってるんだ」
「よく来るの?」
「父さんと来ることもある」
葵は箸を持つ手を止めた。
「お父さんと?」
「うん」
「……最近?」
「最近も」
悠真は味噌汁を一口飲んだ。
「父さん、前より外に出なくなったから。天気がいい日は、なるべく連れ出すようにしてる」
淡々とした口調だった。
でも、その言葉の奥にあるものを、葵は少しだけ感じ取った。
「病院は?」
「定期的に行ってる。今のところは落ち着いてるよ」
「そっか」
葵はそれ以上、聞かなかった。
昨日までなら、もっと聞いていたかもしれない。
病状は。
いつから。
どれくらい大変なのか。
でも、今日は聞かないという選択もできた。
悠真が話したくなったら、話してくれる。
そう思えた。
「葵」
「ん?」
「父さんに会ってみる?」
一瞬、言葉を失った。
「……いいの?」
「うん。たぶん喜ぶ」
少しだけ緊張した。
以前にも会ったことはある。
けれど、そのときの自分は「悠真の恋人」として訪れていた。
今日は違う。
悠真が今暮らしている場所で。
今の悠真の生活の中で。
父親に会う。
その意味を、葵は考えていた。
悠真の家に着くと、玄関先で彼の父親が迎えてくれた。
「お久しぶりです」
「葵ちゃんか。久しぶりだな」
穏やかな笑顔だった。
昔と変わらない。
そう思ったあとで、葵は少し違うことに気づいた。
悠真が自然に父親の歩く速度に合わせている。
玄関の段差では、何も言わずに手を差し出す。
父親が「大丈夫だ」と笑えば、少しだけ手を引く。
そんな何気ない動作を見ていると、昨日まで知らなかった悠真の姿が、またひとつ増えた。
「悠真は昔から変わらないだろ?」
父親が笑う。
「そうですか?」
「昔から、誰かのことばかり気にするんだ」
「父さん、それは言いすぎ」
「本当のことだろ」
葵は思わず笑った。
悠真が少し困った顔をする。
その表情を見て、葵も笑った。
こんな時間を過ごすのは、いつ以来だろう。
仕事の話もない。
将来の話を決める必要もない。
ただ、目の前にいる人たちと笑っている。
それだけだった。
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
「今日はありがとう」
葵が言う。
「何が?」
「お父さんに会わせてくれて」
「別に」
「でも、嬉しかった」
悠真は少し黙った。
「……俺も」
「何が?」
「葵が来てくれて」
その言葉に、葵は前を向いた。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
こういう瞬間があるから、離れたくないと思ってしまう。
でも同時に、分かっていた。
悠真には悠真の暮らしがある。
家族がいて。
仕事があって。
この街で過ごす時間がある。
自分にも、自分の暮らしがある。
東京での仕事。
自分の時間。
これから見つけていきたいもの。
昔は、それらを全部ひとつにしようとしていた。
二人の未来を決めれば、それでいいと思っていた。
でも今は、少し違う。
「悠真」
「ん?」
「私、昨日からずっと思ってたことがある」
「何?」
「私たち、知らないことがいっぱいあるね」
悠真は笑った。
「四年も付き合ってたのにな」
「うん」
葵も笑う。
「でも……それって、悪いことじゃないのかもしれない」
「どうして?」
「知らないことが残ってるってことは、まだ知れることがあるってことでしょ?」
悠真はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そうだな」
それから二人は、しばらく何も話さなかった。
でも、その沈黙は以前ほど苦しくなかった。
駅が近づいてくる。
やがて、葵の帰る時間が来る。
「また連絡する」
悠真が言った。
「うん」
葵は頷いた。
そして、駅へ向かって歩き出した。
振り返る。
悠真はまだそこにいた。
手を振ることもなく、ただ立っている。
葵も手を振らなかった。
ただ、目を合わせた。
それだけで、十分だった。
帰りの電車の中。
窓に映った自分の顔を見ながら、葵は思った。
私は、悠真のことを知らなかった。
でもきっと。
悠真も、私のことを知らない。
仕事に追われていた私。
休日さえ仕事のことを考えていた私。
本当は何をしたかったのか、自分でも分からなかった私。
恋人だから分かってもらえると思って、言葉にしなかったこと。
きっと、彼にもある。
四年間一緒にいたからこそ、分かっていると思い込んでいた。
でも。
二人の間にあったのは、知らないことではなく。
知らないままでも、一緒にいられると思っていたことなのかもしれない。
葵は窓の外を見た。
流れていく景色の向こうに、悠真の暮らす街が遠ざかっていく。
寂しかった。
それでも、昨日までとは少し違う。
ただ失うことを怖がるのではなく。
今の彼を、ちゃんと見ようと思った。
そして。
自分自身のことも、ちゃんと見ようと思った。