君が思い出になる前に

第48話 仕事だけじゃない私

 月曜日の朝。

 葵は、いつもの時間に会社へ向かった。

 見慣れた駅。

 見慣れた道。

 見慣れたビル。

 何も変わっていない。

 けれど、自分の中には小さな変化があった。

 席に着いてパソコンを立ち上げる。

 メールを確認する。

 いつも通りの一日が始まる。

「高橋さん、おはようございます」

「おはよう」

 後輩の真奈が声をかけてきた。

「土曜日、ありがとうございました。資料、すごく助かりました」

「ううん。間に合ってよかった」

 葵は笑った。

 そして、ふと気づく。

 自分は以前なら、ここから仕事の話を延々と続けていた。

 でも今日は違った。

「真奈ちゃん、昨日休みだったよね。何してたの?」

「え?」

「何か予定あるって言ってなかった?」

「あ、覚えてたんですか?」

「うん」

 真奈が嬉しそうに笑う。

「友達と映画に行ってました」

「何見たの?」

 そんな話をしながら、葵は少し不思議な気持ちになった。

 仕事以外の話をすることが、こんなに新鮮だったなんて。

     

 午前中の打ち合わせ。

 新しい広告企画について、チームで意見を出し合う。

 以前の葵なら、最初に方向性を決めて、そこへ全員を引っ張っていった。

 自分が一番長く考えて。

 自分が一番準備して。

 自分が最後まで抱える。

 それが一番早いと思っていた。

「この案、どう思う?」

 今日は後輩に尋ねた。

「私ですか?」

「うん。気になったところがあれば言って」

 真奈は少し戸惑いながらも、意見を話し始めた。

 途中で何度か言葉に詰まった。

 葵は急かさずに待った。

「なるほど」

 聞き終えてから、葵は頷いた。

「その視点、私にはなかった」

「本当ですか?」

「うん。じゃあ、そこをもう少し広げてみよう」

 真奈の表情が明るくなる。

 その顔を見て、葵は思った。

 全部、自分がやらなくてもいいのかもしれない。

 誰かに任せること。

 誰かの考えを聞くこと。

 それは、仕事を手放すことではなかった。

     

 昼休み。

 葵は一人で会社を出た。

 いつもならデスクで昼食を済ませる。

 メールを確認しながら、片手で食べることも多かった。

 今日は近くのカフェに入った。

 窓際の席に座る。

 注文したランチが運ばれてくる。

 スマートフォンをテーブルに置いた。

 けれど、すぐには触らなかった。

 窓の外を眺める。

 通りを歩く人。

 自転車。

 信号を待つ人。

 何でもない景色だった。

 それなのに、以前より鮮明に見えた。

 自分はずっと、目の前にあるものを見ていなかったのかもしれない。

 仕事の先。

 未来の予定。

 次にやるべきこと。

 そんなものばかり見ていた。

 今ここにいる自分を、置き去りにして。

     

 午後三時。

 一本の電話が入った。

 取引先からの修正依頼だった。

 以前なら、その場ですべて対応しようとしただろう。

 けれど今日は違った。

「確認します。明日の午前中までにお返しします」

 電話を切る。

 真奈が驚いた顔をした。

「今日中じゃなくて大丈夫なんですか?」

「うん。急ぎじゃないから」

「高橋さん、いつも今日中にやってるから……」

 葵は少し笑った。

「私も、今日中にやらないと落ち着かない時期があったの」

「今は?」

「今は、明日でも間に合うことは、明日にする」

 口にしてみると、思った以上に簡単なことだった。

 でも、葵にとっては大きな変化だった。

     

 仕事を終えたのは、午後七時だった。

 以前なら、ここからもう一時間、二時間と残っていただろう。

 今日はパソコンを閉じた。

「お先に失礼します」

 そう言って会社を出る。

 外はまだ明るかった。

 駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。

 悠真からだった。

『今日は仕事?』

 葵は少し考えてから返信する。

『うん。でも、もう終わったよ』

『早いな』

『普通だよ』

『そうだったっけ?』

 思わず笑ってしまう。

 確かに、以前の自分なら「普通」ではなかった。

 しばらくして、悠真からもう一通届いた。

『ちゃんと休んでる?』

 葵は画面を見つめた。

 昔なら、その一言だけで胸が締めつけられたかもしれない。

 でも今は違った。

『うん。少しずつね』

 送信する。

 しばらくして、返事が来た。

『それならよかった』

 短い言葉だった。

 葵はスマートフォンをバッグにしまった。

 そして、駅とは反対方向に少しだけ歩いた。

 昨日買った本を持って、帰りにどこかで読もうと思った。

 急いで帰る必要はない。

 明日の仕事もある。

 でも、今日という日は今日しかない。

 そう思えるようになったことが、少し嬉しかった。

     

 家に帰ってから、葵は机の上の紙を開いた。

 昨日書いた「一人でも行ってみたい場所」。

 一番上に書いた「海」を見つめる。

 ペンを持つ。

 その下に、日付を書いた。

 来月の土曜日。

 そして、その横に小さく丸をつけた。

「……決めた」

 海へ行く。

 一人で。

 誰かを待つためではない。

 誰かと行く約束をするためでもない。

 ただ、自分が行きたいから。

 窓の外を見る。

 夜の街は静かだった。

 悠真のいる街とは違う。

 でも、ここには自分の生活がある。

 仕事だけでもない。

 恋愛だけでもない。

 誰かのためだけでもない。

 その全部の中に、自分がいる。

 葵は、予定を書き込んだ手帳を閉じた。

 小さな予定だった。

 けれど、それは久しぶりに自分で選んだ予定だった。
< 48 / 70 >

この作品をシェア

pagetop