君が思い出になる前に
第49話 海へ行く理由
土曜日の朝。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開ける。
空は晴れていた。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
今日は海へ行く。
昨夜、何度も手帳を開いて確認した予定だった。
誰かと約束したわけではない。
悠真にも言っていない。
ただ、自分で決めた。
それだけのことなのに、少しだけ緊張していた。
「……一人で海なんて、いつ以来だろう」
考えてみる。
すぐには思い出せなかった。
そもそも、悠真と付き合ってからは、休日の予定の多くを二人で決めていた。
海に行こう。
旅行しよう。
温泉に行こう。
そう言いながら、いつも「いつか」のままになっていた。
今日は、その「いつか」を一つだけ終わらせる。
葵は鞄を持った。
電車を乗り継ぎ、海の近くの駅で降りる。
潮の匂いがした。
駅から少し歩く。
やがて、建物の向こうに青い海が見えた。
「……海だ」
思わず声が出る。
それだけで、少し笑ってしまった。
四年前。
悠真と「いつか海に行こう」と話した。
そのときは、二人で見た未来の一部だった。
でも今日は違う。
一人だ。
隣に悠真はいない。
それなのに、不思議と寂しさだけではなかった。
葵は砂浜まで歩いた。
靴を脱ぐ。
波が足元まで近づいてくる。
冷たい。
「……気持ちいい」
思わず笑った。
子どものようだと思った。
でも、そんなことを気にする必要もなかった。
誰かに見せるために来たわけではない。
写真を撮って送るためでもない。
ただ、自分が見たかった。
自分が感じたかった。
それだけだった。
しばらく海を眺めていると、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してる?』
葵は画面を見つめる。
少し迷ってから、写真を一枚撮った。
海。
水平線。
青い空。
それを送る。
『海に来てる』
すぐには返信がなかった。
しばらくして、
『一人で?』
と届く。
『うん』
『急だな』
『昨日決めたの』
『そうなんだ』
そこで会話が途切れた。
葵はスマートフォンをしまった。
もっと何か聞いてほしいとは思わなかった。
「誰と来たの?」と聞かれたわけでもない。
「楽しんで」と言われたわけでもない。
それでいい。
自分のために来たのだから。
砂浜を歩いていると、小さな売店が目に入った。
葵はそこで温かい飲み物を買った。
海を見ながらベンチに座る。
隣には、家族連れがいた。
少し離れたところには、友達同士で写真を撮っている人たちがいる。
恋人らしい二人が、波打ち際を歩いている。
以前の自分なら、きっと悠真を思い出していた。
──悠真と来たら、どんな顔をするだろう。
──一緒に写真を撮りたい。
──今度は二人で来よう。
そんなことを考えていたと思う。
でも今日は違った。
もちろん、悠真のことは思い出す。
四年間付き合っていたのだから、当たり前だ。
でも、その記憶に引っ張られることはなかった。
悠真との思い出は、ここにいる自分を邪魔しなかった。
むしろ。
海を見ながら、葵は思った。
あの頃の私が「いつか」と言ったから。
今日、ここへ来ることができた。
約束は叶わなかった。
でも、約束した時間まで無駄だったわけじゃない。
帰りの電車。
窓の外が少しずつ夕暮れに染まっていく。
葵は、今日撮った写真を見返した。
海の写真が何枚かある。
どれも、少しずつ違う。
波。
空。
砂浜。
夕方の光。
その中から一枚だけ選んだ。
悠真に送ったものとは違う写真だった。
自分の手元と、遠くに見える海が写っている。
葵はその写真を、スマートフォンのアルバムに保存した。
誰にも送らなかった。
それが少し嬉しかった。
以前は、何かを経験すると、誰かに共有したくなった。
特に悠真には、何でも話したかった。
でも今は。
自分だけが知っている今日があってもいい。
そう思えた。
家に帰ると、夜になっていた。
玄関で靴を脱ぐ。
静かな部屋。
昨日までなら、少し寂しく感じたかもしれない。
でも今日は違った。
海で見た景色が、まだ目の奥に残っている。
葵は手帳を開いた。
「海」の文字に小さく丸をつける。
そして、その下に新しく書いた。
京都。
ペンを置く。
まだ日付は決めない。
でも、今度は「いつか」ではなく、「行ってみたい」と思った。
葵は手帳を閉じた。
窓の外を見る。
四年前の自分は、未来を悠真と一緒に描いていた。
今の自分は、一人で未来を描き始めている。
それは、悠真を忘れることではない。
四年間を否定することでもない。
ただ。
これから先の時間に、自分自身もちゃんといる。
そのことに、葵は少しずつ気づき始めていた。
葵は、いつもより少し早く目を覚ました。
カーテンを開ける。
空は晴れていた。
窓から入ってくる風が、少しだけ涼しい。
今日は海へ行く。
昨夜、何度も手帳を開いて確認した予定だった。
誰かと約束したわけではない。
悠真にも言っていない。
ただ、自分で決めた。
それだけのことなのに、少しだけ緊張していた。
「……一人で海なんて、いつ以来だろう」
考えてみる。
すぐには思い出せなかった。
そもそも、悠真と付き合ってからは、休日の予定の多くを二人で決めていた。
海に行こう。
旅行しよう。
温泉に行こう。
そう言いながら、いつも「いつか」のままになっていた。
今日は、その「いつか」を一つだけ終わらせる。
葵は鞄を持った。
電車を乗り継ぎ、海の近くの駅で降りる。
潮の匂いがした。
駅から少し歩く。
やがて、建物の向こうに青い海が見えた。
「……海だ」
思わず声が出る。
それだけで、少し笑ってしまった。
四年前。
悠真と「いつか海に行こう」と話した。
そのときは、二人で見た未来の一部だった。
でも今日は違う。
一人だ。
隣に悠真はいない。
それなのに、不思議と寂しさだけではなかった。
葵は砂浜まで歩いた。
靴を脱ぐ。
波が足元まで近づいてくる。
冷たい。
「……気持ちいい」
思わず笑った。
子どものようだと思った。
でも、そんなことを気にする必要もなかった。
誰かに見せるために来たわけではない。
写真を撮って送るためでもない。
ただ、自分が見たかった。
自分が感じたかった。
それだけだった。
しばらく海を眺めていると、スマートフォンが震えた。
悠真からだった。
『今日は何してる?』
葵は画面を見つめる。
少し迷ってから、写真を一枚撮った。
海。
水平線。
青い空。
それを送る。
『海に来てる』
すぐには返信がなかった。
しばらくして、
『一人で?』
と届く。
『うん』
『急だな』
『昨日決めたの』
『そうなんだ』
そこで会話が途切れた。
葵はスマートフォンをしまった。
もっと何か聞いてほしいとは思わなかった。
「誰と来たの?」と聞かれたわけでもない。
「楽しんで」と言われたわけでもない。
それでいい。
自分のために来たのだから。
砂浜を歩いていると、小さな売店が目に入った。
葵はそこで温かい飲み物を買った。
海を見ながらベンチに座る。
隣には、家族連れがいた。
少し離れたところには、友達同士で写真を撮っている人たちがいる。
恋人らしい二人が、波打ち際を歩いている。
以前の自分なら、きっと悠真を思い出していた。
──悠真と来たら、どんな顔をするだろう。
──一緒に写真を撮りたい。
──今度は二人で来よう。
そんなことを考えていたと思う。
でも今日は違った。
もちろん、悠真のことは思い出す。
四年間付き合っていたのだから、当たり前だ。
でも、その記憶に引っ張られることはなかった。
悠真との思い出は、ここにいる自分を邪魔しなかった。
むしろ。
海を見ながら、葵は思った。
あの頃の私が「いつか」と言ったから。
今日、ここへ来ることができた。
約束は叶わなかった。
でも、約束した時間まで無駄だったわけじゃない。
帰りの電車。
窓の外が少しずつ夕暮れに染まっていく。
葵は、今日撮った写真を見返した。
海の写真が何枚かある。
どれも、少しずつ違う。
波。
空。
砂浜。
夕方の光。
その中から一枚だけ選んだ。
悠真に送ったものとは違う写真だった。
自分の手元と、遠くに見える海が写っている。
葵はその写真を、スマートフォンのアルバムに保存した。
誰にも送らなかった。
それが少し嬉しかった。
以前は、何かを経験すると、誰かに共有したくなった。
特に悠真には、何でも話したかった。
でも今は。
自分だけが知っている今日があってもいい。
そう思えた。
家に帰ると、夜になっていた。
玄関で靴を脱ぐ。
静かな部屋。
昨日までなら、少し寂しく感じたかもしれない。
でも今日は違った。
海で見た景色が、まだ目の奥に残っている。
葵は手帳を開いた。
「海」の文字に小さく丸をつける。
そして、その下に新しく書いた。
京都。
ペンを置く。
まだ日付は決めない。
でも、今度は「いつか」ではなく、「行ってみたい」と思った。
葵は手帳を閉じた。
窓の外を見る。
四年前の自分は、未来を悠真と一緒に描いていた。
今の自分は、一人で未来を描き始めている。
それは、悠真を忘れることではない。
四年間を否定することでもない。
ただ。
これから先の時間に、自分自身もちゃんといる。
そのことに、葵は少しずつ気づき始めていた。