君が思い出になる前に
第70話 これからを話そう
水曜日の夜。
葵は夕食を済ませ、ソファに座っていた。
テーブルの上には、読みかけの小説とマグカップ。
テレビはつけていない。
今日は悠真と電話で話す約束をしていた。
京都から帰ってきて、三日。
その間も、二人はいつも通りメッセージを交わしていた。
朝の挨拶。
仕事が終わったという報告。
お互いの体調や、何気ない出来事。
特別なことは何もない。
けれど、今夜は少し違う。
これからのことを話そう。
そう決めたのは二人だった。
午後八時半。
スマートフォンが鳴った。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
『今、大丈夫?』
「大丈夫だよ」
電話の向こうから、かすかな生活音が聞こえた。
悠真も家にいるのだろう。
少し前まで、こうして電話をすることは当たり前だった。
今は、同じ電話でも緊張してしまう。
「京都、楽しかったね」
葵は口を開いた。
『うん。楽しかった』
「朝の散歩もできたし」
『起きるのは大変だったけどな』
「言い出したのは悠真でしょ」
『いや、葵が言い出したんだよ』
思わず二人で笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けた。
でも、笑い声が途切れると、また静けさが戻ってくる。
『……葵』
「うん?」
『これからのこと、話してもいい?』
「うん。私も話したい」
葵はマグカップを両手で包んだ。
温かさが、指先に伝わってくる。
『俺、地元に戻ってから、生活が変わったんだ』
「うん」
『父さんのこともあるし、家のこともある。仕事も、今の場所で続けていきたいと思ってる』
「そうなんだね」
『もちろん、葵に会いたくないわけじゃない。会いたいし、一緒にいたいと思うこともある』
葵は目を閉じた。
その言葉を聞けたことが、嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは終われない。
『ただ、今の生活をすぐに変えられるかって言われると、難しい』
「……うん」
『葵にも、仕事があるだろ』
「あるよ」
『頑張ってきた仕事だし、これからも続けたいんじゃないかと思ってる』
葵は少し驚いた。
自分でも、まだうまく整理できていない気持ちだった。
それを悠真が分かってくれていたことが、意外だった。
「私ね、最近考えてたんだ」
『うん』
「もし悠真の地元に行くことになったら、今の仕事を辞めることになるかもしれないでしょ」
『そうだな』
「一緒に暮らせるなら、それでもいいって思おうとしたこともあった」
言葉にしてみると、自分がどれほど簡単に答えを出そうとしていたのかが分かった。
「でも、今の仕事も好きなんだよね。やりたいことも、まだあるし」
『うん』
「だから、どっちかを簡単に諦めるんじゃなくて、どうしたいのかをちゃんと考えたい」
悠真はすぐには答えなかった。
葵は不安になりかけたが、続きを急かさなかった。
『そうだよな』
やがて、悠真が言った。
『俺も、葵に仕事を辞めてほしいわけじゃない』
「うん」
『俺のために何かを諦めてほしいとも思ってない』
その言葉は優しかった。
だからこそ、葵は少し苦しくなった。
「でも、それだと……」
言いかけて、口を閉じる。
『うん?』
「それだと、今のまま離れて暮らすしかないのかなって」
自分で口にして、初めて気づいた。
仕事も続けたい。
悠真も大切にしたい。
悠真には悠真の家族と生活がある。
どれも、簡単には手放せない。
ならば、今の二人にできることは何なのだろう。
『俺も、そこを考えてた』
悠真の声が少し低くなった。
『離れていても、会う時間を作ることはできると思う。実際、今だって会えてる』
「うん」
『でも、これから先もずっと、それでいいのかは分からない』
葵はマグカップをテーブルに置いた。
胸の奥に、静かな痛みが広がっていく。
悠真も同じことを考えていたのだ。
今の関係を続けることはできる。
電話もできる。
休みを合わせれば、会うこともできる。
けれど、それだけで二人が望む未来に近づいているのか。
それは、別の問題だった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私たち、いつからこうなったんだろうね」
少し言い方が違ったかもしれない。
責めたいわけではなかった。
ただ、ふと考えてしまったのだ。
いつから、会いたいと言うことを遠慮するようになったのだろう。
いつから、忙しいことを理由に、二人で過ごす時間を後回しにするようになったのだろう。
『いつからだろうな』
悠真も考えているようだった。
『気づいたら、こうなってた気がする』
「うん。私も」
『でも、どっちかが悪かったって話じゃないと思う』
「……うん」
『俺も言えばよかったんだよ。寂しいって。もっと会いたいって』
葵は唇を噛んだ。
「私も、ちゃんと言えばよかった」
どちらか一方が我慢していたわけではない。
二人とも、相手を思いやっているつもりだった。
忙しい相手に負担をかけないように。
余計な心配をさせないように。
そうして言わずにいた気持ちが、少しずつ積み重なってしまったのかもしれない。
『葵』
「うん?」
『俺、今でも葵のことが好きだよ』
心臓が、一度大きく鳴った。
聞きたかった言葉だった。
でも、聞けばすべてが解決するわけではないことも、分かっていた。
「……私も、好きだよ」
葵は正直に答えた。
電話の向こうで、悠真が息を吐いた。
『よかった』
「どうして?」
『もう、好きじゃなくなったって言われるかと思ってたから』
「そんなこと、ないよ」
葵は小さく首を振った。
悠真には見えないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「好きじゃなくなったから悩んでるんじゃないの」
『うん』
「好きだから、どうしたらいいのか分からないんだと思う」
言い終えると、胸が少しだけ軽くなった。
ずっと心の中にあったことを、ようやく口にできた気がした。
悠真も、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『俺も、同じだと思う』
二人の気持ちは、まだ残っている。
それは確かだった。
でも、好きという気持ちだけで、これからの生活を決めることはできない。
葵は、そのことをようやく受け入れ始めていた。
『すぐに答えを出さなくてもいいかな』
悠真が尋ねた。
「うん」
『もう少し、自分がどうしたいのか考えたい』
「私も」
『そのうえで、また話そう』
「うん。そうしよう」
電話を切る前、悠真が言った。
『今日は話せてよかった』
「私も」
『おやすみ、葵』
「おやすみ、悠真」
通話が終わった。
葵はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。
別れを決めたわけではない。
何かが解決したわけでもない。
それでも、今夜は一つだけ、はっきりしたことがあった。
二人とも、まだ相手を好きでいる。
そして、その気持ちを理由に、考えることをやめたくはないのだ。
葵は窓の外を見た。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
仕事をして、食事をして、自分の時間を過ごす。
その日々の中で、自分が本当に望んでいるものを考えていこう。
悠真と一緒にいる未来も。
自分の仕事を続けていく未来も。
どちらも、簡単に手放したくない。
だからこそ、今度は曖昧なままにしない。
葵はそう決めて、テーブルの上の本を開いた。
葵は夕食を済ませ、ソファに座っていた。
テーブルの上には、読みかけの小説とマグカップ。
テレビはつけていない。
今日は悠真と電話で話す約束をしていた。
京都から帰ってきて、三日。
その間も、二人はいつも通りメッセージを交わしていた。
朝の挨拶。
仕事が終わったという報告。
お互いの体調や、何気ない出来事。
特別なことは何もない。
けれど、今夜は少し違う。
これからのことを話そう。
そう決めたのは二人だった。
午後八時半。
スマートフォンが鳴った。
「もしもし」
『葵?』
「うん」
『今、大丈夫?』
「大丈夫だよ」
電話の向こうから、かすかな生活音が聞こえた。
悠真も家にいるのだろう。
少し前まで、こうして電話をすることは当たり前だった。
今は、同じ電話でも緊張してしまう。
「京都、楽しかったね」
葵は口を開いた。
『うん。楽しかった』
「朝の散歩もできたし」
『起きるのは大変だったけどな』
「言い出したのは悠真でしょ」
『いや、葵が言い出したんだよ』
思わず二人で笑った。
ほんの少し、肩の力が抜けた。
でも、笑い声が途切れると、また静けさが戻ってくる。
『……葵』
「うん?」
『これからのこと、話してもいい?』
「うん。私も話したい」
葵はマグカップを両手で包んだ。
温かさが、指先に伝わってくる。
『俺、地元に戻ってから、生活が変わったんだ』
「うん」
『父さんのこともあるし、家のこともある。仕事も、今の場所で続けていきたいと思ってる』
「そうなんだね」
『もちろん、葵に会いたくないわけじゃない。会いたいし、一緒にいたいと思うこともある』
葵は目を閉じた。
その言葉を聞けたことが、嬉しかった。
でも、嬉しいだけでは終われない。
『ただ、今の生活をすぐに変えられるかって言われると、難しい』
「……うん」
『葵にも、仕事があるだろ』
「あるよ」
『頑張ってきた仕事だし、これからも続けたいんじゃないかと思ってる』
葵は少し驚いた。
自分でも、まだうまく整理できていない気持ちだった。
それを悠真が分かってくれていたことが、意外だった。
「私ね、最近考えてたんだ」
『うん』
「もし悠真の地元に行くことになったら、今の仕事を辞めることになるかもしれないでしょ」
『そうだな』
「一緒に暮らせるなら、それでもいいって思おうとしたこともあった」
言葉にしてみると、自分がどれほど簡単に答えを出そうとしていたのかが分かった。
「でも、今の仕事も好きなんだよね。やりたいことも、まだあるし」
『うん』
「だから、どっちかを簡単に諦めるんじゃなくて、どうしたいのかをちゃんと考えたい」
悠真はすぐには答えなかった。
葵は不安になりかけたが、続きを急かさなかった。
『そうだよな』
やがて、悠真が言った。
『俺も、葵に仕事を辞めてほしいわけじゃない』
「うん」
『俺のために何かを諦めてほしいとも思ってない』
その言葉は優しかった。
だからこそ、葵は少し苦しくなった。
「でも、それだと……」
言いかけて、口を閉じる。
『うん?』
「それだと、今のまま離れて暮らすしかないのかなって」
自分で口にして、初めて気づいた。
仕事も続けたい。
悠真も大切にしたい。
悠真には悠真の家族と生活がある。
どれも、簡単には手放せない。
ならば、今の二人にできることは何なのだろう。
『俺も、そこを考えてた』
悠真の声が少し低くなった。
『離れていても、会う時間を作ることはできると思う。実際、今だって会えてる』
「うん」
『でも、これから先もずっと、それでいいのかは分からない』
葵はマグカップをテーブルに置いた。
胸の奥に、静かな痛みが広がっていく。
悠真も同じことを考えていたのだ。
今の関係を続けることはできる。
電話もできる。
休みを合わせれば、会うこともできる。
けれど、それだけで二人が望む未来に近づいているのか。
それは、別の問題だった。
「ねえ、悠真」
『うん』
「私たち、いつからこうなったんだろうね」
少し言い方が違ったかもしれない。
責めたいわけではなかった。
ただ、ふと考えてしまったのだ。
いつから、会いたいと言うことを遠慮するようになったのだろう。
いつから、忙しいことを理由に、二人で過ごす時間を後回しにするようになったのだろう。
『いつからだろうな』
悠真も考えているようだった。
『気づいたら、こうなってた気がする』
「うん。私も」
『でも、どっちかが悪かったって話じゃないと思う』
「……うん」
『俺も言えばよかったんだよ。寂しいって。もっと会いたいって』
葵は唇を噛んだ。
「私も、ちゃんと言えばよかった」
どちらか一方が我慢していたわけではない。
二人とも、相手を思いやっているつもりだった。
忙しい相手に負担をかけないように。
余計な心配をさせないように。
そうして言わずにいた気持ちが、少しずつ積み重なってしまったのかもしれない。
『葵』
「うん?」
『俺、今でも葵のことが好きだよ』
心臓が、一度大きく鳴った。
聞きたかった言葉だった。
でも、聞けばすべてが解決するわけではないことも、分かっていた。
「……私も、好きだよ」
葵は正直に答えた。
電話の向こうで、悠真が息を吐いた。
『よかった』
「どうして?」
『もう、好きじゃなくなったって言われるかと思ってたから』
「そんなこと、ないよ」
葵は小さく首を振った。
悠真には見えないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
「好きじゃなくなったから悩んでるんじゃないの」
『うん』
「好きだから、どうしたらいいのか分からないんだと思う」
言い終えると、胸が少しだけ軽くなった。
ずっと心の中にあったことを、ようやく口にできた気がした。
悠真も、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
『俺も、同じだと思う』
二人の気持ちは、まだ残っている。
それは確かだった。
でも、好きという気持ちだけで、これからの生活を決めることはできない。
葵は、そのことをようやく受け入れ始めていた。
『すぐに答えを出さなくてもいいかな』
悠真が尋ねた。
「うん」
『もう少し、自分がどうしたいのか考えたい』
「私も」
『そのうえで、また話そう』
「うん。そうしよう」
電話を切る前、悠真が言った。
『今日は話せてよかった』
「私も」
『おやすみ、葵』
「おやすみ、悠真」
通話が終わった。
葵はスマートフォンを手にしたまま、しばらく動かなかった。
別れを決めたわけではない。
何かが解決したわけでもない。
それでも、今夜は一つだけ、はっきりしたことがあった。
二人とも、まだ相手を好きでいる。
そして、その気持ちを理由に、考えることをやめたくはないのだ。
葵は窓の外を見た。
明日になれば、またいつもの朝が来る。
仕事をして、食事をして、自分の時間を過ごす。
その日々の中で、自分が本当に望んでいるものを考えていこう。
悠真と一緒にいる未来も。
自分の仕事を続けていく未来も。
どちらも、簡単に手放したくない。
だからこそ、今度は曖昧なままにしない。
葵はそう決めて、テーブルの上の本を開いた。


