君が思い出になる前に
第69話 楽しかった、その先に
月曜日の朝、葵はいつも通りの時間に家を出た。
京都で買ったお土産を紙袋に入れ、会社へ向かう。
電車の中では、いつもと変わらずスマートフォンを見ている人がいて、駅に着けば急ぎ足で改札を抜ける人たちがいた。
昨日まで旅行をしていたことが、少し不思議に思える。
京都で悠真と歩いた道。
朝の喫茶店で食べたトースト。
帰りの電車で交わした会話。
思い出すと、自然に口元が緩んだ。
楽しかった。
その気持ちに嘘はない。
けれど、楽しかったからこそ、帰ってきてから考えることも増えていた。
この先も、悠真と一緒にいたいのか。
それとも、離れて暮らす今の関係を続けることに、どこかで無理を感じているのか。
答えは、まだ出ていなかった。
「高橋さん、おはようございます」
会社に着くと、後輩が声をかけてきた。
「おはよう」
「京都、どうでした?」
「ああ、楽しかったよ」
「いいなあ。何を食べたんですか?」
「いろいろ。甘いものも食べたし、おいしいものも食べた」
「写真、あります?」
葵はスマートフォンを取り出した。
寺の写真や、町並みの写真を見せる。
「わあ、きれいですね」
「うん。歩いているだけでも楽しかった」
「彼氏さんと行ったんですか?」
何気ない質問だった。
葵は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「そうだよ」
「いいですね。私も旅行したいなあ」
後輩はそれ以上、何も聞かなかった。
葵はスマートフォンをしまい、仕事に取りかかった。
彼氏。
その言葉を聞いて、少しだけ不思議な気持ちになった。
悠真は今も、自分の恋人だ。
別れたわけではない。
気持ちがなくなったわけでもない。
それなのに、二人の関係をこれからどうするのか、自分でも分からなくなっている。
以前なら、そんなことを考えるだけで不安になっただろう。
今は、分からないことを分からないままにしておくしかないと思えた。
昼休み。
葵は同僚と食事をしながら、仕事の話をしていた。
新しい企画のこと。
来月のスケジュールのこと。
休日に見た映画のこと。
会話は自然に続いた。
その中で、同僚がふと思い出したように言った。
「そういえば、来月の企画、葵が中心で進めるんだよね?」
「うん。その予定」
「忙しくなりそう?」
「それなりにはね。でも、前ほど無理なスケジュールにはしないつもり」
「お、いいじゃん」
同僚が笑う。
「前の葵だったら、全部引き受けてたもんね」
「……そうかも」
「最近、ちゃんと帰るようになったよね。何かあった?」
葵は少し考えた。
何かがあったといえば、あった。
悠真との関係が変わり始めたこと。
一人で過ごす時間を持つようになったこと。
自分が思っていた以上に、仕事を理由にいろいろなものを後回しにしていたこと。
「自分の時間も、もう少し大事にしようと思って」
「いいことだと思う」
同僚はあっさりと頷いた。
「仕事って、頑張ろうと思えばいくらでも頑張れちゃうからね」
「本当にそうだね」
葵は笑った。
自分の生活を変えることは、もっと大きな決断が必要だと思っていた。
でも、実際には小さなことから始められる。
定時で帰る日を増やす。
休日に仕事のメールを開かない。
行きたい場所があれば、一人でも出かけてみる。
そうしたことを重ねるうちに、自分が何を心地よいと感じるのか、少しずつ分かってきた。
午後の仕事を終え、葵は予定通りに会社を出た。
帰り道、スーパーに立ち寄る。
夕食の材料を選びながら、京都での朝食を思い出した。
悠真は、実家では母親の手伝いをしていると言っていた。
家族と暮らし、父親のことを気にかけ、今の生活を続けていくつもりなのだろう。
それは、悠真が選んだ生活だった。
自分が寂しいからといって、その選択を変えてほしいと言えるのだろうか。
では、自分はどうしたいのか。
仕事を辞めて、悠真の地元へ行く。
考えたことがないわけではなかった。
もし一緒に暮らせるなら、今より会える時間は増えるだろう。
でも、今の仕事を離れた自分を想像すると、すぐには決められなかった。
今の仕事には、やりがいがある。
任される仕事も増えてきた。
これから挑戦したいこともある。
それらをすべて手放しても、後悔しないと言い切れるだろうか。
悠真と一緒に暮らせるなら、それでいい。
以前の葵なら、そう答えようとしたかもしれない。
でも今は、自分の気持ちをごまかしたくなかった。
悠真と一緒にいたい。
それは本当だ。
けれど、自分の人生も大切にしたい。
その二つを、どちらか一方だけ選ばなければならないのだろうか。
家に帰り、夕食を作る。
食べ終わったあとは、洗い物を済ませて、ソファに座った。
スマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いていた。
『仕事、終わった?』
『終わったよ。今、家』
すぐに返事が来た。
『お疲れさま。こっちは今、夕飯が終わったところ』
『お父さんの調子はどう?』
『今日は落ち着いてる。母さんも元気そうだった』
葵は、ほっと息をついた。
『よかった』
それから少し迷い、もう一度文字を打った。
『京都で話してたこと、私もずっと考えてる』
送信してから、胸が少しざわついた。
返事はすぐには来なかった。
葵はスマートフォンをテーブルに置き、しばらく待った。
数分後、画面が光った。
『俺も考えてるよ』
続けて、もう一通。
『今度、電話でちゃんと話そう』
葵は画面を見つめた。
ちゃんと話す。
その言葉が、以前とは違う意味を持っているように感じた。
今までは、寂しいときに声を聞くために電話をしていた。
今日あったことを話して、相手の声を聞いて、また明日から頑張ろうと思う。
それだけでよかった。
でも、これからの電話は違う。
二人がどこへ向かいたいのか。
何を大切にしたいのか。
その話を、避けずにしなければならない。
『うん。私も話したい』
葵は返信した。
スマートフォンを置き、窓の外を見る。
部屋の中は静かだった。
寂しくないわけではない。
悠真が隣にいたらと思うこともある。
けれど、今の自分は、その寂しさを埋めるためだけに誰かと一緒にいたいわけではなかった。
悠真と一緒にいることを、自分の意思で選びたい。
もし選ぶのなら、無理をしてでも一緒にいるのではなく、お互いが大切にしたいものを守りながら、一緒にいられる方法を考えたい。
そして、もしそれができないのなら。
そのときは、目を逸らさずに考えなければならない。
葵はテーブルの上に置いた京都土産を見た。
まだ袋から出していない小さな菓子箱。
週末に食べようと思って買ったものだった。
箱を手に取り、少しだけ笑う。
旅行は終わった。
けれど、二人の時間まで終わったわけではない。
今度は、楽しかった思い出の続きを考えるのではなく、その先にある現実を見ていく番だった。
京都で買ったお土産を紙袋に入れ、会社へ向かう。
電車の中では、いつもと変わらずスマートフォンを見ている人がいて、駅に着けば急ぎ足で改札を抜ける人たちがいた。
昨日まで旅行をしていたことが、少し不思議に思える。
京都で悠真と歩いた道。
朝の喫茶店で食べたトースト。
帰りの電車で交わした会話。
思い出すと、自然に口元が緩んだ。
楽しかった。
その気持ちに嘘はない。
けれど、楽しかったからこそ、帰ってきてから考えることも増えていた。
この先も、悠真と一緒にいたいのか。
それとも、離れて暮らす今の関係を続けることに、どこかで無理を感じているのか。
答えは、まだ出ていなかった。
「高橋さん、おはようございます」
会社に着くと、後輩が声をかけてきた。
「おはよう」
「京都、どうでした?」
「ああ、楽しかったよ」
「いいなあ。何を食べたんですか?」
「いろいろ。甘いものも食べたし、おいしいものも食べた」
「写真、あります?」
葵はスマートフォンを取り出した。
寺の写真や、町並みの写真を見せる。
「わあ、きれいですね」
「うん。歩いているだけでも楽しかった」
「彼氏さんと行ったんですか?」
何気ない質問だった。
葵は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「そうだよ」
「いいですね。私も旅行したいなあ」
後輩はそれ以上、何も聞かなかった。
葵はスマートフォンをしまい、仕事に取りかかった。
彼氏。
その言葉を聞いて、少しだけ不思議な気持ちになった。
悠真は今も、自分の恋人だ。
別れたわけではない。
気持ちがなくなったわけでもない。
それなのに、二人の関係をこれからどうするのか、自分でも分からなくなっている。
以前なら、そんなことを考えるだけで不安になっただろう。
今は、分からないことを分からないままにしておくしかないと思えた。
昼休み。
葵は同僚と食事をしながら、仕事の話をしていた。
新しい企画のこと。
来月のスケジュールのこと。
休日に見た映画のこと。
会話は自然に続いた。
その中で、同僚がふと思い出したように言った。
「そういえば、来月の企画、葵が中心で進めるんだよね?」
「うん。その予定」
「忙しくなりそう?」
「それなりにはね。でも、前ほど無理なスケジュールにはしないつもり」
「お、いいじゃん」
同僚が笑う。
「前の葵だったら、全部引き受けてたもんね」
「……そうかも」
「最近、ちゃんと帰るようになったよね。何かあった?」
葵は少し考えた。
何かがあったといえば、あった。
悠真との関係が変わり始めたこと。
一人で過ごす時間を持つようになったこと。
自分が思っていた以上に、仕事を理由にいろいろなものを後回しにしていたこと。
「自分の時間も、もう少し大事にしようと思って」
「いいことだと思う」
同僚はあっさりと頷いた。
「仕事って、頑張ろうと思えばいくらでも頑張れちゃうからね」
「本当にそうだね」
葵は笑った。
自分の生活を変えることは、もっと大きな決断が必要だと思っていた。
でも、実際には小さなことから始められる。
定時で帰る日を増やす。
休日に仕事のメールを開かない。
行きたい場所があれば、一人でも出かけてみる。
そうしたことを重ねるうちに、自分が何を心地よいと感じるのか、少しずつ分かってきた。
午後の仕事を終え、葵は予定通りに会社を出た。
帰り道、スーパーに立ち寄る。
夕食の材料を選びながら、京都での朝食を思い出した。
悠真は、実家では母親の手伝いをしていると言っていた。
家族と暮らし、父親のことを気にかけ、今の生活を続けていくつもりなのだろう。
それは、悠真が選んだ生活だった。
自分が寂しいからといって、その選択を変えてほしいと言えるのだろうか。
では、自分はどうしたいのか。
仕事を辞めて、悠真の地元へ行く。
考えたことがないわけではなかった。
もし一緒に暮らせるなら、今より会える時間は増えるだろう。
でも、今の仕事を離れた自分を想像すると、すぐには決められなかった。
今の仕事には、やりがいがある。
任される仕事も増えてきた。
これから挑戦したいこともある。
それらをすべて手放しても、後悔しないと言い切れるだろうか。
悠真と一緒に暮らせるなら、それでいい。
以前の葵なら、そう答えようとしたかもしれない。
でも今は、自分の気持ちをごまかしたくなかった。
悠真と一緒にいたい。
それは本当だ。
けれど、自分の人生も大切にしたい。
その二つを、どちらか一方だけ選ばなければならないのだろうか。
家に帰り、夕食を作る。
食べ終わったあとは、洗い物を済ませて、ソファに座った。
スマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いていた。
『仕事、終わった?』
『終わったよ。今、家』
すぐに返事が来た。
『お疲れさま。こっちは今、夕飯が終わったところ』
『お父さんの調子はどう?』
『今日は落ち着いてる。母さんも元気そうだった』
葵は、ほっと息をついた。
『よかった』
それから少し迷い、もう一度文字を打った。
『京都で話してたこと、私もずっと考えてる』
送信してから、胸が少しざわついた。
返事はすぐには来なかった。
葵はスマートフォンをテーブルに置き、しばらく待った。
数分後、画面が光った。
『俺も考えてるよ』
続けて、もう一通。
『今度、電話でちゃんと話そう』
葵は画面を見つめた。
ちゃんと話す。
その言葉が、以前とは違う意味を持っているように感じた。
今までは、寂しいときに声を聞くために電話をしていた。
今日あったことを話して、相手の声を聞いて、また明日から頑張ろうと思う。
それだけでよかった。
でも、これからの電話は違う。
二人がどこへ向かいたいのか。
何を大切にしたいのか。
その話を、避けずにしなければならない。
『うん。私も話したい』
葵は返信した。
スマートフォンを置き、窓の外を見る。
部屋の中は静かだった。
寂しくないわけではない。
悠真が隣にいたらと思うこともある。
けれど、今の自分は、その寂しさを埋めるためだけに誰かと一緒にいたいわけではなかった。
悠真と一緒にいることを、自分の意思で選びたい。
もし選ぶのなら、無理をしてでも一緒にいるのではなく、お互いが大切にしたいものを守りながら、一緒にいられる方法を考えたい。
そして、もしそれができないのなら。
そのときは、目を逸らさずに考えなければならない。
葵はテーブルの上に置いた京都土産を見た。
まだ袋から出していない小さな菓子箱。
週末に食べようと思って買ったものだった。
箱を手に取り、少しだけ笑う。
旅行は終わった。
けれど、二人の時間まで終わったわけではない。
今度は、楽しかった思い出の続きを考えるのではなく、その先にある現実を見ていく番だった。