氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

第十三話 もう、認めたほうがいいんじゃないですか?

 朝。

 レオンハルトは執務室で書類に目を通していた。

 いつもと変わらない朝のはずだった。

 だが。

「旦那様」

 セバスチャンが静かに入ってきた。

「何だ?」

「本日のご予定ですが、午後から王宮へお越しいただくことになっております」

「ああ。覚えている」

「それと、奥様ですが――」

 その言葉に、レオンハルトの視線が書類から上がる。

「エレノアがどうした?」

「本日は庭師のトーマスと、花壇の手入れをされるそうです」

「……そうか」

 レオンハルトは再び書類へ視線を戻す。

「それは何時だ?」

「十時頃かと」

「……そうか」

 セバスチャンは一礼する。

「それでは、失礼いたします」

 セバスチャンが部屋を出ていく。

 レオンハルトは再び書類を見る。

 しかし。

 文字が頭に入ってこない。

「……」

 なぜ自分は、エレノアの予定を気にしているのだろう。

 妻なのだから。

 知っていて当然だ。

 そう思いながらも、レオンハルトは時計を見た。

 まだ九時半。

「……」

 長い。




 ◇

「公爵様?」

「……」

「公爵様、どうされたのですか?」

 気づけば、レオンハルトは庭にいた。

 エレノアが不思議そうに彼を見上げている。

「仕事は?」

「休憩だ」

「そうですか」

「何をしている?」

「お花のお手入れです」

 エレノアは手にしていた小さな鋏を見せた。

「トーマスさんが教えてくださっています」

「そうか」

「公爵様もやりますか?」

「……俺が?」

「はい」

 エレノアは小さな鋏を差し出す。

 レオンハルトはそれを受け取った。

「どうする?」

「ここを切るそうです」

 エレノアが花を指差す。

「……こうか?」

「はい」

 レオンハルトが枝を切る。

「上手です」

「そうか?」

「はい。トーマスさんより少し怖いですが」

「……」

 少し離れたところでトーマスが肩を震わせた。

「……そうか」

 レオンハルトは苦笑した。

 最近。

 エレノアはよく笑うようになった。

 そして、以前よりずっと自分の気持ちを口にするようになった。

「公爵様」

「何だ?」

「この花、好きです」

「前にも言っていたな」

「覚えていらしたのですか?」

「ああ」

「嬉しいです」

 エレノアが笑う。

 レオンハルトはその顔を見つめた。

 ――まただ。

 胸の奥が温かくなる。

 彼女が笑うだけで、嬉しい。

 彼女が喜ぶことをしてやりたい。

 彼女が悲しそうにしていれば、理由を知りたい。

 困っていれば助けたい。

 他の誰かが彼女に近づけば、面白くない。

 そして。

 彼女が自分を頼ってくれると、どうしようもなく嬉しい。

「……」

 レオンハルトはふと気づいた。

 自分はいつから、こんなにも彼女のことばかり考えるようになったのだろう。




 ◇

 昼食の時間。

「公爵様」

「何だ?」

「こちら、少し食べてみませんか?」

 エレノアが小皿を差し出す。

「料理長が新しい焼き菓子を作ったそうです」

「君が作ったのか?」

「少しだけお手伝いしました」

 レオンハルトは一つ取る。

「……甘いな」

「はい」

「君は好きなのか?」

「好きです」

「そうか」

 エレノアが嬉しそうに笑う。

「もう一つ、いかがですか?」

「ああ」

 レオンハルトがもう一つ食べる。

「美味しいですか?」

「悪くない」

「では、もう一つ」

「……」

 気づけば、皿の上の焼き菓子がどんどん減っていく。

 エレノアは嬉しそうにそれを見ている。

「公爵様」

「何だ?」

「公爵様も甘いものがお好きだったのですね」

「……いや」

「でも三つ召し上がりました」

「君が勧めるからだ」

「そうですか」

 エレノアは納得した。

 そして自分も一つ食べる。

「美味しいです」

「そうだな」

 こんな時間が。

最近は当たり前になっていた。

 一緒に食事をして。

 一緒に庭を歩いて。

 他愛のない話をして。

 彼女の笑顔を見る。

 それだけで満たされる。

 ――それだけで?

 レオンハルトはふと手を止めた。

「……」

 違う。

 もう「それだけ」ではない。

 もっと一緒にいたい。

 もっと自分を頼ってほしい。

 もっと彼女のことを知りたい。

 そして――。

 自分だけを見てほしい。




 ◇

 夜。

 レオンハルトは王宮から戻ってきた。

 玄関へ入ったところで、エレノアの声が聞こえる。

「おかえりなさいませ、公爵様」

 エレノアが駆け寄ってくる。

 その姿を見た瞬間。

 レオンハルトの表情が緩んだ。

「ただいま」

「……?」

 エレノアが少し目を丸くする。

「どうしました?」

「いや」

「疲れましたか?」

「少しな」

「では、お茶をお持ちします」

「君が?」

「はい」

「……頼む」

「はい」

 エレノアは嬉しそうに頷き、厨房へ向かっていった。

 レオンハルトはその背中を見つめる。

 たったそれだけのことなのに。

 帰ってきて彼女がいることが、嬉しい。

 待っていてくれることが、嬉しい。

 自分を迎えてくれることが、嬉しい。

 そのとき。

「旦那様」

 背後から声がした。

「……セバスチャンか」

「はい」

 セバスチャンはレオンハルトの隣に立つ。

「ずいぶん嬉しそうでございますね」

「……そうか?」

「はい」

「疲れているだけだ」

「左様でございますか」

 セバスチャンは穏やかに微笑んだ。

「それにしても――」

「何だ?」

「奥様がお茶を取りに行かれた途端、そんなに嬉しそうなお顔をされるとは」

「……」

 レオンハルトは黙る。

「旦那様」

「……何だ」

「もう、お認めになった方がよろしいのでは?」

「何をだ」

 セバスチャンは少しだけ間を置いた。

「奥様を愛していることです」

 空気が止まった。

 レオンハルトはセバスチャンを見る。

「何を言っている」

「事実を申し上げただけでございます」

「俺は――」

 言葉が続かない。

 セバスチャンは何も言わず、静かに待っている。

「……俺は、妻として大切にしているだけだ」

「……」

「奥様が他の男性を頼られても?」

 エレノアが誰かに笑いかけていると、胸の奥がざわつく。

面白くない。

「奥様がこの屋敷を出ていかれても?」

「……」

 ――それは。

 考えたくもない。

 胸の奥が、強く締めつけられた。

 エレノアがいなくなる。

 この屋敷から。

 自分の隣から。

 その光景を想像しただけで、息が苦しくなる。

「……嫌だ」

 ぽつりと声が漏れた。

 セバスチャンが微笑む。

「はい」

「……俺は」

 レオンハルトは自分の胸元へ手を当てる。

 ここにある感情を、今まで何と呼べばいいのかわからなかった。

 けれど。

 もう、わかる。

「俺は……エレノアを愛しているのか」

「はい」

 セバスチャンは迷いなく答えた。

「私には、そう見えております」

「……」

 レオンハルトは目を閉じる。

 初めて会った日のことを思い出す。

 細く、小さく。

 何を言われても無表情だった少女。

 今は違う。

 美味しいものを食べれば笑う。

 花が咲けば喜ぶ。

 知らないことがあれば首を傾げる。

 時々、とんでもないことを真顔で言う。

 そして。

 自分を見ると、安心したように笑う。


「……そうか」

 レオンハルトは小さく息を吐いた。

「ようやく認められましたね」

「……もっと早く言え」

「申し訳ございません」

 セバスチャンは全く申し訳なさそうではなかった。

 そのとき。

「公爵様」

 エレノアの声がした。

 二人が振り返る。

 エレノアがトレーを持って立っていた。

「お茶をお持ちしました」

「ああ」

 レオンハルトは彼女を見る。

 今までと同じエレノア。

 けれど。

 自分の中では、何かが変わった。

「……ありがとう、エレノア」

「はい」

 エレノアが笑う。

 レオンハルトの胸が、また温かくなる。

 ――愛している。

 そう思うと、不思議なくらい腑に落ちた。

 今まで感じていたすべてのことが。

 彼女のためなら、何でもしてやりたいと思うことも。

 全部。

 この気持ちだったのだ。

「公爵様?」

「何だ?」

「今日は、何だか嬉しそうですね」

「……そうか?」

「はい」

 エレノアは不思議そうに首を傾げる。

 レオンハルトはそんな彼女を見つめた。

 そして、ほんの少しだけ笑った。

「……君がいるからだろうな」

「?」

 エレノアは意味がわからず、また首を傾げた。

「そうですか」

「ああ」

「では、お茶をどうぞ」

「ありがとう」

 二人は並んで座った。

 エレノアはいつも通り、何も知らない。

 自分がレオンハルトにとって、どれほど大切な存在になったのかも。

 その無垢な笑顔を見ながら。

 レオンハルトは静かに思った。

 ――急ぐ必要はない。

 エレノアが自分をどう思っているのか。

 今はまだ、知らなくてもいい。

 ただ。

 いつか彼女自身が、自分の気持ちに気づく日まで。

 自分はずっと、この子の隣にいよう。

 そう決めた。

 契約から始まった二人の関係は。

 この日を境に、レオンハルトにとってはもう、契約ではなくなった。
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