氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない
第九話 離したくないと思った
翌朝。
エレノアはいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日を眺める。
「……」
今日は、レオンハルトと庭を歩く約束をしている。
昨日の夜から、そのことが頭から離れなかった。
不思議だった。
約束があるだけなのに。
いつもより、楽しみだった。
「お嬢様?」
着替えを手伝っていたマリアが、エレノアの顔を覗き込む。
「今日は何だか嬉しそうですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ」
「自分では、よくわかりません」
エレノアは首を傾げた。
マリアはくすりと笑う。
「それなら、きっと楽しいのでしょうね」
「……はい」
エレノアは素直に頷いた。
◇
朝食を終えると、約束通りレオンハルトが庭へやってきた。
「待たせたか?」
「いいえ」
エレノアは立ち上がる。
「ご案内します」
「ああ」
二人で並んで歩き始める。
最初は、どちらも何も話さなかった。
静かな庭に、二人の足音だけが響く。
しばらくして。
「公爵様」
「何だ?」
「こちらです」
エレノアが小さな花壇を指差した。
「ここは、私がトーマスさんと一緒に植えたところです」
「君が?」
「はい」
「ちゃんと育っているな」
「毎日、お水をあげています」
「そうか」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「こちらはリュミエールです」
「以前話していた花か」
「覚えていらしたのですか?」
「ああ」
エレノアが少し目を丸くする。
「……ありがとうございます」
「何がだ?」
「覚えていてくださったことです」
「それくらい覚える」
レオンハルトは何気なく答えた。
だが、エレノアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、レオンハルトは少しだけ目を逸らした。
「……他には?」
「はい?」
「他にも何かあるのか?」
「あります」
エレノアは嬉しそうに歩き出す。
「こちらは薔薇です」
「これは?」
「……わかりません」
「君でも知らないことがあるんだな」
「はい」
「全部知っているような顔をしているからな」
「……そうでしょうか?」
エレノアが真面目に考える。
レオンハルトは思わず笑った。
「……ふふ」
エレノアが小さく笑う。
「今、笑いましたか?」
「……笑っていない」
「そうですか?」
「ああ」
「そうですか」
エレノアは納得したように頷いた。
けれど、口元はまだ少し笑っていた。
レオンハルトはそんな彼女を横目で見た。
――よく笑うようになった。
ほんの数週間前まで、表情のない少女だったのに。
◇
庭の奥へ進んだときだった。
足元の石に、エレノアの靴が引っかかった。
「……っ」
身体が前へ傾く。
次の瞬間。
「危ない」
腕を掴まれた。
強く引かれる。
「……!」
エレノアの身体がレオンハルトの胸元へ引き寄せられた。
気づけば、彼の腕の中にいた。
エレノアは目を瞬かせる。
すぐ近くに、レオンハルトの顔がある。
「……大丈夫か?」
「……はい」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
レオンハルトは彼女の腕を確認する。
細い。
あまりにも細い。
少し力を入れれば折れてしまいそうなほどだった。
「……」
レオンハルトは眉を寄せる。
「君は、本当に細いな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「最近は、たくさん食べています」
「それでもだ」
「……」
エレノアは自分の腕を見る。
「もっと食べた方がよいのでしょうか?」
「そうだな」
「わかりました」
「無理にではない。少しずつでいい」
「はい」
そう答えながらも。
レオンハルトはまだ彼女の腕を掴んだままだった。
「公爵様?」
「……」
「もう大丈夫です」
「ああ」
レオンハルトはようやく手を離した。
だが、手のひらに残った細い腕の感触が、なぜか消えなかった。
◇
二人は庭のベンチへ腰掛けた。
エレノアは先ほどのことを気にしている様子もなく、咲いた花を眺めている。
レオンハルトはそんな彼女を横目で見る。
しばらくして。
「公爵様」
「何だ?」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」
「構わない」
エレノアは少し考えてから口を開いた。
「どうして、私を妻にされたのですか?」
レオンハルトは黙った。
いずれ聞かれるとは思っていた。
「……君の家が金を必要としていたからだ」
「はい」
「俺も妻を迎える必要があった」
「……はい」
「だから、互いに都合がよかった」
エレノアは静かに聞いていた。
「そうですか」
「ああ」
「では……」
エレノアは少しだけ俯く。
「私ではなくても、よかったのでしょうか?」
その問いに。
レオンハルトは答えられなかった。
「……」
「公爵様?」
「……わからない」
それが、今の自分に言える精一杯だった。
最初は確かにそうだった。
妻なら誰でもよかった。
家柄が釣り合えば。
母が納得すれば。
公爵家の夫人として最低限の役割を果たしてくれれば。
それで十分だった。
だから、エレノアを選んだ。
ただ、それだけだったはずなのに。
「ですが」
エレノアが顔を上げる。
「公爵様に選んでいただけて、よかったと思っています」
「……なぜ?」
「ここに来てから、初めて知ったことがたくさんあります」
「……」
「美味しい食事も」
「……ああ」
「お花も」
「ああ」
「自分で欲しいものを選ぶことも」
「……」
「楽しいという気持ちも」
エレノアは微笑んだ。
「公爵様のおかげです」
胸の奥が、妙に重くなる。
レオンハルトは視線を逸らした。
「……俺は、何もしていない」
「いいえ」
「君をここへ連れてきただけだ」
「それでもです」
エレノアはそう言った。
その言葉が、なぜか深く残った。
◇
その日の夕方。
レオンハルトは執務室にいた。
机の上には大量の書類。
いつもなら何の問題もなく片付けられる仕事だった。
だが今日は、なかなか集中できない。
頭に浮かぶのは。
庭で笑っていたエレノア。
自分の腕の中へ倒れ込んできた身体。
細すぎた腕。
そして。
――公爵様のおかげです。
「……」
レオンハルトはペンを置いた。
「……おかしいな」
最初は、ただの契約だった。
愛するつもりなどなかった。
妻として必要なものを与える。
安全な場所を用意する。
食事を与える。
それだけのつもりだった。
なのに。
彼女が笑うと、嬉しい。
彼女が美味しそうに食べていると、安心する。
欲しいものがあれば、買ってやりたいと思う。
街へ行きたいと言われれば、また連れて行ってやりたいと思う。
そして今日。
転びそうになった彼女を抱き止めた瞬間。
――離したくない。
ほんの一瞬。
確かにそう思った。
「……」
レオンハルトは自分の手を見る。
そこにはもう何もない。
それなのに、エレノアの細い腕の感触だけが残っているような気がした。
「俺は……」
何を考えている?
答えは出ない。
ただ一つだけ。
以前とは違う。
それだけは、はっきりしていた。
◇
その夜。
エレノアはベッドの中で、今日の出来事を思い出していた。
庭を歩いた。
たくさん話をした。
転びそうになったとき、助けてもらった。
「……」
胸元へ手を当てる。
なぜだろう。
公爵様といると、安心する。
そして。
明日も会えたらいいと思う。
「……」
エレノアはその気持ちに、まだ名前をつけられなかった。
ただ。
「明日も、会えるといいな」
そう呟いて、目を閉じた。
同じ頃。
レオンハルトもまた、眠れずにいた。
自分でも理解できない感情を抱えたまま。
二人の距離は、少しずつ。
確実に近づいていた。
エレノアはいつもより少し早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝日を眺める。
「……」
今日は、レオンハルトと庭を歩く約束をしている。
昨日の夜から、そのことが頭から離れなかった。
不思議だった。
約束があるだけなのに。
いつもより、楽しみだった。
「お嬢様?」
着替えを手伝っていたマリアが、エレノアの顔を覗き込む。
「今日は何だか嬉しそうですね」
「……そうでしょうか?」
「ええ」
「自分では、よくわかりません」
エレノアは首を傾げた。
マリアはくすりと笑う。
「それなら、きっと楽しいのでしょうね」
「……はい」
エレノアは素直に頷いた。
◇
朝食を終えると、約束通りレオンハルトが庭へやってきた。
「待たせたか?」
「いいえ」
エレノアは立ち上がる。
「ご案内します」
「ああ」
二人で並んで歩き始める。
最初は、どちらも何も話さなかった。
静かな庭に、二人の足音だけが響く。
しばらくして。
「公爵様」
「何だ?」
「こちらです」
エレノアが小さな花壇を指差した。
「ここは、私がトーマスさんと一緒に植えたところです」
「君が?」
「はい」
「ちゃんと育っているな」
「毎日、お水をあげています」
「そうか」
エレノアは嬉しそうに頷いた。
「こちらはリュミエールです」
「以前話していた花か」
「覚えていらしたのですか?」
「ああ」
エレノアが少し目を丸くする。
「……ありがとうございます」
「何がだ?」
「覚えていてくださったことです」
「それくらい覚える」
レオンハルトは何気なく答えた。
だが、エレノアは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、レオンハルトは少しだけ目を逸らした。
「……他には?」
「はい?」
「他にも何かあるのか?」
「あります」
エレノアは嬉しそうに歩き出す。
「こちらは薔薇です」
「これは?」
「……わかりません」
「君でも知らないことがあるんだな」
「はい」
「全部知っているような顔をしているからな」
「……そうでしょうか?」
エレノアが真面目に考える。
レオンハルトは思わず笑った。
「……ふふ」
エレノアが小さく笑う。
「今、笑いましたか?」
「……笑っていない」
「そうですか?」
「ああ」
「そうですか」
エレノアは納得したように頷いた。
けれど、口元はまだ少し笑っていた。
レオンハルトはそんな彼女を横目で見た。
――よく笑うようになった。
ほんの数週間前まで、表情のない少女だったのに。
◇
庭の奥へ進んだときだった。
足元の石に、エレノアの靴が引っかかった。
「……っ」
身体が前へ傾く。
次の瞬間。
「危ない」
腕を掴まれた。
強く引かれる。
「……!」
エレノアの身体がレオンハルトの胸元へ引き寄せられた。
気づけば、彼の腕の中にいた。
エレノアは目を瞬かせる。
すぐ近くに、レオンハルトの顔がある。
「……大丈夫か?」
「……はい」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
レオンハルトは彼女の腕を確認する。
細い。
あまりにも細い。
少し力を入れれば折れてしまいそうなほどだった。
「……」
レオンハルトは眉を寄せる。
「君は、本当に細いな」
「そうでしょうか?」
「ああ」
「最近は、たくさん食べています」
「それでもだ」
「……」
エレノアは自分の腕を見る。
「もっと食べた方がよいのでしょうか?」
「そうだな」
「わかりました」
「無理にではない。少しずつでいい」
「はい」
そう答えながらも。
レオンハルトはまだ彼女の腕を掴んだままだった。
「公爵様?」
「……」
「もう大丈夫です」
「ああ」
レオンハルトはようやく手を離した。
だが、手のひらに残った細い腕の感触が、なぜか消えなかった。
◇
二人は庭のベンチへ腰掛けた。
エレノアは先ほどのことを気にしている様子もなく、咲いた花を眺めている。
レオンハルトはそんな彼女を横目で見る。
しばらくして。
「公爵様」
「何だ?」
「一つ、聞いてもよろしいでしょうか?」
「構わない」
エレノアは少し考えてから口を開いた。
「どうして、私を妻にされたのですか?」
レオンハルトは黙った。
いずれ聞かれるとは思っていた。
「……君の家が金を必要としていたからだ」
「はい」
「俺も妻を迎える必要があった」
「……はい」
「だから、互いに都合がよかった」
エレノアは静かに聞いていた。
「そうですか」
「ああ」
「では……」
エレノアは少しだけ俯く。
「私ではなくても、よかったのでしょうか?」
その問いに。
レオンハルトは答えられなかった。
「……」
「公爵様?」
「……わからない」
それが、今の自分に言える精一杯だった。
最初は確かにそうだった。
妻なら誰でもよかった。
家柄が釣り合えば。
母が納得すれば。
公爵家の夫人として最低限の役割を果たしてくれれば。
それで十分だった。
だから、エレノアを選んだ。
ただ、それだけだったはずなのに。
「ですが」
エレノアが顔を上げる。
「公爵様に選んでいただけて、よかったと思っています」
「……なぜ?」
「ここに来てから、初めて知ったことがたくさんあります」
「……」
「美味しい食事も」
「……ああ」
「お花も」
「ああ」
「自分で欲しいものを選ぶことも」
「……」
「楽しいという気持ちも」
エレノアは微笑んだ。
「公爵様のおかげです」
胸の奥が、妙に重くなる。
レオンハルトは視線を逸らした。
「……俺は、何もしていない」
「いいえ」
「君をここへ連れてきただけだ」
「それでもです」
エレノアはそう言った。
その言葉が、なぜか深く残った。
◇
その日の夕方。
レオンハルトは執務室にいた。
机の上には大量の書類。
いつもなら何の問題もなく片付けられる仕事だった。
だが今日は、なかなか集中できない。
頭に浮かぶのは。
庭で笑っていたエレノア。
自分の腕の中へ倒れ込んできた身体。
細すぎた腕。
そして。
――公爵様のおかげです。
「……」
レオンハルトはペンを置いた。
「……おかしいな」
最初は、ただの契約だった。
愛するつもりなどなかった。
妻として必要なものを与える。
安全な場所を用意する。
食事を与える。
それだけのつもりだった。
なのに。
彼女が笑うと、嬉しい。
彼女が美味しそうに食べていると、安心する。
欲しいものがあれば、買ってやりたいと思う。
街へ行きたいと言われれば、また連れて行ってやりたいと思う。
そして今日。
転びそうになった彼女を抱き止めた瞬間。
――離したくない。
ほんの一瞬。
確かにそう思った。
「……」
レオンハルトは自分の手を見る。
そこにはもう何もない。
それなのに、エレノアの細い腕の感触だけが残っているような気がした。
「俺は……」
何を考えている?
答えは出ない。
ただ一つだけ。
以前とは違う。
それだけは、はっきりしていた。
◇
その夜。
エレノアはベッドの中で、今日の出来事を思い出していた。
庭を歩いた。
たくさん話をした。
転びそうになったとき、助けてもらった。
「……」
胸元へ手を当てる。
なぜだろう。
公爵様といると、安心する。
そして。
明日も会えたらいいと思う。
「……」
エレノアはその気持ちに、まだ名前をつけられなかった。
ただ。
「明日も、会えるといいな」
そう呟いて、目を閉じた。
同じ頃。
レオンハルトもまた、眠れずにいた。
自分でも理解できない感情を抱えたまま。
二人の距離は、少しずつ。
確実に近づいていた。