氷の公爵様は、愛を知らない令嬢を離してくれない

第十話 それは、嫉妬というらしい

 王都では、春の社交シーズンが始まっていた。

 貴族たちが集まる茶会や夜会が増え、公爵家にも連日のように招待状が届いている。

 その日の朝。

 執務室で書類に目を通していたレオンハルトの前に、セバスチャンが一枚の招待状を置いた。

「旦那様。こちらですが」

「……茶会か」

「はい。王都でも有力な家々が集まる茶会でございます」

 レオンハルトは招待状を開く。

「断っておけ」

「ですが、今回は社交デビューの嬢...

奥様のお披露目も兼ねているようです」

「……」

 レオンハルトの手が止まった。

「エレノアの?」

「はい」

 少し考える。

 エレノアはまだ社交界に出ていない。

 貴族として最低限の礼儀は身につけているものの、華やかな場に慣れているわけではない。

 それに――。

 レオンハルトは眉を寄せた。

 彼女は、人を疑うことを知らない。

 純粋すぎる。

 そんな彼女を、あの場所へ連れて行くことに不安があった。

「……俺だけ出席する」

「それでは、奥様がいつまで経っても社交界へ出られません」

「……」

「それに、正式な公爵夫人としてのお披露目をする予定もございます。その前に少しずつ慣れていただくのもよろしいかと」

「……わかった」

 レオンハルトは招待状を閉じた。

「では、早急に手配いたします」

 セバスチャンは頭を下げる。

 そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。




 ◇

「茶会、ですか?」

 その日の昼。

 エレノアはマリアから話を聞いていた。

「はい。奥様にもぜひ参加していただきたいとのことで」

「何をするのでしょう?」

「お茶を飲んだり、お話をしたり……あとは皆様のお召し物を褒めたり」

「……」

 エレノアは真剣な顔で考え込んだ。

「お茶を飲むだけでよろしいのでしょうか?」

「基本的にはそうですが……」

「では、簡単ですね」

 マリアは苦笑する。

「まあ……お話のほうが少し大変かもしれません」

「何を話せばいいのでしょう?」

「最近あったことなどでいいと思いますよ」

「……」

 エレノアは少し考えて。

「昨日、卵料理を二つ食べました」

「……」

「これは話題になりますか?」

「……奥様」

「はい?」

「とても可愛らしいですが、それは少し違うかもしれません」

「そうですか……」

 エレノアは少し残念そうにした。




 ◇

 茶会当日。

 エレノアは淡い桃色のドレスを身にまとっていた。

「とてもお似合いです」

 マリアが嬉しそうに言う。

「ありがとうございます」

 鏡を見る。

 少し前まで、自分が何を着ているかなど気にしたこともなかった。

 けれど最近は。

 綺麗なものを見ると、少し嬉しい。

 好きな色を選ぶのも楽しい。

「公爵様は、まだでしょうか?」

 ふとエレノアが聞く。

「もうすぐいらっしゃると思いますよ」

「……そうですか」

 その返事を聞いて、エレノアは少しだけ嬉しそうにした。




 ◇

 やがて、レオンハルトが迎えに来た。

「待たせたか?」

「いいえ」

 エレノアが振り返る。

「……」

 レオンハルトは一瞬、言葉を失った。

 淡い桃色のドレス。

 普段より少しだけ華やかに整えられた髪。

 それでも彼女自身の素朴な雰囲気は変わらない。

「……似合っている」

「ありがとうございます」

 エレノアは笑った。

 その笑顔に、レオンハルトはまた目を逸らす。

「行くぞ」

「はい」

 二人は馬車へ乗り込んだ。




 ◇

 茶会の会場へ着くと、多くの貴族たちが集まっていた。

「まあ……あれがアシュフォード公爵様?」

「隣にいるのが奥様ね」

「ずいぶんお若いわ」

 あちこちから視線が集まる。

 エレノアは少しだけレオンハルトを見る。

「皆様、こちらを見ています」

「気にするな」

「はい」

「俺のそばを離れるな」

「わかりました」

 レオンハルトはエレノアの手を取った。

 エレノアは少し驚いたものの、そのまま素直についていく。




 ◇

 しばらくすると、一人の青年が二人のもとへやってきた。

「お久しぶりです、公爵閣下」

「……ああ」

 レオンハルトの返事は短い。

「初めまして、奥様。私はエドワード・ハミルトン伯爵令息です」

「初めまして」

 エレノアが丁寧に頭を下げる。

「お噂は以前から伺っておりました。実際にお会いすると、想像以上に――」

 エドワードが微笑む。


「可愛らしい方ですね」

「……ありがとうございます」

 エレノアは素直に礼を言った。

 レオンハルトの眉が僅かに動く。

「奥様は王都には慣れられましたか?」

「まだあまり」

「それなら、よろしければ後ほど庭園をご案内しましょうか? この屋敷の庭はとても美しいので」

「本当ですか?」

「ええ」

「ぜひ――」

「必要ない」

 低い声が割って入った。

 エレノアがレオンハルトを見る。

「公爵様?」

「俺が案内する」

「ですが、公爵様はお忙しいのでは?」

「今日は忙しくない」

 エドワードが少し困ったように笑う。

「では、閣下がご一緒されるのでしたら――」

「そうする」

 レオンハルトはエレノアの手を取った。

「行くぞ」

「はい」

 二人が離れていく。

 エレノアは振り返って、エドワードへ小さく頭を下げた。

 レオンハルトはそれを見ていた。

 なぜか、面白くない。




 ◇

「公爵様」

「何だ?」

「先ほどの方は、親切な方でしたね」

「……そうか?」

「はい。庭を案内してくださると言っていました」

「俺が案内する」

「はい」

 エレノアは頷いた。

「公爵様が案内してくださるなら、そのほうが嬉しいです」

 レオンハルトの足が止まった。

「……そうか」

「はい」

 それだけ言って、エレノアはまた歩き出す。

 レオンハルトは一歩遅れてついていく。

 胸の奥が、少し軽くなっていた。

 自分でも理由がわからなかった。




 ◇

 茶会が終わる頃。

 エレノアは会場の隅で、別の令嬢たちと話していた。

「まあ、奥様は本当に何もご存じないのですね」

「はい」

「では、社交界のこともこれから?」

「そうだと思います」

「それなら、私たちがお教えしましょうか?」

「ありがとうございます」

 エレノアは楽しそうに話していた。

 少し離れた場所から、レオンハルトはその様子を見ている。

 先ほどの青年が近づいてきた。

「閣下」

「……何だ」

「奥様は随分と楽しそうですね」

「……ああ」

「よろしければ、次の茶会でもお話しさせていただきたいのですが」

 レオンハルトは青年を見る。

「……必要ない」

「え?」

「エレノアには予定がある」

「まだ何も決まっていないようですが」

「今決めた」

「……」

 青年が苦笑する。

「なるほど」

 そう言って去っていった。

 レオンハルトはエレノアへ視線を戻す。

 彼女はまだ令嬢たちと楽しそうに話している。

 その顔を見ていると。

 なぜか、安心する。

 だが同時に。

 他の男が彼女へ近づくことを考えると、胸の奥がざわつく。




 ◇

 帰りの馬車。

 エレノアは窓の外を眺めていた。

「今日は楽しかったです」

「そうか」

「たくさんお話ししました」

「……そうだな」

「皆様、優しかったです」

「そうか」

「公爵様?」

「何だ?」

「少し機嫌が悪いですか?」

「……別に」

「そうですか」

 エレノアはしばらくレオンハルトを見つめた。

「では、どうして怖い顔をされているのですか?」

「……」

 完全に図星だった。

「怖い顔?」

「はい」

「俺はいつもこうだ」

「そうでしたか」

 エレノアは納得した。

 そして少し考えたあと。

「公爵様は、先ほどの方がお嫌いなのですか?」

「……別に嫌いではない」

「では、どうして私が話していたら怒ったのですか?」

「怒っていない」

「そうですか」

 エレノアはまた首を傾げる。

「不思議です」

「何がだ?」

「公爵様のことです」

「……」

「私には、とても優しいのに。ほかの方には少し怖いです」

「……君には必要ないだけだ」

「何がですか?」

「怖がらせる必要がない」

 エレノアはぱちぱちと瞬きをした。

 そして。

「……嬉しいです」

 そう言って笑った。

 レオンハルトは黙り込んだ。






 屋敷へ戻った夜。

 レオンハルトは一人、執務室にいた。

 机の上の書類を眺める。

 だが、文字が頭に入ってこない。

「……」

 今日一日を思い返す。

 エレノアが他の男と話していた。

 笑っていた。

 楽しそうだった。

 それが気に入らなかった。

 自分でも理解できない。

 妻なのだから。

 公爵夫人なのだから。

 守る必要がある。

 そう思っていた。

 だが。

 ――本当に、それだけなのか?

「……」

 レオンハルトは椅子へ深く背を預ける。

 そのとき、セバスチャンが入ってきた。

「旦那様」

「何だ」

「本日の茶会はいかがでしたか?」

「……普通だ」

「そうでございますか」

 セバスチャンは机の上の書類を整理しながら、何気なく尋ねた。

「奥様は楽しそうでございましたね」

「ああ」

「特にハミルトン伯爵令息とお話しされていた時など」

「……」

 レオンハルトの眉が動く。

 セバスチャンは静かに微笑んだ。

「旦那様?」

「……何でもない」

「左様でございますか」

 セバスチャンが部屋を出ていく。

 レオンハルトは再び一人になった。

「……」

 しばらくして。

 ふと、昼間のエレノアの言葉を思い出す。

『公爵様が案内してくださるなら、そのほうが嬉しいです』

 胸の奥が、また温かくなる。

 そして、ふと思った。

 もし明日。

 エレノアが別の男と楽しそうに話していたら。

 自分はどうするだろう。

「……」

 答えは、考えるまでもなかった。

 きっと。

 面白くない。

 その感情を、レオンハルトはまだ知らなかった。

 けれど翌朝。

 セバスチャンからその感情の名前を聞かされることになる。

 ――それが「嫉妬」というものだと。
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