十年前なら、あなたを好きになれたのに。―10歳下の後輩に本気で恋をしました―
十歳下の男
第1話 十歳下の男
「水野さん……私、ちゃんと歩けますかね」
チャペルの扉の前で、新婦が小さく呟いた。
白いウェディングドレス。
長いベール。
扉の向こうからは、柔らかなオルガンの音が聞こえている。
私は少しだけ屈んで、新婦のベールを整えた。
「大丈夫ですよ」
「でも、さっきから足が震えてて……」
「もし転びそうになったら、新郎さんに支えてもらいましょう」
「転んじゃったらどうします?」
不安そうな表情。
私は少し考えてから、笑った。
「そのときは、一生笑える思い出が一つ増えます」
「ふふっ……なんですか、それ」
ようやく新婦が笑う。
よかった。
この瞬間まで、何度経験しても緊張する。
私じゃない。
もちろん新郎新婦の方がずっと緊張している。
それでも、扉が開く直前だけは、私まで胸が締め付けられるような感覚になる。
「水野さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「まだ終わってませんよ」
「そうでした」
「帰るまでが結婚式ですから」
「遠足みたい」
二人で笑った。
やがてスタッフから合図が入る。
私は新婦の父親と目を合わせ、小さく頷いた。
チャペルの扉が、ゆっくりと開いていく。
光が差し込む。
参列者たちが一斉にこちらを振り返った。
新婦は父親の腕に手を添え、一歩を踏み出す。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
これが私の仕事だ。
誰かの人生で、きっと何度も思い返すことになる一日を作る。
ホテル・グランシエル東京。
ここでブライダルプランナーとして働き始めて十一年。
気づけば私は三十四歳になり、今ではブライダル部門の主任なんて肩書までついている。
これまで担当した結婚式の数は、もう正確には覚えていない。
泣いた新婦もいた。
大喧嘩した新郎新婦もいた。
式当日にマリッジブルーになった人もいた。
それでも最後には、ほとんどの人が幸せそうな顔で帰っていく。
その姿を見るのが、私は好きだった。
披露宴まで無事に終わり、新郎新婦を送り出す。
「本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、大切な一日を任せていただいてありがとうございました。末永くお幸せに」
深く頭を下げる。
二人を乗せた車が見えなくなるまで見送ってから、ようやく肩の力を抜いた。
「終わったぁ……」
隣から声がする。
後輩の女性スタッフが大きく伸びをしていた。
「まだ片付け残ってるよ」
「余韻に浸らせてくださいよ、水野主任」
「三十秒だけね」
「短っ」
そんなやり取りをしながらホテルへ戻る。
エレベーターを待っていると、後輩が突然こちらを見た。
「そういえば主任」
「なに?」
「主任って、結婚しないんですか?」
「……またその話?」
「だって主任、絶対モテるじゃないですか」
「はいはい」
「いや、本当に。結婚願望ないんですか?」
エレベーターの到着を知らせる音が鳴った。
扉が開く。
私は乗り込みながら少しだけ考えた。
「毎週誰かの結婚式やってるから、もうお腹いっぱい」
「そんな理由あります?」
「あるの」
「絶対嘘だ」
笑い声がエレベーターの中に響いた。
私も笑った。
結婚したくないわけじゃない。
恋愛に興味がないわけでもない。
長く付き合った人だっていた。
その人との結婚を考えたこともある。
ただ。
二十代の頃に思っていた『いつか』が、いつの間にか三十四歳になっていただけだ。
焦っていないと言えば、たぶん嘘になる。
でも、焦って誰かを好きになれるわけでもない。
だから考えないようにしている。
今は仕事も楽しい。
それでいい。
少なくとも、私はそう思っていた。
「水野主任」
事務所へ戻るなり、部長に呼び止められた。
「はい?」
「今、少しいいか」
「大丈夫です」
「会議室に来てくれ」
何かあっただろうか。
今日の式で大きな問題は起きていない。
頭の中で一日の流れを振り返りながら、部長の後についていく。
会議室の扉を開けると、知らない男性が一人座っていた。
若い。
二十代前半くらいだろうか。
スーツ姿で、胸元にはグランシエル東京の社員証。
営業部。
そこまで読んだところで、男性が立ち上がった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
顔は見たことがあるような気もする。
でも話した記憶はない。
うちのホテルには社員だけでもかなりの人数がいる。
別部署なら珍しいことでもない。
部長が席に着き、私にも座るよう促した。
「水野。かなり大きな婚礼案件が入った」
「婚礼ですか?」
「ああ。まだ正式契約前だから詳しい話はこれからだが、決まればうちとしても今年最大規模になる」
思わず背筋が伸びた。
「招待客は?」
「現時点で三百五十名前後」
「三百五十……」
確かに大きい。
通常の婚礼とは規模が違う。
「それだけじゃない。新郎側が神崎グループの創業家だ」
その名前には聞き覚えがあった。
というより、東京で働いていれば知らない方が難しい。
「神崎グループって……あの?」
「ああ」
部長が頷く。
「ホテルとしても絶対に失敗できない案件だ。婚礼側の責任者は水野に任せたい」
「私が、ですか」
「頼めるか?」
一瞬だけ考える。
でも答えは最初から決まっていた。
「もちろんです」
「助かる。それで、営業側の担当が――」
部長が向かいに座る男性を見る。
「一ノ瀬」
「はい」
男性がもう一度立ち上がった。
そして私を見る。
少しだけ人懐っこさを感じる笑顔だった。
「営業部の一ノ瀬悠です。入社二年目です」
二年目。
ということは。
「二十四歳?」
思わず口に出してしまった。
一ノ瀬くんが少し驚いてから笑う。
「はい。今年二十四です」
十歳下。
部長を見る。
「……この案件を?」
「そういう顔すると思った」
「いえ、別にそういう意味では」
「顔に出てますよ、水野主任」
初対面のくせに、一ノ瀬くんが横から口を挟んだ。
私はゆっくり彼を見る。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「まだ何も言ってないけど?」
「じゃあ、聞かなかったことにします」
……なんだ、この子。
これが、一ノ瀬悠との最初の出会いだった。
このときの私はまだ知らない。
十歳も年下のこの男に振り回されることも。
仕事以外で顔を合わせるようになることも。
そして――。
この男を、本気で好きになる日が来ることも。
「水野さん……私、ちゃんと歩けますかね」
チャペルの扉の前で、新婦が小さく呟いた。
白いウェディングドレス。
長いベール。
扉の向こうからは、柔らかなオルガンの音が聞こえている。
私は少しだけ屈んで、新婦のベールを整えた。
「大丈夫ですよ」
「でも、さっきから足が震えてて……」
「もし転びそうになったら、新郎さんに支えてもらいましょう」
「転んじゃったらどうします?」
不安そうな表情。
私は少し考えてから、笑った。
「そのときは、一生笑える思い出が一つ増えます」
「ふふっ……なんですか、それ」
ようやく新婦が笑う。
よかった。
この瞬間まで、何度経験しても緊張する。
私じゃない。
もちろん新郎新婦の方がずっと緊張している。
それでも、扉が開く直前だけは、私まで胸が締め付けられるような感覚になる。
「水野さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「まだ終わってませんよ」
「そうでした」
「帰るまでが結婚式ですから」
「遠足みたい」
二人で笑った。
やがてスタッフから合図が入る。
私は新婦の父親と目を合わせ、小さく頷いた。
チャペルの扉が、ゆっくりと開いていく。
光が差し込む。
参列者たちが一斉にこちらを振り返った。
新婦は父親の腕に手を添え、一歩を踏み出す。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
これが私の仕事だ。
誰かの人生で、きっと何度も思い返すことになる一日を作る。
ホテル・グランシエル東京。
ここでブライダルプランナーとして働き始めて十一年。
気づけば私は三十四歳になり、今ではブライダル部門の主任なんて肩書までついている。
これまで担当した結婚式の数は、もう正確には覚えていない。
泣いた新婦もいた。
大喧嘩した新郎新婦もいた。
式当日にマリッジブルーになった人もいた。
それでも最後には、ほとんどの人が幸せそうな顔で帰っていく。
その姿を見るのが、私は好きだった。
披露宴まで無事に終わり、新郎新婦を送り出す。
「本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、大切な一日を任せていただいてありがとうございました。末永くお幸せに」
深く頭を下げる。
二人を乗せた車が見えなくなるまで見送ってから、ようやく肩の力を抜いた。
「終わったぁ……」
隣から声がする。
後輩の女性スタッフが大きく伸びをしていた。
「まだ片付け残ってるよ」
「余韻に浸らせてくださいよ、水野主任」
「三十秒だけね」
「短っ」
そんなやり取りをしながらホテルへ戻る。
エレベーターを待っていると、後輩が突然こちらを見た。
「そういえば主任」
「なに?」
「主任って、結婚しないんですか?」
「……またその話?」
「だって主任、絶対モテるじゃないですか」
「はいはい」
「いや、本当に。結婚願望ないんですか?」
エレベーターの到着を知らせる音が鳴った。
扉が開く。
私は乗り込みながら少しだけ考えた。
「毎週誰かの結婚式やってるから、もうお腹いっぱい」
「そんな理由あります?」
「あるの」
「絶対嘘だ」
笑い声がエレベーターの中に響いた。
私も笑った。
結婚したくないわけじゃない。
恋愛に興味がないわけでもない。
長く付き合った人だっていた。
その人との結婚を考えたこともある。
ただ。
二十代の頃に思っていた『いつか』が、いつの間にか三十四歳になっていただけだ。
焦っていないと言えば、たぶん嘘になる。
でも、焦って誰かを好きになれるわけでもない。
だから考えないようにしている。
今は仕事も楽しい。
それでいい。
少なくとも、私はそう思っていた。
「水野主任」
事務所へ戻るなり、部長に呼び止められた。
「はい?」
「今、少しいいか」
「大丈夫です」
「会議室に来てくれ」
何かあっただろうか。
今日の式で大きな問題は起きていない。
頭の中で一日の流れを振り返りながら、部長の後についていく。
会議室の扉を開けると、知らない男性が一人座っていた。
若い。
二十代前半くらいだろうか。
スーツ姿で、胸元にはグランシエル東京の社員証。
営業部。
そこまで読んだところで、男性が立ち上がった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
顔は見たことがあるような気もする。
でも話した記憶はない。
うちのホテルには社員だけでもかなりの人数がいる。
別部署なら珍しいことでもない。
部長が席に着き、私にも座るよう促した。
「水野。かなり大きな婚礼案件が入った」
「婚礼ですか?」
「ああ。まだ正式契約前だから詳しい話はこれからだが、決まればうちとしても今年最大規模になる」
思わず背筋が伸びた。
「招待客は?」
「現時点で三百五十名前後」
「三百五十……」
確かに大きい。
通常の婚礼とは規模が違う。
「それだけじゃない。新郎側が神崎グループの創業家だ」
その名前には聞き覚えがあった。
というより、東京で働いていれば知らない方が難しい。
「神崎グループって……あの?」
「ああ」
部長が頷く。
「ホテルとしても絶対に失敗できない案件だ。婚礼側の責任者は水野に任せたい」
「私が、ですか」
「頼めるか?」
一瞬だけ考える。
でも答えは最初から決まっていた。
「もちろんです」
「助かる。それで、営業側の担当が――」
部長が向かいに座る男性を見る。
「一ノ瀬」
「はい」
男性がもう一度立ち上がった。
そして私を見る。
少しだけ人懐っこさを感じる笑顔だった。
「営業部の一ノ瀬悠です。入社二年目です」
二年目。
ということは。
「二十四歳?」
思わず口に出してしまった。
一ノ瀬くんが少し驚いてから笑う。
「はい。今年二十四です」
十歳下。
部長を見る。
「……この案件を?」
「そういう顔すると思った」
「いえ、別にそういう意味では」
「顔に出てますよ、水野主任」
初対面のくせに、一ノ瀬くんが横から口を挟んだ。
私はゆっくり彼を見る。
「一ノ瀬くん」
「はい」
「まだ何も言ってないけど?」
「じゃあ、聞かなかったことにします」
……なんだ、この子。
これが、一ノ瀬悠との最初の出会いだった。
このときの私はまだ知らない。
十歳も年下のこの男に振り回されることも。
仕事以外で顔を合わせるようになることも。
そして――。
この男を、本気で好きになる日が来ることも。