夜の庭

4節

水疱瘡騒ぎがようやく収まったメイフェアのグロブナー屋敷で、エリザベスは今夜、義理の母と行くオペラに着ていくガウンに頭を悩ませていた。父の喪があけてもうだいぶ経つが、シルヴィに作ってもらった舞踏会用のドレスを着ていく気には到底なれなかった。オペラの後に、レイディ・オリヴィアの古い友人である、フィッツハーバート伯のところへ寄るとも言われている。やはり深い紺色のシルクを着ていこう。エリザベスがそう言うと、ベネは渋い顔をした。決して派手とはいえないそのドレスは、音楽会でも舞踏会でも目立たないこと間違いなく、アクセサリをつけて頭をきちんとしなければメイドと間違われかねない代物だった。義理の母親との気の進まない外出にはもってこいかもしれないが。

 玄関ホールで義理の母を待っていたエリザベスを一目見るなり、レイディ・オリヴィアはため息をついた。
「なんて地味な娘だろうね。元が悪いわけでもないのに。ダイアナとは正反対だわ」
その言葉はエリザベスの心臓を刺すようだった。当然のことだ。口にすることはないが誰もが心の中でダイアナと自分を比べている。あのロンドンきっての伊達男の妻がこの地味な女。レイディ・オリヴィアは思ったことを口にしたまでた。けれど、自分の父は亡くなってまだ一年なのだから、言い訳が立たないわけではない。夫を亡くして何年も経つ女王陛下でさえそうなのだから。しかしエリザベスはレイディ・オリヴィアの言うことに何も言わず、馬車に乗った。

 ハー・マジェスティ劇場にはグロブナー家が年間で借り切っている桟敷席がある。オリヴィアは昔、まだ夫がいたときに何度もこの劇場へ足を運んでいた。立派なホールの入り口をくぐり、知り合いに会釈しながらレイディ・オリヴィアは懐かしい赤じゅうたんを進んでいく。彼女が来たことがまるでさざなみのように劇場の中を伝わっていくのがエリザベスには良くわかった。オリヴィアの夫であった先代のロード・グロブナーはどれほど影響力の大きい人間だったのだろう。エリザベスはオリヴィアの数歩後ろを歩きながら人々の様子を窺い見た。

「レイディ・オリヴィア。なんてめずらしい」
手の込んだ刺繍の入った帽子をつけ、上等のシルクのレースを上品にあしらったガウンの年配の婦人がオリヴィアをみつけてそばにやってきた。ガウンと同じ色の扇子で自分をあおぐ気取った様子に、エリザベスは何か冷たいものを感じた。
「グールド伯爵夫人。お久しぶり」
オリヴィアはファーストネームを呼ばなかったが静かに礼を返した。エリザベスもそれにならった。
「ロンドンへ来ていらっしゃるなんて、聞いていませんでしたわ。あら? そちらはもしかして噂のロード・シルヴィの新しい奥様?」
新しい奥様。確かに自分は新しい奥様だ。けれど、噂の? 何が噂になっているの……?
「ええ。エリザベスです。エリザベス。こちらはグールド伯爵夫人」

はじめましてとエリザベスは正式な礼をした。グールド伯爵夫人も同じように返した。
「エリザベス、とおよびしても良いかしら? いつロンドンへ? ご主人と一緒にパリにいらっしゃるのかと思っていましたわ」
「先月の終わりです」

パリ――夫はフランスにいるのか。エリザベスはこのことを他人に訊ねるようなことはしなかった。

頭のてっぺんからつま先まで値踏みするような視線。エリザベスは自分が緊張しているのがわかった。廊下にいる人々の視線もいっせいにこちらを向いていたからだ。
「そう。ねぇ、オリヴィア。エリザベスのガウンはこちらで作らせたものではないの? ロード・シルヴィがこんな地味なものをお勧めになるなんて。この方、思ったほど陽に焼けていらっしゃらないのね。サウスハンプトンなんて田舎からいらっしゃったってお聞きしてたから。実はこの間、そちらのメイフェアのお屋敷にいたっていう庭師がうちの執事の紹介で雇って欲しいって来られましたの。新しい奥様は庭を畑のようにしたいので、自分とは趣味が合わないと言って。だからどんなに健康的な運動をされてきたのかお話をお聞きしようと思っていましたのよ。最近では若い女性も運動するべきだと政府も言っていますしね」

エリザベスは胸を刺されたような気がした。話しているのはグールド伯爵夫人だけだったが、廊下にいる全ての人間が自分の方を向いてひそひそ話をしている。自分だけが辱められるのは別にかまわない。今後、話をしなければそれでよいのだ。けれど、義理の母の前でこんな言われ方をするなんて……ロード・シルヴィはこのことをどう思うだろう。

しかし、オリヴィアは質問には答えずに言った。
「あなたの好きなファッションプレートはグロウヴォーグかしら? アグネス。その帽子とドレスのセット、バーミンガムでも人気があったのよ。同じものを三回は見たわ」

アグネス・グールドは何やらつぶやいてエリザベスをにらみつけ、そそくさとその場を去って言った。

「いけ好かない女性だけれど、アグネスは昔からの知り合いです。あまりおつむのいい方ではないので、相手にしないのが一番」
オリヴィアはエリザベスにそう言って、案内の導くままグロブナー家の借りている桟敷席へ入っていった。


オペラはすばらしかった。これまでに見たどのステージよりも良かった。エリザベスはサウスハンプトンのような田舎に住んでいたにしては、芝居もオペラも良く見ているが、さすがにロンドンの真ん中で歌っているプリマドンナはすばらしい。ロード・シルヴィはこんな音楽会に飽きるほど来ているだろう。エリザベスはロンドンの目新しいことで心が躍る反面、シルヴィも戻ってこない上に、田舎者と言われた自分がこのロンドンで本当にやっていけるのか、またしても不安でいっぱいになった。

オペラがはねた後、オリヴィアはエリザベスを伴って劇場を出た。その足でオリヴィアの知り合いのフィッツハーバート伯の屋敷へ向かった。フィッツハーバート家はオリヴィアの姉の嫁ぎ先だったが、オリヴィアの姉は既に亡くなっていて、オリヴィアの古い友人だったイサベラがフィッツハーバート伯の後妻となった。そんな話を馬車の中で聞きながら、エリザベスはまた誰か意地悪な人間が出てこなければいいがと不安を募らせていた。

「あなたブリッジは?」
馬車を降りるなりオリヴィアが訊ねた。
「たしなむ程度には」
本当はエリザベスはブリッジは得意だった。トリックの終わったカードから相手の持ち札が何か想像するのが面白いのだが、決してゲームにのめりこむようなことはない。父が生きている間は、他人とゲームをすることを許されていなかったからである。
「今夜はフィッツハーバートの甥がきているかも知れないわ。多分、カードに誘われるでしょう。けど、できればお断りしたほうがいいわね」

義母からどうしてそんな忠告があったのか、フィッツハーバート伯のサロンで、オリヴィアの後ろにずっとついてまわっていたエリザベスはすぐに理解した。フィッツハーバートの甥、テディアス・フィッツハーバートはシルヴィがロンドンにいない間の伊達者代表らしかったが、カードでカモになる人間を探していた。テディに誘われれば大抵の女性はカードテーブルにつく。既婚者だろうが年配だろうがおかまいなしだ。そして、相手にちょっと懐が痛む程度の負け方をさせる。エリザベスたちが誘われる前に、既に二組の若い女性たちが彼らにすっかり負けてしまっているのを、エリザベスは気づかれないように観察していた。

「やぁ、これは。珍しい方がいらっしゃる」
カードテーブルから一旦引き上げて新しいカモを探していたテディ・フィッツハーバートがオリヴィアの傍へやってきた。
「お久しぶりです。レイディ・オリヴィア。伯父は今夜あなたがいらっしゃるなんて一言も言ってませんでしたよ」
テディがオリヴィアの手を取る。黒く波打った髪が美しい。
「そちらの美しい方が、ロード・シルヴィの奥方ですか?」
流れるように自分の方を見たテディ・フィッツハーバートに、エリザベスは目を伏せ、小さく足を折て挨拶した。

「はじめまして」
カードに誘おうとしているテディを見越してその場を立ち去ろうとしたオリヴィアをフィッツハーバートが一歩前へ踏み出して制した。
「レイディ・オリヴィア。僕はポーツマスに友人がいて、お噂をかねがね聞いていたのですよ。何しろ、あのロード・シルヴィを射止めた女性ですからね。非常に頭のいい方だと伺っています」
テディ・フィッツハーバートはエリザベスの方を見て『そうでしょう?』と言わんばかりににやりと笑った。
「さぁ、それはどうかしら。あなたのカードの相手にはならないと思うわね」
「それはやってみなくてはわかりません。それとも、ロード・シルヴィが選ばれた方がブリッジの一回も出来ないと? 大英帝国の表に立つ外交官の奥方が?」
レイディ・オリヴィアは若いフィッツハーバートをじろりとにらんだが、大きくため息をついた。
「あなたには負けましたよ。やれやれ。またおこずかいをせびられるのね。ハンフリーはどこ? あなたのお友達には遠慮していただきますよ」
さっきまで一緒にカードテーブルについていたテディの友人は、テディの伯父、ハンフリー・フィッツハーバート伯にとってかわった。

勝負は三回と決められた。十三トリックを三回。長い夜になりそうだ。一回目はお互いのレベルがわからないので競り無しということになった。レイディ・オリヴィアはもちろんエリザベスと組んだが、トリックが進むにつれ、エリザベスが控えめながらゲームの勘所をきちんとつかんでおり、決して悪いパートナーではないことを感じていた。

一回目の勝負はレイディ・オリヴィアとエリザベスの組が勝った。さっきの女性たちと同じパターン。テディ・フィッツハーバートは初めは絶対に女性に勝たせるのだ。そして次にほんの少しの差をつけて勝つか負けるかして、心をくすぐり、そうして最後に大きく勝ちに出る。おおよそ初級者などはなからフィッツハーバートの相手ではない。ただの戯れか、あるいは金を巻き上げるためのカモでしかない。二回目の勝負はフィッツハーバート組がかろうじて勝った。その勝負が終わりかけのトリックで、エリザベスは自分たちのカードテーブルのすぐ先に、テディ・フィッツハーバートの友人らしき男たちがずっとそこを離れずにいるのに気づいた。テディは彼らの方を向いてはいたが、たまに視線を上げるくらいでそれほど気にしている様子はない……と思ったのだが、テディが落とした視線の先には彼らの足があり、テディと同じタイミングで視線を落としたエリザベスには、足がこつこつと床を小さく叩いているのが目に入った。

ゲームに集中しなければ……

エリザベスはテーブルについているプレイヤーに遅れをとらないよう、知らないふりを続けたが、やはりどうしても気になる。一トリック終わるごとに彼らの足が動くからだ。

男たちからはレイディ・オリヴィアのカードが見えている……?

最後の勝負に入って何度目かのトリックで、エリザベスは業を煮やしてゲームを中断した。

「すみません。こんな途中で……私、少し寒気がしますの。あちらの部屋から風が足元に来るようですわ。できればそのカーテンを引いていただくか、ついたてを広げていただけないでしょうか」
皆の視線が一斉にエリザベスの方を向いた。エリザベスは一瞬、自分がそんなことを言ったことを後悔した。
「確かに少し足元が寒いようだ。クリスティン、そこのついたてを広げてくれ。それから、レイディ・オリヴィアとエリザベスにひざ掛けを」
ハンフリー・フィッツハーバートがメイドに言いつけた。テディは少し驚いた様子でエリザベスを見つめていたが、何事もなかったかのように勝負を続けた。

結局、勝負はレイディ・オリヴィアの組が勝った。エリザベスにはそうして良かったのかどうか疑問が残った。レイディ・オリヴィアはテディがいかさまのようなことをしていたのを知っていて黙っていたのではないかという気がしてきたからだ。しかし今更取り返しはつかない。たかがゲーム。あまり深く考えるのはやめよう。エリザベスはゲームが終わった後、レイディ・オリヴィアが古い友人たちと話をするのを壁際に座って眺めていたが、さっきとは逆に今度は閉め切った部屋がむっとしてきていたので部屋からテラスの方へ移った。

フィッツハーバート邸のテラスの先は小さな庭になっていて、植わっている草木はよく手入れがされていた。ただし、それはこの大都会での話で、テラスから続く生垣もその先にある薔薇のアーチも、等間隔できれいにそろえられたアイリスも、まるで庭師のスケッチブックか、子供の絵本の挿絵からそのまま写したようだった。ロンドンではどこもかしこもこんな庭ばかりだ。確かに美しい。手入れも行き届いている。けれど……


エリザベスは思わず、サウスハンプトンのローウェルの庭を思い出していた。

ローウェルの屋敷の今の庭の原型を作ったのは曾祖母だったらしいが、エリザベスはその曾祖母を知らない。母が手入れをしていた時期はほんの短い間で、その母もエリザベスが物心ついたころから体が弱く、思ったようには出来なかったのだ。エリザベスは自分が遊ぶ広大な庭が好きで、遊んでいるうちに屋敷の庭師たちと仲良くなり、その仕事を覚えた。最初は曾祖母の植えたという花々を何とか枯れさせないようにするだけで精一杯だったが、だんだんやり方がわかってきて、荒れていたところは何年も何年もかかって開墾を続けた。森で植わっていた植物や、鳥の糞から思いがけず生え始めた樹木を大切に育て、自分で作ったと胸を張って言える庭。それが自分の物でなくなるのは一瞬だった。私はその代わりにずっと思いつづけてきたシルヴィのところへ来た。それなのに……

メイフェアのグロブナー邸には狭い庭しかない。ロンドンの真中なのだからそれは当然のことだ。四方を隣の建物に囲まれたまるで箱庭のような庭は、それでもきちんと庭の体裁をとっていた。確かに庭ではあった。他人に言わせれば。

庭の中心に噴水はあったし、人が歩くところには芝が植えられ、その周りをぐるりと背の高い垣根が整然と埋めている。噴水に至るまでには所々にベンチやあずまやが配置され、その周辺には小さな植え込みがいくつかはあった。けれどそれは本当に定規で測られたように正確なのだ。だいたい、植木のあるところに土が見えない。全て白い砂かきれいな丸い石で地面が覆われている。この庭を造った人間は土が嫌いだったのだろうか。エリザベスはその冷たい感じのする庭の端に自分の地面を持とうとしたが、それも叶わなかった。

月明かりだけのテラスで、エリザベスは瞳を閉じた。

私には何もない。庭もないし、シルヴィもいない。一体自分はどうしてこんなところへ来てしまったのだろう?


「そんな顔をされたら、あなたをさらって逃げようかと思ってしまう。あまりにも美し過ぎて。マダム」

声の方を振り返ると自分が立っているテラスの反対側でテディ・フィッツハーバートが燃えるような目で自分の方を見ていた。エリザベスは暗闇の中の、そのぎらぎらした視線に驚いて声をだせなかった。

「ぶしつけなのは承知の上です。けれど、あなたはまるで世の中に絶望した尼僧のようだ。さっきはあんな風に私を追い詰めたくせに」

ああ、怒っているのか。当然だわ。私はカードテーブルについていたあの人たちに周知の事実を、わざわざもったいぶった芝居でやめさせたのだから。エリザベスうつむいてつぶやくように言った。

「余計な事をしましたわ。ただの遊びでしたのに」

エリザベスは視線を持ち直してテディに微笑んだ。しかしテディは真剣な面持ちで言った。

「どうしてそんな風に悲しげに微笑むのです。あなたにそんな顔をさせているのはやはりロード・シルヴィなのですか?」
エリザベスはその名前を聞いてびくんと身体を震わせた。この人、一体何を知っているの?
「図星か。ロード・シルヴィがそんな男だとは思いませんでしたよ。じゃあ、あなたが結婚してからただ、メイフェアのお屋敷に捨て置かれているという方が本当のことだったんだ」
エリザベスはテディの話に驚いて眉をひそめた。
「あなたはロンドンの社交界で噂話がどんなに早く伝わるかご存じないようだ。今週、ロード・シルヴィは今週、パリで新しい奥様と一緒だったと噂になっていたのですよ。一方で、結婚式の後からロード・シルヴィの奥様はロンドンにより外には出ていないとも言われていた。お屋敷から逃げ出した庭師がいたとか。もちろん、あなたは今日ここにいたのだから、そのパリの女性ではない。ロード・シルヴィは有名人だから、新しい奥方がどんな女性なのか、どうやって知り合ったのか、どんな風に生活しているのか、人の噂にはきりがない」

エリザベスは大きくため息をついた。パリで一緒にいた女性……
「私は確かに、ロード・シルヴィの後妻ですし、ロード・シルヴィがあれほどの人物であれば人々の噂にのぼることも仕方の無いことですわ。私自身も田舎者ですから、きっとどこへ出かけても、何か田舎くさいことをしているのでしょう。もう外へ出かけるのはやめます。教えてくださってありがとう」
「そんな。僕はそんなつもりで言ったのでは……それより、なぜロード・シルヴィはあなたを放っておかれているのです。結婚したばかりの新婦がこんな仕打ちを受けるなんてひどいじゃないですか」

「エリザベス」
テディに何と答えようか迷っていたエリザベスを、背後からレイディ・オリヴィアが呼んだ。オリヴィアのところからはテディは見えない。暗がりから声が聞こえるだけだ。
「そろそろお暇しますよ。久しぶりにイサベラにあえて良かったわ」
エリザベスはただ小さくテディに礼をしてテラスを後にし、部屋に戻った。




 帰りの馬車の中、レイディ・オリヴィアは疲れきって眠っており、エリザベスは何も言わずに黙って座っていた。テディアス・フィッツハーバートが言ったことが心の中に重苦しく残っていた。ロード・シルヴィはパリで、自分ではない女性と一緒にいる。自分はきっとロンドンの社交界で面白おかしく語られているだろう。雇っていた庭師に逃げられ、夫にも見捨てられた場違いな女と。

一体このまま、いつまでこうして過ごすの。

エリザベスは馬車の窓に頭を寄せて目を閉じた。
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