夜の庭
5節
翌日は良い天気だった。レイディ・オリヴィアは、バーミンガムの屋敷から付き添ってきたコンパニオンのアビゲイルと、午前中の日課にしている散歩に出ていた。レイディ・オリヴィアが来てからエリザベスの方の日課は全くこなせていなかった。ピアノも弾いていなければ絵も描いていないし、刺繍もしていない。朝食を済ませた後はディケンズを手にリビングのほうへやってきたが、1ページも頭に入っては来なかった。
昨日、フィッツハーバートから聞いたことがエリザベスを果てしなく落ち込ませていた。シルヴィはパリで女性と一緒にいる。男性だから、仕事のついでにそういうこともあるのかもしれない。けど、それは家庭をきちんと守ってのことだ。それともシルヴィは初めからそんなつもりはなかった?
「奥様!」
庭の向こう側からアビゲイルの叫ぶ声が聞こえた。エリザベスが驚いて立ち上がると、続けてレイディ・オリヴィアのうめく声がした。
「騒ぐんじゃありません。私は……」
エリザベスが庭に出るより先に、エヴァンズが外に飛び出していた。ハドソンの代わりに庭木に水をやっているゴードンもどこからか出てきて、声のする方を探した。小さな庭なのに、背の高い垣根は先が全く見えない。エリザベスは何が起こったかわからずにいたが、すぐに彼らはレイディ・オリヴィアを連れて戻ってきた。
アビゲイルによると、前日の疲れのせいか、レイディ・オリヴィアは庭のあずまやの手前に敷いてある石段でつまづいて転んだらしかった。ただころんだだけならまだしも、レイディ・オリヴィアは石段の脇においてあった煉瓦に足をひどく打ちつけていた。
もともと悪くしている足にうちみが重なって、レイディ・オリヴィアの足は午後になって大きく腫れてきた。口にこそ出さなかったが、ひどく痛むに違いない。エヴァンズもエリザベスもロンドンのグロブナー家のかかりつけの医者であるドクター・ブリッジスに診てもらうように勧めたが、レイディ・オリヴィアはドクター・ブリッジスが既にその息子に代替わりしているのを聞いて、絶対に嫌だと言い張った。そして、かかりつけの医者のいるバーミンガムに帰ると言い出した。しかし、その足では立つことさえままならず、レイディ・オリヴィアは結局、痛みが治まるまで寝慣れない客室のベッドで過ごすことになった。
痛みで機嫌の悪くなったレイディ・オリヴィアは手がつけられず、誰彼かまわず悪態をついた。レイディ・オリヴィアのことをよく知らない屋敷の若いメイドはカーテンの開け閉めの音がうるさいと叱られ、行儀のなっていないものはバーミンガムの屋敷で修行してきてもらうと脅されたし、厨房が用意した野菜を裏ごししたスープややわらかいパンプディングなども、ただ転んだだけなのに病人扱いするなと突き返した。庭に出ていたゴードンにさえ、御者がそんな仕事までしなくてよろしい、馬の世話に専念せよとわざわざエヴァンズを呼びつけて言いに行かせた。
持ってこられた食事の皿の並べ方から、ナプキンのたたみ方、レイディ・オリヴィアの並びの廊下の端にある納戸の扉がきぃきぃ音を立てること、果てはエヴァンズの足音まで、とにかく耳に入る音、目に付くもの全てにレイディ・オリヴィアは文句を言った。おかげで屋敷の使用人たちは必要最小限のことでしか関わろうとしなくなった。
バーミンガムの屋敷とは違い、ロンドンでロード・シルヴィに雇われたものも多いので、使用人たちは一斉に不満を持ち始めていた。エリザベスが来てから、いろいろな事件はあってものんびりした感じだった屋敷の中がぴりぴりしている。エリザベスは意を決して普段はあまり降りて行かないようにしていた階下の厨房へ行き、使用人たちを集めて皆の前で少しの間、我慢してくれるように頼んだ。そしてあまりに理不尽だと思われることについては自分に話をするように言った。
この時、一番大変な思いをしていたのはコンパニオンのアビゲイルだった。夜中に何度も水を持って来るように言われたり、肌着がちくちくするのでもう一度洗いなおすように言われたりしている。エリザベスは心配してアビゲイルに屋敷の使用人をできるだけ使うように言ったが、アビゲイル自身はレイディ・オリヴィアのことを良くわかっており、自分は慣れているので大丈夫だと言った。ただ、機嫌の悪いときには奥様はあまりかまわない方が良いと、エリザベスにも執事のエヴァンズにも教えてくれた。
エリザベスは、レイディ・オリヴィアが足を医者に診せないのなら、せめてうちみが少しでも楽になるようにと湿布を作らせた。レイディ・オリヴィアは、そんなべたべたするものを貼り付けるのは嫌だと言って、湿布を貼りに行ったアビゲイルを部屋から追い出した。それを聞いたエリザベスはとうとう怒ってアビゲイルを従え、レイディ・オリヴィアの部屋へ乗り込んだ。他の使用人たちが扉の外で聞き耳を立てているのは知っていたが、エリザベスはそれも気にせず、珍しく大きな毅然とした声でレイディ・オリヴィアに言った。
「つまり、足を治すつもりはないと……そういうことですか」
エリザベスは手に湿布薬を持ったまま、冷たい目つきでレイディ・オリヴィアを見た。レイディ・オリヴィアはベッドの上で一瞬、ぶるっと震えてみせた。
「おお、恐ろしい嫁だこと。私をにらむとは」
エリザベスはそんなことには全くひるまなかった。
「いいですか、レイディ・オリヴィア。湿布を貼るか、お医者様に診ていただくか、どちらかにしてください。足が痛いのは腫れがひどいからです。使用人に当たるのはやめてください。みんな一生懸命やっているんですから。これ以上のわがままには付き合っていられませんわ。さぁ、どちらにしますか」
レイディ・オリヴィアはしぶしぶアビゲイルに湿布薬を貼らせた。その後、ベッドにもぐりこんでエリザベスの悪口をつぶやいていたが、足の痛みが少し和らいだのか、しばらくすると寝入ってしまった。
その日の夕方、エリザベスはレイディ・オリヴィアにローズマリーの濃い目のお茶を入れた。ローズマリーは万能薬だ。なんにでも効くとは言われてはいるが、目に見えるような効果がすぐには得られるわけではない。本当はローウェルの屋敷から持ってきた東洋のハーブを勧めたかったが、そんな得体の知れないものをレイディ・オリヴィアが素直に飲むとも思えなかった。
「そんなお茶を飲ませてどうしようというの。大して効きもしないのに」
ポットを手にしたアビゲイルの脇にいたエリザベスをレイディ・オリヴィアがにらんだ。
「大して効きもしないけれど、気持ちは落ち着きます。そうすればうちの使用人も平和でいられますわ」
「私がベッドにいるからってずいぶん偉そうな口をきくようになったわね」
憎まれ口をききながらもレイディ・オリヴィアはアビゲイルからカップを受け取った。
「聞き分けよくいらっしゃるならこんなことは申しません」
「人を病人扱いして! シルヴィもひどい女にだまされたものだわ」
――シルヴィ――
エリザベスはその名前を聞いてふと黙り込んだ。レイディ・オリヴィアの言ったことなどエリザベスにとっては何でもなかった。しかし、その名前を呼ばれた彼は戻ってくる気などないのかもしれない。パリで誰かと一緒にいる方がいいのかもしれない。それならどうして自分と結婚などしたのか? 一人身で放り出される女貴族などごまんといる。へんな同情心などおこさずに、放っておいてくれれば良かったのに。
一瞬閉じた瞼から涙が落ちそうになった。
エリザベスは突然何も言わずレイディ・オリヴィアの部屋を出た。扉の外では、使用人たちが何食わぬ顔で拭く必要のない窓を拭いていたり、納戸から必要のない食器類を運ぶふりをしていたが、おそらくずっと中を窺っていたのだろう。いきなり部屋を出てきたエリザベスに驚きを隠せなかった。
エリザベスはテラスに出て、自分の好みではないがそれでも緑の香りがいくらかする庭へ降り立った。美しいけれど寂しい庭。きちんと刈り込まれて、一分のすきも無い。庭師のいなくなったその庭は、毎朝ゴードンがそのまねごとをして何とか体裁を保っている。
自分はここでは必要の無い人間だ。
これまでは涙がにじむようなことはあっても、すぐに思い直してもう少しがんばろうと思ってきた。けれど、今日はどうにもできなかった。涙の粒が一つ二つと落ち、止まらなくなる。シルヴィがいなくなってもうひと月は過ぎた。彼は帰ってこないのではないか。自分がここにいる限り。そんな気がしてならない。大きく膨れ上がった疑問が頭を破裂させそうだった。
まるで迷路のような背の高い植え込みの中をエリザベスは泣きながら歩いた。同じところをぐるぐる、涙が収まるまで長いこと歩き続けた。いつまでも陽の落ちない夏の夜を恨みながら、エリザベスはそれでも全てをなんとか自分の中にしまいこんだ。
エリザベスがそうして泣きながら庭を歩く様子を、執事のエヴァンズは二階の廊下の窓からそっと見ていた。そしてパリへ打つ電報の文面を考え始めた。
一週間後、レイディ・オリヴィアはゆっくりではあるが何とか自分で歩けるようになっていた。またバーミンガムで兄の代わりに家の所用を全てこなしているホレイショーがようやく母親を迎えに再びロンドンへやってきた。長い間、難しい母親の世話をさせたことをホレイショーは大変申し訳なく思っているらしかった。レイディ・オリヴィアも足がよくなるにつれ、ひどい駄々をこねることもなくなり、ホレイショーが迎えに来てからはさらにおとなしくなった。
「義姉さんには感心させられました。あの難しい母にまともに立ち向かったのはあなただけですよ」
ホレイショーはやってきた翌日には母親を連れて帰るつもりだった。その日の朝、メイフェアの屋敷の食堂で、エリザベスと朝食を取りながらホレイショーが言った。
エリザベスはその誉め言葉にもただ寂しく微笑んだだけだった。レイディ・オリヴィアの怪我は治ってもシルヴィは……この屋敷の主人は戻ってこない。
以前にもましてエリザベスの沈んだ様子を見ていたホレイショーは、レイディ・オリヴィアをバーミンガムに送り届けたら再びここへ戻ってくると言った。
「ホレイショー。子供じゃないんだし、私は大丈夫よ。それよりお母さまについていて差しあげなくては。結局ロード・シルヴィには会えなかったのだし、きっとお寂しいのでしょう」
「けど義姉さん……」
ホレイショーが食い下がった。少し年は離れているが、ホレイショーは時々ロード・シルヴィと同じ表情になる。ホレイショーの方がもっと柔らかい感じだけれど。
「いいえ。本当に」
エリザベスは微笑をくずさなかった。それが悲しい微笑みに見えるのは誰もが知っていることだった。
その日の午前中にレイディ・オリヴィアはホレイショーとともにバーミンガムへ戻って行った。馬車に乗り込む前、レイディ・オリヴィアは言った。
「怪しいお茶も少しは効いたのかもしれないわね。おかげでやっとバーミンガムに帰れるわ。シルヴィが戻ったら、すぐにバーミンガムに戻るように言っておいて頂戴。近所に嫁のお披露目もしないなんて、なんて息子なの。全く」
後ろについていたホレイショーが笑いをこらえて下を向いている。
「お気をつけて」
エリザベスも静かに笑みを返した。
いろいろな騒動の後、屋敷の中は以前の静けさを取り戻した。エリザベスはたまっていた手紙やメッセージにあらためて目を通して、何通もの返事を書いた。ひととおり必要な仕事が終わると、エリザベスの心の中にはまたぽっかりと大きな穴が口を開けた。
静かな寂しい生活。ロンドンの真中で。
その夜、エリザベスが一人きりの食事を大きなダイニングテーブルに座って食べていると、玄関ホールの呼び鈴が鳴るのが聞こえた。エヴァンズが出て行って、小さな紙切れを一枚持ってあわてた様子で食堂へ戻ってきた。
「奥様。だんな様が帰っていらっしゃいます。今、シェルブールにいらっしゃると」
エリザベスはその電報を受け取り、書かれてある文字を確認した。
「イマ、シェルブールニイル。アス、ユウコクニロンドンニモドル。 シルヴェイナス」
エリザベスは自分の心臓が痛くなるほど高鳴っているのを感じた。エヴァンズから紙を受け取ったときは立っていたが、「シルヴェイナス」というその名前が最後にあるのを見て、力なく食堂の椅子に座り込んだ。
「奥様? 大丈夫ですか」
エヴァンズが驚いて水差しからコップに水を注いで差し出した。
「大丈夫。大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ……」
そうは言ったものの、エリザベスはしばらく椅子から立ち上がれなかった。シルヴィが戻ってくる。この屋敷に……うれしさと不安がいちどきに頭の中を駆け巡った。
彼は自分のことを覚えているだろうか。結婚してここに自分がいることを覚えているのだろうか? ローウェルの屋敷で見せてくれたような、情熱をもう一度自分に向けてくれるだろうか。
エリザベスはその夜、なかなか寝られなかった。レイディ・オリヴィアが戻ってしまったあと、また静かな寂しい生活に戻ると思っていたのに、そうではなくなった。シルヴィが戻ってくる。ずっと心の奥に閉じ込めてきたあの人。やっと普通の結婚生活を送ることができるのだろうか。けれども、心の中にはもう一方で口に出来ない疑念もあった。パリで一緒だったという女性……そういう女性がいるということなのか、それとも仕事上の付き合い? けれど仕事って?
エリザベスははたと思いあたった。シルヴィが何をしているか自分は全く知らない。ただ、外交官というだけで。国の仕事をしているのだということだけ。
きっと自分が知っていても仕方の無いことなのだ。ならば、何も言うまい。彼がここに帰ってきてくれるだけでいい。彼の姿が一目見られるだけで。今まで以上のことを望んだら、それもかなわなくなるかもしれない。エリザベスは胸がつぶれそうに痛かったが、明日はシルヴィに会えるのだと言うそのことを夢にみながら眠りについた。
昨日、フィッツハーバートから聞いたことがエリザベスを果てしなく落ち込ませていた。シルヴィはパリで女性と一緒にいる。男性だから、仕事のついでにそういうこともあるのかもしれない。けど、それは家庭をきちんと守ってのことだ。それともシルヴィは初めからそんなつもりはなかった?
「奥様!」
庭の向こう側からアビゲイルの叫ぶ声が聞こえた。エリザベスが驚いて立ち上がると、続けてレイディ・オリヴィアのうめく声がした。
「騒ぐんじゃありません。私は……」
エリザベスが庭に出るより先に、エヴァンズが外に飛び出していた。ハドソンの代わりに庭木に水をやっているゴードンもどこからか出てきて、声のする方を探した。小さな庭なのに、背の高い垣根は先が全く見えない。エリザベスは何が起こったかわからずにいたが、すぐに彼らはレイディ・オリヴィアを連れて戻ってきた。
アビゲイルによると、前日の疲れのせいか、レイディ・オリヴィアは庭のあずまやの手前に敷いてある石段でつまづいて転んだらしかった。ただころんだだけならまだしも、レイディ・オリヴィアは石段の脇においてあった煉瓦に足をひどく打ちつけていた。
もともと悪くしている足にうちみが重なって、レイディ・オリヴィアの足は午後になって大きく腫れてきた。口にこそ出さなかったが、ひどく痛むに違いない。エヴァンズもエリザベスもロンドンのグロブナー家のかかりつけの医者であるドクター・ブリッジスに診てもらうように勧めたが、レイディ・オリヴィアはドクター・ブリッジスが既にその息子に代替わりしているのを聞いて、絶対に嫌だと言い張った。そして、かかりつけの医者のいるバーミンガムに帰ると言い出した。しかし、その足では立つことさえままならず、レイディ・オリヴィアは結局、痛みが治まるまで寝慣れない客室のベッドで過ごすことになった。
痛みで機嫌の悪くなったレイディ・オリヴィアは手がつけられず、誰彼かまわず悪態をついた。レイディ・オリヴィアのことをよく知らない屋敷の若いメイドはカーテンの開け閉めの音がうるさいと叱られ、行儀のなっていないものはバーミンガムの屋敷で修行してきてもらうと脅されたし、厨房が用意した野菜を裏ごししたスープややわらかいパンプディングなども、ただ転んだだけなのに病人扱いするなと突き返した。庭に出ていたゴードンにさえ、御者がそんな仕事までしなくてよろしい、馬の世話に専念せよとわざわざエヴァンズを呼びつけて言いに行かせた。
持ってこられた食事の皿の並べ方から、ナプキンのたたみ方、レイディ・オリヴィアの並びの廊下の端にある納戸の扉がきぃきぃ音を立てること、果てはエヴァンズの足音まで、とにかく耳に入る音、目に付くもの全てにレイディ・オリヴィアは文句を言った。おかげで屋敷の使用人たちは必要最小限のことでしか関わろうとしなくなった。
バーミンガムの屋敷とは違い、ロンドンでロード・シルヴィに雇われたものも多いので、使用人たちは一斉に不満を持ち始めていた。エリザベスが来てから、いろいろな事件はあってものんびりした感じだった屋敷の中がぴりぴりしている。エリザベスは意を決して普段はあまり降りて行かないようにしていた階下の厨房へ行き、使用人たちを集めて皆の前で少しの間、我慢してくれるように頼んだ。そしてあまりに理不尽だと思われることについては自分に話をするように言った。
この時、一番大変な思いをしていたのはコンパニオンのアビゲイルだった。夜中に何度も水を持って来るように言われたり、肌着がちくちくするのでもう一度洗いなおすように言われたりしている。エリザベスは心配してアビゲイルに屋敷の使用人をできるだけ使うように言ったが、アビゲイル自身はレイディ・オリヴィアのことを良くわかっており、自分は慣れているので大丈夫だと言った。ただ、機嫌の悪いときには奥様はあまりかまわない方が良いと、エリザベスにも執事のエヴァンズにも教えてくれた。
エリザベスは、レイディ・オリヴィアが足を医者に診せないのなら、せめてうちみが少しでも楽になるようにと湿布を作らせた。レイディ・オリヴィアは、そんなべたべたするものを貼り付けるのは嫌だと言って、湿布を貼りに行ったアビゲイルを部屋から追い出した。それを聞いたエリザベスはとうとう怒ってアビゲイルを従え、レイディ・オリヴィアの部屋へ乗り込んだ。他の使用人たちが扉の外で聞き耳を立てているのは知っていたが、エリザベスはそれも気にせず、珍しく大きな毅然とした声でレイディ・オリヴィアに言った。
「つまり、足を治すつもりはないと……そういうことですか」
エリザベスは手に湿布薬を持ったまま、冷たい目つきでレイディ・オリヴィアを見た。レイディ・オリヴィアはベッドの上で一瞬、ぶるっと震えてみせた。
「おお、恐ろしい嫁だこと。私をにらむとは」
エリザベスはそんなことには全くひるまなかった。
「いいですか、レイディ・オリヴィア。湿布を貼るか、お医者様に診ていただくか、どちらかにしてください。足が痛いのは腫れがひどいからです。使用人に当たるのはやめてください。みんな一生懸命やっているんですから。これ以上のわがままには付き合っていられませんわ。さぁ、どちらにしますか」
レイディ・オリヴィアはしぶしぶアビゲイルに湿布薬を貼らせた。その後、ベッドにもぐりこんでエリザベスの悪口をつぶやいていたが、足の痛みが少し和らいだのか、しばらくすると寝入ってしまった。
その日の夕方、エリザベスはレイディ・オリヴィアにローズマリーの濃い目のお茶を入れた。ローズマリーは万能薬だ。なんにでも効くとは言われてはいるが、目に見えるような効果がすぐには得られるわけではない。本当はローウェルの屋敷から持ってきた東洋のハーブを勧めたかったが、そんな得体の知れないものをレイディ・オリヴィアが素直に飲むとも思えなかった。
「そんなお茶を飲ませてどうしようというの。大して効きもしないのに」
ポットを手にしたアビゲイルの脇にいたエリザベスをレイディ・オリヴィアがにらんだ。
「大して効きもしないけれど、気持ちは落ち着きます。そうすればうちの使用人も平和でいられますわ」
「私がベッドにいるからってずいぶん偉そうな口をきくようになったわね」
憎まれ口をききながらもレイディ・オリヴィアはアビゲイルからカップを受け取った。
「聞き分けよくいらっしゃるならこんなことは申しません」
「人を病人扱いして! シルヴィもひどい女にだまされたものだわ」
――シルヴィ――
エリザベスはその名前を聞いてふと黙り込んだ。レイディ・オリヴィアの言ったことなどエリザベスにとっては何でもなかった。しかし、その名前を呼ばれた彼は戻ってくる気などないのかもしれない。パリで誰かと一緒にいる方がいいのかもしれない。それならどうして自分と結婚などしたのか? 一人身で放り出される女貴族などごまんといる。へんな同情心などおこさずに、放っておいてくれれば良かったのに。
一瞬閉じた瞼から涙が落ちそうになった。
エリザベスは突然何も言わずレイディ・オリヴィアの部屋を出た。扉の外では、使用人たちが何食わぬ顔で拭く必要のない窓を拭いていたり、納戸から必要のない食器類を運ぶふりをしていたが、おそらくずっと中を窺っていたのだろう。いきなり部屋を出てきたエリザベスに驚きを隠せなかった。
エリザベスはテラスに出て、自分の好みではないがそれでも緑の香りがいくらかする庭へ降り立った。美しいけれど寂しい庭。きちんと刈り込まれて、一分のすきも無い。庭師のいなくなったその庭は、毎朝ゴードンがそのまねごとをして何とか体裁を保っている。
自分はここでは必要の無い人間だ。
これまでは涙がにじむようなことはあっても、すぐに思い直してもう少しがんばろうと思ってきた。けれど、今日はどうにもできなかった。涙の粒が一つ二つと落ち、止まらなくなる。シルヴィがいなくなってもうひと月は過ぎた。彼は帰ってこないのではないか。自分がここにいる限り。そんな気がしてならない。大きく膨れ上がった疑問が頭を破裂させそうだった。
まるで迷路のような背の高い植え込みの中をエリザベスは泣きながら歩いた。同じところをぐるぐる、涙が収まるまで長いこと歩き続けた。いつまでも陽の落ちない夏の夜を恨みながら、エリザベスはそれでも全てをなんとか自分の中にしまいこんだ。
エリザベスがそうして泣きながら庭を歩く様子を、執事のエヴァンズは二階の廊下の窓からそっと見ていた。そしてパリへ打つ電報の文面を考え始めた。
一週間後、レイディ・オリヴィアはゆっくりではあるが何とか自分で歩けるようになっていた。またバーミンガムで兄の代わりに家の所用を全てこなしているホレイショーがようやく母親を迎えに再びロンドンへやってきた。長い間、難しい母親の世話をさせたことをホレイショーは大変申し訳なく思っているらしかった。レイディ・オリヴィアも足がよくなるにつれ、ひどい駄々をこねることもなくなり、ホレイショーが迎えに来てからはさらにおとなしくなった。
「義姉さんには感心させられました。あの難しい母にまともに立ち向かったのはあなただけですよ」
ホレイショーはやってきた翌日には母親を連れて帰るつもりだった。その日の朝、メイフェアの屋敷の食堂で、エリザベスと朝食を取りながらホレイショーが言った。
エリザベスはその誉め言葉にもただ寂しく微笑んだだけだった。レイディ・オリヴィアの怪我は治ってもシルヴィは……この屋敷の主人は戻ってこない。
以前にもましてエリザベスの沈んだ様子を見ていたホレイショーは、レイディ・オリヴィアをバーミンガムに送り届けたら再びここへ戻ってくると言った。
「ホレイショー。子供じゃないんだし、私は大丈夫よ。それよりお母さまについていて差しあげなくては。結局ロード・シルヴィには会えなかったのだし、きっとお寂しいのでしょう」
「けど義姉さん……」
ホレイショーが食い下がった。少し年は離れているが、ホレイショーは時々ロード・シルヴィと同じ表情になる。ホレイショーの方がもっと柔らかい感じだけれど。
「いいえ。本当に」
エリザベスは微笑をくずさなかった。それが悲しい微笑みに見えるのは誰もが知っていることだった。
その日の午前中にレイディ・オリヴィアはホレイショーとともにバーミンガムへ戻って行った。馬車に乗り込む前、レイディ・オリヴィアは言った。
「怪しいお茶も少しは効いたのかもしれないわね。おかげでやっとバーミンガムに帰れるわ。シルヴィが戻ったら、すぐにバーミンガムに戻るように言っておいて頂戴。近所に嫁のお披露目もしないなんて、なんて息子なの。全く」
後ろについていたホレイショーが笑いをこらえて下を向いている。
「お気をつけて」
エリザベスも静かに笑みを返した。
いろいろな騒動の後、屋敷の中は以前の静けさを取り戻した。エリザベスはたまっていた手紙やメッセージにあらためて目を通して、何通もの返事を書いた。ひととおり必要な仕事が終わると、エリザベスの心の中にはまたぽっかりと大きな穴が口を開けた。
静かな寂しい生活。ロンドンの真中で。
その夜、エリザベスが一人きりの食事を大きなダイニングテーブルに座って食べていると、玄関ホールの呼び鈴が鳴るのが聞こえた。エヴァンズが出て行って、小さな紙切れを一枚持ってあわてた様子で食堂へ戻ってきた。
「奥様。だんな様が帰っていらっしゃいます。今、シェルブールにいらっしゃると」
エリザベスはその電報を受け取り、書かれてある文字を確認した。
「イマ、シェルブールニイル。アス、ユウコクニロンドンニモドル。 シルヴェイナス」
エリザベスは自分の心臓が痛くなるほど高鳴っているのを感じた。エヴァンズから紙を受け取ったときは立っていたが、「シルヴェイナス」というその名前が最後にあるのを見て、力なく食堂の椅子に座り込んだ。
「奥様? 大丈夫ですか」
エヴァンズが驚いて水差しからコップに水を注いで差し出した。
「大丈夫。大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ……」
そうは言ったものの、エリザベスはしばらく椅子から立ち上がれなかった。シルヴィが戻ってくる。この屋敷に……うれしさと不安がいちどきに頭の中を駆け巡った。
彼は自分のことを覚えているだろうか。結婚してここに自分がいることを覚えているのだろうか? ローウェルの屋敷で見せてくれたような、情熱をもう一度自分に向けてくれるだろうか。
エリザベスはその夜、なかなか寝られなかった。レイディ・オリヴィアが戻ってしまったあと、また静かな寂しい生活に戻ると思っていたのに、そうではなくなった。シルヴィが戻ってくる。ずっと心の奥に閉じ込めてきたあの人。やっと普通の結婚生活を送ることができるのだろうか。けれども、心の中にはもう一方で口に出来ない疑念もあった。パリで一緒だったという女性……そういう女性がいるということなのか、それとも仕事上の付き合い? けれど仕事って?
エリザベスははたと思いあたった。シルヴィが何をしているか自分は全く知らない。ただ、外交官というだけで。国の仕事をしているのだということだけ。
きっと自分が知っていても仕方の無いことなのだ。ならば、何も言うまい。彼がここに帰ってきてくれるだけでいい。彼の姿が一目見られるだけで。今まで以上のことを望んだら、それもかなわなくなるかもしれない。エリザベスは胸がつぶれそうに痛かったが、明日はシルヴィに会えるのだと言うそのことを夢にみながら眠りについた。