夜の庭

4節


「エリザベス」

エリザベスは自分の名前を呼ばれて、かけていたショールを胸の前にかき集めた。

「ロミオとジュリエットを演るにはちょっと年を取りすぎたようだが」
シルヴィはそう言ってじっとエリザベスを見ていた。何が言いたいの? 私たちのこと? エリザベスも視線をはずすことが出来ず、シルヴィが考えていることがわからず彼を見つめ返していた。ロード・シルヴィが、こんなに自分を長く見つめているのはなぜ? 疲れていなければきっと、こんな風に普通にはしていられないだろうけど……

エリザベスは長いすに座りなおした。そして無意識に右手の指輪を触っていた。シルヴィは自分の部屋の柵を軽々と飛び越えエリザベスの部屋のバルコニーの下にやってきた。

「こんな年に見合わないことはしたくないが、君を怒らせたままでいるのはいやだから……君に断りもなくレドナップの誘いを断って悪かった。私を許してほしい」
シルヴィはそう言って柵ごしにエリザベスの前に片ひざをついて頭をたれた。エリザベスはどうしたらよいのかわからなくなった。彼をひざまづかせるなんて……エリザベスは思わず柵を越えて自分の手を差し出した。
「お願いですから、こんなことなさらないでください。私は別に……」
シルヴィが顔を上げた。――なんてきれいな瞳なの。昔とちっとも変わっていない。まるで吸い込まれそう……シルヴィをそのままの姿で居させるわけにはいかないので、エリザベスはもう一度シルヴィに立ち上がるようにお願いした。柵の上から差し出した手をシルヴィが掴んで立ち上がった。暖かい手だ。
「君は未開の地に咲く美しい薔薇だ。君を見た男はみんな虜になる」
それを聞いてエリザベスはふっと笑った。
「都会では皆、そんな歯の浮くようなお世辞を言うのですか。それがもし本当なら、私はこんな年まで一人でいませんわ」
「君が一人でいたのは別の理由だろう?」
エリザベスはシルヴィが浮かべているやさしい表情と裏腹な鋭い言葉にはっとした。この人は、一体何を聞いたのだろう? エリザベスはその瞳が語ることを読み取れなかった。

「エリザベス。君が許してくれるなら、明日は遠乗りに出かけたい。馬に少し運動させないと」
このまぶしい笑顔に勝てる人間などいない。エリザベスは顔を上げて微笑み、頷いた。
「どうぞ、行ってらして。退屈していらっしゃるのね。庭仕事ばかり手伝わせたから……西の森には今たくさん水仙が咲いていて、とてもきれいなんですのよ」
シルヴィはちょっと顔をひねった。
「もちろん君も行くのだ」
エリザベスは驚いて固まってしまった。
「どうして私が一人で行くなどと。君が居なければ。だからこうして許しを請いに来た」
「ロード・シルヴィ」
エリザベスはシルヴィの目を見つめた。本当になんてきれいな瞳。
「君のおいたちは君を遊び相手だと思っているんだろう? でも、君の相手は私だ。そのためにきたのだから」
その言葉はエリザベスの心を掴んだが、すぐに思い直した。物ほしそうにしてはいけない。彼が自分を選ぶ理由が見つけられないのに。
「わかりました。では私も参りましょう」
エリザベスはようやく微笑を返した。

シルヴィはエリザベスの指に唇をあて、お休みの挨拶をすると、「少し早いが、6時に」と言い残して、またベランダの柵を乗り越えて自分の部屋へ戻っていった。そのまぶしい白いシャツの後姿を見ながら、エリザベスは大きなため息をついた。

今日、他に何も考えられないほど疲れていて良かったとエリザベスは思った。普通の状態だったら、自分はどうなっていただろう。こんなに落ち着いていられるわけがない。エリザベスは全く集中できない本を持って部屋の中へ戻り、ベッドに入った。昔からずっとそうしていたように、眠りに落ちる少し前、シルヴィが自分を見て微笑むところを頭に思い浮かべるのだ。つい先日、シルヴィがここへ現れる前は、それは昔の若い姿のままで、だんだん色あせていくようだった。しかし彼がここへやってきてからは、それは一遍した。落ち着いた大人の男性としての魅力を振りまいている、心を奪わずにいられないシルヴィ。一体ロンドンではどれほどの女性を悩ませているのだろう。けど今の間だけ、ここにいる間だけは私のもの。エリザベスは幸せだった。

 翌朝、エリザベスはいつもより少しだけ早く起きて屋敷の台所へ行き、そこを取り仕切っているジュリー・ローガンに、二人分のランチを作ってくれるようにたのんだ。ジュリーは意味深な笑みを浮かべたが、三十分後にはバスケットに詰めたランチとワインをエリザベスに手渡した。

6時少し前に、着替えて食堂へ降りて行ったエリザベスは、そこで本当に完璧な乗馬服姿のシルヴィを見つけた。しなやかな皮の鞭を手にしたすらりとした姿のシルヴィは、エリザベスの心臓の鼓動をおかしくした。

「おはよう。エリザベス。いい天気で良かった」
シルヴィの笑顔がまぶしい。
「ええ。本当に」
エリザベスはうつろに答えて、シルヴィのほうをあまり見ないようにして外へ出た。

表に用意されていた馬はエリザベスの馬ではなかった。シルヴィが前日、執事のビッグスに、自分が乗ってきた馬車につないであった二頭を用意してほしいと頼んでいたと言うのだ。エリザベスは乗馬は得意だったが、知らない馬に乗るのは本当は少し気が引けた。ましてシルヴィの馬となればなおさらだ。
「君には悪いが、片方だけと言うわけに行かないのでね」
シルヴィが笑って言うのに、エリザベスは仕方なく、見た目は黒く怖そうだが、おとなしいというカルスス号に乗った。そして、シルヴィが昨日言っていた、馬を少し運動させなければと言うのは、本当のことかもしれないと思った。ローウェルの屋敷にももちろん厩舎はあるが、馬をきちんと扱える馬番がいるかどうか疑われているのだ。馬車につながれていたカルルスとポルックスは馬車馬にはもったいないくらいのアラブ種の立派な兄弟馬だ。知らない土地の知らない馬番に自分の大切な馬を預けられないと思うのも当たり前だろうか。

カルルスはおとなしいがしっかりした馬で、エリザベスが乗った後、首をやさしくさすると、くすぐったそうにブルルと声を上げた。普段はシルヴィが乗っている馬だが、むら気のあるポルックスよりはカルルスの方が乗りやすいだろうと言って譲ってくれたのだ。エリザベスの馬への命令が確実なせいか、カルルスはエリザベスの言うことを良く聞いた。馬と心を通わせ始めると、エリザベスはカルルスに乗っているのがだんだん楽しくなってきた。シルヴィはそれを見て取って、しばらくすると、まるで調教するように馬の走らせ方をエリザベスに指示した。時に早足で、時に全速で、エリザベスはシルヴィとともに馬を走らせた。乗馬がこんなに楽しいものだったなんて! エリザベスは昔、父親に教えてもらったことが無駄になっていないと感じてうれしかった。

西の森の中を半分ほど進んだところで、エリザベスはシルヴィに馬を下りてこのあたりにつないでおきましょうと言った。この先、すぐのところに小さな美しい泉があって、そこでジュリーに作ってもらったランチボックスを広げようと思っていたのだ。森の中は幻想的だった。ひんやりした空気の中、緑の葉陰から洩れる光が、ところどころに地上に差し込んでいる様は、まるで天使が降りてくる舞台のようだ。光が差し込んだ先には、白と青のアイリスや、黄色い水仙、センボンヤリが群生している。
「私がご案内できるのはこういうところしかありません。都会の方が楽しめるかどうかわかりませんが」
エリザベスはシルヴィが退屈していないか心配していた。
「君は自分を低く見積もりすぎだ、エリザベス。都会に住んでいる人間がこういう場所をありがたがらないわけがない。それが美しい女性と一緒なら、なおさらだ」
シルヴィはそう言って、エリザベスが馬から下ろした荷物を持って、自分の腕をエリザベスに差し出した。エリザベスは自分が赤くなったのを多分見られただろうと思いながら、シルヴィの腕に手をかけた。

なんて幸せな時間。これまでの渇ききった生活は一体何だったのだろう? シルヴィが来てから自分の気持ちは一変してしまった。彼が自分に何かしたわけではないし、自分自身も普段の生活を大きく変えたわけではない。それなのに……彼がそばにいるだけで、昔、かなわない恋を毎晩夢に見たあの少女のころに戻るようだ。常に心臓がどきどきして、つまらないことで胸が張り裂けそうになったり、不機嫌になったり、こうしてこの世の幸せを味わったり。

「――ベス? エリザベス?」
シルヴィが自分の名前を呼んだのにエリザベスはぼんやりしていて気づくのが遅れた。シルヴィは立ち止まってエリザベスの方を振り返った。
「君がぼんやりしていると、何を考えているのか知りたくなる。今、何を考えてた?」
「私――」
エリザベスは一瞬、シルヴィの例の瞳に射抜かれて本当のことを言いそうになったが、そんなことを口にすることなどできるわけがなかった。
「言いませんわ。絶対」
エリザベスはにっこり笑って、シルヴィをおいて走り出した。乗馬用のズボンのおかげで、いつもより動き回るのがずっと楽だ。あの堅苦しくて重いコルセットときたら! 本当に女性を縛っておくためのものなのだわ。
「エリザベス!」
何て開放感! 何て幸せ。荷物を持ったシルヴィが、後からゆっくり追いかけてきている。しかし、エリザベスは走るのをやめなかった。走っていると風を感じる。頬を流れる冷たい森の空気が、いつしか自分を包み込んでふわふわと泉のほうへいざなうようだ。このままここでなら、死んでもいい。

 エリザベスがシルヴィにつかまったのは、もう泉のふちにかかるところだった。そこだけ燦燦と陽の光が差し込む深い青の泉のふちで、水しぶきを上げながら二人は子供のようにはしゃいだ。
「このバスケットにワインが入っていなかったら、もっと早くに君を捕まえたのに」
シルヴィはすでにしっかりエリザベスの腕と腰をつかんでいた。珍しく息が切れている。エリザベスはくすくす笑って、捕まえられた後はすっかりシルヴィに身体を任せていた。ここでどんなことがおこっても、誰も知らないし、それはきっと彼と私だけの秘密になるだろう。たとえ、この恋の結果がどうなっても。

二人は木陰に戻って、かばんの中身を明けた。薄いマットを広げて、ジュリーの作ったオレンジピールの入ったパンとワイン、それにローズマリーですばらしい香りがつけられた薄く切ったチキンのローストを分け合った。

「その泉は、私が小さいころに見つけたんです。もちろん、ずっと昔の人は、ここに何があるか知ってる人もいたでしょうけれど」
エリザベスはちょっと得意げに言った。
「じゃあ、ここを知っているのは君だけ?」
「いいえ。ジョンと幼馴染のアリソンとアンドルーは知っています。私が連れてきたから。あ、そうだわ……」
エリザベスは突然立ち上がって泉の反対側の茂みに入って行った。シルヴィもエリザベスの後を追いかけた。

エリザベスは大きなブナ木を何本か見上げながら、探していた小さな木の穴を見つけ出した。そこには毎年、地リスが巣を作るのだ。もう冬眠から覚めているはず。その穴には確かに地リスがいた。まるでエリザベスが来たのを歓迎するように、彼らは2匹、3匹と巣穴の出入りを繰り返していた。
「ほら、ね? いると思ったわ。だってもう春ですもの……」

エリザベスが満面の笑みでシルヴィを振り返った。そのとき、エリザベスには思わぬことが起こった。シルヴィがエリザベスの顔を上げさせ、そっと唇を重ねたのだ。シルヴィの弾力のある唇がエリザベスのそれを捕らえたとき、エリザベスは全く身動きができなくなった。シルヴィの片方の腕はしっかり背中に回されていたし、もう片方の手はエリザベスの頭を支えていた。さっき食べたパンに入っていたオレンジピールとワインのにおいがした。なんていい香り……エリザベスは自分の頭がぐらっと回るような気がしたが、シルヴィが支えてくれているので倒れはしなかった。むしろ、その気持ちよさに思わず少し口を開いた。シルヴィはもちろんそれに応えるように、もっと深くエリザベスの口の中を味わった。シルヴィのやることをこわごわ自分でも少し返してみると、シルヴィはますます激しくエリザベスに迫り、二人はブナの木の下にゆっくり倒れこんだ。しかし、シルヴィがエリザベスの乗馬服の上着のボタンに手をかけたとき、エリザベスは初めてわれに返って身体を硬くし、シルヴィの手首をつかんだ。
それは本当に一瞬のことだった。シルヴィはすぐにエリザベスから離れた。

「すまない。こうせずにいられなかった……」
エリザベスはただ驚いていた。今のは何……? シルヴィがしたことではない。自分の頭の中で何かがはじけたのだ。

エリザベスは言葉を失っていた。
「帰ろう」
シルヴィはそれ以上エリザベスの方を見ずに、マットを広げた場所に戻っていってしまった。エリザベスがようやくシルヴィの後を追って戻った時には、シルヴィはもうバスケットに全てを詰め込み終わっていた。
馬のところへ戻って、屋敷へ帰るまでの間、二人はほとんど言葉を交わさなかった。エリザベスからはとても声がかけられなかった。シルヴィはただ不機嫌なように見えた。自分があんなことをしたから? まるで誘うようなことを……彼は自分をふしだらだと思っただろうか? エリザベスは自分がどういう振る舞いをしたらよかったのかもわからず、自己嫌悪で一杯だった。


 屋敷へ戻った後、エリザベスはシルヴィがすぐに町へ手紙を出しに行くといって出て行った事を知った。彼は夕食の時間にも戻らず、夜遅くに、人目を忍ぶように屋敷へ入った。エリザベスはシルヴィが駆った馬のひづめの音が遠くから聞こえてくるのも知っていたし、玄関の扉が開けられたのも知っていた。けれども、わざわざ自室を出て彼を迎えるようなことはしなかった。もちろん彼はそうしてほしくないに決まっている。結局、この話はだめになるのだろう。エリザベスはぼんやりそんなことを思った。これは夢だった。やはり、彼が自分を選ぶなど、ありえない事だったのだ。
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