来週も、このケーキありますか?
最終話 来週も、このケーキありますか?
数年後の春。
俺は新規開店を迎える店の前に立ち、真新しい看板を見上げていた。白い壁に木目の扉、磨き上げたガラス越しには、朝の光を浴びたケーキが並んでいる。
まだ開店前だというのに、厨房からは焼き菓子の甘い香りが漂っていた。何度も準備してきたはずなのに、今日という日を迎えると胸の奥が落ち着かない。パティスリー・リラで働いていた頃に抱いていた『いつか自分の店を持ちたい』という夢が、今は目の前にある。しかも今日は金曜日。俺がこの店のために考えた特別な新作、ハル・モンテの発売日でもある。
毎日店頭に並べる普通のケーキではない。金曜日だけ作り、金曜日だけ販売する。それだけに、今日を迎えるまで何度も試作を重ねてきた。そんな俺が看板ばかり見上げていると、背中へ聞き慣れた声が飛んできた。
「雄介、まだそこにいるの?」
振り返ると、彼女が紙袋を片手に立っていた。仕事へ向かう前に寄ってくれたらしく、昔と変わらない笑顔を浮かべている。ただ、俺たちの左手には、もう昔とは違うものがある。俺の指には結婚指輪があり、彼女の指にも同じものが光っていた。
今日は、俺にとって特別な一日だ。自分の店を新規開店させるだけではない。春樹の名前を受け継いだケーキを、初めて客へ届ける日でもある。
「看板を見てた」
「朝から何回目?」
「分からない」
「たぶん十回以上だよ」
「そんなに?」
「私が来るまでずっと見てたじゃない」
「……緊張してるんだよ」
「新規開店の日だもんね。それに今日は金曜日」
「そうなんだよ」
「ハル・モンテの発売日でもあるし?」
「分かってるなら言わなくていいだろ」
「だって、雄介が朝からそわそわしてる理由、全部知ってるから」
彼女は笑いながら俺の隣へ並び、看板を見上げてきた。俺も同じように店を眺める。
小さな店だ。大きな厨房があるわけでもないし、席数だって限られている。それでも、俺にとっては何年も追いかけてきた夢を詰め込んだ場所だった。
彼女が隣にいることも、その夢の一部なのだと思う。春樹を失ったあの日から、彼女も俺も、それぞれの時間を歩いてきた。笑えない日もあった。それでも少しずつ前へ進んできた。その先に、この店と今日という日がある。俺は看板から視線を外し、彼女へ向き直った。
「新規開店、おめでとう」
「ありがとう」
「今日から本当に店主だね」
「まぁな」
「じゃあ、記念に写真撮ろう」
「今?」
「今!」
彼女がスマートフォンを取り出し、俺の隣へ並ぶ。シャッター音が朝の商店街に響いた。画面を覗き込むと、俺と彼女の後ろに新しい店の看板が写っている。二人とも少し緊張した顔をしていて、俺は思わず笑ってしまう。
店を開くことが目標だったはずなのに、こうして彼女と写真に収まっていると、それだけではない幸せが胸の中に広がっていく。俺はスマートフォンを返しながら、扉の鍵へ手を伸ばした。
「そろそろ入るか」
「うん」
「今日、仕事は?」
「お休み」
「じゃあ、閉店まで手伝ってもらおうかな」
「そうね、新規開店だもんね」
「閉店まで?」
「夫婦なんだから、それくらいするよ」
その言葉に、俺は少し照れながら笑った。
「そうだったな」
「何、その顔」
「いや、まだたまに実感がない」
「何が?」
「俺たちが夫婦だってこと」
「私は毎朝ちゃんと実感してるけど?」
「そうなのか?」
「だって、毎朝あなたの寝顔見てるし」
「それは実感するところなのか?」
「するよぉー」
彼女の笑い声が店の前に響き、俺も笑いながら鍵を開けた。扉を開けると、焼きたてのタルトの香りが広がり、朝の光が店内へ差し込んでいる。ショーケースには定番のケーキが並び、その中央には今日だけ特別な場所を与えたモンブランがある。栗のクリームを細く絞り、頂上には大きな栗を一粒だけ乗せた。見た目はシンプルだが、味には自信がある。しかも、このケーキには俺自身の思いを込めていた。彼女はショーケースの前まで歩くと、中央のケーキを見つめて足を止めた。
「これがハル・モンテ?」
「ああ」
「今日から発売なんだよね」
「金曜日限定」
「毎週?」
「毎週金曜日だけ」
「じゃあ、明日は?」
「土曜日だから売らない」
「日曜日も?」
「売らない」
「月曜日も?」
「もちろん売らない」
「金曜日まで待つんだ」
「そういうケーキにしたんだね」
彼女は少し笑いながら、もう一度ショーケースの中を覗き込んだ。俺が金曜日限定にしたのには理由がある。
毎日作れるものなら、いつでも食べられる。だが、週に一度しか会えないケーキなら、次の金曜日を楽しみにしてもらえる。そんな時間を、この店で作りたかった。毎週金曜日になると店頭に並び、週末を待つ人が買いに来る。そんな小さな習慣が、この店の名物になればいいと思った。そして何より、俺自身が「来週も作ろう」と思えるケーキにしたかった。
「名前は春樹の『ハル』から取ったんだよね」
「ああ。モンブランだから、山を意味するモンテを合わせた」
「ハル・モンテ……」
「どうかな?」
「綺麗だと思う」
彼女は名前を口の中で確かめるように、もう一度小さく呟いた。その表情を見て、俺は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
春樹の名前をケーキに使うことは、簡単な決断ではなかった。彼女にとって弟の名前は、大切な記憶と同時に、胸の奥に残る痛みでもある。それでも、俺は春樹の名前を悲しい記憶の中だけに置いておきたくなかった。誰かが笑顔で食べるケーキに名前を残すことで、春樹がいた時間を新しい未来へつなげられる気がした。
「春樹の名前を残してくれたんだね」
「うん」
「嬉しい」
「本当に?」
「うん。私、すごく嬉しい」
「なら、作ってよかった」
「春樹も喜ぶかな」
「たぶん最初は文句を言うかもな」
「うふふっ」
「『俺の名前を使うなら、もっと大きいケーキにしてよ』とか言うんじゃないかな」
「言うね」
「だろ?」
「でも、最後には絶対に食べる」
「それもそうだな」
二人で笑った。その笑顔を見ていると、春樹がいなくなった時間も無駄ではなかったのだと思える。悲しみを消したわけではない。ただ、悲しみだけで春樹を思い出さなくなった。笑った顔や、くだらない言葉まで思い出せるようになった。俺はその変化を大切にしたかった。だからハル・モンテは、毎日ではなく金曜日だけ販売する。週に一度、このケーキを楽しみにしてくれる人がいる。その人たちの中に、春樹の名前が少しずつ馴染んでいけばいい。
「じゃあ、最初のお客さんは私」
「妻が最初に買うのか?」
「当然でしょ」
「サービスにするぞ」
「駄目」
「なんで?」
「ちゃんと買いたいの」
「そこまで言う?」
「今日のハル・モンテは特別だから」
「……二個?」
「二個」
「一個は自分用だろ?」
「うん」
「もう一個は?」
「春樹の分」
俺は笑いながらトングを手に取り、二つのハル・モンテを箱へ入れた。彼女は箱を両手で受け取り、少しだけ目を細める。その仕草を見て、俺は今日このケーキを作った意味を改めて感じていた。春樹の名前を残すことは、過去へ戻ることではない。これから先も続く日々の中へ、その名前を一緒に連れていくことなのだ。彼女が笑顔でケーキを受け取ってくれたことが、俺には何より嬉しかった。
「ありがとう、雄介」
「こっちこそ」
「どうして?」
「最初のお客さんになってくれたから」
「じゃあ、お互い様ね」
「あぁ」
開店時間が近づくにつれ、商店街の人通りも増えてきた。店の前で立ち止まり、看板を見る人もいる。俺はエプロンを整え、入口の前に立った。今日は新規開店の日であり、ハル・モンテの最初の発売日でもある。どちらも失敗したくないという気持ちはある。それでも、今さら逃げることなんてできない。俺はここまで来た。あとは、自分の作ったケーキを信じるだけだ。彼女が背中を軽く押してくれた。
「大丈夫」
「分かってる」
「緊張してる?」
「少しな」
「じゃあ、いつも通りでいいよ」
「いつも通り?」
「美味しいケーキを作ればいいの」
俺は笑った。
「それならできる」
「うん。私は知ってる」
扉を開けると、春の風が店内へ流れ込んできた。
「いらっしゃいませ!」
最初のお客さんが入ってくる。ショーケースを眺めながら、中央のモンブランへ目を止めた。
「こちらのモンブランは、金曜日限定商品です。いかがですか?」
「金曜日限定?」
「毎週金曜日だけ販売しています」
「じゃあ、今日しか買えないんですね」
「はい」
「それなら、これを二つください」
「ありがとうございます」
ハル・モンテが初めて客の手へ渡った。箱へ詰めながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分が作ったケーキを、誰かが「今日しか買えないから」と選んでくれた。その事実が嬉しかった。お客さんが店を出ていくと、彼女が隣から小さな声で言った。
「売れたね」
「ああ」
「最初の二個」
「緊張したー」
「顔には出てなかったよ」
「必死だったからな」
「じゃあ、次も頑張って」
「もちろん」
その後も客足は途切れなかった。新規開店の店を見に来た人の中には、ハル・モンテを選んでくれる人も多かった。金曜日だけという珍しさに興味を持つ人もいれば、栗が好きだからと買っていく人もいる。一人ひとりにケーキを渡すたび、俺はこの店を始めてよかったと思った。昼を過ぎる頃には、ハル・モンテの残りがかなり少なくなっていた。
「雄介、あと四つ」
「もうそんなに減った?」
「うん。追加できる?」
「作る」
「手伝う」
「頼む」
厨房へ戻り、俺は新しいモンブランを作り始めた。彼女が栗を準備し、俺がクリームを仕上げる。二人で並んで作業していると、不思議と心が落ち着いた。窓から差し込む午後の光を見ながら、俺はふと春樹のことを考えた。もし今日ここにいたら、きっと大騒ぎしているだろう。
「雄介、また笑ってる」
「春樹くんがいたら、今日の店を見てどうするかなって」
「絶対に騒ぐよ」
「だよな」
「それでハル・モンテを三個くらい食べる」
「四個だろ」
「食べすぎ」
「春樹くんだからな」
「ふふっ」
二人で笑った。春樹の名前を口にしても、今は自然に笑える。そのことが嬉しかった。悲しみが消えたわけではない。それでも、思い出の中には笑った時間もある。だから俺は、これからもハル・モンテを金曜日だけ作り続けようと思った。一週間頑張った人が、金曜日にこのケーキを買って帰る。そんな小さな楽しみの中に、春樹の名前が残っていけばいい。
夕方、最後のハル・モンテが売れた。新規開店の目玉として用意したケーキは、見事に完売した。閉店後の店内には、昼間の賑わいが嘘のような穏やかな時間が流れている。俺は空になったショーケースを眺めながら、長い一日を振り返った。疲れている。それでも、心は不思議と軽かった。来週の金曜日になれば、またハル・モンテを作る。今度は今日より多く作るべきか、それとも今くらいの数にして、売り切れたら終わりにするべきか。そんなことを考えていると、隣から彼女の声がした。
「初日、お疲れさま」
「お前もな。ありがとう」
「楽しかったよ」
「俺も」
「来週も手伝おうかな」
「仕事が終わってから?」
「うん」
「無理しなくていいぞ」
「来たいの」
「……そうか」
「うん」
俺は店内の照明を少し落とし、最後にショーケースだけを残した。そこにはもうハル・モンテはない。全部売れてしまったからだ。空いた場所を見ながら、俺は少しだけ寂しくなった。でも、その寂しささえ嬉しい。来週の金曜日には、またここへハル・モンテを並べられる。そう思えば、空になったショーケースも悪くない景色だった。
「雄介」
「ん?」
「来週も、ハル・モンテある?」
俺は振り返った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に昔の記憶が蘇った。あの頃も、ケーキを前にして同じような言葉を聞いた。あの一言が、俺たちの日々をつないでいった。そして今、俺は自分の店で、妻になった彼女から同じ言葉を聞いている。
「あるよ」
「金曜日だけ?」
「金曜日だけ」
「じゃあ、来週の金曜日に買いに来る」
「待ってる」
「予約していい?」
「もちろん」
「じゃあ、二個」
「また二個?」
「一個は私」
「もう一個は?」
「春樹の分」
「分かった。ちゃんと取っておく」
「ありがとう」
彼女が笑い、俺も笑う。
店の鍵を閉め、二人で商店街を歩き出す。夜の街には、店の明かりが一つずつ灯っている。振り返ると、新規開店したばかりの俺の店が見えた。数年前まで夢だった場所が、今は俺たちの日常になっている。来週の金曜日になれば、また厨房で栗を仕込み、クリームを絞り、ハル・モンテを作る。そして彼女が二個買いに来る。そんな当たり前の未来が、今の俺には何より嬉しかった。
「雄介」
「何?」
「来週の金曜日まで長いね」
「一週間しかないぞ」
「私には長いの」
「じゃあ、毎日何か作っておくよ」
「ハル・モンテは?」
「それは金曜日まで待って」
「分かった」
彼女が俺の腕にそっと手を添える。
「じゃあ、また来週」
「ああ。また来週」
俺はその言葉を聞きながら、自然に笑っていた。昔は「また来週」という言葉が、次に会えることを願うための言葉だった。
今は違う。
来週も会えることを知っている。
来週も一緒に笑えることを知っている。
そして、来週が終われば、その次の週もやって来る。
俺たちは夫婦として、これからもそんな日々を重ねていくのだ。
「明日の朝、六時だからな」
「分かってる。起こしてあげる」
「頼む」
「朝ご飯も作る」
「ありがとう」
「その代わり、来週のハル・モンテは一番に取っておいて」
「もちろん」
「約束だよ」
「あぁ、約束」
春の夜風が、俺たちの間を柔らかく吹き抜けていった。新規開店した店の明かりが、遠くなっていく。
その店には、これから何度も金曜日がやって来る。そのたびに、ハル・モンテを作る。春樹の名前を受け継いだケーキを、誰かの笑顔へ届ける。そして金曜日が来るたび、彼女はきっと言うのだろう。
「ハル・モンテ、二個ください」
俺はそのたびに笑って答える。
「はい。毎度ありがとうございます」
そんな何気ないやり取りが、これから何年も続いていく。そう思いながら、俺は隣を歩く妻の手を握った。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
今度の「また来週」は、別れではない。
次の幸せへ続いていく、二人だけの約束だった。
俺は新規開店を迎える店の前に立ち、真新しい看板を見上げていた。白い壁に木目の扉、磨き上げたガラス越しには、朝の光を浴びたケーキが並んでいる。
まだ開店前だというのに、厨房からは焼き菓子の甘い香りが漂っていた。何度も準備してきたはずなのに、今日という日を迎えると胸の奥が落ち着かない。パティスリー・リラで働いていた頃に抱いていた『いつか自分の店を持ちたい』という夢が、今は目の前にある。しかも今日は金曜日。俺がこの店のために考えた特別な新作、ハル・モンテの発売日でもある。
毎日店頭に並べる普通のケーキではない。金曜日だけ作り、金曜日だけ販売する。それだけに、今日を迎えるまで何度も試作を重ねてきた。そんな俺が看板ばかり見上げていると、背中へ聞き慣れた声が飛んできた。
「雄介、まだそこにいるの?」
振り返ると、彼女が紙袋を片手に立っていた。仕事へ向かう前に寄ってくれたらしく、昔と変わらない笑顔を浮かべている。ただ、俺たちの左手には、もう昔とは違うものがある。俺の指には結婚指輪があり、彼女の指にも同じものが光っていた。
今日は、俺にとって特別な一日だ。自分の店を新規開店させるだけではない。春樹の名前を受け継いだケーキを、初めて客へ届ける日でもある。
「看板を見てた」
「朝から何回目?」
「分からない」
「たぶん十回以上だよ」
「そんなに?」
「私が来るまでずっと見てたじゃない」
「……緊張してるんだよ」
「新規開店の日だもんね。それに今日は金曜日」
「そうなんだよ」
「ハル・モンテの発売日でもあるし?」
「分かってるなら言わなくていいだろ」
「だって、雄介が朝からそわそわしてる理由、全部知ってるから」
彼女は笑いながら俺の隣へ並び、看板を見上げてきた。俺も同じように店を眺める。
小さな店だ。大きな厨房があるわけでもないし、席数だって限られている。それでも、俺にとっては何年も追いかけてきた夢を詰め込んだ場所だった。
彼女が隣にいることも、その夢の一部なのだと思う。春樹を失ったあの日から、彼女も俺も、それぞれの時間を歩いてきた。笑えない日もあった。それでも少しずつ前へ進んできた。その先に、この店と今日という日がある。俺は看板から視線を外し、彼女へ向き直った。
「新規開店、おめでとう」
「ありがとう」
「今日から本当に店主だね」
「まぁな」
「じゃあ、記念に写真撮ろう」
「今?」
「今!」
彼女がスマートフォンを取り出し、俺の隣へ並ぶ。シャッター音が朝の商店街に響いた。画面を覗き込むと、俺と彼女の後ろに新しい店の看板が写っている。二人とも少し緊張した顔をしていて、俺は思わず笑ってしまう。
店を開くことが目標だったはずなのに、こうして彼女と写真に収まっていると、それだけではない幸せが胸の中に広がっていく。俺はスマートフォンを返しながら、扉の鍵へ手を伸ばした。
「そろそろ入るか」
「うん」
「今日、仕事は?」
「お休み」
「じゃあ、閉店まで手伝ってもらおうかな」
「そうね、新規開店だもんね」
「閉店まで?」
「夫婦なんだから、それくらいするよ」
その言葉に、俺は少し照れながら笑った。
「そうだったな」
「何、その顔」
「いや、まだたまに実感がない」
「何が?」
「俺たちが夫婦だってこと」
「私は毎朝ちゃんと実感してるけど?」
「そうなのか?」
「だって、毎朝あなたの寝顔見てるし」
「それは実感するところなのか?」
「するよぉー」
彼女の笑い声が店の前に響き、俺も笑いながら鍵を開けた。扉を開けると、焼きたてのタルトの香りが広がり、朝の光が店内へ差し込んでいる。ショーケースには定番のケーキが並び、その中央には今日だけ特別な場所を与えたモンブランがある。栗のクリームを細く絞り、頂上には大きな栗を一粒だけ乗せた。見た目はシンプルだが、味には自信がある。しかも、このケーキには俺自身の思いを込めていた。彼女はショーケースの前まで歩くと、中央のケーキを見つめて足を止めた。
「これがハル・モンテ?」
「ああ」
「今日から発売なんだよね」
「金曜日限定」
「毎週?」
「毎週金曜日だけ」
「じゃあ、明日は?」
「土曜日だから売らない」
「日曜日も?」
「売らない」
「月曜日も?」
「もちろん売らない」
「金曜日まで待つんだ」
「そういうケーキにしたんだね」
彼女は少し笑いながら、もう一度ショーケースの中を覗き込んだ。俺が金曜日限定にしたのには理由がある。
毎日作れるものなら、いつでも食べられる。だが、週に一度しか会えないケーキなら、次の金曜日を楽しみにしてもらえる。そんな時間を、この店で作りたかった。毎週金曜日になると店頭に並び、週末を待つ人が買いに来る。そんな小さな習慣が、この店の名物になればいいと思った。そして何より、俺自身が「来週も作ろう」と思えるケーキにしたかった。
「名前は春樹の『ハル』から取ったんだよね」
「ああ。モンブランだから、山を意味するモンテを合わせた」
「ハル・モンテ……」
「どうかな?」
「綺麗だと思う」
彼女は名前を口の中で確かめるように、もう一度小さく呟いた。その表情を見て、俺は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
春樹の名前をケーキに使うことは、簡単な決断ではなかった。彼女にとって弟の名前は、大切な記憶と同時に、胸の奥に残る痛みでもある。それでも、俺は春樹の名前を悲しい記憶の中だけに置いておきたくなかった。誰かが笑顔で食べるケーキに名前を残すことで、春樹がいた時間を新しい未来へつなげられる気がした。
「春樹の名前を残してくれたんだね」
「うん」
「嬉しい」
「本当に?」
「うん。私、すごく嬉しい」
「なら、作ってよかった」
「春樹も喜ぶかな」
「たぶん最初は文句を言うかもな」
「うふふっ」
「『俺の名前を使うなら、もっと大きいケーキにしてよ』とか言うんじゃないかな」
「言うね」
「だろ?」
「でも、最後には絶対に食べる」
「それもそうだな」
二人で笑った。その笑顔を見ていると、春樹がいなくなった時間も無駄ではなかったのだと思える。悲しみを消したわけではない。ただ、悲しみだけで春樹を思い出さなくなった。笑った顔や、くだらない言葉まで思い出せるようになった。俺はその変化を大切にしたかった。だからハル・モンテは、毎日ではなく金曜日だけ販売する。週に一度、このケーキを楽しみにしてくれる人がいる。その人たちの中に、春樹の名前が少しずつ馴染んでいけばいい。
「じゃあ、最初のお客さんは私」
「妻が最初に買うのか?」
「当然でしょ」
「サービスにするぞ」
「駄目」
「なんで?」
「ちゃんと買いたいの」
「そこまで言う?」
「今日のハル・モンテは特別だから」
「……二個?」
「二個」
「一個は自分用だろ?」
「うん」
「もう一個は?」
「春樹の分」
俺は笑いながらトングを手に取り、二つのハル・モンテを箱へ入れた。彼女は箱を両手で受け取り、少しだけ目を細める。その仕草を見て、俺は今日このケーキを作った意味を改めて感じていた。春樹の名前を残すことは、過去へ戻ることではない。これから先も続く日々の中へ、その名前を一緒に連れていくことなのだ。彼女が笑顔でケーキを受け取ってくれたことが、俺には何より嬉しかった。
「ありがとう、雄介」
「こっちこそ」
「どうして?」
「最初のお客さんになってくれたから」
「じゃあ、お互い様ね」
「あぁ」
開店時間が近づくにつれ、商店街の人通りも増えてきた。店の前で立ち止まり、看板を見る人もいる。俺はエプロンを整え、入口の前に立った。今日は新規開店の日であり、ハル・モンテの最初の発売日でもある。どちらも失敗したくないという気持ちはある。それでも、今さら逃げることなんてできない。俺はここまで来た。あとは、自分の作ったケーキを信じるだけだ。彼女が背中を軽く押してくれた。
「大丈夫」
「分かってる」
「緊張してる?」
「少しな」
「じゃあ、いつも通りでいいよ」
「いつも通り?」
「美味しいケーキを作ればいいの」
俺は笑った。
「それならできる」
「うん。私は知ってる」
扉を開けると、春の風が店内へ流れ込んできた。
「いらっしゃいませ!」
最初のお客さんが入ってくる。ショーケースを眺めながら、中央のモンブランへ目を止めた。
「こちらのモンブランは、金曜日限定商品です。いかがですか?」
「金曜日限定?」
「毎週金曜日だけ販売しています」
「じゃあ、今日しか買えないんですね」
「はい」
「それなら、これを二つください」
「ありがとうございます」
ハル・モンテが初めて客の手へ渡った。箱へ詰めながら、俺は胸の奥が熱くなるのを感じていた。自分が作ったケーキを、誰かが「今日しか買えないから」と選んでくれた。その事実が嬉しかった。お客さんが店を出ていくと、彼女が隣から小さな声で言った。
「売れたね」
「ああ」
「最初の二個」
「緊張したー」
「顔には出てなかったよ」
「必死だったからな」
「じゃあ、次も頑張って」
「もちろん」
その後も客足は途切れなかった。新規開店の店を見に来た人の中には、ハル・モンテを選んでくれる人も多かった。金曜日だけという珍しさに興味を持つ人もいれば、栗が好きだからと買っていく人もいる。一人ひとりにケーキを渡すたび、俺はこの店を始めてよかったと思った。昼を過ぎる頃には、ハル・モンテの残りがかなり少なくなっていた。
「雄介、あと四つ」
「もうそんなに減った?」
「うん。追加できる?」
「作る」
「手伝う」
「頼む」
厨房へ戻り、俺は新しいモンブランを作り始めた。彼女が栗を準備し、俺がクリームを仕上げる。二人で並んで作業していると、不思議と心が落ち着いた。窓から差し込む午後の光を見ながら、俺はふと春樹のことを考えた。もし今日ここにいたら、きっと大騒ぎしているだろう。
「雄介、また笑ってる」
「春樹くんがいたら、今日の店を見てどうするかなって」
「絶対に騒ぐよ」
「だよな」
「それでハル・モンテを三個くらい食べる」
「四個だろ」
「食べすぎ」
「春樹くんだからな」
「ふふっ」
二人で笑った。春樹の名前を口にしても、今は自然に笑える。そのことが嬉しかった。悲しみが消えたわけではない。それでも、思い出の中には笑った時間もある。だから俺は、これからもハル・モンテを金曜日だけ作り続けようと思った。一週間頑張った人が、金曜日にこのケーキを買って帰る。そんな小さな楽しみの中に、春樹の名前が残っていけばいい。
夕方、最後のハル・モンテが売れた。新規開店の目玉として用意したケーキは、見事に完売した。閉店後の店内には、昼間の賑わいが嘘のような穏やかな時間が流れている。俺は空になったショーケースを眺めながら、長い一日を振り返った。疲れている。それでも、心は不思議と軽かった。来週の金曜日になれば、またハル・モンテを作る。今度は今日より多く作るべきか、それとも今くらいの数にして、売り切れたら終わりにするべきか。そんなことを考えていると、隣から彼女の声がした。
「初日、お疲れさま」
「お前もな。ありがとう」
「楽しかったよ」
「俺も」
「来週も手伝おうかな」
「仕事が終わってから?」
「うん」
「無理しなくていいぞ」
「来たいの」
「……そうか」
「うん」
俺は店内の照明を少し落とし、最後にショーケースだけを残した。そこにはもうハル・モンテはない。全部売れてしまったからだ。空いた場所を見ながら、俺は少しだけ寂しくなった。でも、その寂しささえ嬉しい。来週の金曜日には、またここへハル・モンテを並べられる。そう思えば、空になったショーケースも悪くない景色だった。
「雄介」
「ん?」
「来週も、ハル・モンテある?」
俺は振り返った。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に昔の記憶が蘇った。あの頃も、ケーキを前にして同じような言葉を聞いた。あの一言が、俺たちの日々をつないでいった。そして今、俺は自分の店で、妻になった彼女から同じ言葉を聞いている。
「あるよ」
「金曜日だけ?」
「金曜日だけ」
「じゃあ、来週の金曜日に買いに来る」
「待ってる」
「予約していい?」
「もちろん」
「じゃあ、二個」
「また二個?」
「一個は私」
「もう一個は?」
「春樹の分」
「分かった。ちゃんと取っておく」
「ありがとう」
彼女が笑い、俺も笑う。
店の鍵を閉め、二人で商店街を歩き出す。夜の街には、店の明かりが一つずつ灯っている。振り返ると、新規開店したばかりの俺の店が見えた。数年前まで夢だった場所が、今は俺たちの日常になっている。来週の金曜日になれば、また厨房で栗を仕込み、クリームを絞り、ハル・モンテを作る。そして彼女が二個買いに来る。そんな当たり前の未来が、今の俺には何より嬉しかった。
「雄介」
「何?」
「来週の金曜日まで長いね」
「一週間しかないぞ」
「私には長いの」
「じゃあ、毎日何か作っておくよ」
「ハル・モンテは?」
「それは金曜日まで待って」
「分かった」
彼女が俺の腕にそっと手を添える。
「じゃあ、また来週」
「ああ。また来週」
俺はその言葉を聞きながら、自然に笑っていた。昔は「また来週」という言葉が、次に会えることを願うための言葉だった。
今は違う。
来週も会えることを知っている。
来週も一緒に笑えることを知っている。
そして、来週が終われば、その次の週もやって来る。
俺たちは夫婦として、これからもそんな日々を重ねていくのだ。
「明日の朝、六時だからな」
「分かってる。起こしてあげる」
「頼む」
「朝ご飯も作る」
「ありがとう」
「その代わり、来週のハル・モンテは一番に取っておいて」
「もちろん」
「約束だよ」
「あぁ、約束」
春の夜風が、俺たちの間を柔らかく吹き抜けていった。新規開店した店の明かりが、遠くなっていく。
その店には、これから何度も金曜日がやって来る。そのたびに、ハル・モンテを作る。春樹の名前を受け継いだケーキを、誰かの笑顔へ届ける。そして金曜日が来るたび、彼女はきっと言うのだろう。
「ハル・モンテ、二個ください」
俺はそのたびに笑って答える。
「はい。毎度ありがとうございます」
そんな何気ないやり取りが、これから何年も続いていく。そう思いながら、俺は隣を歩く妻の手を握った。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
今度の「また来週」は、別れではない。
次の幸せへ続いていく、二人だけの約束だった。


