来週も、このケーキありますか?
第05話 また来週 ~高瀬雄介~
金曜日の午後六時を少し過ぎた頃、店の入口にあるベルが鳴る。
俺はレジに立ったまま顔を上げる。ガラス扉の向こうから入ってきたのは、美緒だった。四週間前とは違って、今日は自分の足でしっかり歩いているように見えた。制服も髪型も以前と同じなのに、表情だけが少し違う。
悲しみが消えたわけじゃない。それは俺にも分かる。ただ、悲しみに全部を持っていかれないように、自分で前を向こうとしている。そんな顔だった。俺は思わず笑ってしまう。美緒も俺を見ると、少し照れたように笑った。
その瞬間、胸の奥にあった緊張がほどける。来週も来ると言って、本当に来てくれた。そのことが嬉しかった。俺はいつものようにレジの前で彼女を迎える。ショーケースにはモンブランが並んでいる。今日も一番手前に一つだけ残してある。美緒が来るかもしれないと思って、自然にそうしていた。そんな自分に気づいて、少しだけ恥ずかしくなる。以前なら、毎週同じ客が来ることを楽しみにするなんて考えもしなかった。それでも今は、金曜日の午後六時が待ち遠しい。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、高瀬くん」
「ちゃんと来たな」
「うん。来るって言ったから」
「覚えてたんだ」
「私が言ったことだもん。忘れないよ」
美緒はショーケースの前まで歩いていくと、モンブランを眺めた。その表情を見て、俺は少しだけ息を止める。以前なら、その目には寂しさがあった。今も完全になくなったわけではない。それでも今日は、そこに別のものが混ざっていた。思い出を大切にしながら、今を見ているような目だった。美緒は少し迷ってから、いつものように指を立てる。俺は笑いながら箱を用意した。
「今日も一つ?」
「ううん」
「え?」
「二つください」
「二つ?」
「うん」
俺が思わず聞き返すと、美緒は少し恥ずかしそうに笑った。
「一つは私が食べるの。もう一つは、お母さんと一緒に食べようと思って」
「そっか」
「春樹が好きだったから、お母さんもきっと食べたいと思う」
「うん」
俺はモンブランを二つ箱へ入れる。箱の中でケーキが並ぶ姿を見ていると、不思議な気持ちになってしまった。以前は一つだった。それは病院にいる春樹のためだった。今は二つ。一つは美緒のためで、もう一つは母親と一緒に食べるためだ。春樹がいなくなったことで、モンブランを買う理由は変わった。それでも、春樹が好きだったという事実は変わらない。美緒はその思い出を抱えたまま、自分のためにケーキを買っている。その姿を見ていると、俺も何か変わらなければいけない気がした。
「高瀬くん」
「ん?」
「この前、病院に来てくれたときのモンブランね」
「うん」
「春樹、すごく嬉しそうだった」
「……そうだったな」
「写真、見せてもいい?」
「もちろん」
美緒がスマートフォンを取り出し、画面を見せてくれた。そこにはベッドの上で笑っている春樹が写っていた。口元には少しだけモンブランのクリームがついている。俺が初めて会ったときよりも、ずっと元気そうに見えた。その写真を見つめていると、病室で聞いた「おいしい」という声まで蘇ってくる。胸が少し苦しくなったが、それ以上に嬉しかった。春樹くんの最後の笑顔が、ちゃんとここに残っている。そのことが、何だか救いになる。
「これ、春樹が食べてるところ」
「いい写真だな」
「うん。お母さんが撮ったの」
「春樹くん、笑ってるな」
「そうなの。病院ではあまり笑わなくなってたから、この日はすごく嬉しかった」
「そっか」
「高瀬くんが来てくれたからだよ」
「俺だけじゃないよ。桜井が持っていったからだ」
「でも、高瀬くんが作ってくれたから」
俺は返す言葉がなくなった。何か特別なことをしたわけじゃない。ケーキを作っただけだ。それでも、美緒にとっては意味があったのだろう。そう思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
俺はこれまで、ケーキ屋の仕事をただのアルバイトだと思っていた。学校が終わって店へ来て、ケーキを箱に詰めて、レジを打つ。それを繰り返しているだけだと思っていた。でも、あの日、春樹くんがモンブランを食べて笑った姿を見てから、その考えは少しずつ変わっていた。ケーキそのものが誰かを救えるわけじゃない。それでも、その一口を食べる時間や、誰かと笑う時間を作ることはできる。そんな仕事なら、もう少し続けてみたいと思った。
会計を終えた美緒は、二つのモンブランが入った箱を大切そうに抱えていた。以前と同じ光景なのに、俺にはまったく違って見える。
あの頃の美緒は、箱を持って病院へ急いでいた。春樹に食べてもらうために、少しでも早く届けようとしていた。今は家へ帰るために、ゆっくりと扉へ向かっている。その背中を見ていると、時間がちゃんと進んでいることを感じた。
失ったものは戻らない。
それでも、残った人間の時間まで止まる必要はない。俺自身も、これから先のことを少し考えてみようと思う。高校を卒業したあと、何をするのか。大学へ行くのか、別の道を選ぶのか。まだ答えは出ていない。でも、ケーキを作って誰かの笑顔を見ることが嫌じゃない。むしろ、あの日から少し好きになっている。そんなことを考えていると、扉の前にいた美緒が振り返った。
「高瀬くん」
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「この店、私が卒業してもあるよね?」
「店長に聞かないと分からないな」
「もう!」
美緒が笑う。その笑顔を見て、俺も笑ってしまう。
「でも、たぶんあるよ。ずっとここにあると思う」
「じゃあ、私も卒業してから来てもいい?」
「もちろん」
「高校生じゃなくなっても?」
「お客さんなら誰でも歓迎だよ」
「それなら安心した」
美緒は嬉しそうに箱を抱え直した。俺は、その言葉の意味を考える。卒業すれば、学校で会うこともなくなる。今みたいに毎週店で顔を合わせることも、いつまで続くのか分からない。
それでも、ここへ来れば会える。そう思えるだけで、少しだけ先の未来が明るく感じられた。美緒は扉を開け、外へ出ようとする。夕暮れの商店街には、買い物を終えた人たちが行き交っている。四週間前、俺はその背中を見送ることさえできなかった。
今は違う。
俺はちゃんと美緒の背中を見送れる。悲しみがなくなったわけじゃない。でも、悲しみを抱えたままでも歩いていける。それが分かっただけで、胸の奥が少し軽くなった。
「桜井」
「ん?」
「また来週」
美緒が振り返った。
「うん。また来週」
それだけだった。
特別な約束ではない。大げさな言葉でもない。ただ、次の金曜日にまた会おうという、それだけの言葉だ。
それでも俺には、その言葉が以前とは違って聞こえた。美緒にとって”来週”は、春樹との約束を守るために必要だった時間だった。だからこそ、春樹を失ったあとには、その言葉そのものが怖くなったのだと思う。
でも今は違う。来週になれば、美緒はこの店へ来る。俺はここで働いている。モンブランはショーケースに並んでいる。二人で話して、笑って、それぞれの場所へ帰っていく。その繰り返しが、これからの二人の日常になっていくのだろう。
美緒の姿が商店街の人混みに消えたあと、俺は店内へ戻った。ショーケースのモンブランを眺める。以前なら、毎週一つを取り置きするだけだった。でも今日は違う。残っているモンブランを見ながら、来週はもう少し多く作ってもいいかもしれないと思った。最近は学校帰りの客も増えているし、店長ならきっと喜ぶ。そう考えていると、厨房から店長の声が飛んできた。
「高瀬、いつまでそこで突っ立ってるんだ?」
「すみません。今行きます」
「来週の仕込み、手伝ってくれよ」
「もちろんです」
「モンブラン、少し増やすか?」
「……お願いします」
「何だ、その嬉しそうな顔は」
「……別に」
「はいはい」
俺は笑いながら厨房へ向かった。窓の外では、すっかり暗くなった商店街を人々が歩いている。店内にはケーキの甘い香りが残り、ショーケースの中ではモンブランが小さな照明を受けていた。
春樹くんは、もうここへ来ることはない。
美緒が病院へ向かうこともない。
あの日の時間を、もう一度やり直すこともできない。
それでも、思い出はなくならない。
美緒が今日買った二つのモンブランのうち、一つはきっと春樹くんの話をしながら食べるのだろう。そう思うと、俺も少しだけ嬉しくなる。
そして一週間後、また金曜日が来る。
俺はこの店にいる。
美緒もきっと来る。
そのとき、俺はまた同じ言葉を言うだろう。
「いらっしゃいませ」
美緒はきっと笑ってくれる。そして帰るときには、また言う。
「また来週」
俺も笑って答える。
「うん。また来週」
今度は、その言葉を待つことが怖くない。 来週は、ちゃんと来る。
そして俺たちは、その来週を迎えていく。
俺はレジに立ったまま顔を上げる。ガラス扉の向こうから入ってきたのは、美緒だった。四週間前とは違って、今日は自分の足でしっかり歩いているように見えた。制服も髪型も以前と同じなのに、表情だけが少し違う。
悲しみが消えたわけじゃない。それは俺にも分かる。ただ、悲しみに全部を持っていかれないように、自分で前を向こうとしている。そんな顔だった。俺は思わず笑ってしまう。美緒も俺を見ると、少し照れたように笑った。
その瞬間、胸の奥にあった緊張がほどける。来週も来ると言って、本当に来てくれた。そのことが嬉しかった。俺はいつものようにレジの前で彼女を迎える。ショーケースにはモンブランが並んでいる。今日も一番手前に一つだけ残してある。美緒が来るかもしれないと思って、自然にそうしていた。そんな自分に気づいて、少しだけ恥ずかしくなる。以前なら、毎週同じ客が来ることを楽しみにするなんて考えもしなかった。それでも今は、金曜日の午後六時が待ち遠しい。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、高瀬くん」
「ちゃんと来たな」
「うん。来るって言ったから」
「覚えてたんだ」
「私が言ったことだもん。忘れないよ」
美緒はショーケースの前まで歩いていくと、モンブランを眺めた。その表情を見て、俺は少しだけ息を止める。以前なら、その目には寂しさがあった。今も完全になくなったわけではない。それでも今日は、そこに別のものが混ざっていた。思い出を大切にしながら、今を見ているような目だった。美緒は少し迷ってから、いつものように指を立てる。俺は笑いながら箱を用意した。
「今日も一つ?」
「ううん」
「え?」
「二つください」
「二つ?」
「うん」
俺が思わず聞き返すと、美緒は少し恥ずかしそうに笑った。
「一つは私が食べるの。もう一つは、お母さんと一緒に食べようと思って」
「そっか」
「春樹が好きだったから、お母さんもきっと食べたいと思う」
「うん」
俺はモンブランを二つ箱へ入れる。箱の中でケーキが並ぶ姿を見ていると、不思議な気持ちになってしまった。以前は一つだった。それは病院にいる春樹のためだった。今は二つ。一つは美緒のためで、もう一つは母親と一緒に食べるためだ。春樹がいなくなったことで、モンブランを買う理由は変わった。それでも、春樹が好きだったという事実は変わらない。美緒はその思い出を抱えたまま、自分のためにケーキを買っている。その姿を見ていると、俺も何か変わらなければいけない気がした。
「高瀬くん」
「ん?」
「この前、病院に来てくれたときのモンブランね」
「うん」
「春樹、すごく嬉しそうだった」
「……そうだったな」
「写真、見せてもいい?」
「もちろん」
美緒がスマートフォンを取り出し、画面を見せてくれた。そこにはベッドの上で笑っている春樹が写っていた。口元には少しだけモンブランのクリームがついている。俺が初めて会ったときよりも、ずっと元気そうに見えた。その写真を見つめていると、病室で聞いた「おいしい」という声まで蘇ってくる。胸が少し苦しくなったが、それ以上に嬉しかった。春樹くんの最後の笑顔が、ちゃんとここに残っている。そのことが、何だか救いになる。
「これ、春樹が食べてるところ」
「いい写真だな」
「うん。お母さんが撮ったの」
「春樹くん、笑ってるな」
「そうなの。病院ではあまり笑わなくなってたから、この日はすごく嬉しかった」
「そっか」
「高瀬くんが来てくれたからだよ」
「俺だけじゃないよ。桜井が持っていったからだ」
「でも、高瀬くんが作ってくれたから」
俺は返す言葉がなくなった。何か特別なことをしたわけじゃない。ケーキを作っただけだ。それでも、美緒にとっては意味があったのだろう。そう思うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
俺はこれまで、ケーキ屋の仕事をただのアルバイトだと思っていた。学校が終わって店へ来て、ケーキを箱に詰めて、レジを打つ。それを繰り返しているだけだと思っていた。でも、あの日、春樹くんがモンブランを食べて笑った姿を見てから、その考えは少しずつ変わっていた。ケーキそのものが誰かを救えるわけじゃない。それでも、その一口を食べる時間や、誰かと笑う時間を作ることはできる。そんな仕事なら、もう少し続けてみたいと思った。
会計を終えた美緒は、二つのモンブランが入った箱を大切そうに抱えていた。以前と同じ光景なのに、俺にはまったく違って見える。
あの頃の美緒は、箱を持って病院へ急いでいた。春樹に食べてもらうために、少しでも早く届けようとしていた。今は家へ帰るために、ゆっくりと扉へ向かっている。その背中を見ていると、時間がちゃんと進んでいることを感じた。
失ったものは戻らない。
それでも、残った人間の時間まで止まる必要はない。俺自身も、これから先のことを少し考えてみようと思う。高校を卒業したあと、何をするのか。大学へ行くのか、別の道を選ぶのか。まだ答えは出ていない。でも、ケーキを作って誰かの笑顔を見ることが嫌じゃない。むしろ、あの日から少し好きになっている。そんなことを考えていると、扉の前にいた美緒が振り返った。
「高瀬くん」
「どうした?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「この店、私が卒業してもあるよね?」
「店長に聞かないと分からないな」
「もう!」
美緒が笑う。その笑顔を見て、俺も笑ってしまう。
「でも、たぶんあるよ。ずっとここにあると思う」
「じゃあ、私も卒業してから来てもいい?」
「もちろん」
「高校生じゃなくなっても?」
「お客さんなら誰でも歓迎だよ」
「それなら安心した」
美緒は嬉しそうに箱を抱え直した。俺は、その言葉の意味を考える。卒業すれば、学校で会うこともなくなる。今みたいに毎週店で顔を合わせることも、いつまで続くのか分からない。
それでも、ここへ来れば会える。そう思えるだけで、少しだけ先の未来が明るく感じられた。美緒は扉を開け、外へ出ようとする。夕暮れの商店街には、買い物を終えた人たちが行き交っている。四週間前、俺はその背中を見送ることさえできなかった。
今は違う。
俺はちゃんと美緒の背中を見送れる。悲しみがなくなったわけじゃない。でも、悲しみを抱えたままでも歩いていける。それが分かっただけで、胸の奥が少し軽くなった。
「桜井」
「ん?」
「また来週」
美緒が振り返った。
「うん。また来週」
それだけだった。
特別な約束ではない。大げさな言葉でもない。ただ、次の金曜日にまた会おうという、それだけの言葉だ。
それでも俺には、その言葉が以前とは違って聞こえた。美緒にとって”来週”は、春樹との約束を守るために必要だった時間だった。だからこそ、春樹を失ったあとには、その言葉そのものが怖くなったのだと思う。
でも今は違う。来週になれば、美緒はこの店へ来る。俺はここで働いている。モンブランはショーケースに並んでいる。二人で話して、笑って、それぞれの場所へ帰っていく。その繰り返しが、これからの二人の日常になっていくのだろう。
美緒の姿が商店街の人混みに消えたあと、俺は店内へ戻った。ショーケースのモンブランを眺める。以前なら、毎週一つを取り置きするだけだった。でも今日は違う。残っているモンブランを見ながら、来週はもう少し多く作ってもいいかもしれないと思った。最近は学校帰りの客も増えているし、店長ならきっと喜ぶ。そう考えていると、厨房から店長の声が飛んできた。
「高瀬、いつまでそこで突っ立ってるんだ?」
「すみません。今行きます」
「来週の仕込み、手伝ってくれよ」
「もちろんです」
「モンブラン、少し増やすか?」
「……お願いします」
「何だ、その嬉しそうな顔は」
「……別に」
「はいはい」
俺は笑いながら厨房へ向かった。窓の外では、すっかり暗くなった商店街を人々が歩いている。店内にはケーキの甘い香りが残り、ショーケースの中ではモンブランが小さな照明を受けていた。
春樹くんは、もうここへ来ることはない。
美緒が病院へ向かうこともない。
あの日の時間を、もう一度やり直すこともできない。
それでも、思い出はなくならない。
美緒が今日買った二つのモンブランのうち、一つはきっと春樹くんの話をしながら食べるのだろう。そう思うと、俺も少しだけ嬉しくなる。
そして一週間後、また金曜日が来る。
俺はこの店にいる。
美緒もきっと来る。
そのとき、俺はまた同じ言葉を言うだろう。
「いらっしゃいませ」
美緒はきっと笑ってくれる。そして帰るときには、また言う。
「また来週」
俺も笑って答える。
「うん。また来週」
今度は、その言葉を待つことが怖くない。 来週は、ちゃんと来る。
そして俺たちは、その来週を迎えていく。