光の余白 ―君に触れる日まで―
第1話 まさか
初めてキスをした夜から、理久は少しだけ変わった。
いや。
変わったように見えたのは、美月の方かもしれない。
理久は、近づく。
見つめる。
触れそうになる。
それなのに、最後のところでは必ず引く。
そのたびに、美月は考えてしまう。
父のことを話したからだろうか。
綾瀬教授。
美月の父であり、理久が医師として名前を知っていた人。
その名前を知った日から、理久の優しさは変わらないのに、最後の線だけが遠くなった気がした。
美月は、ソファの端でクッションを抱えたまま、じっと理久を見ていた。
理久はキッチンでグラスに水を注いでいる。
上質なシャツの袖を少しまくり、何でもない顔で立っている。
その姿は相変わらず隙がなくて、腹立たしいくらい絵になった。
本当に、絵になる。
王子と言われるのも分かる。
女性に見られることにも慣れている。
距離の詰め方も、引き方も、笑い方も、全部うまい。
なのに。
なぜ。
美月はクッションを抱きしめる手に、少しだけ力を込めた。
何度か、試した。
試した、という言い方は嫌だ。
別に、誘ったわけではない。
そういうつもりではない。
ただ、いつもより少し短めのスカートを履いた。
肩のラインが少し出る服も着てみた。
普段なら選ばない、柔らかいキャミソールに薄手のカーディガンを合わせたりもした。
何をしているんだろう。
そのたびに思った。
これでは、その辺の女たちと同じではないか。
王子相手に、何をしているのか。
けれど、理久は気づいているくせに、気づかないふりをした。
いや。
気づかないふりではない。
気づいている。
絶対に気づいている。
そのうえで、からかう。
「その服、珍しいね」
「似合ってる」
「困るくらいには」
そんなことを言う。
言うくせに、触れない。
近づく。
見つめる。
美月の逃げ道を塞ぐような言葉を、平然と落としてくる。
でも、最後の線は越えない。
大事にされている。
そう思うべきなのだろう。
けれど、大事にされているのだと分かるほど、余計なことまで考えてしまう。
魅力がないのだろうか。
子どもっぽいのだろうか。
父の名前を知って、扱いに困っているのだろうか。
やっぱり、理久も同じなのだろうか。
父を知った男たちと、同じように。
美月自身ではなく、綾瀬教授の娘として見るようになってしまったのだろうか。
それとも。
美月は、理久を見た。
グラスを持って戻ってくる理久は、相変わらず綺麗だった。
王子の顔。
余裕のある目。
触れそうで、触れない距離感。
まさか。
いや、まさか。
医療用語では、ちゃんと呼び方がある。
けれど、その言葉を理久に向けて考えるのは、あまりにも失礼だった。
失礼なのに。
美月の頭は、勝手に余計な方向へ進んでいく。
でも、医者でも人間だ。
どれほど綺麗な顔をしていても。
どれほど完璧に見えても。
そういう体質や、身体の事情が、ないとは言い切れないのでは。
「美月?」
理久が、ソファの前で足を止めた。
美月の顔を覗き込む。
「……まさか」
「うん?」
美月は、完全に考え込んでいた。
そして、次の瞬間。
心の声が、そのまま落ちた。
「……そういう、体質?」
言った。
言ってしまった。
口に出た。
美月は一拍遅れて、自分の口を両手で押さえた。
遅い。
遅すぎる。
理久と目が合った。
空気が止まる。
理久はグラスを持ったまま、動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
終わった。
完全に終わった。
「……美月」
名前を呼ばれた。
声は、いつも通り穏やかだった。
穏やかなのに、逃げ道がない。
「美月、今のは…?」
「忘れてください」
即答だった。
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
笑うのかと思った。
けれど、違った。
笑う前に、一度だけ、何かを飲み込んだように見えた。
でも、それは一瞬だった。
次に目が合った時、理久はもう、いつもの顔をしていた。
余裕のある、きれいな顔。
「美月」
「はい」
「今の“そういう”って、どういう意味かな」
終わった。
本当に終わった。
美月はクッションを抱えたまま立ち上がった。
「失礼しました」
「待って」
「待てません」
「美月」
「待てません」
二回言った。
けれど、今は数えられている場合ではない。
美月はほとんど逃げるように、リビングを離れた。
背中に、理久の視線を感じる。
追ってくるかもしれない。
そう思った。
けれど、理久は追ってこなかった。
ただ、扉を閉める直前、静かな声だけが届いた。
「美月」
振り返ってはいけない。
振り返ったら、負ける。
「美月が今考えた理由ではないよ」
美月の足が止まった。
それ以上、理久は何も言わなかった。
だから余計に、困った。
寝室の扉を閉める。
背中を預ける。
そのまま、クッションに顔を埋めた。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
よりによって、何を言ったのか。
疑いたかったわけではない。
理久を傷つけたかったわけでもない。
ただ、分からなかった。
理久は優しい。
近づく。
見つめる。
逃げ道を塞ぐ。
それなのに、最後のところでは必ず引く。
自分だけが意識しているみたいで、恥ずかしかった。
悔しかった。
だから、余計な理由を探した。
美月が今考えた理由ではないよ。
理久の声が、耳に残っている。
否定された。
けれど、答えは教えてもらえなかった。
美月はクッションを抱きしめた。
聞きたい。
でも、聞きたくない。
聞いたら負けだと思う。
けれど、聞かなくても負けている気がする。
全く、なんて男だ。
理久が手を出さないのは、手を出したくないからではない。
たぶん、何かを待っている。
そして美月は、それに気づき始めている。
その事実が、何より腹立たしかった。
いや。
変わったように見えたのは、美月の方かもしれない。
理久は、近づく。
見つめる。
触れそうになる。
それなのに、最後のところでは必ず引く。
そのたびに、美月は考えてしまう。
父のことを話したからだろうか。
綾瀬教授。
美月の父であり、理久が医師として名前を知っていた人。
その名前を知った日から、理久の優しさは変わらないのに、最後の線だけが遠くなった気がした。
美月は、ソファの端でクッションを抱えたまま、じっと理久を見ていた。
理久はキッチンでグラスに水を注いでいる。
上質なシャツの袖を少しまくり、何でもない顔で立っている。
その姿は相変わらず隙がなくて、腹立たしいくらい絵になった。
本当に、絵になる。
王子と言われるのも分かる。
女性に見られることにも慣れている。
距離の詰め方も、引き方も、笑い方も、全部うまい。
なのに。
なぜ。
美月はクッションを抱きしめる手に、少しだけ力を込めた。
何度か、試した。
試した、という言い方は嫌だ。
別に、誘ったわけではない。
そういうつもりではない。
ただ、いつもより少し短めのスカートを履いた。
肩のラインが少し出る服も着てみた。
普段なら選ばない、柔らかいキャミソールに薄手のカーディガンを合わせたりもした。
何をしているんだろう。
そのたびに思った。
これでは、その辺の女たちと同じではないか。
王子相手に、何をしているのか。
けれど、理久は気づいているくせに、気づかないふりをした。
いや。
気づかないふりではない。
気づいている。
絶対に気づいている。
そのうえで、からかう。
「その服、珍しいね」
「似合ってる」
「困るくらいには」
そんなことを言う。
言うくせに、触れない。
近づく。
見つめる。
美月の逃げ道を塞ぐような言葉を、平然と落としてくる。
でも、最後の線は越えない。
大事にされている。
そう思うべきなのだろう。
けれど、大事にされているのだと分かるほど、余計なことまで考えてしまう。
魅力がないのだろうか。
子どもっぽいのだろうか。
父の名前を知って、扱いに困っているのだろうか。
やっぱり、理久も同じなのだろうか。
父を知った男たちと、同じように。
美月自身ではなく、綾瀬教授の娘として見るようになってしまったのだろうか。
それとも。
美月は、理久を見た。
グラスを持って戻ってくる理久は、相変わらず綺麗だった。
王子の顔。
余裕のある目。
触れそうで、触れない距離感。
まさか。
いや、まさか。
医療用語では、ちゃんと呼び方がある。
けれど、その言葉を理久に向けて考えるのは、あまりにも失礼だった。
失礼なのに。
美月の頭は、勝手に余計な方向へ進んでいく。
でも、医者でも人間だ。
どれほど綺麗な顔をしていても。
どれほど完璧に見えても。
そういう体質や、身体の事情が、ないとは言い切れないのでは。
「美月?」
理久が、ソファの前で足を止めた。
美月の顔を覗き込む。
「……まさか」
「うん?」
美月は、完全に考え込んでいた。
そして、次の瞬間。
心の声が、そのまま落ちた。
「……そういう、体質?」
言った。
言ってしまった。
口に出た。
美月は一拍遅れて、自分の口を両手で押さえた。
遅い。
遅すぎる。
理久と目が合った。
空気が止まる。
理久はグラスを持ったまま、動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
終わった。
完全に終わった。
「……美月」
名前を呼ばれた。
声は、いつも通り穏やかだった。
穏やかなのに、逃げ道がない。
「美月、今のは…?」
「忘れてください」
即答だった。
理久は、ほんの少しだけ目を細めた。
笑うのかと思った。
けれど、違った。
笑う前に、一度だけ、何かを飲み込んだように見えた。
でも、それは一瞬だった。
次に目が合った時、理久はもう、いつもの顔をしていた。
余裕のある、きれいな顔。
「美月」
「はい」
「今の“そういう”って、どういう意味かな」
終わった。
本当に終わった。
美月はクッションを抱えたまま立ち上がった。
「失礼しました」
「待って」
「待てません」
「美月」
「待てません」
二回言った。
けれど、今は数えられている場合ではない。
美月はほとんど逃げるように、リビングを離れた。
背中に、理久の視線を感じる。
追ってくるかもしれない。
そう思った。
けれど、理久は追ってこなかった。
ただ、扉を閉める直前、静かな声だけが届いた。
「美月」
振り返ってはいけない。
振り返ったら、負ける。
「美月が今考えた理由ではないよ」
美月の足が止まった。
それ以上、理久は何も言わなかった。
だから余計に、困った。
寝室の扉を閉める。
背中を預ける。
そのまま、クッションに顔を埋めた。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
よりによって、何を言ったのか。
疑いたかったわけではない。
理久を傷つけたかったわけでもない。
ただ、分からなかった。
理久は優しい。
近づく。
見つめる。
逃げ道を塞ぐ。
それなのに、最後のところでは必ず引く。
自分だけが意識しているみたいで、恥ずかしかった。
悔しかった。
だから、余計な理由を探した。
美月が今考えた理由ではないよ。
理久の声が、耳に残っている。
否定された。
けれど、答えは教えてもらえなかった。
美月はクッションを抱きしめた。
聞きたい。
でも、聞きたくない。
聞いたら負けだと思う。
けれど、聞かなくても負けている気がする。
全く、なんて男だ。
理久が手を出さないのは、手を出したくないからではない。
たぶん、何かを待っている。
そして美月は、それに気づき始めている。
その事実が、何より腹立たしかった。