光の余白 ―君に触れる日まで―

第2話 待つ理由

桐谷がその違和感に気づいたのは、二杯目のグラスが半分ほど空いた頃だった。


理久は、いつも通りに見えた。

店を選び、席に着き、何でもない顔でグラスを傾ける。

話す内容も普段と大して変わらない。

病院のこと。

学会のこと。

医局のくだらない噂話。

けれど、どこか妙だった。

機嫌が悪いわけではない。

怒っているわけでもない。

ただ、いつもの余裕の奥に、微妙な引っかかりがある。

桐谷はしばらく黙って見ていたが、とうとう耐えきれなくなった。

「お前、今日ちょっと変だな」

理久はグラスを置いた。

「そう?」

「そう。いつもの王子の皮はかぶってるけど、中身がちょっと面倒くさい顔してる」

「ひどい言い方だね」

「当たってるだろ」

理久は否定しなかった。

桐谷は、その反応だけでだいたい察した。

「綾瀬か?」

「なんでそうなるの」

「お前がそんな顔する理由、他にあるか?」

理久は小さく息を吐いた。

桐谷は軽く笑う。

「何。喧嘩でもした?」

「喧嘩ではないよ」

「じゃあ何」

理久は少し黙った。

言うか言わないか、ほんの一瞬だけ迷ったように見えた。

その時点で、桐谷はかなり面白くなっていた。

理久が迷う話題など、だいたいろくでもない。

「……美月に、変な誤解をされた」

「変な?」

理久は少し黙った。

それから、昨夜のことを短く話した。

美月が何を考えて、何を口にしてしまったのか。

聞き終えた桐谷は、三秒だけ黙った。

そして、吹き出した。

「っ、はは……! いや、それは無理だろ」

「笑いすぎ」

「笑うだろ。あの綾瀬が? お前に?」

「正確には、考えていたことが口から漏れた感じだと思う」

「余計面白いわ」

理久はグラスを持ち上げた。

笑われることは分かっていた。

分かっていたが、やはり面白くはない。

「で?」

桐谷は、まだ笑いを残したまま理久を見た。

「何をそんなに止まってるんだよ」

理久はすぐには答えなかった。

グラスの中で、氷が小さく鳴る。

「美月から、父親のことを聞いた」

「父親?」

「綾瀬教授」

桐谷の表情が変わった。

「……あの?」

「うん」

「肝胆膵の?」

理久は黙って頷いた。

桐谷は、ゆっくり息を吐いた。

「お前、昔からあの先生の論文、読んでただろ」

理久はもう一度、静かに頷いた。

「学会で挨拶したこともあるって言ってなかったか」

「一度だけ」

「うわ」

「その反応、やめて」

桐谷は少し笑った。

けれど、すぐに笑いを引っ込めた。

理久が笑っていなかったからだ。

「触れようとすると……」

理久は低く言った。

「……あの先生の顔がチラつく」

理久は目を閉じ、苦い顔をした。

桐谷は一瞬だけ視線を逸らした。

「それは、やりにくいな」

「だろ」

理久の声には、少しだけ投げやりな響きが混じっていた。

桐谷はグラスを置く。

「でも、それだけじゃないだろ」

理久は返事をしなかった。

「教授が怖いだけなら、お前はたぶんここまで止まらないよな」

「……」

「綾瀬が、その名前で傷ついてきたって分かったから止まってるんだろ」

理久の指が、グラスの縁で止まった。

図星だった。

桐谷は、それ以上すぐには追及しなかった。

少し間を置いて、理久が口を開く。

「美月が一番嫌がっていたことを、俺もしてる気がした」

声は静かだった。

「父親の名前を知って、立ち止まった」

桐谷は何も言わなかった。

理久はグラスの中の氷を見ている。

「それが美月にどう見えるかくらい、分かってる」

「じゃあ、触れるな」

理久が顔を上げた。

「何を」

「その話」

桐谷はグラスを置いた。

「今さら“そうじゃない”とか、“こういう理由で止まってる”とか説明されたら、綾瀬は余計に困るだろ」

理久は黙った。

「お前も、そんなことを言いたいわけじゃないだろ」

「……言いたくないね」

「だろうな」

桐谷は短く笑った。

「なら、下手に言葉にするな。形にしろ」

「形?」

「綾瀬の父親に会う。お前の家にも紹介する。お前が本気で考えてるなら、そこを先に通せ」

理久は返事をしなかった。

けれど、何かを考えるような顔をしている。

桐谷は続ける。

「待つなら待てばいい。でも、ただ待ってるだけだと、あの子は勝手に変な答えを出すぞ」

「昨夜みたいに?」

「昨夜みたいに」

理久は眉を寄せた。

「……それは勘弁かも」

そんな理久を見て、桐谷が笑った。

けれど、その目は少しだけ真面目だった。

「昔のお前なら、たぶんこんな順番は気にしなかったよな」

理久は否定しなかった。

「でも、今は気にしてる」

「……」

「だったら、最後まで気にしろ。綾瀬が後から自分を責めない形にしてやれ」

理久の指が、グラスの縁で止まった。

桐谷は何でもない顔で酒を飲む。

その何でもなさが、逆に腹立たしい。

「桐谷」

「何」

「今日、やけにまともだね」

「いつもまともだろ」

「そうかな」

「お前が面倒な時だけ、俺がまともに見えるんだよ」

理久は少しだけ笑った。

それは、さっきまでの王子の笑みとは違っていた。

少し疲れていて。

少し諦めていて。

それでも、どこか柔らかい。

桐谷はその顔を見て、グラスを置いた。

「で、待たせてる自覚は?」

「ある」

「じゃあ、いつかちゃんと謝れよ」

理久が顔を上げる。

「謝る?」

「そう」

桐谷は何でもない顔で言った。

「待たせてごめん、って」

理久の指が止まった。

その言葉は、思っていたよりもすんなり胸に落ちた。


待たせてごめん。


たぶん、自分が美月に伝えるなら、それで十分なのだろう。

余計な説明を重ねるよりも。

言い訳を並べるよりも。

ただ、待たせたことを謝ればいい。

理久は小さく息を吐いた。

「……桐谷に先に言われるのは、ちょっと癪だね」

「お前が自分で思いついたことにすればいい」

「そうする」

「するんだ」

桐谷はにやりと笑った。

「まあ、早く安心させてやれよ。王子様」

「その呼び方、まだ続けるんだ」

「似合ってるからな」

理久は呆れたように笑った。

「褒められてる気がしない」

「褒めてない」

「だろうね」

理久は、ただ苦笑した。

そして、グラスを桐谷のグラスに軽く合わせる。

澄んだ音が、小さく鳴った。


その夜、理久はいつもより少しだけ酒の進みが早かった。

桐谷はそれに気づいていたが、しばらく何も言わなかった。

ただ、三杯目に手が伸びたところで、静かにメニューを取り上げた。

「今日はそこまで」

「まだ二杯だよ」

「十分だろ」

「厳しいね」

「医者だからな」

理久は不満そうに桐谷を見た。

桐谷は笑う。

「酔って綾瀬に電話したら、また面倒なことになるぞ」

「しない」

「本当か?」

「……しない」

「今の間が怪しい」

理久は黙った。

桐谷はますます笑った。

「ほらな。王子だって、普通の男だよ」

理久は返事をしなかった。

ただ、グラスの中の氷が溶ける音を聞きながら、小さく息を吐いた。


美月はきっと、今頃もう眠っている。

あるいはまた、何かを考えているかもしれない。

強情で。

可愛くなくて。

そのくせ、時々どうしようもなく可愛い。

昨夜の、あの一言を思い出す。

理久は少しだけ眉間に皺を寄せた。


本当に。

なんてことを考えるんだろう。


けれど、そこまで考えさせたのは、自分だ。

待たせている。

その自覚だけが、酒よりも少し重く胸に残った。
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