いつもの席で、また明日
第六章 来年の話
第六章 来年の話
三年生になって最初の一か月は、思っていたより何も変わらなかった。
新しい講義が始まり、ゼミの顔合わせがあり、大学の構内には新入生らしい学生たちが増えたものの、悠介と琴葉の日常そのものは去年とほとんど同じだった。
授業が終われば連絡を取り合い、時間が合えばひよりへ行く。
会えない日は夜に電話する。
休日になればどこかへ出かける。
付き合ってから初めて迎える春も、二人は去年と同じように過ごしていた。
大学の桜が満開になった日には、約束していた通り二人で中庭へ行った。
「ちゃんと見ましたね」
琴葉が言う。
「去年の約束守った」
「一年しか経ってないですけど」
「大事でしょ」
「じゃあ来年も」
「もちろん」
その時はまだ、来年という言葉を何の迷いもなく使えた。
来年も同じ大学にいる。
同じ街にいる。
同じようにひよりへ行く。
二人にとって卒業はまだ先の話で、就職もどこか遠くにある面倒な予定くらいにしか感じられていなかった。
けれど五月に入ると、その空気は少しずつ変わり始めた。
◇
「インターン?」
ひよりの窓際で、悠介は琴葉の手元にある紙を見た。
「うん」
「もう行くの?」
「ゼミの先生に早めに見た方がいいって言われて」
「へえ」
「悠介は?」
「まだ何も」
「経済学部の方が早そうなのに」
「周りは結構動いてる」
「悠介は動かないんですか」
「面倒」
「駄目です」
「分かってる」
琴葉は紙をテーブルへ置く。
「ここ、ちょっと気になってます」
「どこ?」
「出版社」
「前言ってた?」
「そう」
悠介は会社名を見る。
「東京?」
「本社は」
「インターンも?」
「東京です」
「泊まり?」
「たぶん」
琴葉は少しだけ嬉しそうだった。
その表情を見て、悠介も自然に笑う。
「行けばいいじゃん」
「受かればですけど」
「応募するんでしょ」
「迷ってる」
「何で?」
「交通費もかかるし、倍率高そうだし」
「でも行きたいんじゃないの」
琴葉は紙を見た。
「ちょっと」
「じゃあ出しなよ」
「簡単に言いますね」
「出さなきゃ絶対行けないでしょ」
「そうですけど」
「受かったら考えればいい」
悠介がそう言うと、琴葉はしばらく紙を見つめたあと、小さく頷いた。
「じゃあ応募してみようかな」
「うん」
「落ちたら慰めてください」
「珈琲奢る」
「私は紅茶です」
「じゃあ紅茶」
「受かったら?」
「珈琲奢って」
「何で私が」
「応援したから」
「おかしいでしょ」
二人で笑った。
それは、本当に何でもない会話だった。
悠介はただ、琴葉が興味を持っていることなら挑戦した方がいいと思っただけだった。
その会社が東京にあるという事実も、インターンへ参加したことが就職につながる可能性も、その時はまだ深く考えていなかった。
◇
六月になる頃には、大学の掲示板やメールに就職関連の案内が増えていた。
業界研究。
企業説明会。
自己分析。
エントリーシート。
夏季インターン。
去年までは自分とは関係のない言葉だったものが、急に現実的な意味を持ち始める。
「自己分析って何すればいいんだろ」
悠介が言った。
「自分を分析するんじゃないですか」
「そのままじゃん」
「得意なこととか」
「ない」
「ありますよ」
「何?」
「……人の話を聞く?」
「疑問形やめて」
「ちゃんと聞いてくれるじゃないですか」
「普通でしょ」
「意外と普通じゃないですよ」
「じゃあ書こうかな。人の話を聞けます」
「小学生みたい」
「宮下さんが言ったんだろ」
琴葉が笑った。
二人はいつもの席で、それぞれノートパソコンを開いていた。
最近はひよりへ来ても話している時間より、就職関連のサイトを見たり、課題をしたりする時間が増えていた。
店主もそれを察しているのか、以前ほど二人の会話へ入ってこない。
注文したものを置き、「頑張って」と一言だけ言って戻っていく。
「琴葉」
「はい」
「これどう思う?」
悠介が画面を向ける。
地元に本社がある中堅企業だった。
「営業?」
「そう」
「興味あるんですか」
「給料そこそこ」
「そこから?」
「大事でしょ」
「大事ですけど」
「あと転勤少ない」
「いいですね」
「できればこの辺にいたいし」
琴葉が少しだけ顔を上げた。
「地元に残りたいんですか?」
「今のところは」
「どうして?」
「実家も近いし、友達もいるし」
そこで一度言葉を切る。
「琴葉もいるし」
琴葉が黙る。
悠介は画面へ目を戻した。
「……そういうこと普通に言うようになりましたね」
「前も言われた」
「慣れません」
「いいじゃん」
「嬉しいですけど」
「なら問題ない」
琴葉は少し笑った。
しかし、そのあと何かを考えるように自分の画面へ視線を戻した。
◇
その日の帰り道、琴葉はいつもより静かだった。
「疲れた?」
悠介が聞く。
「ちょっと」
「就活?」
「うん」
「まだ始まったばっかじゃん」
「だからかな」
「何が?」
「何も決まってないから」
琴葉は前を向いたまま歩いている。
「周りは結構決めてるんですよ。出版行きたいとか、公務員とか、教員とか」
「琴葉も出版社気になってるじゃん」
「気になってるだけです」
「それでいいんじゃない?」
「そうかな」
「三年になったばっかだし」
琴葉が小さく笑った。
「悠介、こういう時楽観的ですよね」
「悪い?」
「ちょっと羨ましい」
「何とかなるでしょ」
「その考え方で何とかなってきた?」
「今のところ」
「強い」
「琴葉は考えすぎ」
「自覚あります」
二人は駅へ向かって歩く。
夕方の商店街には、仕事を終えた人たちの姿が増えていた。
スーツ姿の会社員が駅へ急ぎ、店先ではシャッターを下ろす準備が始まっている。
「働くってどんな感じなんだろ」
琴葉が言った。
「急に重いな」
「毎日朝起きて会社行って、夜帰ってくるんですよね」
「まあ」
「大学みたいに空きコマないし」
「当たり前だろ」
「ひより来れなくなる」
悠介は少し笑った。
「仕事終わりに来れば」
「閉まってるかも」
「休日」
「毎週?」
「毎週でも」
琴葉が笑う。
「おじさんに嫌がられますよ」
「今でもかなり来てるし」
「確かに」
それで話は終わった。
働き始めてもひよりへ来る。
その時の二人には、それが普通にできることのように思えていた。
◇
六月の終わり、琴葉からメッセージが届いた。
『受かった』
悠介は講義中だった。
スマートフォンの画面を見て、一瞬何のことか分からなかった。
すぐに続けて届く。
『東京のインターン』
「あ」
小さく声が漏れた。
隣の友人が見る。
「何?」
「何でもない」
悠介は机の下で返信する。
『おめでとう』
『ありがとう』
『いつ?』
『8月の後半』
『何日?』
『5日間』
『結構長いね』
『うん』
『よかったじゃん』
少しして琴葉から返ってくる。
『うん。嬉しい』
その文字を見て、悠介も嬉しくなった。
琴葉がやりたいと思ったことへ一歩近づいた。
それは素直に喜ぶべきことだった。
講義が終わったあと、二人はいつものようにひよりで会った。
「おめでとうございます」
悠介が言う。
「ありがとうございます」
「紅茶奢ります」
「本当に?」
「約束したから」
「忘れてると思ってた」
「覚えてますよ」
「珍しい」
「失礼だな」
店主へ紅茶を追加で頼む。
「何かいいこと?」
店主が聞く。
「インターン決まりました」
琴葉が答える。
「へえ、どこ?」
「東京です」
「都会だねえ」
「五日間だけですけど」
「若いうちは色々見た方がいいよ」
「おじさんみたい」
「おじさんだからね」
三人で笑った。
「泊まるところは?」
悠介が聞く。
「ホテル取ります」
「一人?」
「うん」
「大丈夫?」
「何がですか」
「東京慣れてないでしょ」
「子どもじゃないです」
「迷子になるかも」
「悠介より方向感覚あります」
「それはない」
「あります」
「前本屋から駅戻るのに逆行ったじゃん」
「あれはたまたまです」
琴葉は笑っていた。
けれど悠介は、五日間という言葉を聞いた時、以前琴葉が実家へ帰った一週間を思い出していた。
あの時は毎晩電話した。
たった一週間なのに長かった。
今回は五日間。
しかも東京。
それでも、まあ大丈夫だろうと思った。
◇
夏が近づくにつれ、二人の会話には少しずつ企業名が増えていった。
「この会社知ってる?」
「知らない」
「大手ですよ」
「琴葉の知ってる大手、俺全然分からない」
「出版社ばっかりですからね」
「本当に出版行きたいんだ」
「まだ分かりません」
そう言いながらも、琴葉が出版社について調べる時間は明らかに増えていた。
雑誌。
書籍。
編集。
営業。
企画。
どんな仕事があるのか調べ、採用人数を見ては「少ない」とため息をつき、勤務地の欄を見ては「やっぱり東京多いな」と呟く。
「そんな東京嫌?」
悠介が聞く。
「嫌ってわけじゃないです」
「じゃあいいじゃん」
「住んだことないから」
「俺もない」
「悠介は行かないでしょ」
「今のところ」
「本当に地元?」
「多分」
琴葉は少し黙った。
「もし私が東京行ったらどうします?」
悠介は画面から顔を上げた。
「就職で?」
「うん」
「会いに行く」
「毎週?」
「毎週は金なくなる」
「現実的」
「月一とか?」
「少なくないですか」
「じゃあ二回」
「交通費計算してます?」
「してない」
琴葉が笑った。
「でも大丈夫でしょ」
「何が?」
「遠距離でも」
悠介は深く考えずに言った。
「今は電話もあるし、メッセージもあるし」
「そうですね」
「東京なら新幹線で行けるし」
「海外じゃないですからね」
「そうそう」
「じゃあ大丈夫か」
「大丈夫」
琴葉は頷いた。
その言葉に、二人とも特に疑問を持たなかった。
好きなら続けられる。
会いたければ会いに行けばいい。
電話をすればいい。
離れて暮らすことになったとしても、それくらいなら何とかなると思っていた。
まだ、遠距離恋愛というものを二人とも想像でしか知らなかったから。
◇
七月。
試験期間が近づき、ひよりでの時間はまた勉強中心になった。
悠介は経済学のレポートを書き、琴葉はゼミ発表の資料を作っている。
「悠介」
「ん?」
「これ変じゃないですか」
「見ても分からないよ」
「文章だけ」
ノートパソコンを向けられる。
悠介は読み始める。
「長い」
「まだ三行です」
「一文が長い」
「ちゃんと読んでください」
「……ここ、一回切った方がいいんじゃない?」
「どこ?」
「ここ」
琴葉が画面を見る。
「本当だ」
「俺でも分かる」
「成長しましたね」
「誰のおかげで本読むようになったと思ってる」
「私です」
「即答だな」
「事実です」
琴葉が笑う。
悠介も自分の画面へ戻る。
しばらくキーボードの音だけが続いた。
店内には二人以外に一人客がいるだけで、いつものピアノが小さく流れていた。
「悠介」
「何?」
「来年の今頃って何してると思います?」
悠介の指が止まる。
「四年?」
「うん」
「就活終わってたい」
「私も」
「卒論?」
「嫌だなあ」
「それはやるしかない」
「ひより来てるかな」
「来てるでしょ」
「今くらい?」
「さすがに減るんじゃない?」
「就活あるし?」
「卒論も」
「そっか」
琴葉は少し考える。
「でも来たいですね」
「来ればいいじゃん」
「二人で?」
「もちろん」
「来年もこの席?」
悠介は窓際を見る。
何度座ったか分からない席。
「空いてたら」
「最近ほぼ私たちの席みたいになってますよ」
「店主もそう思ってそう」
カウンターから声が飛んでくる。
「思ってるよ」
「聞いてたんですか」
「狭いからね」
琴葉が笑った。
「じゃあ来年も予約しておいてください」
「予約は受けてないなあ」
「常連特権で」
「考えとくよ」
そんなふうに、来年の話をすることが増えていった。
来年の春。
来年の夏。
卒業式。
就職。
社会人になったらどうするか。
二人にとって未来は、まだ一緒に存在するものだった。
◇
八月。
琴葉が東京へ向かう日が来た。
「送らなくていいですよ」
前日の電話で琴葉は何度も言った。
「朝早いですから」
「何時?」
「七時半」
「行ける」
「悠介、朝弱いでしょ」
「起きる」
「絶対眠いですよ」
「大丈夫」
「本当に来るんですか」
「行く」
結局、悠介は六時に起きた。
自分でも驚くくらい普通に目が覚めた。
駅へ着いたのは七時十五分。
琴葉はすでに改札前にいた。
「本当に来た」
「失礼だな」
「寝坊すると思ってた」
「俺も」
「自分で言うんだ」
琴葉の隣には小さなキャリーケースがある。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「楽しみ?」
「かなり」
素直な答えだった。
悠介は笑う。
「ならよかった」
「何が?」
「行くか迷ってたじゃん」
「そうでしたね」
「受けてよかったでしょ」
「まだ始まってないです」
「でも東京行くだけで嬉しそう」
「分かります?」
「分かる」
琴葉は少し照れたように笑った。
「新しいことするの、ちょっと楽しみなんです」
「いいじゃん」
「うん」
ホームまで一緒に行く。
電車を待つ間、琴葉は何度も予定を確認していた。
「着いたら連絡して」
「はい」
「ホテルも」
「はい」
「夜遅くならないように」
「お父さんみたい」
「心配してるだけ」
「分かってます」
「電話できそう?」
「できると思います」
「無理しなくていいよ」
「でもしたい」
悠介は少し笑った。
「じゃあする」
「うん」
電車が入ってくる。
「頑張って」
「ありがとうございます」
「楽しんで」
「はい」
琴葉はキャリーケースを持って乗り込む。
「悠介」
「ん?」
「五日後」
「うん」
「ひより行きましょうね」
「行こう」
琴葉が笑った。
「じゃあ」
一瞬だけ迷う。
「また明日」
「会えないけど?」
「電話するから」
悠介も笑った。
「じゃあ、また明日」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介は見えなくなるまで手を振った。
◇
東京へ着いた琴葉から最初に送られてきたのは、駅の写真だった。
『人多すぎる』
『知ってる』
『まだ何もしてないのに疲れた』
『帰ってくる?』
『帰りません』
『頑張れ』
ホテルへ着いた時も連絡が来た。
初日の夜には電話をした。
『すごかった』
琴葉の声はいつもより少し高かった。
「何が?」
『会社』
「具体的に」
『オフィスも大きいし、編集部の人とも話せたし、実際に企画会議みたいなの見せてもらって』
「へえ」
『本ってこうやって作るんだって思った』
楽しそうだった。
悠介はほとんど聞き役になっていた。
琴葉がこんなに仕事について熱心に話すのを初めて聞いた気がする。
『明日グループワークなんです』
「何するの?」
『新しい雑誌企画考える』
「難しそう」
『楽しそうじゃないですか?』
「琴葉は好きそう」
『うん』
電話越しの声からでも、彼女が本当に楽しんでいることが分かった。
「よかったね」
『何が?』
「行って」
少し沈黙。
『うん』
「受かった時より嬉しそう」
『そうかも』
「その会社入りたい?」
何となく聞いた。
電話の向こうで、琴葉が少し考える。
『……分からない』
「そっか」
『でも』
「うん」
『こういう仕事したいかもしれない』
悠介はベッドに横になりながら天井を見た。
「いいじゃん」
『いいのかな』
「何が?」
『東京ですよ』
「それは前も話したでしょ」
『うん』
「行きたいなら行けばいいよ」
少し間が空く。
『悠介は?』
「俺?」
『離れますよ』
「まだ決まってないじゃん」
『もし決まったら』
悠介は少し笑った。
「大丈夫だって」
『本当に?』
「東京でしょ」
『うん』
「会えるよ」
『そうですよね』
「毎日電話もできる」
『働いたら毎日は無理かも』
「じゃあできる時」
『適当』
「何とかなるって」
琴葉が笑う。
『悠介らしい』
「いい意味?」
『多分』
「多分やめて」
しばらく話したあと、電話を切る。
『おやすみ』
「おやすみ」
『また明日』
「うん。また明日」
通話が終わる。
悠介はそのまま天井を見ていた。
琴葉が東京で働く。
自分は地元で働く。
その可能性を初めて少しだけ具体的に想像した。
会える回数は減るだろう。
ひよりへ一緒に行けない日も増える。
でも、付き合い続けること自体はできる。
そう思った。
好きなのだから。
それで十分だと思っていた。
◇
五日後。
琴葉が帰ってきた。
駅で会った瞬間、悠介はすぐに分かった。
疲れている。
でも、それ以上に嬉しそうだった。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「疲れました」
「顔見れば分かる」
「でも楽しかったです」
「そっか」
「話したいこといっぱいある」
「ひより行く?」
「行きます」
二人はいつもの道を歩く。
琴葉は東京での出来事をずっと話していた。
社員から聞いた話。
一緒になった学生。
企画を考えたこと。
編集者から褒められたこと。
失敗したプレゼン。
帰りに見た街。
「住めそう?」
悠介が聞く。
「東京?」
「うん」
琴葉は少し考えた。
「前よりは」
「最初は?」
「絶対無理って思ってました」
「人多いから?」
「それも。でも」
琴葉は歩きながら前を見る。
「仕事するなら、ちょっといいかもって」
「そっか」
「変ですか?」
「全然」
「悠介はやっぱり地元?」
「多分」
「そっか」
ほんの短い会話だった。
けれど、その時初めて二人の未来が少しだけ違う方向へ伸び始めた。
まだ分かれたわけではない。
むしろ二人は同じように並んで歩いている。
手もつないでいる。
ひよりへ向かっている。
何一つ変わっていない。
それでも、見ている先にある景色だけが、以前よりほんの少し違っていた。
◇
ひよりへ着くと、店主はいつものように二人を迎えた。
「おかえり」
「ただいまです」
琴葉が笑う。
「東京どうだった?」
「楽しかったです」
「都会に取られそうだね」
店主が冗談めかして言った。
琴葉が笑う。
「まだ決まってませんよ」
「でも顔見れば分かるよ」
「何がですか?」
「気に入ったんでしょ」
琴葉は少しだけ驚いたあと、頷いた。
「……ちょっと」
「そういう場所見つかるのはいいことだよ」
店主はそれだけ言ってカウンターへ戻った。
悠介と琴葉はいつもの席へ座る。
珈琲。
紅茶。
窓際。
一週間前と同じ。
「悠介」
「何?」
「もし本当に東京行くことになったら」
琴葉が言った。
「うん」
「ちゃんと続けましょうね」
悠介は迷わなかった。
「当たり前でしょ」
「遠距離でも?」
「うん」
「会えなくても?」
「会えるよ」
「前より減っても」
「大丈夫」
琴葉は悠介を見る。
「約束ですよ」
「約束」
「絶対?」
「絶対」
悠介がそう言うと、琴葉は少し安心したように笑った。
二人はまだ知らなかった。
約束というものは、破ろうと思って破る時よりも、守りたいのに守れなくなる時の方がずっと苦しいということを。
その日の帰りも、二人は駅まで一緒に歩いた。
「明日は?」
琴葉が聞く。
「四限まで」
「私三限」
「先ひよりいる?」
「うん」
「じゃあ行く」
「待ってます」
駅へ着く。
いつもの改札。
いつもの別れ道。
「また明日」
琴葉が言う。
「また明日」
悠介も返す。
その言葉はまだ何の迷いもなく言えた。
明日会えるから。
来週も会えるから。
来年もきっと一緒にいると思っていたから。
ただ、二人が少しずつ始めた「来年の話」は、これまでの未来とは違っていた。
同じ場所で迎える来年ではなく、それぞれが自分の道を選んだ先にある来年。
そしてその道が本当に同じ街へ続いているのかを、二人はまだ確かめようとしていなかった。
確かめなくても大丈夫だと信じていた。
好きでさえいれば、どこへ行っても二人でいられるのだと。
その頃はまだ、本気でそう思っていた。
――第七章「違う街」へ続く。
三年生になって最初の一か月は、思っていたより何も変わらなかった。
新しい講義が始まり、ゼミの顔合わせがあり、大学の構内には新入生らしい学生たちが増えたものの、悠介と琴葉の日常そのものは去年とほとんど同じだった。
授業が終われば連絡を取り合い、時間が合えばひよりへ行く。
会えない日は夜に電話する。
休日になればどこかへ出かける。
付き合ってから初めて迎える春も、二人は去年と同じように過ごしていた。
大学の桜が満開になった日には、約束していた通り二人で中庭へ行った。
「ちゃんと見ましたね」
琴葉が言う。
「去年の約束守った」
「一年しか経ってないですけど」
「大事でしょ」
「じゃあ来年も」
「もちろん」
その時はまだ、来年という言葉を何の迷いもなく使えた。
来年も同じ大学にいる。
同じ街にいる。
同じようにひよりへ行く。
二人にとって卒業はまだ先の話で、就職もどこか遠くにある面倒な予定くらいにしか感じられていなかった。
けれど五月に入ると、その空気は少しずつ変わり始めた。
◇
「インターン?」
ひよりの窓際で、悠介は琴葉の手元にある紙を見た。
「うん」
「もう行くの?」
「ゼミの先生に早めに見た方がいいって言われて」
「へえ」
「悠介は?」
「まだ何も」
「経済学部の方が早そうなのに」
「周りは結構動いてる」
「悠介は動かないんですか」
「面倒」
「駄目です」
「分かってる」
琴葉は紙をテーブルへ置く。
「ここ、ちょっと気になってます」
「どこ?」
「出版社」
「前言ってた?」
「そう」
悠介は会社名を見る。
「東京?」
「本社は」
「インターンも?」
「東京です」
「泊まり?」
「たぶん」
琴葉は少しだけ嬉しそうだった。
その表情を見て、悠介も自然に笑う。
「行けばいいじゃん」
「受かればですけど」
「応募するんでしょ」
「迷ってる」
「何で?」
「交通費もかかるし、倍率高そうだし」
「でも行きたいんじゃないの」
琴葉は紙を見た。
「ちょっと」
「じゃあ出しなよ」
「簡単に言いますね」
「出さなきゃ絶対行けないでしょ」
「そうですけど」
「受かったら考えればいい」
悠介がそう言うと、琴葉はしばらく紙を見つめたあと、小さく頷いた。
「じゃあ応募してみようかな」
「うん」
「落ちたら慰めてください」
「珈琲奢る」
「私は紅茶です」
「じゃあ紅茶」
「受かったら?」
「珈琲奢って」
「何で私が」
「応援したから」
「おかしいでしょ」
二人で笑った。
それは、本当に何でもない会話だった。
悠介はただ、琴葉が興味を持っていることなら挑戦した方がいいと思っただけだった。
その会社が東京にあるという事実も、インターンへ参加したことが就職につながる可能性も、その時はまだ深く考えていなかった。
◇
六月になる頃には、大学の掲示板やメールに就職関連の案内が増えていた。
業界研究。
企業説明会。
自己分析。
エントリーシート。
夏季インターン。
去年までは自分とは関係のない言葉だったものが、急に現実的な意味を持ち始める。
「自己分析って何すればいいんだろ」
悠介が言った。
「自分を分析するんじゃないですか」
「そのままじゃん」
「得意なこととか」
「ない」
「ありますよ」
「何?」
「……人の話を聞く?」
「疑問形やめて」
「ちゃんと聞いてくれるじゃないですか」
「普通でしょ」
「意外と普通じゃないですよ」
「じゃあ書こうかな。人の話を聞けます」
「小学生みたい」
「宮下さんが言ったんだろ」
琴葉が笑った。
二人はいつもの席で、それぞれノートパソコンを開いていた。
最近はひよりへ来ても話している時間より、就職関連のサイトを見たり、課題をしたりする時間が増えていた。
店主もそれを察しているのか、以前ほど二人の会話へ入ってこない。
注文したものを置き、「頑張って」と一言だけ言って戻っていく。
「琴葉」
「はい」
「これどう思う?」
悠介が画面を向ける。
地元に本社がある中堅企業だった。
「営業?」
「そう」
「興味あるんですか」
「給料そこそこ」
「そこから?」
「大事でしょ」
「大事ですけど」
「あと転勤少ない」
「いいですね」
「できればこの辺にいたいし」
琴葉が少しだけ顔を上げた。
「地元に残りたいんですか?」
「今のところは」
「どうして?」
「実家も近いし、友達もいるし」
そこで一度言葉を切る。
「琴葉もいるし」
琴葉が黙る。
悠介は画面へ目を戻した。
「……そういうこと普通に言うようになりましたね」
「前も言われた」
「慣れません」
「いいじゃん」
「嬉しいですけど」
「なら問題ない」
琴葉は少し笑った。
しかし、そのあと何かを考えるように自分の画面へ視線を戻した。
◇
その日の帰り道、琴葉はいつもより静かだった。
「疲れた?」
悠介が聞く。
「ちょっと」
「就活?」
「うん」
「まだ始まったばっかじゃん」
「だからかな」
「何が?」
「何も決まってないから」
琴葉は前を向いたまま歩いている。
「周りは結構決めてるんですよ。出版行きたいとか、公務員とか、教員とか」
「琴葉も出版社気になってるじゃん」
「気になってるだけです」
「それでいいんじゃない?」
「そうかな」
「三年になったばっかだし」
琴葉が小さく笑った。
「悠介、こういう時楽観的ですよね」
「悪い?」
「ちょっと羨ましい」
「何とかなるでしょ」
「その考え方で何とかなってきた?」
「今のところ」
「強い」
「琴葉は考えすぎ」
「自覚あります」
二人は駅へ向かって歩く。
夕方の商店街には、仕事を終えた人たちの姿が増えていた。
スーツ姿の会社員が駅へ急ぎ、店先ではシャッターを下ろす準備が始まっている。
「働くってどんな感じなんだろ」
琴葉が言った。
「急に重いな」
「毎日朝起きて会社行って、夜帰ってくるんですよね」
「まあ」
「大学みたいに空きコマないし」
「当たり前だろ」
「ひより来れなくなる」
悠介は少し笑った。
「仕事終わりに来れば」
「閉まってるかも」
「休日」
「毎週?」
「毎週でも」
琴葉が笑う。
「おじさんに嫌がられますよ」
「今でもかなり来てるし」
「確かに」
それで話は終わった。
働き始めてもひよりへ来る。
その時の二人には、それが普通にできることのように思えていた。
◇
六月の終わり、琴葉からメッセージが届いた。
『受かった』
悠介は講義中だった。
スマートフォンの画面を見て、一瞬何のことか分からなかった。
すぐに続けて届く。
『東京のインターン』
「あ」
小さく声が漏れた。
隣の友人が見る。
「何?」
「何でもない」
悠介は机の下で返信する。
『おめでとう』
『ありがとう』
『いつ?』
『8月の後半』
『何日?』
『5日間』
『結構長いね』
『うん』
『よかったじゃん』
少しして琴葉から返ってくる。
『うん。嬉しい』
その文字を見て、悠介も嬉しくなった。
琴葉がやりたいと思ったことへ一歩近づいた。
それは素直に喜ぶべきことだった。
講義が終わったあと、二人はいつものようにひよりで会った。
「おめでとうございます」
悠介が言う。
「ありがとうございます」
「紅茶奢ります」
「本当に?」
「約束したから」
「忘れてると思ってた」
「覚えてますよ」
「珍しい」
「失礼だな」
店主へ紅茶を追加で頼む。
「何かいいこと?」
店主が聞く。
「インターン決まりました」
琴葉が答える。
「へえ、どこ?」
「東京です」
「都会だねえ」
「五日間だけですけど」
「若いうちは色々見た方がいいよ」
「おじさんみたい」
「おじさんだからね」
三人で笑った。
「泊まるところは?」
悠介が聞く。
「ホテル取ります」
「一人?」
「うん」
「大丈夫?」
「何がですか」
「東京慣れてないでしょ」
「子どもじゃないです」
「迷子になるかも」
「悠介より方向感覚あります」
「それはない」
「あります」
「前本屋から駅戻るのに逆行ったじゃん」
「あれはたまたまです」
琴葉は笑っていた。
けれど悠介は、五日間という言葉を聞いた時、以前琴葉が実家へ帰った一週間を思い出していた。
あの時は毎晩電話した。
たった一週間なのに長かった。
今回は五日間。
しかも東京。
それでも、まあ大丈夫だろうと思った。
◇
夏が近づくにつれ、二人の会話には少しずつ企業名が増えていった。
「この会社知ってる?」
「知らない」
「大手ですよ」
「琴葉の知ってる大手、俺全然分からない」
「出版社ばっかりですからね」
「本当に出版行きたいんだ」
「まだ分かりません」
そう言いながらも、琴葉が出版社について調べる時間は明らかに増えていた。
雑誌。
書籍。
編集。
営業。
企画。
どんな仕事があるのか調べ、採用人数を見ては「少ない」とため息をつき、勤務地の欄を見ては「やっぱり東京多いな」と呟く。
「そんな東京嫌?」
悠介が聞く。
「嫌ってわけじゃないです」
「じゃあいいじゃん」
「住んだことないから」
「俺もない」
「悠介は行かないでしょ」
「今のところ」
「本当に地元?」
「多分」
琴葉は少し黙った。
「もし私が東京行ったらどうします?」
悠介は画面から顔を上げた。
「就職で?」
「うん」
「会いに行く」
「毎週?」
「毎週は金なくなる」
「現実的」
「月一とか?」
「少なくないですか」
「じゃあ二回」
「交通費計算してます?」
「してない」
琴葉が笑った。
「でも大丈夫でしょ」
「何が?」
「遠距離でも」
悠介は深く考えずに言った。
「今は電話もあるし、メッセージもあるし」
「そうですね」
「東京なら新幹線で行けるし」
「海外じゃないですからね」
「そうそう」
「じゃあ大丈夫か」
「大丈夫」
琴葉は頷いた。
その言葉に、二人とも特に疑問を持たなかった。
好きなら続けられる。
会いたければ会いに行けばいい。
電話をすればいい。
離れて暮らすことになったとしても、それくらいなら何とかなると思っていた。
まだ、遠距離恋愛というものを二人とも想像でしか知らなかったから。
◇
七月。
試験期間が近づき、ひよりでの時間はまた勉強中心になった。
悠介は経済学のレポートを書き、琴葉はゼミ発表の資料を作っている。
「悠介」
「ん?」
「これ変じゃないですか」
「見ても分からないよ」
「文章だけ」
ノートパソコンを向けられる。
悠介は読み始める。
「長い」
「まだ三行です」
「一文が長い」
「ちゃんと読んでください」
「……ここ、一回切った方がいいんじゃない?」
「どこ?」
「ここ」
琴葉が画面を見る。
「本当だ」
「俺でも分かる」
「成長しましたね」
「誰のおかげで本読むようになったと思ってる」
「私です」
「即答だな」
「事実です」
琴葉が笑う。
悠介も自分の画面へ戻る。
しばらくキーボードの音だけが続いた。
店内には二人以外に一人客がいるだけで、いつものピアノが小さく流れていた。
「悠介」
「何?」
「来年の今頃って何してると思います?」
悠介の指が止まる。
「四年?」
「うん」
「就活終わってたい」
「私も」
「卒論?」
「嫌だなあ」
「それはやるしかない」
「ひより来てるかな」
「来てるでしょ」
「今くらい?」
「さすがに減るんじゃない?」
「就活あるし?」
「卒論も」
「そっか」
琴葉は少し考える。
「でも来たいですね」
「来ればいいじゃん」
「二人で?」
「もちろん」
「来年もこの席?」
悠介は窓際を見る。
何度座ったか分からない席。
「空いてたら」
「最近ほぼ私たちの席みたいになってますよ」
「店主もそう思ってそう」
カウンターから声が飛んでくる。
「思ってるよ」
「聞いてたんですか」
「狭いからね」
琴葉が笑った。
「じゃあ来年も予約しておいてください」
「予約は受けてないなあ」
「常連特権で」
「考えとくよ」
そんなふうに、来年の話をすることが増えていった。
来年の春。
来年の夏。
卒業式。
就職。
社会人になったらどうするか。
二人にとって未来は、まだ一緒に存在するものだった。
◇
八月。
琴葉が東京へ向かう日が来た。
「送らなくていいですよ」
前日の電話で琴葉は何度も言った。
「朝早いですから」
「何時?」
「七時半」
「行ける」
「悠介、朝弱いでしょ」
「起きる」
「絶対眠いですよ」
「大丈夫」
「本当に来るんですか」
「行く」
結局、悠介は六時に起きた。
自分でも驚くくらい普通に目が覚めた。
駅へ着いたのは七時十五分。
琴葉はすでに改札前にいた。
「本当に来た」
「失礼だな」
「寝坊すると思ってた」
「俺も」
「自分で言うんだ」
琴葉の隣には小さなキャリーケースがある。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「楽しみ?」
「かなり」
素直な答えだった。
悠介は笑う。
「ならよかった」
「何が?」
「行くか迷ってたじゃん」
「そうでしたね」
「受けてよかったでしょ」
「まだ始まってないです」
「でも東京行くだけで嬉しそう」
「分かります?」
「分かる」
琴葉は少し照れたように笑った。
「新しいことするの、ちょっと楽しみなんです」
「いいじゃん」
「うん」
ホームまで一緒に行く。
電車を待つ間、琴葉は何度も予定を確認していた。
「着いたら連絡して」
「はい」
「ホテルも」
「はい」
「夜遅くならないように」
「お父さんみたい」
「心配してるだけ」
「分かってます」
「電話できそう?」
「できると思います」
「無理しなくていいよ」
「でもしたい」
悠介は少し笑った。
「じゃあする」
「うん」
電車が入ってくる。
「頑張って」
「ありがとうございます」
「楽しんで」
「はい」
琴葉はキャリーケースを持って乗り込む。
「悠介」
「ん?」
「五日後」
「うん」
「ひより行きましょうね」
「行こう」
琴葉が笑った。
「じゃあ」
一瞬だけ迷う。
「また明日」
「会えないけど?」
「電話するから」
悠介も笑った。
「じゃあ、また明日」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介は見えなくなるまで手を振った。
◇
東京へ着いた琴葉から最初に送られてきたのは、駅の写真だった。
『人多すぎる』
『知ってる』
『まだ何もしてないのに疲れた』
『帰ってくる?』
『帰りません』
『頑張れ』
ホテルへ着いた時も連絡が来た。
初日の夜には電話をした。
『すごかった』
琴葉の声はいつもより少し高かった。
「何が?」
『会社』
「具体的に」
『オフィスも大きいし、編集部の人とも話せたし、実際に企画会議みたいなの見せてもらって』
「へえ」
『本ってこうやって作るんだって思った』
楽しそうだった。
悠介はほとんど聞き役になっていた。
琴葉がこんなに仕事について熱心に話すのを初めて聞いた気がする。
『明日グループワークなんです』
「何するの?」
『新しい雑誌企画考える』
「難しそう」
『楽しそうじゃないですか?』
「琴葉は好きそう」
『うん』
電話越しの声からでも、彼女が本当に楽しんでいることが分かった。
「よかったね」
『何が?』
「行って」
少し沈黙。
『うん』
「受かった時より嬉しそう」
『そうかも』
「その会社入りたい?」
何となく聞いた。
電話の向こうで、琴葉が少し考える。
『……分からない』
「そっか」
『でも』
「うん」
『こういう仕事したいかもしれない』
悠介はベッドに横になりながら天井を見た。
「いいじゃん」
『いいのかな』
「何が?」
『東京ですよ』
「それは前も話したでしょ」
『うん』
「行きたいなら行けばいいよ」
少し間が空く。
『悠介は?』
「俺?」
『離れますよ』
「まだ決まってないじゃん」
『もし決まったら』
悠介は少し笑った。
「大丈夫だって」
『本当に?』
「東京でしょ」
『うん』
「会えるよ」
『そうですよね』
「毎日電話もできる」
『働いたら毎日は無理かも』
「じゃあできる時」
『適当』
「何とかなるって」
琴葉が笑う。
『悠介らしい』
「いい意味?」
『多分』
「多分やめて」
しばらく話したあと、電話を切る。
『おやすみ』
「おやすみ」
『また明日』
「うん。また明日」
通話が終わる。
悠介はそのまま天井を見ていた。
琴葉が東京で働く。
自分は地元で働く。
その可能性を初めて少しだけ具体的に想像した。
会える回数は減るだろう。
ひよりへ一緒に行けない日も増える。
でも、付き合い続けること自体はできる。
そう思った。
好きなのだから。
それで十分だと思っていた。
◇
五日後。
琴葉が帰ってきた。
駅で会った瞬間、悠介はすぐに分かった。
疲れている。
でも、それ以上に嬉しそうだった。
「おかえり」
「ただいま」
「どうだった?」
「疲れました」
「顔見れば分かる」
「でも楽しかったです」
「そっか」
「話したいこといっぱいある」
「ひより行く?」
「行きます」
二人はいつもの道を歩く。
琴葉は東京での出来事をずっと話していた。
社員から聞いた話。
一緒になった学生。
企画を考えたこと。
編集者から褒められたこと。
失敗したプレゼン。
帰りに見た街。
「住めそう?」
悠介が聞く。
「東京?」
「うん」
琴葉は少し考えた。
「前よりは」
「最初は?」
「絶対無理って思ってました」
「人多いから?」
「それも。でも」
琴葉は歩きながら前を見る。
「仕事するなら、ちょっといいかもって」
「そっか」
「変ですか?」
「全然」
「悠介はやっぱり地元?」
「多分」
「そっか」
ほんの短い会話だった。
けれど、その時初めて二人の未来が少しだけ違う方向へ伸び始めた。
まだ分かれたわけではない。
むしろ二人は同じように並んで歩いている。
手もつないでいる。
ひよりへ向かっている。
何一つ変わっていない。
それでも、見ている先にある景色だけが、以前よりほんの少し違っていた。
◇
ひよりへ着くと、店主はいつものように二人を迎えた。
「おかえり」
「ただいまです」
琴葉が笑う。
「東京どうだった?」
「楽しかったです」
「都会に取られそうだね」
店主が冗談めかして言った。
琴葉が笑う。
「まだ決まってませんよ」
「でも顔見れば分かるよ」
「何がですか?」
「気に入ったんでしょ」
琴葉は少しだけ驚いたあと、頷いた。
「……ちょっと」
「そういう場所見つかるのはいいことだよ」
店主はそれだけ言ってカウンターへ戻った。
悠介と琴葉はいつもの席へ座る。
珈琲。
紅茶。
窓際。
一週間前と同じ。
「悠介」
「何?」
「もし本当に東京行くことになったら」
琴葉が言った。
「うん」
「ちゃんと続けましょうね」
悠介は迷わなかった。
「当たり前でしょ」
「遠距離でも?」
「うん」
「会えなくても?」
「会えるよ」
「前より減っても」
「大丈夫」
琴葉は悠介を見る。
「約束ですよ」
「約束」
「絶対?」
「絶対」
悠介がそう言うと、琴葉は少し安心したように笑った。
二人はまだ知らなかった。
約束というものは、破ろうと思って破る時よりも、守りたいのに守れなくなる時の方がずっと苦しいということを。
その日の帰りも、二人は駅まで一緒に歩いた。
「明日は?」
琴葉が聞く。
「四限まで」
「私三限」
「先ひよりいる?」
「うん」
「じゃあ行く」
「待ってます」
駅へ着く。
いつもの改札。
いつもの別れ道。
「また明日」
琴葉が言う。
「また明日」
悠介も返す。
その言葉はまだ何の迷いもなく言えた。
明日会えるから。
来週も会えるから。
来年もきっと一緒にいると思っていたから。
ただ、二人が少しずつ始めた「来年の話」は、これまでの未来とは違っていた。
同じ場所で迎える来年ではなく、それぞれが自分の道を選んだ先にある来年。
そしてその道が本当に同じ街へ続いているのかを、二人はまだ確かめようとしていなかった。
確かめなくても大丈夫だと信じていた。
好きでさえいれば、どこへ行っても二人でいられるのだと。
その頃はまだ、本気でそう思っていた。
――第七章「違う街」へ続く。