いつもの席で、また明日
第七章 違う街
第七章 違う街
秋が近づく頃には、大学の空気が少し変わっていた。
三年生の間ではインターンや業界研究の話が当たり前になり、昼休みの食堂でも、どこの会社を見たとか、どんな仕事に興味があるとか、そんな会話が増えていった。去年までなら聞き流していた企業名も、今ではどこか自分たちの未来へつながっているように感じられ、悠介も少しずつ就職というものを避けて通れなくなっていた。
それでも、ひよりへ行けばいつもと同じだった。
窓際の席。
温かい珈琲。
琴葉の紅茶。
店主の気の抜けたような声。
外の世界が少しずつ未来へ急ぎ始めているのに、この店の中だけは時間がゆっくり流れているように思えた。
「また東京の説明会?」
悠介が聞く。
「うん」
琴葉はノートパソコンを見ながら答えた。
「今度は別の会社?」
「そうです。前のインターン先だけじゃなくて、何社か見ておこうかなって」
「ちゃんとしてるな」
「悠介が遅いんです」
「俺もやってるよ」
「何社?」
「……三社」
「少な」
「まだ秋だよ」
「もう秋です」
「厳しいな」
琴葉が笑う。
その笑顔は以前と変わらない。
ただ、机の上に置かれている資料だけが少しずつ増えていた。
出版社。
広告会社。
編集プロダクション。
文化事業を扱う会社。
勤務地を見ると、その多くが東京だった。
悠介も分かっていた。
琴葉が東京へ惹かれていることを。
正確には、東京という街そのものではなく、そこにある仕事へ惹かれているのだと思う。
だから何も言わなかった。
行くなと言う理由もなかった。
むしろ、楽しそうに話す琴葉を見るたびに、やりたいことが見つかったのならそれが一番いいと思っていた。
「悠介は?」
「何が?」
「会社」
「地元中心」
「やっぱり?」
「うん」
「東京は?」
「ほぼ見てない」
琴葉が少しだけ手を止める。
「そうなんだ」
「地元に残りたいし」
「家族?」
「それもある」
悠介は少し迷ってから続けた。
「ここ好きなんだよね」
「街?」
「うん」
大学までの道。
昔から知っている駅。
友人たち。
実家。
そして、ひより。
悠介にとってこの街は、いつの間にか離れる理由のない場所になっていた。
「琴葉は?」
「私は」
彼女は少し考える。
「東京もいいかもしれないって思ってます」
「うん」
「前よりかなり」
「分かる」
「そんな顔してます?」
「仕事の話する時楽しそう」
琴葉が少し照れたように笑った。
「楽しいです」
「ならいいじゃん」
「……いいのかな」
「何が?」
「悠介はここに残るんですよね」
「多分」
「私は東京かもしれない」
「前も話したでしょ」
「うん」
「大丈夫だって」
悠介は笑った。
琴葉も笑う。
「じゃあ信じます」
「信じて」
二人はそのまま、それぞれの画面へ戻った。
大丈夫。
その言葉を、何度使っただろう。
言うたびに未来への不安が少しだけ薄くなる気がしていた。
けれど実際には、未来が近づくほどその言葉の意味は変わっていった。
◇
冬になった。
二人で迎える二度目のクリスマスも、やはりひよりだった。
「今年もここなんですね」
琴葉が言う。
「嫌?」
「全然」
「ならいいじゃん」
「去年よりツリー大きくなってます」
店の隅に、小さなクリスマスツリーが置かれている。
去年より少しだけ高さがあり、飾りも増えていた。
「進歩したでしょ」
店主が言う。
「頑張りましたね」
「上からだなあ」
「来年はもっと大きく?」
「置く場所なくなるよ」
琴葉が笑う。
悠介も笑った。
「来年もここですかね」
琴葉が何気なく言った。
悠介は一瞬だけ黙った。
来年。
その言葉が、以前より少しだけ遠く感じた。
三年生の十二月。
一年後には二人とも社会人になっている可能性が高い。
琴葉が東京にいるかもしれない。
悠介はこの街で働いているかもしれない。
「帰ってくればいいじゃん」
悠介が言った。
「クリスマスに?」
「休みなら」
「会社によるでしょ」
「じゃあその前後」
「適当」
「会えればいつでもいいよ」
琴葉は少しだけ笑った。
「そうですね」
プレゼントを交換し、ケーキを食べ、店を出る。
去年と似たクリスマスだった。
けれど未来の話をすると、少しだけ間が生まれるようになっていた。
◇
年が明けると、就職活動は一気に現実になった。
琴葉は東京へ行く回数が増えた。
説明会。
面接。
選考。
一日で帰ることもあれば、一泊することもある。
悠介も地元企業を中心に選考を受け始めた。
二人がひよりで会う回数は、以前より少し減っていた。
『今日行ける?』
『ごめん、面接』
『東京?』
『うん』
『頑張って』
『ありがとう』
別の日には、
『今日ひよりいる?』
『いるよ』
『私今帰りの電車』
『何時着く?』
『8時くらい』
『もう閉まってるな』
『残念』
『明日は?』
『行ける』
『じゃあ明日』
『うん。また明日』
会えない日が増えた。
それでも、翌日には会える。
そう思えるうちはまだ寂しさも大きくなかった。
◇
三月。
春休みなのに、二人とも休んでいる感覚はほとんどなかった。
ある日の夕方、琴葉がひよりへ入ってきた。
「お疲れ」
悠介が言う。
「疲れました」
「今日面接?」
「最終」
「え」
「前話した会社」
悠介は思い出す。
夏にインターンへ行った出版社だった。
「最終まで行ったの?」
「言ってませんでしたっけ」
「二次って聞いてた」
「通りました」
「すごいじゃん」
「まだ結果出てないです」
「でも最終でしょ」
「うん」
琴葉は座る。
店主が何も聞かず紅茶を持ってくる。
「ありがとう」
「今日は疲れてそうだね」
「分かります?」
「顔見れば」
「そんなに?」
「いつもより喋ってない」
「まだ来たばっかですよ」
店主は笑って戻っていった。
「どうだった?」
悠介が聞く。
「分かりません」
「手応え」
「それも分からない」
「何聞かれた?」
「仕事で何をしたいかとか、東京で働くことに抵抗ないかとか」
「何て答えた?」
「ないって」
琴葉は少しだけ視線を落とす。
「本当に?」
「今は」
「そっか」
「変ですか?」
「全然」
悠介は笑う。
「むしろ良かったじゃん。前は住めるか分からないって言ってたのに」
「そうですね」
琴葉も笑った。
けれど、その笑顔には少しだけ緊張が残っていた。
◇
一週間後。
悠介は大学の図書館にいた。
スマートフォンが震える。
琴葉からだった。
『決まりました』
一瞬意味が分からなかった。
『何が?』
『内定』
悠介は画面を見たまま固まった。
すぐに立ち上がる。
図書館を出てから電話をかけた。
「もしもし」
『もしもし』
「本当に?」
『うん』
「おめでとう」
琴葉が笑う声がする。
『ありがとう』
「すごいじゃん」
『自分でもびっくりしてます』
「第一志望?」
少し間がある。
『かなり』
「じゃあ決める?」
『……たぶん』
「いいじゃん」
『うん』
琴葉の声は嬉しそうだった。
それだけで悠介も嬉しかった。
ずっと興味があると言っていた仕事。
インターンへ行った時から楽しそうだった会社。
そこから内定をもらった。
「今日会える?」
悠介が聞く。
『会いたい』
「ひより?」
『うん』
「じゃあ行く」
◇
その日のひよりでは、店主が小さなケーキを出した。
「内定祝い」
「いいんですか?」
琴葉が驚く。
「就職決まった常連には出すことにしてる」
「そんな人いました?」
「今決めた」
悠介が笑う。
「いつもそれですね」
「店主権限」
「ありがとうございます」
三人で笑った。
琴葉は本当に嬉しそうだった。
悠介も、その顔を見ることができてよかったと思った。
「東京かあ」
店主が言う。
「はい」
「寂しくなるね」
「まだ一年ありますよ」
「一年なんて早いよ」
「そんなこと言わないでください」
「本当だよ」
店主は笑いながらカウンターへ戻った。
琴葉と悠介だけになる。
「悠介」
「ん?」
「私、ここにしようと思います」
「うん」
「いい?」
悠介は少し驚いた。
「何で俺に聞くの」
「だって」
琴葉は少し困ったように笑う。
「東京だから」
「関係ないでしょ」
「ありますよ」
「琴葉の仕事じゃん」
「でも」
「行きたいんでしょ」
琴葉は少し黙ってから頷いた。
「行きたい」
「じゃあ行くべきだよ」
「本当に?」
「うん」
「寂しくない?」
悠介は少しだけ考える。
「寂しいとは思う」
「ですよね」
「でも、それで諦めてほしくない」
琴葉は悠介を見る。
「せっかく受かったんだから」
「うん」
「俺が東京に行くわけじゃないけど、会えなくなるわけじゃない」
「うん」
「大丈夫」
また、その言葉だった。
琴葉は少し笑った。
「ありがとう」
「何が?」
「背中押してくれて」
「普通だよ」
「普通じゃないです」
「じゃあ紅茶一杯分くらい感謝して」
「安い」
「十分」
二人は笑った。
その笑顔にはまだ不安より嬉しさの方が大きかった。
◇
今度は悠介の番だった。
四月。
地元企業の最終面接を受けた。
そこは以前から気になっていた会社で、転勤も少なく、待遇も悪くない。
そして何より、この街で働ける。
二日後、内定の連絡が来た。
悠介が最初に連絡したのは琴葉だった。
『決まった』
数秒後。
『本当!?』
『うん』
『おめでとう!』
『ありがとう』
『今日会おう』
『ひより?』
『それ以外あります?』
『ないな』
その日の夕方。
「おめでとう」
琴葉が言った。
「ありがとう」
「よかったですね」
「かなり安心した」
「ここに残れる?」
「うん」
「そうですか」
琴葉は笑った。
「何?」
「いや」
「何かある?」
「ありません」
「絶対ある」
「本当にないです」
悠介は少し考える。
「東京じゃなくてごめん?」
琴葉が驚いた。
「何で謝るんですか」
「いや、ちょっと思っただけ」
「悠介が行きたい会社に決まったんだから、それが一番ですよ」
「琴葉がそう言うなら」
「当たり前です」
琴葉は笑った。
「私の時もそう言ってくれたでしょ」
「そうだった」
「だから同じです」
二人とも、相手の選択を止めなかった。
むしろ心から応援していた。
琴葉は東京へ。
悠介は地元へ。
どちらかが夢を諦めれば一緒にいられたのかもしれない。
けれど、そんなことを望むほど二人は相手を自分のものだと思っていなかった。
だから、この選択を間違いだと感じることはなかった。
◇
大学四年生になった。
二人に残された学生生活は一年。
卒業後の進路はもう決まっている。
ある意味では、就活をしていた頃より穏やかな日々が戻ってきた。
ひよりへ行く回数も増えた。
「暇になりましたね」
琴葉が言う。
「卒論あるけど」
「聞きたくない」
「現実逃避」
「まだ春ですよ」
「教授に早く始めろって言われた」
「それは正しい」
「琴葉は?」
「テーマだけ」
「同じじゃん」
「私は計画的です」
「どこが」
いつもの会話。
いつもの場所。
けれど、店を出れば卒業までの時間が確実に減っていく。
「あと一年ないんですね」
琴葉が言った。
「卒業まで?」
「うん」
「まだ結構あるよ」
「でも去年の一年早かったですよ」
「確かに」
「来年の今頃は東京です」
「社会人」
「嫌だなあ」
「働きたくない?」
「今は」
「内定もらった時あんな喜んでたのに」
「仕事は楽しみです。でも学生終わるのが嫌」
「分かる」
二人は並んで駅へ歩く。
「どこに住むの?」
悠介が聞く。
「会社から通いやすいところ探します」
「一人暮らし?」
「うん」
「今も一人暮らしじゃん」
「東京とは違います」
「何が?」
「家賃」
「現実的」
琴葉が笑う。
「悠介は実家?」
「最初は」
「いいな」
「楽だよ」
「ご飯出てくるし」
「それ目的?」
「大事です」
そんな話をしながら、二人はそれぞれ違う春を想像していた。
◇
六月。
二人が出会ってから二年が経った。
「今日覚えてる?」
琴葉がひよりで聞いた。
「何?」
「二年前」
悠介は少し考える。
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「今の間は忘れてました」
「日付までは覚えてない」
「私もです」
「じゃあいいじゃん」
琴葉が笑う。
「このくらいの時期でしたよね」
「雨だった」
「傘壊れた」
「俺が入れてあげた」
「恩着せがましい」
「それがなかったら付き合ってないかも」
「でも悠介が声かけなかったら私走って駅行ってました」
「風邪引いてたかも」
「そこから人生変わったかも」
「大げさ」
「でも分からないですよ」
琴葉は窓の外を見る。
「人生ってちょっとしたことで変わるのかも」
「文学部っぽい」
「久しぶりに言いましたね」
「懐かしい」
二人で笑う。
出会った頃と同じ窓際。
同じ店。
同じ二人。
そのはずだった。
けれど、二年前にはなかったものが一つだけ増えている。
来年の春、二人は違う街にいる。
◇
夏休み。
二人は一泊だけ旅行へ行った。
遠くではなく、電車で数時間ほどの観光地。
卒業したらなかなか予定が合わなくなるかもしれないから、という理由で琴葉が提案した。
街を歩き、名物を食べ、写真を撮った。
夜にはホテル近くの川沿いを散歩した。
「社会人になったら旅行とかできるかな」
琴葉が言う。
「休み合わせれば」
「会社違うからなあ」
「土日休みでしょ」
「多分」
「俺も」
「じゃあ大丈夫か」
「大丈夫」
またその言葉。
二人は何度もそれを使った。
「東京行ったら遊びに来てくださいね」
「行くよ」
「私もこっち戻ってくる」
「ひより?」
「もちろん」
「店主喜ぶな」
「悠介もでしょ」
「まあ」
「まあ?」
「かなり」
琴葉が笑う。
暗い川面に街の灯りが揺れている。
「どれくらい会えますかね」
「月二回くらい?」
「そんなに?」
「会いたいでしょ」
「会いたいです」
「俺も」
「じゃあ月二回」
「交互に行けばいいじゃん」
「一回は私がこっち」
「一回は俺が東京」
「完璧ですね」
「でしょ」
その場で二人は予定まで考えた。
月に二回会う。
毎日メッセージする。
週末には電話する。
休みが合えば旅行もする。
年末は一緒に過ごす。
誕生日も会う。
ひよりには定期的に戻る。
話せば話すほど、遠距離になっても何も問題がないように思えてきた。
「私たちなら大丈夫な気がする」
琴葉が言った。
「俺も」
本気だった。
何年も付き合ってきた。
大きな喧嘩もない。
嫌いになる理由もない。
だから離れても続く。
そう信じることに、何の不自然さもなかった。
◇
秋。
卒業論文が本格的に忙しくなった。
ひよりで二人が会っていても、会話よりパソコンへ向かう時間の方が長い。
「終わらない」
琴葉が言う。
「まだ三か月ある」
「三か月しかない」
「考え方の違い」
「悠介はどこまで?」
「半分」
「嘘」
「三分の一」
「絶対それ以下」
「鋭いな」
琴葉が笑う。
「卒業できなかったら遠距離じゃなくなりますね」
「それは嫌だな」
「私が東京行って悠介が大学五年生」
「絶対嫌」
「ひより通い放題」
「働きながら戻ってきてよ」
「無理です」
「じゃあ卒業する」
「最初からしてください」
笑う。
そんな冗談さえ言えた。
◇
十一月の終わり。
琴葉の東京での住居が決まった。
「ここ」
ひよりでスマートフォンの地図を見せる。
「会社まで?」
「電車で二十分くらい」
「結構いいじゃん」
「家賃は全然よくないです」
「東京怖い」
「本当に」
写真を見る。
小さなワンルーム。
今の部屋より狭い。
「家具どうするの?」
「ほとんど持っていきます」
「引っ越し大変そう」
「手伝います?」
「行こうか?」
「本当に?」
「卒業後すぐでしょ」
「うん」
「予定合えば」
琴葉が笑う。
「じゃあお願いします」
「荷物持ち?」
「かなり重要です」
「交通費出る?」
「ご飯奢ります」
「じゃあ行く」
「安い」
「十分」
未来の話をしている。
けれど、その未来にはもう「同じ街で」という前提がなかった。
◇
十二月。
三度目のクリスマス。
ひよりのツリーはさらに少し大きくなっていた。
「本当に毎年大きくなってる」
琴葉が言う。
「来年どうするんですか」
店主は少し考える。
「来年は同じやつかな」
「限界?」
「店が狭いからね」
悠介が笑う。
「来年見に来れるかな」
琴葉がツリーを見る。
「来ればいいじゃん」
「仕事始まってるから」
「クリスマス平日?」
スマートフォンで確認する。
「木曜日」
「きついな」
「無理そう」
「じゃあその前の土日」
「悠介が東京来る?」
「それでもいい」
「じゃあ決まり」
「まだ一年先だけど」
「予定は早めに」
「仕事の予定分からないよ」
「まあ、その時決めましょう」
「うん」
少しずつ、二人の約束には「絶対」ではなく「その時決めよう」が増えていた。
けれど二人とも、それを気にしてはいなかった。
◇
二月。
卒論が終わった。
「終わった!」
琴葉がひよりの扉を開けるなり言った。
「声大きい」
「本当に終わったんです」
「お疲れ」
「悠介は?」
「昨日出した」
「言ってくださいよ」
「琴葉必死だったから」
「じゃあ今日は何もしなくていい?」
「いいんじゃない」
「最高」
久しぶりに二人はパソコンを開かなかった。
ただ珈琲と紅茶を飲み、何時間も話した。
卒業旅行。
引っ越し。
会社の研修。
入社式。
新しい生活。
「もう一か月ちょっとですよ」
琴葉が言う。
「卒業?」
「引っ越し」
「早いね」
「実感ない」
「俺も」
「本当に東京行くんだな」
琴葉は自分に言い聞かせるように呟いた。
「怖い?」
「少し」
「大丈夫だよ」
「またそれ」
「大丈夫だから」
「悠介が言うと何とかなる気がする」
「でしょ」
「根拠ないのに」
「根拠なくてもいいじゃん」
琴葉が笑う。
「そうかも」
◇
三月。
卒業式の日。
二人は大学の正門前で写真を撮った。
琴葉は式典用の服を着ていて、悠介は慣れないスーツ姿だった。
「似合ってますね」
琴葉が言う。
「仕事始まったら毎日これ」
「嫌になりそう」
「絶対なる」
「私は私服だから」
「いいな」
友人たちと写真を撮り、教授へ挨拶し、大学の中を歩く。
最後に二人で中庭の桜を見た。
まだ満開ではない。
蕾が開き始めた程度だった。
「去年、来年も見るって言いましたよね」
琴葉が言う。
「見たじゃん」
「来年は?」
「また来よう」
「本当に?」
「来れるでしょ」
「東京からですよ」
「春なら休みあるでしょ」
「じゃあ約束」
「うん」
悠介は桜を見る。
「来年も」
「来年も」
二人で笑った。
その言葉を、この頃はまだ自然に信じられた。
◇
卒業式から一週間後。
琴葉の引っ越しの日が来た。
悠介は約束通り手伝った。
荷物を積み、電車に乗り、東京へ向かう。
新しい部屋は写真で見た通り小さかった。
「本当に狭い」
悠介が言う。
「言わないでください」
「これ全部入る?」
「入れます」
「ベッド置いたら終わりじゃん」
「ひよりの窓際より広いです」
「比較対象おかしいでしょ」
二人で荷物を運び、家具を組み立て、段ボールを開ける。
夕方には何とか生活できそうな形になった。
「疲れた」
悠介が床へ座る。
「ありがとうございます」
「ご飯奢って」
「覚えてた」
「それ目的で来たから」
「嘘」
琴葉が笑う。
その夜は近所の定食屋へ行った。
食べ終わって部屋へ戻る頃には、外は暗くなっていた。
「明日帰るんですよね」
琴葉が言う。
「うん」
「何時?」
「昼くらい」
「そっか」
少しだけ沈黙。
「急に寂しくなりました」
琴葉が笑う。
「昨日まで平気だったのに」
「俺も」
「本当に始まるんですね」
「何が?」
「遠距離」
悠介は頷く。
「始まるね」
「大丈夫かな」
琴葉が言う。
今まで何度も聞いた質問。
悠介はいつものように答えた。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「うん」
「ちゃんと会いに来てくださいね」
「行く」
「電話も」
「する」
「メッセージも」
「するって」
琴葉が笑う。
「しつこい?」
「ちょっと」
「不安なんです」
「分かってる」
悠介は琴葉の手を握った。
「大丈夫」
「……うん」
それ以上は何も言わなかった。
◇
翌日。
東京駅。
悠介が地元へ戻る電車の時間が近づいていた。
「じゃあ」
「うん」
琴葉が少しだけ笑う。
「次いつ会います?」
「二週間後?」
「悠介来れる?」
「土曜なら」
「じゃあ二週間後」
「うん」
「長いですね」
「電話するでしょ」
「します」
電車の案内が流れる。
悠介は改札へ向かう。
数歩歩いて振り返る。
琴葉がまだそこにいる。
「琴葉」
「何?」
「頑張って」
「悠介も」
「うん」
少し間がある。
そして琴葉が笑った。
「また明日」
悠介も笑う。
「会えないじゃん」
「電話するから」
「そっか」
「だから」
琴葉がもう一度言う。
「また明日」
「うん」
悠介も返した。
「また明日」
いつもの言葉。
これまで何百回も交わしてきた言葉。
でも、その日から二人にとって「また明日」は、同じ場所で会うという意味ではなくなった。
声を聞く。
メッセージを送る。
画面の向こうで一日の出来事を話す。
それでも明日につながっているのだから大丈夫だと、二人は信じていた。
電車が動き出す。
悠介は窓の外を見る。
東京の街が少しずつ遠ざかっていく。
琴葉は東京。
悠介は地元。
二人が選んだ道は、とうとう違う街へ続いた。
それでも気持ちは何も変わっていない。
好きだった。
会いたかった。
これからも一緒にいたかった。
だから悠介は、遠ざかる景色を見ながら本気で思っていた。
距離くらいなら、きっと何とかなる。
好きなままでいられるなら、二人は大丈夫だと。
そして琴葉もきっと、同じことを思っていた。
まだ二人は知らなかった。
離れてしまった二人を少しずつ遠ざけていくのは、距離そのものではないということを。
――第八章「大丈夫だと思っていた」へ続く。
秋が近づく頃には、大学の空気が少し変わっていた。
三年生の間ではインターンや業界研究の話が当たり前になり、昼休みの食堂でも、どこの会社を見たとか、どんな仕事に興味があるとか、そんな会話が増えていった。去年までなら聞き流していた企業名も、今ではどこか自分たちの未来へつながっているように感じられ、悠介も少しずつ就職というものを避けて通れなくなっていた。
それでも、ひよりへ行けばいつもと同じだった。
窓際の席。
温かい珈琲。
琴葉の紅茶。
店主の気の抜けたような声。
外の世界が少しずつ未来へ急ぎ始めているのに、この店の中だけは時間がゆっくり流れているように思えた。
「また東京の説明会?」
悠介が聞く。
「うん」
琴葉はノートパソコンを見ながら答えた。
「今度は別の会社?」
「そうです。前のインターン先だけじゃなくて、何社か見ておこうかなって」
「ちゃんとしてるな」
「悠介が遅いんです」
「俺もやってるよ」
「何社?」
「……三社」
「少な」
「まだ秋だよ」
「もう秋です」
「厳しいな」
琴葉が笑う。
その笑顔は以前と変わらない。
ただ、机の上に置かれている資料だけが少しずつ増えていた。
出版社。
広告会社。
編集プロダクション。
文化事業を扱う会社。
勤務地を見ると、その多くが東京だった。
悠介も分かっていた。
琴葉が東京へ惹かれていることを。
正確には、東京という街そのものではなく、そこにある仕事へ惹かれているのだと思う。
だから何も言わなかった。
行くなと言う理由もなかった。
むしろ、楽しそうに話す琴葉を見るたびに、やりたいことが見つかったのならそれが一番いいと思っていた。
「悠介は?」
「何が?」
「会社」
「地元中心」
「やっぱり?」
「うん」
「東京は?」
「ほぼ見てない」
琴葉が少しだけ手を止める。
「そうなんだ」
「地元に残りたいし」
「家族?」
「それもある」
悠介は少し迷ってから続けた。
「ここ好きなんだよね」
「街?」
「うん」
大学までの道。
昔から知っている駅。
友人たち。
実家。
そして、ひより。
悠介にとってこの街は、いつの間にか離れる理由のない場所になっていた。
「琴葉は?」
「私は」
彼女は少し考える。
「東京もいいかもしれないって思ってます」
「うん」
「前よりかなり」
「分かる」
「そんな顔してます?」
「仕事の話する時楽しそう」
琴葉が少し照れたように笑った。
「楽しいです」
「ならいいじゃん」
「……いいのかな」
「何が?」
「悠介はここに残るんですよね」
「多分」
「私は東京かもしれない」
「前も話したでしょ」
「うん」
「大丈夫だって」
悠介は笑った。
琴葉も笑う。
「じゃあ信じます」
「信じて」
二人はそのまま、それぞれの画面へ戻った。
大丈夫。
その言葉を、何度使っただろう。
言うたびに未来への不安が少しだけ薄くなる気がしていた。
けれど実際には、未来が近づくほどその言葉の意味は変わっていった。
◇
冬になった。
二人で迎える二度目のクリスマスも、やはりひよりだった。
「今年もここなんですね」
琴葉が言う。
「嫌?」
「全然」
「ならいいじゃん」
「去年よりツリー大きくなってます」
店の隅に、小さなクリスマスツリーが置かれている。
去年より少しだけ高さがあり、飾りも増えていた。
「進歩したでしょ」
店主が言う。
「頑張りましたね」
「上からだなあ」
「来年はもっと大きく?」
「置く場所なくなるよ」
琴葉が笑う。
悠介も笑った。
「来年もここですかね」
琴葉が何気なく言った。
悠介は一瞬だけ黙った。
来年。
その言葉が、以前より少しだけ遠く感じた。
三年生の十二月。
一年後には二人とも社会人になっている可能性が高い。
琴葉が東京にいるかもしれない。
悠介はこの街で働いているかもしれない。
「帰ってくればいいじゃん」
悠介が言った。
「クリスマスに?」
「休みなら」
「会社によるでしょ」
「じゃあその前後」
「適当」
「会えればいつでもいいよ」
琴葉は少しだけ笑った。
「そうですね」
プレゼントを交換し、ケーキを食べ、店を出る。
去年と似たクリスマスだった。
けれど未来の話をすると、少しだけ間が生まれるようになっていた。
◇
年が明けると、就職活動は一気に現実になった。
琴葉は東京へ行く回数が増えた。
説明会。
面接。
選考。
一日で帰ることもあれば、一泊することもある。
悠介も地元企業を中心に選考を受け始めた。
二人がひよりで会う回数は、以前より少し減っていた。
『今日行ける?』
『ごめん、面接』
『東京?』
『うん』
『頑張って』
『ありがとう』
別の日には、
『今日ひよりいる?』
『いるよ』
『私今帰りの電車』
『何時着く?』
『8時くらい』
『もう閉まってるな』
『残念』
『明日は?』
『行ける』
『じゃあ明日』
『うん。また明日』
会えない日が増えた。
それでも、翌日には会える。
そう思えるうちはまだ寂しさも大きくなかった。
◇
三月。
春休みなのに、二人とも休んでいる感覚はほとんどなかった。
ある日の夕方、琴葉がひよりへ入ってきた。
「お疲れ」
悠介が言う。
「疲れました」
「今日面接?」
「最終」
「え」
「前話した会社」
悠介は思い出す。
夏にインターンへ行った出版社だった。
「最終まで行ったの?」
「言ってませんでしたっけ」
「二次って聞いてた」
「通りました」
「すごいじゃん」
「まだ結果出てないです」
「でも最終でしょ」
「うん」
琴葉は座る。
店主が何も聞かず紅茶を持ってくる。
「ありがとう」
「今日は疲れてそうだね」
「分かります?」
「顔見れば」
「そんなに?」
「いつもより喋ってない」
「まだ来たばっかですよ」
店主は笑って戻っていった。
「どうだった?」
悠介が聞く。
「分かりません」
「手応え」
「それも分からない」
「何聞かれた?」
「仕事で何をしたいかとか、東京で働くことに抵抗ないかとか」
「何て答えた?」
「ないって」
琴葉は少しだけ視線を落とす。
「本当に?」
「今は」
「そっか」
「変ですか?」
「全然」
悠介は笑う。
「むしろ良かったじゃん。前は住めるか分からないって言ってたのに」
「そうですね」
琴葉も笑った。
けれど、その笑顔には少しだけ緊張が残っていた。
◇
一週間後。
悠介は大学の図書館にいた。
スマートフォンが震える。
琴葉からだった。
『決まりました』
一瞬意味が分からなかった。
『何が?』
『内定』
悠介は画面を見たまま固まった。
すぐに立ち上がる。
図書館を出てから電話をかけた。
「もしもし」
『もしもし』
「本当に?」
『うん』
「おめでとう」
琴葉が笑う声がする。
『ありがとう』
「すごいじゃん」
『自分でもびっくりしてます』
「第一志望?」
少し間がある。
『かなり』
「じゃあ決める?」
『……たぶん』
「いいじゃん」
『うん』
琴葉の声は嬉しそうだった。
それだけで悠介も嬉しかった。
ずっと興味があると言っていた仕事。
インターンへ行った時から楽しそうだった会社。
そこから内定をもらった。
「今日会える?」
悠介が聞く。
『会いたい』
「ひより?」
『うん』
「じゃあ行く」
◇
その日のひよりでは、店主が小さなケーキを出した。
「内定祝い」
「いいんですか?」
琴葉が驚く。
「就職決まった常連には出すことにしてる」
「そんな人いました?」
「今決めた」
悠介が笑う。
「いつもそれですね」
「店主権限」
「ありがとうございます」
三人で笑った。
琴葉は本当に嬉しそうだった。
悠介も、その顔を見ることができてよかったと思った。
「東京かあ」
店主が言う。
「はい」
「寂しくなるね」
「まだ一年ありますよ」
「一年なんて早いよ」
「そんなこと言わないでください」
「本当だよ」
店主は笑いながらカウンターへ戻った。
琴葉と悠介だけになる。
「悠介」
「ん?」
「私、ここにしようと思います」
「うん」
「いい?」
悠介は少し驚いた。
「何で俺に聞くの」
「だって」
琴葉は少し困ったように笑う。
「東京だから」
「関係ないでしょ」
「ありますよ」
「琴葉の仕事じゃん」
「でも」
「行きたいんでしょ」
琴葉は少し黙ってから頷いた。
「行きたい」
「じゃあ行くべきだよ」
「本当に?」
「うん」
「寂しくない?」
悠介は少しだけ考える。
「寂しいとは思う」
「ですよね」
「でも、それで諦めてほしくない」
琴葉は悠介を見る。
「せっかく受かったんだから」
「うん」
「俺が東京に行くわけじゃないけど、会えなくなるわけじゃない」
「うん」
「大丈夫」
また、その言葉だった。
琴葉は少し笑った。
「ありがとう」
「何が?」
「背中押してくれて」
「普通だよ」
「普通じゃないです」
「じゃあ紅茶一杯分くらい感謝して」
「安い」
「十分」
二人は笑った。
その笑顔にはまだ不安より嬉しさの方が大きかった。
◇
今度は悠介の番だった。
四月。
地元企業の最終面接を受けた。
そこは以前から気になっていた会社で、転勤も少なく、待遇も悪くない。
そして何より、この街で働ける。
二日後、内定の連絡が来た。
悠介が最初に連絡したのは琴葉だった。
『決まった』
数秒後。
『本当!?』
『うん』
『おめでとう!』
『ありがとう』
『今日会おう』
『ひより?』
『それ以外あります?』
『ないな』
その日の夕方。
「おめでとう」
琴葉が言った。
「ありがとう」
「よかったですね」
「かなり安心した」
「ここに残れる?」
「うん」
「そうですか」
琴葉は笑った。
「何?」
「いや」
「何かある?」
「ありません」
「絶対ある」
「本当にないです」
悠介は少し考える。
「東京じゃなくてごめん?」
琴葉が驚いた。
「何で謝るんですか」
「いや、ちょっと思っただけ」
「悠介が行きたい会社に決まったんだから、それが一番ですよ」
「琴葉がそう言うなら」
「当たり前です」
琴葉は笑った。
「私の時もそう言ってくれたでしょ」
「そうだった」
「だから同じです」
二人とも、相手の選択を止めなかった。
むしろ心から応援していた。
琴葉は東京へ。
悠介は地元へ。
どちらかが夢を諦めれば一緒にいられたのかもしれない。
けれど、そんなことを望むほど二人は相手を自分のものだと思っていなかった。
だから、この選択を間違いだと感じることはなかった。
◇
大学四年生になった。
二人に残された学生生活は一年。
卒業後の進路はもう決まっている。
ある意味では、就活をしていた頃より穏やかな日々が戻ってきた。
ひよりへ行く回数も増えた。
「暇になりましたね」
琴葉が言う。
「卒論あるけど」
「聞きたくない」
「現実逃避」
「まだ春ですよ」
「教授に早く始めろって言われた」
「それは正しい」
「琴葉は?」
「テーマだけ」
「同じじゃん」
「私は計画的です」
「どこが」
いつもの会話。
いつもの場所。
けれど、店を出れば卒業までの時間が確実に減っていく。
「あと一年ないんですね」
琴葉が言った。
「卒業まで?」
「うん」
「まだ結構あるよ」
「でも去年の一年早かったですよ」
「確かに」
「来年の今頃は東京です」
「社会人」
「嫌だなあ」
「働きたくない?」
「今は」
「内定もらった時あんな喜んでたのに」
「仕事は楽しみです。でも学生終わるのが嫌」
「分かる」
二人は並んで駅へ歩く。
「どこに住むの?」
悠介が聞く。
「会社から通いやすいところ探します」
「一人暮らし?」
「うん」
「今も一人暮らしじゃん」
「東京とは違います」
「何が?」
「家賃」
「現実的」
琴葉が笑う。
「悠介は実家?」
「最初は」
「いいな」
「楽だよ」
「ご飯出てくるし」
「それ目的?」
「大事です」
そんな話をしながら、二人はそれぞれ違う春を想像していた。
◇
六月。
二人が出会ってから二年が経った。
「今日覚えてる?」
琴葉がひよりで聞いた。
「何?」
「二年前」
悠介は少し考える。
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「今の間は忘れてました」
「日付までは覚えてない」
「私もです」
「じゃあいいじゃん」
琴葉が笑う。
「このくらいの時期でしたよね」
「雨だった」
「傘壊れた」
「俺が入れてあげた」
「恩着せがましい」
「それがなかったら付き合ってないかも」
「でも悠介が声かけなかったら私走って駅行ってました」
「風邪引いてたかも」
「そこから人生変わったかも」
「大げさ」
「でも分からないですよ」
琴葉は窓の外を見る。
「人生ってちょっとしたことで変わるのかも」
「文学部っぽい」
「久しぶりに言いましたね」
「懐かしい」
二人で笑う。
出会った頃と同じ窓際。
同じ店。
同じ二人。
そのはずだった。
けれど、二年前にはなかったものが一つだけ増えている。
来年の春、二人は違う街にいる。
◇
夏休み。
二人は一泊だけ旅行へ行った。
遠くではなく、電車で数時間ほどの観光地。
卒業したらなかなか予定が合わなくなるかもしれないから、という理由で琴葉が提案した。
街を歩き、名物を食べ、写真を撮った。
夜にはホテル近くの川沿いを散歩した。
「社会人になったら旅行とかできるかな」
琴葉が言う。
「休み合わせれば」
「会社違うからなあ」
「土日休みでしょ」
「多分」
「俺も」
「じゃあ大丈夫か」
「大丈夫」
またその言葉。
二人は何度もそれを使った。
「東京行ったら遊びに来てくださいね」
「行くよ」
「私もこっち戻ってくる」
「ひより?」
「もちろん」
「店主喜ぶな」
「悠介もでしょ」
「まあ」
「まあ?」
「かなり」
琴葉が笑う。
暗い川面に街の灯りが揺れている。
「どれくらい会えますかね」
「月二回くらい?」
「そんなに?」
「会いたいでしょ」
「会いたいです」
「俺も」
「じゃあ月二回」
「交互に行けばいいじゃん」
「一回は私がこっち」
「一回は俺が東京」
「完璧ですね」
「でしょ」
その場で二人は予定まで考えた。
月に二回会う。
毎日メッセージする。
週末には電話する。
休みが合えば旅行もする。
年末は一緒に過ごす。
誕生日も会う。
ひよりには定期的に戻る。
話せば話すほど、遠距離になっても何も問題がないように思えてきた。
「私たちなら大丈夫な気がする」
琴葉が言った。
「俺も」
本気だった。
何年も付き合ってきた。
大きな喧嘩もない。
嫌いになる理由もない。
だから離れても続く。
そう信じることに、何の不自然さもなかった。
◇
秋。
卒業論文が本格的に忙しくなった。
ひよりで二人が会っていても、会話よりパソコンへ向かう時間の方が長い。
「終わらない」
琴葉が言う。
「まだ三か月ある」
「三か月しかない」
「考え方の違い」
「悠介はどこまで?」
「半分」
「嘘」
「三分の一」
「絶対それ以下」
「鋭いな」
琴葉が笑う。
「卒業できなかったら遠距離じゃなくなりますね」
「それは嫌だな」
「私が東京行って悠介が大学五年生」
「絶対嫌」
「ひより通い放題」
「働きながら戻ってきてよ」
「無理です」
「じゃあ卒業する」
「最初からしてください」
笑う。
そんな冗談さえ言えた。
◇
十一月の終わり。
琴葉の東京での住居が決まった。
「ここ」
ひよりでスマートフォンの地図を見せる。
「会社まで?」
「電車で二十分くらい」
「結構いいじゃん」
「家賃は全然よくないです」
「東京怖い」
「本当に」
写真を見る。
小さなワンルーム。
今の部屋より狭い。
「家具どうするの?」
「ほとんど持っていきます」
「引っ越し大変そう」
「手伝います?」
「行こうか?」
「本当に?」
「卒業後すぐでしょ」
「うん」
「予定合えば」
琴葉が笑う。
「じゃあお願いします」
「荷物持ち?」
「かなり重要です」
「交通費出る?」
「ご飯奢ります」
「じゃあ行く」
「安い」
「十分」
未来の話をしている。
けれど、その未来にはもう「同じ街で」という前提がなかった。
◇
十二月。
三度目のクリスマス。
ひよりのツリーはさらに少し大きくなっていた。
「本当に毎年大きくなってる」
琴葉が言う。
「来年どうするんですか」
店主は少し考える。
「来年は同じやつかな」
「限界?」
「店が狭いからね」
悠介が笑う。
「来年見に来れるかな」
琴葉がツリーを見る。
「来ればいいじゃん」
「仕事始まってるから」
「クリスマス平日?」
スマートフォンで確認する。
「木曜日」
「きついな」
「無理そう」
「じゃあその前の土日」
「悠介が東京来る?」
「それでもいい」
「じゃあ決まり」
「まだ一年先だけど」
「予定は早めに」
「仕事の予定分からないよ」
「まあ、その時決めましょう」
「うん」
少しずつ、二人の約束には「絶対」ではなく「その時決めよう」が増えていた。
けれど二人とも、それを気にしてはいなかった。
◇
二月。
卒論が終わった。
「終わった!」
琴葉がひよりの扉を開けるなり言った。
「声大きい」
「本当に終わったんです」
「お疲れ」
「悠介は?」
「昨日出した」
「言ってくださいよ」
「琴葉必死だったから」
「じゃあ今日は何もしなくていい?」
「いいんじゃない」
「最高」
久しぶりに二人はパソコンを開かなかった。
ただ珈琲と紅茶を飲み、何時間も話した。
卒業旅行。
引っ越し。
会社の研修。
入社式。
新しい生活。
「もう一か月ちょっとですよ」
琴葉が言う。
「卒業?」
「引っ越し」
「早いね」
「実感ない」
「俺も」
「本当に東京行くんだな」
琴葉は自分に言い聞かせるように呟いた。
「怖い?」
「少し」
「大丈夫だよ」
「またそれ」
「大丈夫だから」
「悠介が言うと何とかなる気がする」
「でしょ」
「根拠ないのに」
「根拠なくてもいいじゃん」
琴葉が笑う。
「そうかも」
◇
三月。
卒業式の日。
二人は大学の正門前で写真を撮った。
琴葉は式典用の服を着ていて、悠介は慣れないスーツ姿だった。
「似合ってますね」
琴葉が言う。
「仕事始まったら毎日これ」
「嫌になりそう」
「絶対なる」
「私は私服だから」
「いいな」
友人たちと写真を撮り、教授へ挨拶し、大学の中を歩く。
最後に二人で中庭の桜を見た。
まだ満開ではない。
蕾が開き始めた程度だった。
「去年、来年も見るって言いましたよね」
琴葉が言う。
「見たじゃん」
「来年は?」
「また来よう」
「本当に?」
「来れるでしょ」
「東京からですよ」
「春なら休みあるでしょ」
「じゃあ約束」
「うん」
悠介は桜を見る。
「来年も」
「来年も」
二人で笑った。
その言葉を、この頃はまだ自然に信じられた。
◇
卒業式から一週間後。
琴葉の引っ越しの日が来た。
悠介は約束通り手伝った。
荷物を積み、電車に乗り、東京へ向かう。
新しい部屋は写真で見た通り小さかった。
「本当に狭い」
悠介が言う。
「言わないでください」
「これ全部入る?」
「入れます」
「ベッド置いたら終わりじゃん」
「ひよりの窓際より広いです」
「比較対象おかしいでしょ」
二人で荷物を運び、家具を組み立て、段ボールを開ける。
夕方には何とか生活できそうな形になった。
「疲れた」
悠介が床へ座る。
「ありがとうございます」
「ご飯奢って」
「覚えてた」
「それ目的で来たから」
「嘘」
琴葉が笑う。
その夜は近所の定食屋へ行った。
食べ終わって部屋へ戻る頃には、外は暗くなっていた。
「明日帰るんですよね」
琴葉が言う。
「うん」
「何時?」
「昼くらい」
「そっか」
少しだけ沈黙。
「急に寂しくなりました」
琴葉が笑う。
「昨日まで平気だったのに」
「俺も」
「本当に始まるんですね」
「何が?」
「遠距離」
悠介は頷く。
「始まるね」
「大丈夫かな」
琴葉が言う。
今まで何度も聞いた質問。
悠介はいつものように答えた。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「うん」
「ちゃんと会いに来てくださいね」
「行く」
「電話も」
「する」
「メッセージも」
「するって」
琴葉が笑う。
「しつこい?」
「ちょっと」
「不安なんです」
「分かってる」
悠介は琴葉の手を握った。
「大丈夫」
「……うん」
それ以上は何も言わなかった。
◇
翌日。
東京駅。
悠介が地元へ戻る電車の時間が近づいていた。
「じゃあ」
「うん」
琴葉が少しだけ笑う。
「次いつ会います?」
「二週間後?」
「悠介来れる?」
「土曜なら」
「じゃあ二週間後」
「うん」
「長いですね」
「電話するでしょ」
「します」
電車の案内が流れる。
悠介は改札へ向かう。
数歩歩いて振り返る。
琴葉がまだそこにいる。
「琴葉」
「何?」
「頑張って」
「悠介も」
「うん」
少し間がある。
そして琴葉が笑った。
「また明日」
悠介も笑う。
「会えないじゃん」
「電話するから」
「そっか」
「だから」
琴葉がもう一度言う。
「また明日」
「うん」
悠介も返した。
「また明日」
いつもの言葉。
これまで何百回も交わしてきた言葉。
でも、その日から二人にとって「また明日」は、同じ場所で会うという意味ではなくなった。
声を聞く。
メッセージを送る。
画面の向こうで一日の出来事を話す。
それでも明日につながっているのだから大丈夫だと、二人は信じていた。
電車が動き出す。
悠介は窓の外を見る。
東京の街が少しずつ遠ざかっていく。
琴葉は東京。
悠介は地元。
二人が選んだ道は、とうとう違う街へ続いた。
それでも気持ちは何も変わっていない。
好きだった。
会いたかった。
これからも一緒にいたかった。
だから悠介は、遠ざかる景色を見ながら本気で思っていた。
距離くらいなら、きっと何とかなる。
好きなままでいられるなら、二人は大丈夫だと。
そして琴葉もきっと、同じことを思っていた。
まだ二人は知らなかった。
離れてしまった二人を少しずつ遠ざけていくのは、距離そのものではないということを。
――第八章「大丈夫だと思っていた」へ続く。