いつもの席で、また明日
第八章 大丈夫だと思っていた
第八章 大丈夫だと思っていた
四月。
悠介は社会人になった。
入社式の日、慣れないスーツの襟元を何度も直しながら会社へ向かい、配属先で名前を呼ばれ、説明を聞き、知らない人たちに囲まれて一日を過ごした。
大学へ行けば誰か知っている人がいて、講義が終わればその日の予定を自分で決められた頃とは違い、朝から夕方まで同じ建物の中で過ごすだけで、帰宅する頃には思っていた以上に疲れていた。
琴葉も同じだった。
『終わった』
午後七時十二分。
悠介が会社を出たところでメッセージが届いた。
『俺も今終わった』
『疲れた』
『俺も』
『社会人やめたい』
『まだ三日目』
『三日も頑張った』
『偉い』
『悠介も』
画面を見ながら少し笑う。
以前なら、このあとひよりへ向かっていた。
琴葉が窓際で待っていて、今日あったことを直接話していたはずだった。
けれど今は、悠介のいる駅と琴葉のいる駅は何百キロも離れている。
それでも不思議と、寂しさはまだそれほど強くなかった。
夜になれば電話をする予定だったから。
『今日何時電話する?』
悠介が送る。
『10時くらい?』
『了解』
『寝ないでくださいね』
『それは琴葉でしょ』
『今日は大丈夫』
『昨日寝落ちした人が言う?』
『昨日は疲れてただけ』
『今日も疲れてるじゃん』
『今日は頑張る』
そんなやり取りも、以前と変わらなかった。
◇
午後十時。
悠介が電話をかける。
『もしもし』
「お疲れ」
『お疲れさま』
「どうだった?」
『今日はずっと研修でした』
「俺も」
『何の?』
「社内システムとか、電話対応とか」
『私、名刺交換やりました』
「難しい?」
『何か動き決まってる』
「マナー講師みたいな?」
『そう。名刺の高さまで言われました』
「大変だな」
『悠介は?』
「コピー機の使い方覚えた」
『大学生でもできます』
「会社のコピー機は違うんだよ」
『何が?』
「……速い」
琴葉が笑う。
久しぶりに聞いた笑い声ではない。
昨日も聞いた。
一昨日も聞いた。
それでも、声を聞くと少し安心した。
二人は一時間ほど話した。
会社の人。
昼食。
上司。
電車の混み方。
琴葉の部屋の近くに見つけたスーパー。
悠介の会社近くにある定食屋。
話題は大学時代と少し変わったけれど、会話そのものは変わらなかった。
「明日も?」
『電話?』
「うん」
『もちろん』
「じゃあ十時」
『はい』
「おやすみ」
『おやすみ』
そして琴葉がいつものように言う。
『また明日』
「また明日」
通話を切る。
悠介はベッドへ横になった。
遠距離恋愛。
始まる前はもっと大変だと思っていた。
でも、これなら大丈夫だ。
毎日話せる。
互いの一日も分かる。
会えなくても、つながっていられる。
そう思った。
◇
二週間後。
約束通り、悠介は東京へ行った。
土曜日の朝。
新幹線を降り、改札を抜けると琴葉が待っていた。
「久しぶり」
琴葉が笑う。
「二週間だけだけど」
「長かったです」
「俺も」
会った瞬間、離れていた時間が一気になくなったように感じた。
「何します?」
「何でも」
「せっかく東京来たのに?」
「琴葉がいればいい」
「……久しぶりに会ったからって急にそういうこと言いますね」
「本当だし」
琴葉は少しだけ照れたように笑った。
街を歩いた。
昼を食べた。
琴葉が気になっていた本屋へ行った。
新しい部屋にも寄った。
「ちょっと生活感出てきた」
「一か月住んでますから」
「前もっと段ボールあった」
「全部片づけました」
「偉い」
「悠介に言われたくない」
「俺の部屋知ってるみたいに言うな」
「写真で見た」
「いつ?」
「この前電話した時」
「そこまで見えてた?」
「床に服ありました」
「忘れて」
笑う。
大学時代の休日と何も変わらない。
夕方になるまで二人はずっと話していた。
「次は私が行きます」
帰り際、琴葉が言った。
「いつ?」
「二週間後」
「大丈夫?」
「土曜休みなので」
「じゃあひより行こう」
「絶対」
「店主に連絡しとく?」
「何で」
「琴葉帰ってくるって」
「普通に行けばいいです」
「驚かせる?」
「そんな大げさな」
二人は笑った。
たった二週間。
それなら耐えられる。
月に二回会うという約束は、ちゃんと守れそうだった。
◇
けれど五月に入ると、少しずつ状況が変わった。
『ごめん』
金曜日の夜。
琴葉から突然メッセージが届いた。
『明日行けなくなった』
悠介は画面を見る。
明日は琴葉がこちらへ来る予定だった。
『仕事?』
『うん』
『休日出勤?』
『研修みたいなの入った』
『そっか』
『本当にごめん』
『大丈夫だよ』
『ひより行きたかった』
『また次行けばいい』
『うん』
仕方がない。
仕事なのだから。
そう思った。
翌日、悠介は一人でひよりへ行った。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「一人?」
「琴葉仕事です」
「ああ、そうなんだ」
悠介はいつもの窓際へ座った。
向かいの席が空いている。
「珈琲?」
「お願いします」
店主がカウンターへ戻る。
以前も琴葉がいない日に一人で来ることはあった。
それなのに、その日は妙に店が静かに感じた。
窓の外を見る。
スマートフォンを見る。
琴葉からはまだ連絡がない。
当然だ。
仕事中なのだから。
悠介は珈琲を飲みながら、何となく向かいの椅子を見た。
別に、一度予定が変わっただけだった。
こんなことはこれから何度もある。
社会人なのだから。
大丈夫。
そう思った。
◇
六月。
二人が出会ってから三年目の梅雨が来た。
雨の日。
悠介は会社を出ると、駅まで傘を差して歩いた。
ふと、あの日のことを思い出す。
壊れた折り畳み傘。
ひより。
駅までの相合い傘。
宮下琴葉という名前を初めて知った日。
悠介はスマートフォンを取り出した。
『今日雨すごい』
少しして返事が来る。
『東京も』
『傘壊れてない?』
五分。
返信がない。
十分。
二十分。
電車へ乗る。
ようやくスマートフォンが震えた。
『懐かしい』
続いて、
『今仕事終わった』
『遅かったね』
『締切近くて』
『お疲れ』
『悠介は?』
『帰り』
『電話する?』
『したい』
『家着いたら連絡する』
『了解』
悠介は少し嬉しくなった。
その日は久しぶりにゆっくり話せると思った。
しかし午後十時半を過ぎても、琴葉から連絡は来なかった。
十一時。
『まだ?』
送る。
既読はつかない。
十一時四十分。
悠介はベッドに入りながらスマートフォンを見る。
電話をしようか迷った。
けれど疲れているのかもしれない。
そのまま待っているうちに、悠介も眠ってしまった。
◇
翌朝。
六時四十分。
琴葉からメッセージが来ていた。
『ごめん、寝てた』
『昨日本当に疲れてて』
『電話したかった』
悠介は返信する。
『大丈夫』
『今日する?』
しばらくして、
『今日は会社の人とご飯かも』
『そっか』
『まだ分からない』
『行ってきなよ』
『ごめん』
『謝らなくていいって』
本当に、謝ることではなかった。
会社の人と食事へ行く。
仕事で疲れて寝る。
当たり前のことだった。
それなのに悠介は、スマートフォンを置いたあと少しだけ物足りなさを感じていた。
◇
変化は、いつも小さかった。
ある日は悠介が残業になった。
『今日遅くなる』
『何時?』
『分からない』
『そっか』
『先寝てて』
『分かりました』
帰宅したのは午後十一時。
『終わった』
送っても返事はなかった。
翌朝。
『ごめん寝てた』
『大丈夫』
また別の日。
琴葉から、
『今日電話できる?』
と来た時、悠介は会社の先輩たちとの飲み会に参加していた。
『今日は無理かも』
『そっか』
『明日は?』
『明日は早いから寝るかも』
『了解』
二日話さなかった。
以前なら考えられなかった。
大学時代は一日会えないだけでも電話をしていた。
でも社会人になれば、二日くらい普通なのだと思った。
三日になった。
その次の週は四日話さなかった。
それでもメッセージは続いていた。
『おはよう』
『おはよう』
『今日暑い』
『こっちも』
『頑張ろう』
『うん』
短い。
でも途切れてはいない。
だから大丈夫だと思った。
◇
七月。
琴葉が久しぶりに地元へ戻ってきた。
駅で会った瞬間、悠介は思わず笑った。
「久しぶり」
琴葉も笑う。
「一か月ぶり?」
「それくらい」
「長かった」
「ですね」
少しだけ違和感があった。
何が違うのか分からない。
琴葉の髪が少し短くなっていた。
「髪切った?」
「あ」
琴葉が触れる。
「気づいた」
「いつ?」
「二週間前」
「言ってよ」
「電話してないから」
「写真送ればよかった」
「送って」
「もう遅いですよ」
笑う。
その違和感はすぐ消えた。
ひよりへ向かう。
店主が二人を見る。
「久しぶり」
「久しぶりです」
琴葉が笑う。
「東京の人になったね」
「どういう意味ですか」
「何となく」
「変わりました?」
「ちょっとだけ」
「何が?」
「顔かな」
「疲れてるだけです」
「それはありそう」
三人で笑った。
いつもの席へ座る。
「やっぱり落ち着く」
琴葉が言う。
「でしょ」
「東京にも喫茶店いっぱいあるんですけど」
「浮気してる」
「喫茶店に浮気ってあるんですか」
「ひより一筋じゃないと」
店主がカウンターから言う。
「僕は気にしないよ」
「店主が言う?」
「色々行って戻ってきてくれれば」
「余裕だな」
琴葉が笑う。
その笑い声を聞きながら、悠介は安心していた。
何も変わっていない。
会えばいつも通りだ。
離れている時に少しくらい連絡が減っても、会えば元に戻る。
だから大丈夫だった。
◇
その日の帰り。
二人は駅までゆっくり歩いた。
「最近忙しい?」
悠介が聞く。
「結構」
「何時くらいまで?」
「日によります。八時とか九時とか」
「大変だな」
「でも楽しいですよ」
「本当に?」
「うん」
琴葉の声には嘘がなかった。
「編集の仕事、向いてるかも」
「よかったじゃん」
「まだ全然ですけど」
「でもやりたかった仕事でしょ」
「うん」
琴葉は少し嬉しそうに笑った。
その表情を見て、悠介も嬉しかった。
「悠介は?」
「俺?」
「仕事どうですか」
「まあまあ」
「それだけ?」
「慣れてきた」
「楽しい?」
「楽しいっていうか」
少し考える。
「ちゃんとできること増えると嬉しい」
「分かります」
「最近先輩に任される仕事増えて」
「いいですね」
「残業も増えたけど」
「それは嫌」
「仕方ない」
二人とも仕事の話をする。
大学時代とは違う世界。
互いの知らない人たち。
知らない場所。
知らない時間。
以前は相手の一日の大半を何となく想像できた。
何限がある。
昼は食堂。
三限が終わればひより。
金曜はアルバイト。
今は違う。
琴葉が会社で誰と話し、何をして、どんなふうに一日を過ごしているのか、悠介にはほとんど分からない。
琴葉もきっと同じだった。
それでも、そのことを寂しいとは言わなかった。
大人になるとは、そういうことなのだと思っていた。
◇
八月。
悠介の誕生日。
琴葉は来られなかった。
仕事が忙しい時期と重なっていた。
『本当にごめん』
『大丈夫だって』
『来週なら行ける』
『じゃあ来週で』
『誕生日なのに』
『毎年来るから』
送ってから、悠介は少し笑った。
毎年来る。
何となくそう書いただけだった。
『そうですね』
琴葉から返ってくる。
『来年は絶対当日』
『再来年は?』
『もちろん』
『じゃあ許す』
『何様ですか』
『誕生日の人』
『今日だけですね』
『あと三時間』
『短い』
その夜、琴葉から電話が来た。
『おめでとう』
「ありがとう」
『何歳でしたっけ』
「忘れた?」
『82』
「まだそれ覚えてるの?」
懐かしいやり取りだった。
二人とも笑った。
その声を聞いていれば、会えなかったことなどどうでもよく思えた。
◇
秋。
今度は悠介が東京へ行く予定をキャンセルした。
金曜の夕方、上司から月曜日までに必要な資料の修正を頼まれた。
土曜に出勤しなければ間に合わない。
琴葉へ電話する。
『もしもし』
「ごめん」
『どうしました?』
「明日行けない」
少し沈黙。
『仕事?』
「うん」
『そっか』
「本当にごめん」
『大丈夫ですよ』
「来週は?」
『来週、私仕事です』
「再来週?」
『たぶん大丈夫』
「じゃあそこ」
『うん』
「ごめんね」
『謝らなくていいです』
琴葉が笑う。
『仕事ですから』
その言葉は、以前悠介が琴葉に何度も言ったものだった。
仕方がない。
仕事だから。
大人だから。
二人とも理解していた。
理解できるからこそ、怒る理由がなかった。
◇
再来週。
琴葉が体調を崩した。
『ごめん』
『大丈夫?』
『熱はないけど疲れてる』
『寝た方がいい』
『会いたかった』
『また今度』
『うん』
さらにその翌週は、悠介に家族の予定が入った。
結局、二人が会えたのは二か月近く経ってからだった。
◇
十一月。
東京。
悠介は駅の改札で琴葉を待っていた。
人の波の中から彼女が現れる。
「ごめん、待った?」
「十分くらい」
「電車遅れて」
「大丈夫」
二人は歩き始める。
久しぶりだった。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
でも、以前のように一瞬で空白が消える感じがしなかった。
「仕事どう?」
悠介が聞く。
「忙しいです」
「まだ?」
「年末近いから」
「そっか」
「悠介は?」
「俺も」
「そうですよね」
会話が続かない。
気まずいわけではない。
ただ、話したいことが多すぎて、どこから話せばいいのか分からなかった。
「前行った店行く?」
琴葉が聞く。
「どこだっけ」
「本屋の近く」
「ああ」
「覚えてない?」
「覚えてる」
「ならよかった」
琴葉が笑う。
その笑顔を見ながら、悠介は少しだけ自分を責めた。
二か月ぶりなのに。
もっと嬉しそうにしなければ。
もっと話さなければ。
久しぶりに会えたのだから。
けれど気持ちは、命令して動かせるものではなかった。
◇
夕方。
二人は琴葉の部屋へ戻った。
「珈琲飲みます?」
「うん」
琴葉が湯を沸かす。
悠介は部屋を見回した。
家具が増えている。
本も増えた。
壁には会社でもらったらしいカレンダー。
机の上には仕事用の資料。
「完全に琴葉の部屋になったね」
「半年以上住んでますから」
「最初何もなかったのに」
「悠介が棚組み立ててくれましたよね」
「懐かしい」
「まだ使ってます」
「壊れてない?」
「失礼」
二人は笑う。
珈琲を飲む。
窓の外はもう暗かった。
「悠介」
「ん?」
「最近、電話減りましたよね」
悠介はカップを置く。
「うん」
「忙しい?」
「それもある」
「それも?」
「帰ると疲れて寝ちゃう」
「分かります」
琴葉も頷いた。
「私もです」
「だよね」
「電話しようと思ってても、帰ってご飯食べたら十時とかで」
「そこから風呂入ったら十一時」
「そう」
「分かる」
また沈黙。
「でも」
琴葉が言う。
「前はそれでも電話してましたよね」
悠介は少しだけ考える。
「してたね」
「一時間とか」
「うん」
「最近はメッセージだけ」
「……うん」
責められている感じはなかった。
琴葉自身も同じことをしている。
「仕方ないよ」
悠介が言った。
「社会人だし」
「うん」
「会えてるし」
「今日は」
「また会えるよ」
「うん」
琴葉は笑う。
「大丈夫ですよね」
悠介も笑った。
「大丈夫」
その言葉を口にする回数が増えていた。
本当に大丈夫な時には、たぶんそんなに何度も確認する必要はなかった。
◇
十二月。
クリスマスが近づいていた。
以前約束していた通り、どちらかが会いに行くつもりだった。
『23日どう?』
悠介が送る。
数時間後。
『ごめん、その週かなり忙しい』
『24は?』
『多分残業』
『25?』
『平日だから厳しい』
『そっか』
『悠介は?』
『23なら休み』
『年末は?』
『29から』
『私28から』
『じゃあ29?』
『実家帰る予定』
『そっか』
少し間を置いて琴葉から届く。
『今年無理かも』
悠介は画面を見た。
去年。
一昨年。
ひより。
小さなツリー。
珈琲と紅茶。
手袋。
マフラー。
来年も。
そう言っていた。
『仕方ないね』
送る。
『ごめん』
『謝らなくていい』
『電話しよう』
『うん』
それでいい。
会えなくても電話すればいい。
そう思った。
◇
十二月二十四日。
午後十時。
悠介は自宅にいた。
琴葉からメッセージ。
『今終わりました』
『お疲れ』
『ごめん、遅くなった』
『大丈夫』
『電話する?』
悠介はスマートフォンを見る。
明日は朝が早い。
今日も残業だった。
眠い。
でも今日はクリスマスイブだ。
『少しだけ』
電話をかける。
『もしもし』
「お疲れ」
『お疲れさま』
「メリークリスマス?」
『疑問形』
「一応」
『メリークリスマス』
琴葉が笑う。
「仕事どうだった?」
『最悪です』
「忙しかった?」
『ずっと修正』
「大変だな」
『悠介は?』
「俺も残業」
『お疲れさま』
「うん」
少し沈黙。
以前なら、沈黙も心地よかった。
今は少しだけ焦る。
何か話さなければと思う。
『今年ひより行けませんでしたね』
琴葉が言う。
「そうだね」
『ツリー見たかった』
「店主に写真送ってもらう?」
『連絡先知らないです』
「俺も知らない」
『来年は行きましょう』
「うん」
『絶対』
「うん」
悠介は答えた。
でも、その「絶対」は以前より少しだけ弱かった。
電話を切ったのは二十分後だった。
『おやすみ』
「おやすみ」
少し間がある。
『また明日』
琴葉が言った。
「うん」
悠介も答える。
「また明日」
通話が終わる。
明日も会わない。
電話をする予定もない。
それでも昔からの癖で、その言葉だけは残っていた。
◇
年が明けた。
二人は付き合って三年目に入っていた。
嫌いになったわけではない。
むしろ、久しぶりに琴葉の写真を見ると会いたくなる。
声を聞けば安心する。
何か嬉しいことがあれば伝えたいと思う。
琴葉もきっと同じだった。
ただ、その「伝えたい」がすぐに「伝える」へ変わらなくなっていた。
仕事中だから。
疲れているだろうから。
明日でいい。
今度会った時でいい。
そんなふうに後回しにしているうちに、話さないまま終わることが少しずつ増えていった。
◇
二月。
悠介は仕事で小さな成果を出した。
担当していた案件が無事に終わり、上司から初めてしっかり褒められた。
嬉しかった。
会社を出た瞬間、誰かに話したいと思った。
スマートフォンを取り出す。
琴葉の名前が一番に浮かんだ。
けれど時計を見る。
午後九時二十分。
今日は忙しいと言っていた。
悠介はメッセージ画面を開き、
『今日仕事で』
まで打って止めた。
また今度でいいか。
消した。
翌日になれば、嬉しさは少し落ち着いていた。
結局その話を琴葉にはしなかった。
◇
同じ頃。
琴葉から電話が来た。
「もしもし」
『今大丈夫?』
「大丈夫」
『今日ね』
「うん」
『私が考えた企画、通ったんです』
「本当に?」
『うん』
「すごいじゃん」
『まだ小さい企画ですけど』
「でも通ったんでしょ」
『うん』
琴葉は嬉しそうだった。
「おめでとう」
『ありがとう』
「よかったね」
『うん』
少し沈黙。
『悠介に一番に言おうと思って』
悠介は胸の奥が少し痛くなった。
「ありがとう」
『何が?』
「言ってくれて」
『普通でしょ』
「うん」
普通。
以前ならそうだった。
嬉しいことがあれば一番に話す。
悲しいことも。
腹が立ったことも。
くだらないことも。
でも自分は昨日、話さなかった。
「俺もさ」
『うん』
言おうとする。
「昨日仕事で」
『ごめん』
「え?」
『ちょっと待って』
電話の向こうから別の音がする。
『会社から電話』
「あ、うん」
『またかける』
「分かった」
通話が切れた。
その夜、琴葉から電話は来なかった。
翌朝。
『ごめん、そのまま寝た』
『大丈夫』
悠介はそれだけ返した。
昨日の仕事の話は、またしなかった。
◇
三月。
久しぶりに琴葉が地元へ帰ってきた。
二人はひよりへ行った。
店主は二人を見るなり笑った。
「久しぶりだね」
「すみません」
琴葉が言う。
「謝らなくていいよ。忙しいんでしょ」
「かなり」
「悠介くんはたまに来てるけどね」
琴葉が悠介を見る。
「来てるんだ」
「月一くらい」
「言ってくれればいいのに」
「言ってなかった?」
「聞いてない」
「そっか」
些細なことだった。
それでも、互いに知らないことが増えている。
琴葉が最近よく行く昼食の店。
悠介が会社で仲良くなった同期。
琴葉が髪を切った日。
悠介が新しい財布を買ったこと。
以前なら知っていたはずの、小さな日常。
「いつもの?」
店主が聞く。
「はい」
二人同時に答える。
店主が笑った。
「そこは変わらないね」
珈琲と紅茶。
いつもの窓際。
二人は向かい合う。
「懐かしいですね」
琴葉が言う。
「まだそんな経ってないよ」
「でも大学の時、毎週ここにいたじゃないですか」
「毎週どころじゃなかった」
「ですよね」
琴葉が窓の外を見る。
「よく飽きなかったですね」
「何に?」
「ここ」
「飽きないよ」
「私にも?」
悠介は顔を上げた。
琴葉は冗談っぽく笑っている。
「何それ」
「何となく」
「飽きてないよ」
「本当?」
「本当」
琴葉は少し笑った。
「よかった」
悠介も笑う。
それは嘘ではなかった。
飽きていない。
嫌いでもない。
今も好きだ。
なのに、昔と同じではなかった。
◇
店を出たあと、二人は駅まで歩いた。
出会った頃から何度歩いたか分からない道。
商店街の店はいくつか変わっていた。
新しい店ができ、昔あった文具店が閉まり、角の看板も新しくなっている。
「ここ、変わりましたね」
琴葉が言う。
「先月閉まった」
「知らなかった」
「長かったよね」
「ありました。大学の時から」
少し歩く。
「悠介」
「ん?」
「私たちも変わりました?」
悠介はすぐには答えなかった。
「社会人にはなった」
「そうじゃなくて」
琴葉は前を向いたままだった。
「前より話さなくなりましたよね」
「うん」
「会う回数も」
「うん」
「でも」
琴葉が言葉を探す。
「嫌いになったわけじゃないですよね」
「もちろん」
悠介はすぐに答えた。
そこだけは迷わなかった。
「琴葉は?」
「なってないです」
「なら大丈夫でしょ」
悠介が言う。
少し前までなら、その一言で琴葉も笑っていた。
でもその日は、すぐには返事がなかった。
「……そうですね」
やがて琴葉が言う。
「大丈夫ですよね」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
◇
駅へ着く。
琴葉が東京へ戻る電車はもうすぐだった。
「次いつ会えるかな」
悠介が聞く。
「四月は忙しいかも」
「俺も年度初め忙しい」
「五月?」
「ゴールデンウィーク?」
「実家帰ると思います」
「じゃあその時」
「会えたら」
悠介はその言葉に少しだけ引っかかった。
「会えたら?」
「家族の予定もまだ分からないから」
「ああ」
「分かったら連絡します」
「うん」
電車が来る。
琴葉が乗る。
ドアの前で振り返る。
「じゃあ」
「うん」
いつもなら、ここで言う。
また明日。
琴葉もその言葉を口にしかけたように見えた。
けれど少しだけ迷った。
「……また連絡します」
悠介も一瞬だけ黙った。
「うん」
「悠介も」
「分かった」
「じゃあ」
「気をつけて」
「はい」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介はその場に立ったまま、遠ざかる車両を見ていた。
何かが変わった。
大きな出来事は何もない。
喧嘩もしていない。
傷つけるような言葉も言っていない。
他に好きな人ができたわけでもない。
ただ、最後に「また明日」と言わなかった。
それだけだった。
たった一言。
それなのに悠介は、その日の帰り道で何度も思い出した。
また連絡する。
昔ならそんな言葉は必要なかった。
連絡するのが当たり前だったから。
明日につながっていることを確認する必要もなかった。
それでも二人はまだ、終わりを考えてはいなかった。
忙しいだけ。
慣れれば戻る。
仕事が落ち着けばまた会える。
前みたいに話せるようになる。
そう思っていた。
大丈夫だと思っていた。
何度もそう言ってきた。
好きなのだから大丈夫。
離れていても大丈夫。
会えなくても大丈夫。
電話が減っても大丈夫。
話せない日が続いても大丈夫。
けれど二人が気づかないうちに、その言葉はいつの間にか、自信ではなく願いへ変わっていた。
大丈夫だから言っているのではない。
大丈夫であってほしいから、言っていた。
そして春が近づく頃、悠介も琴葉も薄々分かり始めていた。
このまま何もしなければ、二人は嫌いになるより先に、互いの日常から少しずついなくなってしまうのかもしれないと。
――第九章「嫌いじゃないから」へ続く。
四月。
悠介は社会人になった。
入社式の日、慣れないスーツの襟元を何度も直しながら会社へ向かい、配属先で名前を呼ばれ、説明を聞き、知らない人たちに囲まれて一日を過ごした。
大学へ行けば誰か知っている人がいて、講義が終わればその日の予定を自分で決められた頃とは違い、朝から夕方まで同じ建物の中で過ごすだけで、帰宅する頃には思っていた以上に疲れていた。
琴葉も同じだった。
『終わった』
午後七時十二分。
悠介が会社を出たところでメッセージが届いた。
『俺も今終わった』
『疲れた』
『俺も』
『社会人やめたい』
『まだ三日目』
『三日も頑張った』
『偉い』
『悠介も』
画面を見ながら少し笑う。
以前なら、このあとひよりへ向かっていた。
琴葉が窓際で待っていて、今日あったことを直接話していたはずだった。
けれど今は、悠介のいる駅と琴葉のいる駅は何百キロも離れている。
それでも不思議と、寂しさはまだそれほど強くなかった。
夜になれば電話をする予定だったから。
『今日何時電話する?』
悠介が送る。
『10時くらい?』
『了解』
『寝ないでくださいね』
『それは琴葉でしょ』
『今日は大丈夫』
『昨日寝落ちした人が言う?』
『昨日は疲れてただけ』
『今日も疲れてるじゃん』
『今日は頑張る』
そんなやり取りも、以前と変わらなかった。
◇
午後十時。
悠介が電話をかける。
『もしもし』
「お疲れ」
『お疲れさま』
「どうだった?」
『今日はずっと研修でした』
「俺も」
『何の?』
「社内システムとか、電話対応とか」
『私、名刺交換やりました』
「難しい?」
『何か動き決まってる』
「マナー講師みたいな?」
『そう。名刺の高さまで言われました』
「大変だな」
『悠介は?』
「コピー機の使い方覚えた」
『大学生でもできます』
「会社のコピー機は違うんだよ」
『何が?』
「……速い」
琴葉が笑う。
久しぶりに聞いた笑い声ではない。
昨日も聞いた。
一昨日も聞いた。
それでも、声を聞くと少し安心した。
二人は一時間ほど話した。
会社の人。
昼食。
上司。
電車の混み方。
琴葉の部屋の近くに見つけたスーパー。
悠介の会社近くにある定食屋。
話題は大学時代と少し変わったけれど、会話そのものは変わらなかった。
「明日も?」
『電話?』
「うん」
『もちろん』
「じゃあ十時」
『はい』
「おやすみ」
『おやすみ』
そして琴葉がいつものように言う。
『また明日』
「また明日」
通話を切る。
悠介はベッドへ横になった。
遠距離恋愛。
始まる前はもっと大変だと思っていた。
でも、これなら大丈夫だ。
毎日話せる。
互いの一日も分かる。
会えなくても、つながっていられる。
そう思った。
◇
二週間後。
約束通り、悠介は東京へ行った。
土曜日の朝。
新幹線を降り、改札を抜けると琴葉が待っていた。
「久しぶり」
琴葉が笑う。
「二週間だけだけど」
「長かったです」
「俺も」
会った瞬間、離れていた時間が一気になくなったように感じた。
「何します?」
「何でも」
「せっかく東京来たのに?」
「琴葉がいればいい」
「……久しぶりに会ったからって急にそういうこと言いますね」
「本当だし」
琴葉は少しだけ照れたように笑った。
街を歩いた。
昼を食べた。
琴葉が気になっていた本屋へ行った。
新しい部屋にも寄った。
「ちょっと生活感出てきた」
「一か月住んでますから」
「前もっと段ボールあった」
「全部片づけました」
「偉い」
「悠介に言われたくない」
「俺の部屋知ってるみたいに言うな」
「写真で見た」
「いつ?」
「この前電話した時」
「そこまで見えてた?」
「床に服ありました」
「忘れて」
笑う。
大学時代の休日と何も変わらない。
夕方になるまで二人はずっと話していた。
「次は私が行きます」
帰り際、琴葉が言った。
「いつ?」
「二週間後」
「大丈夫?」
「土曜休みなので」
「じゃあひより行こう」
「絶対」
「店主に連絡しとく?」
「何で」
「琴葉帰ってくるって」
「普通に行けばいいです」
「驚かせる?」
「そんな大げさな」
二人は笑った。
たった二週間。
それなら耐えられる。
月に二回会うという約束は、ちゃんと守れそうだった。
◇
けれど五月に入ると、少しずつ状況が変わった。
『ごめん』
金曜日の夜。
琴葉から突然メッセージが届いた。
『明日行けなくなった』
悠介は画面を見る。
明日は琴葉がこちらへ来る予定だった。
『仕事?』
『うん』
『休日出勤?』
『研修みたいなの入った』
『そっか』
『本当にごめん』
『大丈夫だよ』
『ひより行きたかった』
『また次行けばいい』
『うん』
仕方がない。
仕事なのだから。
そう思った。
翌日、悠介は一人でひよりへ行った。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「一人?」
「琴葉仕事です」
「ああ、そうなんだ」
悠介はいつもの窓際へ座った。
向かいの席が空いている。
「珈琲?」
「お願いします」
店主がカウンターへ戻る。
以前も琴葉がいない日に一人で来ることはあった。
それなのに、その日は妙に店が静かに感じた。
窓の外を見る。
スマートフォンを見る。
琴葉からはまだ連絡がない。
当然だ。
仕事中なのだから。
悠介は珈琲を飲みながら、何となく向かいの椅子を見た。
別に、一度予定が変わっただけだった。
こんなことはこれから何度もある。
社会人なのだから。
大丈夫。
そう思った。
◇
六月。
二人が出会ってから三年目の梅雨が来た。
雨の日。
悠介は会社を出ると、駅まで傘を差して歩いた。
ふと、あの日のことを思い出す。
壊れた折り畳み傘。
ひより。
駅までの相合い傘。
宮下琴葉という名前を初めて知った日。
悠介はスマートフォンを取り出した。
『今日雨すごい』
少しして返事が来る。
『東京も』
『傘壊れてない?』
五分。
返信がない。
十分。
二十分。
電車へ乗る。
ようやくスマートフォンが震えた。
『懐かしい』
続いて、
『今仕事終わった』
『遅かったね』
『締切近くて』
『お疲れ』
『悠介は?』
『帰り』
『電話する?』
『したい』
『家着いたら連絡する』
『了解』
悠介は少し嬉しくなった。
その日は久しぶりにゆっくり話せると思った。
しかし午後十時半を過ぎても、琴葉から連絡は来なかった。
十一時。
『まだ?』
送る。
既読はつかない。
十一時四十分。
悠介はベッドに入りながらスマートフォンを見る。
電話をしようか迷った。
けれど疲れているのかもしれない。
そのまま待っているうちに、悠介も眠ってしまった。
◇
翌朝。
六時四十分。
琴葉からメッセージが来ていた。
『ごめん、寝てた』
『昨日本当に疲れてて』
『電話したかった』
悠介は返信する。
『大丈夫』
『今日する?』
しばらくして、
『今日は会社の人とご飯かも』
『そっか』
『まだ分からない』
『行ってきなよ』
『ごめん』
『謝らなくていいって』
本当に、謝ることではなかった。
会社の人と食事へ行く。
仕事で疲れて寝る。
当たり前のことだった。
それなのに悠介は、スマートフォンを置いたあと少しだけ物足りなさを感じていた。
◇
変化は、いつも小さかった。
ある日は悠介が残業になった。
『今日遅くなる』
『何時?』
『分からない』
『そっか』
『先寝てて』
『分かりました』
帰宅したのは午後十一時。
『終わった』
送っても返事はなかった。
翌朝。
『ごめん寝てた』
『大丈夫』
また別の日。
琴葉から、
『今日電話できる?』
と来た時、悠介は会社の先輩たちとの飲み会に参加していた。
『今日は無理かも』
『そっか』
『明日は?』
『明日は早いから寝るかも』
『了解』
二日話さなかった。
以前なら考えられなかった。
大学時代は一日会えないだけでも電話をしていた。
でも社会人になれば、二日くらい普通なのだと思った。
三日になった。
その次の週は四日話さなかった。
それでもメッセージは続いていた。
『おはよう』
『おはよう』
『今日暑い』
『こっちも』
『頑張ろう』
『うん』
短い。
でも途切れてはいない。
だから大丈夫だと思った。
◇
七月。
琴葉が久しぶりに地元へ戻ってきた。
駅で会った瞬間、悠介は思わず笑った。
「久しぶり」
琴葉も笑う。
「一か月ぶり?」
「それくらい」
「長かった」
「ですね」
少しだけ違和感があった。
何が違うのか分からない。
琴葉の髪が少し短くなっていた。
「髪切った?」
「あ」
琴葉が触れる。
「気づいた」
「いつ?」
「二週間前」
「言ってよ」
「電話してないから」
「写真送ればよかった」
「送って」
「もう遅いですよ」
笑う。
その違和感はすぐ消えた。
ひよりへ向かう。
店主が二人を見る。
「久しぶり」
「久しぶりです」
琴葉が笑う。
「東京の人になったね」
「どういう意味ですか」
「何となく」
「変わりました?」
「ちょっとだけ」
「何が?」
「顔かな」
「疲れてるだけです」
「それはありそう」
三人で笑った。
いつもの席へ座る。
「やっぱり落ち着く」
琴葉が言う。
「でしょ」
「東京にも喫茶店いっぱいあるんですけど」
「浮気してる」
「喫茶店に浮気ってあるんですか」
「ひより一筋じゃないと」
店主がカウンターから言う。
「僕は気にしないよ」
「店主が言う?」
「色々行って戻ってきてくれれば」
「余裕だな」
琴葉が笑う。
その笑い声を聞きながら、悠介は安心していた。
何も変わっていない。
会えばいつも通りだ。
離れている時に少しくらい連絡が減っても、会えば元に戻る。
だから大丈夫だった。
◇
その日の帰り。
二人は駅までゆっくり歩いた。
「最近忙しい?」
悠介が聞く。
「結構」
「何時くらいまで?」
「日によります。八時とか九時とか」
「大変だな」
「でも楽しいですよ」
「本当に?」
「うん」
琴葉の声には嘘がなかった。
「編集の仕事、向いてるかも」
「よかったじゃん」
「まだ全然ですけど」
「でもやりたかった仕事でしょ」
「うん」
琴葉は少し嬉しそうに笑った。
その表情を見て、悠介も嬉しかった。
「悠介は?」
「俺?」
「仕事どうですか」
「まあまあ」
「それだけ?」
「慣れてきた」
「楽しい?」
「楽しいっていうか」
少し考える。
「ちゃんとできること増えると嬉しい」
「分かります」
「最近先輩に任される仕事増えて」
「いいですね」
「残業も増えたけど」
「それは嫌」
「仕方ない」
二人とも仕事の話をする。
大学時代とは違う世界。
互いの知らない人たち。
知らない場所。
知らない時間。
以前は相手の一日の大半を何となく想像できた。
何限がある。
昼は食堂。
三限が終わればひより。
金曜はアルバイト。
今は違う。
琴葉が会社で誰と話し、何をして、どんなふうに一日を過ごしているのか、悠介にはほとんど分からない。
琴葉もきっと同じだった。
それでも、そのことを寂しいとは言わなかった。
大人になるとは、そういうことなのだと思っていた。
◇
八月。
悠介の誕生日。
琴葉は来られなかった。
仕事が忙しい時期と重なっていた。
『本当にごめん』
『大丈夫だって』
『来週なら行ける』
『じゃあ来週で』
『誕生日なのに』
『毎年来るから』
送ってから、悠介は少し笑った。
毎年来る。
何となくそう書いただけだった。
『そうですね』
琴葉から返ってくる。
『来年は絶対当日』
『再来年は?』
『もちろん』
『じゃあ許す』
『何様ですか』
『誕生日の人』
『今日だけですね』
『あと三時間』
『短い』
その夜、琴葉から電話が来た。
『おめでとう』
「ありがとう」
『何歳でしたっけ』
「忘れた?」
『82』
「まだそれ覚えてるの?」
懐かしいやり取りだった。
二人とも笑った。
その声を聞いていれば、会えなかったことなどどうでもよく思えた。
◇
秋。
今度は悠介が東京へ行く予定をキャンセルした。
金曜の夕方、上司から月曜日までに必要な資料の修正を頼まれた。
土曜に出勤しなければ間に合わない。
琴葉へ電話する。
『もしもし』
「ごめん」
『どうしました?』
「明日行けない」
少し沈黙。
『仕事?』
「うん」
『そっか』
「本当にごめん」
『大丈夫ですよ』
「来週は?」
『来週、私仕事です』
「再来週?」
『たぶん大丈夫』
「じゃあそこ」
『うん』
「ごめんね」
『謝らなくていいです』
琴葉が笑う。
『仕事ですから』
その言葉は、以前悠介が琴葉に何度も言ったものだった。
仕方がない。
仕事だから。
大人だから。
二人とも理解していた。
理解できるからこそ、怒る理由がなかった。
◇
再来週。
琴葉が体調を崩した。
『ごめん』
『大丈夫?』
『熱はないけど疲れてる』
『寝た方がいい』
『会いたかった』
『また今度』
『うん』
さらにその翌週は、悠介に家族の予定が入った。
結局、二人が会えたのは二か月近く経ってからだった。
◇
十一月。
東京。
悠介は駅の改札で琴葉を待っていた。
人の波の中から彼女が現れる。
「ごめん、待った?」
「十分くらい」
「電車遅れて」
「大丈夫」
二人は歩き始める。
久しぶりだった。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
でも、以前のように一瞬で空白が消える感じがしなかった。
「仕事どう?」
悠介が聞く。
「忙しいです」
「まだ?」
「年末近いから」
「そっか」
「悠介は?」
「俺も」
「そうですよね」
会話が続かない。
気まずいわけではない。
ただ、話したいことが多すぎて、どこから話せばいいのか分からなかった。
「前行った店行く?」
琴葉が聞く。
「どこだっけ」
「本屋の近く」
「ああ」
「覚えてない?」
「覚えてる」
「ならよかった」
琴葉が笑う。
その笑顔を見ながら、悠介は少しだけ自分を責めた。
二か月ぶりなのに。
もっと嬉しそうにしなければ。
もっと話さなければ。
久しぶりに会えたのだから。
けれど気持ちは、命令して動かせるものではなかった。
◇
夕方。
二人は琴葉の部屋へ戻った。
「珈琲飲みます?」
「うん」
琴葉が湯を沸かす。
悠介は部屋を見回した。
家具が増えている。
本も増えた。
壁には会社でもらったらしいカレンダー。
机の上には仕事用の資料。
「完全に琴葉の部屋になったね」
「半年以上住んでますから」
「最初何もなかったのに」
「悠介が棚組み立ててくれましたよね」
「懐かしい」
「まだ使ってます」
「壊れてない?」
「失礼」
二人は笑う。
珈琲を飲む。
窓の外はもう暗かった。
「悠介」
「ん?」
「最近、電話減りましたよね」
悠介はカップを置く。
「うん」
「忙しい?」
「それもある」
「それも?」
「帰ると疲れて寝ちゃう」
「分かります」
琴葉も頷いた。
「私もです」
「だよね」
「電話しようと思ってても、帰ってご飯食べたら十時とかで」
「そこから風呂入ったら十一時」
「そう」
「分かる」
また沈黙。
「でも」
琴葉が言う。
「前はそれでも電話してましたよね」
悠介は少しだけ考える。
「してたね」
「一時間とか」
「うん」
「最近はメッセージだけ」
「……うん」
責められている感じはなかった。
琴葉自身も同じことをしている。
「仕方ないよ」
悠介が言った。
「社会人だし」
「うん」
「会えてるし」
「今日は」
「また会えるよ」
「うん」
琴葉は笑う。
「大丈夫ですよね」
悠介も笑った。
「大丈夫」
その言葉を口にする回数が増えていた。
本当に大丈夫な時には、たぶんそんなに何度も確認する必要はなかった。
◇
十二月。
クリスマスが近づいていた。
以前約束していた通り、どちらかが会いに行くつもりだった。
『23日どう?』
悠介が送る。
数時間後。
『ごめん、その週かなり忙しい』
『24は?』
『多分残業』
『25?』
『平日だから厳しい』
『そっか』
『悠介は?』
『23なら休み』
『年末は?』
『29から』
『私28から』
『じゃあ29?』
『実家帰る予定』
『そっか』
少し間を置いて琴葉から届く。
『今年無理かも』
悠介は画面を見た。
去年。
一昨年。
ひより。
小さなツリー。
珈琲と紅茶。
手袋。
マフラー。
来年も。
そう言っていた。
『仕方ないね』
送る。
『ごめん』
『謝らなくていい』
『電話しよう』
『うん』
それでいい。
会えなくても電話すればいい。
そう思った。
◇
十二月二十四日。
午後十時。
悠介は自宅にいた。
琴葉からメッセージ。
『今終わりました』
『お疲れ』
『ごめん、遅くなった』
『大丈夫』
『電話する?』
悠介はスマートフォンを見る。
明日は朝が早い。
今日も残業だった。
眠い。
でも今日はクリスマスイブだ。
『少しだけ』
電話をかける。
『もしもし』
「お疲れ」
『お疲れさま』
「メリークリスマス?」
『疑問形』
「一応」
『メリークリスマス』
琴葉が笑う。
「仕事どうだった?」
『最悪です』
「忙しかった?」
『ずっと修正』
「大変だな」
『悠介は?』
「俺も残業」
『お疲れさま』
「うん」
少し沈黙。
以前なら、沈黙も心地よかった。
今は少しだけ焦る。
何か話さなければと思う。
『今年ひより行けませんでしたね』
琴葉が言う。
「そうだね」
『ツリー見たかった』
「店主に写真送ってもらう?」
『連絡先知らないです』
「俺も知らない」
『来年は行きましょう』
「うん」
『絶対』
「うん」
悠介は答えた。
でも、その「絶対」は以前より少しだけ弱かった。
電話を切ったのは二十分後だった。
『おやすみ』
「おやすみ」
少し間がある。
『また明日』
琴葉が言った。
「うん」
悠介も答える。
「また明日」
通話が終わる。
明日も会わない。
電話をする予定もない。
それでも昔からの癖で、その言葉だけは残っていた。
◇
年が明けた。
二人は付き合って三年目に入っていた。
嫌いになったわけではない。
むしろ、久しぶりに琴葉の写真を見ると会いたくなる。
声を聞けば安心する。
何か嬉しいことがあれば伝えたいと思う。
琴葉もきっと同じだった。
ただ、その「伝えたい」がすぐに「伝える」へ変わらなくなっていた。
仕事中だから。
疲れているだろうから。
明日でいい。
今度会った時でいい。
そんなふうに後回しにしているうちに、話さないまま終わることが少しずつ増えていった。
◇
二月。
悠介は仕事で小さな成果を出した。
担当していた案件が無事に終わり、上司から初めてしっかり褒められた。
嬉しかった。
会社を出た瞬間、誰かに話したいと思った。
スマートフォンを取り出す。
琴葉の名前が一番に浮かんだ。
けれど時計を見る。
午後九時二十分。
今日は忙しいと言っていた。
悠介はメッセージ画面を開き、
『今日仕事で』
まで打って止めた。
また今度でいいか。
消した。
翌日になれば、嬉しさは少し落ち着いていた。
結局その話を琴葉にはしなかった。
◇
同じ頃。
琴葉から電話が来た。
「もしもし」
『今大丈夫?』
「大丈夫」
『今日ね』
「うん」
『私が考えた企画、通ったんです』
「本当に?」
『うん』
「すごいじゃん」
『まだ小さい企画ですけど』
「でも通ったんでしょ」
『うん』
琴葉は嬉しそうだった。
「おめでとう」
『ありがとう』
「よかったね」
『うん』
少し沈黙。
『悠介に一番に言おうと思って』
悠介は胸の奥が少し痛くなった。
「ありがとう」
『何が?』
「言ってくれて」
『普通でしょ』
「うん」
普通。
以前ならそうだった。
嬉しいことがあれば一番に話す。
悲しいことも。
腹が立ったことも。
くだらないことも。
でも自分は昨日、話さなかった。
「俺もさ」
『うん』
言おうとする。
「昨日仕事で」
『ごめん』
「え?」
『ちょっと待って』
電話の向こうから別の音がする。
『会社から電話』
「あ、うん」
『またかける』
「分かった」
通話が切れた。
その夜、琴葉から電話は来なかった。
翌朝。
『ごめん、そのまま寝た』
『大丈夫』
悠介はそれだけ返した。
昨日の仕事の話は、またしなかった。
◇
三月。
久しぶりに琴葉が地元へ帰ってきた。
二人はひよりへ行った。
店主は二人を見るなり笑った。
「久しぶりだね」
「すみません」
琴葉が言う。
「謝らなくていいよ。忙しいんでしょ」
「かなり」
「悠介くんはたまに来てるけどね」
琴葉が悠介を見る。
「来てるんだ」
「月一くらい」
「言ってくれればいいのに」
「言ってなかった?」
「聞いてない」
「そっか」
些細なことだった。
それでも、互いに知らないことが増えている。
琴葉が最近よく行く昼食の店。
悠介が会社で仲良くなった同期。
琴葉が髪を切った日。
悠介が新しい財布を買ったこと。
以前なら知っていたはずの、小さな日常。
「いつもの?」
店主が聞く。
「はい」
二人同時に答える。
店主が笑った。
「そこは変わらないね」
珈琲と紅茶。
いつもの窓際。
二人は向かい合う。
「懐かしいですね」
琴葉が言う。
「まだそんな経ってないよ」
「でも大学の時、毎週ここにいたじゃないですか」
「毎週どころじゃなかった」
「ですよね」
琴葉が窓の外を見る。
「よく飽きなかったですね」
「何に?」
「ここ」
「飽きないよ」
「私にも?」
悠介は顔を上げた。
琴葉は冗談っぽく笑っている。
「何それ」
「何となく」
「飽きてないよ」
「本当?」
「本当」
琴葉は少し笑った。
「よかった」
悠介も笑う。
それは嘘ではなかった。
飽きていない。
嫌いでもない。
今も好きだ。
なのに、昔と同じではなかった。
◇
店を出たあと、二人は駅まで歩いた。
出会った頃から何度歩いたか分からない道。
商店街の店はいくつか変わっていた。
新しい店ができ、昔あった文具店が閉まり、角の看板も新しくなっている。
「ここ、変わりましたね」
琴葉が言う。
「先月閉まった」
「知らなかった」
「長かったよね」
「ありました。大学の時から」
少し歩く。
「悠介」
「ん?」
「私たちも変わりました?」
悠介はすぐには答えなかった。
「社会人にはなった」
「そうじゃなくて」
琴葉は前を向いたままだった。
「前より話さなくなりましたよね」
「うん」
「会う回数も」
「うん」
「でも」
琴葉が言葉を探す。
「嫌いになったわけじゃないですよね」
「もちろん」
悠介はすぐに答えた。
そこだけは迷わなかった。
「琴葉は?」
「なってないです」
「なら大丈夫でしょ」
悠介が言う。
少し前までなら、その一言で琴葉も笑っていた。
でもその日は、すぐには返事がなかった。
「……そうですね」
やがて琴葉が言う。
「大丈夫ですよね」
「うん」
二人はまた歩き始めた。
◇
駅へ着く。
琴葉が東京へ戻る電車はもうすぐだった。
「次いつ会えるかな」
悠介が聞く。
「四月は忙しいかも」
「俺も年度初め忙しい」
「五月?」
「ゴールデンウィーク?」
「実家帰ると思います」
「じゃあその時」
「会えたら」
悠介はその言葉に少しだけ引っかかった。
「会えたら?」
「家族の予定もまだ分からないから」
「ああ」
「分かったら連絡します」
「うん」
電車が来る。
琴葉が乗る。
ドアの前で振り返る。
「じゃあ」
「うん」
いつもなら、ここで言う。
また明日。
琴葉もその言葉を口にしかけたように見えた。
けれど少しだけ迷った。
「……また連絡します」
悠介も一瞬だけ黙った。
「うん」
「悠介も」
「分かった」
「じゃあ」
「気をつけて」
「はい」
ドアが閉まる。
電車が動き出す。
悠介はその場に立ったまま、遠ざかる車両を見ていた。
何かが変わった。
大きな出来事は何もない。
喧嘩もしていない。
傷つけるような言葉も言っていない。
他に好きな人ができたわけでもない。
ただ、最後に「また明日」と言わなかった。
それだけだった。
たった一言。
それなのに悠介は、その日の帰り道で何度も思い出した。
また連絡する。
昔ならそんな言葉は必要なかった。
連絡するのが当たり前だったから。
明日につながっていることを確認する必要もなかった。
それでも二人はまだ、終わりを考えてはいなかった。
忙しいだけ。
慣れれば戻る。
仕事が落ち着けばまた会える。
前みたいに話せるようになる。
そう思っていた。
大丈夫だと思っていた。
何度もそう言ってきた。
好きなのだから大丈夫。
離れていても大丈夫。
会えなくても大丈夫。
電話が減っても大丈夫。
話せない日が続いても大丈夫。
けれど二人が気づかないうちに、その言葉はいつの間にか、自信ではなく願いへ変わっていた。
大丈夫だから言っているのではない。
大丈夫であってほしいから、言っていた。
そして春が近づく頃、悠介も琴葉も薄々分かり始めていた。
このまま何もしなければ、二人は嫌いになるより先に、互いの日常から少しずついなくなってしまうのかもしれないと。
――第九章「嫌いじゃないから」へ続く。