四浦のあまやどり〜雨のち晴れ、ときどき青い奇跡〜

お腹が空いた心

 次の雨の日。

 四浦には、朝から細かな雨が降っていた。

 海は白い霧に包まれ、遠くの景色はほとんど見えない。

 それでも、喫茶「あまなぎ」には、いつものように明かりが灯っていた。

 夕凪はカウンターの中で、コーヒー豆を挽いていた。

 雨音に混じって、カリカリという小さな音が店内に響く。

 すると――。

 カラン、カラン。

 入口のベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは、三十代くらいの男性だった。

 スーツ姿。

 髪は少し乱れていて、傘から落ちた雨粒が肩に残っている。

「……すみません。まだ大丈夫ですか?」

「もちろんです。どうぞ」

 夕凪が笑いかける。

 男性は軽く頭を下げ、窓際の席に座った。

「メニュー、どうぞ」

「ありがとうございます」

 男性はメニューを開いた。

 けれど、なかなか決まらない。

 何度もページをめくり、最後に小さく息を吐いた。

「麦茶……ありますか?」

「ありますよ」

「じゃあ、麦茶と……カレーをお願いします」

「かしこまりました」

 夕凪は麦茶を用意し、カレーを温め始めた。

 厨房から漂ってくる香りに、男性のお腹が小さく鳴った。

 男性はハッとして、お腹を押さえる。

「……すみません」

「ふふ」

 夕凪は笑った。

「お腹、空いてますか?」

「……はい」

 男性は少し恥ずかしそうに答えた。

「じゃあ、ちょっと待っていてくださいね」

「え?」

 夕凪は厨房へ戻った。

 しばらくして、揚げたての唐揚げを小さなお皿に盛って戻ってきた。

「どうぞ」

「……これは?」

「サービスです」

「えっ。でも……」

「今日は雨も強いですから」

 夕凪は、男性の前に唐揚げを置いた。

「ちゃんと食べて、少し元気になって帰ってください」

 男性は唐揚げを見つめた。

「……ありがとうございます」

「熱いうちにどうぞ」

「いただきます」

 男性は唐揚げを一つ口に入れた。

「……美味しい」

「よかった」

 夕凪は笑ってカウンターへ戻った。

 やがてカレーも出来上がり、男性の前に置かれた。

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 男性はカレーを食べ始めた。

 一口。

 二口。

 そして、三口目を食べたところで、ふっと肩の力が抜けた。

「……美味しい」

 その顔は、店に入ってきたときより少しだけ柔らかくなっていた。

 夕凪は、何も言わずに見守っていた。

 しばらくして、男性がぽつりと呟いた。

「……会社、辞めようかな」

 夕凪は、手にしていた布巾を置いた。

「そう思うくらい、何かあったんですね」

 男性は驚いたように顔を上げた。

「……すみません。独り言です」

「大丈夫ですよ」

 夕凪は男性の向かいに座った。

「話したくなったら、聞きます」

 男性は麦茶を一口飲んだ。

「僕……上司と部下の間に挟まれてるんです」

「板挟みになっているんですね」

「はい」

 男性は苦笑した。

「上司からは、『もっと部下を厳しく指導しろ』って言われて……」

「うん」

「でも部下からは、『あの人は何も分かってない』って言われて……」

 男性は唐揚げを見つめた。

「どっちの言ってることも、分かるんです」

「だからこそ、つらいんですね」

「はい」

 男性は小さく頷いた。

「上司の言うことを聞けば、部下から嫌われる。部下の話を聞けば、上司からは甘いって言われる」

 声が少し震えた。

「どっちにも嫌われたくなくて……何とかしようとしてたんですけど」

「うん」

「気づいたら、自分が何をしたいのか分からなくなってました」

 夕凪は、しばらく黙っていた。

 そして静かに尋ねた。

「一番つらいのは……会社を辞めたいことですか?」

「……違うと思います」

 男性は考えた。

「……誰かの期待に応えようとして、自分一人で全部背負ってしまっていること……かもしれません」

「そうかもしれませんね」

 夕凪は優しく笑った。

「だったら、全部を一人で解決しなくてもいいんじゃないでしょうか」

「……」

「上司と部下、それぞれの問題を、全部あなたが背負う必要はないと思います」

 男性は夕凪の言葉を聞いていた。

「上司には、部下の状況を伝える。部下には、会社として求められていることを伝える。そのうえで、自分ができることと、できないことを分けてみる」

「できることと……できないこと」

「はい」

 夕凪は頷いた。

「これは、あくまでも私からの助言です。会社を辞めるか、続けるかを決めるのも、これからどうするかを決めるのも、あなた自身です」

「……はい」

「でも、一つだけ」

 夕凪は唐揚げの皿を見た。

「誰かに好かれるために、自分をすり減らし続けなくてもいいと思いますよ」

 男性は黙っていた。

 そして、残っていた唐揚げを一つ食べた。

「……なんだか」

「はい?」

「久しぶりに、ちゃんとご飯を食べた気がします」

「それならよかった」

「最初、お腹が空いてますかって聞かれたとき、恥ずかしかったんですけど……」

「ふふ」

「唐揚げ、嬉しかったです」

「お腹が空いていると、心まで疲れちゃいますからね」

 男性は、少しだけ笑った。

 雨はまだ降っている。

 けれど、窓に映った男性の顔は、来たときより穏やかだった。

「……また来てもいいですか?」

「もちろんです」

「今度は、悩みがなくても?」

「ええ」

 夕凪は微笑んだ。

「美味しいものを食べたい日にも、来てください」

「ありがとうございます」

 男性は会計を済ませ、深く頭を下げた。

「ごちそうさまでした」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 男性が店を出ていく。

 カラン、カラン。

 夕凪は窓の外を眺めた。

 雨の中を歩いていく背中は、来たときより少しだけ軽く見えた。

 心の雨が、すぐに止むわけじゃない。

 それでも――。

 雨宿りをしている間だけでも、少し呼吸がしやすくなるなら。

 それでいい。

 ここは、答えを押しつける場所ではない。

 ただ、美味しいものを食べて。

 温かい飲み物を飲んで。

 誰かに話を聞いてもらって。

 自分の心と、少しだけ向き合う場所。

 喫茶「あまなぎ」。

 今日もまた、誰かの心に降る雨を、静かに受け止めていた。
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