異世界深夜コンビニ

第1話 時給三千円の深夜バイト


面白い話が思い浮かばない。

「……あー、ダメだ」

俺――瀬尾悠斗は、ノートパソコンの画面を睨みながら頭を抱えた。

真っ白な画面の左上で、縦棒だけが規則正しく点滅している。

書いては消す。

また書いては消す。

そうして一時間近く経った結果、本文の文字数はゼロ。

「何も思いつかねえ……」

小説家になる。

それが、昔からの俺の夢だった。

別に、小学生の頃から物語を書いていたとか、国語の作文で賞を取ったとか、そんな立派な経歴があるわけじゃない。

高校生の頃にたまたま読んだ一冊の小説が面白くて、自分でもこんな話を書いてみたいと思った。

始まりなんて、その程度だ。

それから投稿サイトに小説を載せ始めた。

ファンタジー。

恋愛。

現代もの。

異世界転生。

流行っていると聞けば悪役令嬢だって書いた。

だが。

「……三十二PV」

昨夜投稿した短編の数字を見て、そっと画面を閉じた。

世の中は厳しい。

小説家を目指し始めた頃の俺は、書き続けていればいつか誰かの目に留まると本気で思っていた。

二十二歳になった今も、その「いつか」は来ていない。

それどころか最近は、小説を書く時間そのものが減っていた。

理由は単純だ。

金がない。

小説を書いても、今のところ一円にもならない。

だから生活するためにバイトをする。

バイトをすると疲れる。

家に帰ってパソコンを開く。

眠い。

何も思いつかない。

寝る。

翌日、またバイト。

「完全に負のサイクルだよな……」

俺は椅子の背もたれに身体を預けた。

夜の窓ガラスに、部屋の明かりを受けた自分の顔がぼんやり映っている。少し伸びた黒髪に、寝不足気味の目。身長も体格も平均的で、特別目立つところのない二十二歳の男だ。

少し前、実家に帰った時には母親にも言われた。

『悠斗。小説を書くなとは言わないけどね。そろそろちゃんと将来のことも考えたら?』

父親に至っては、俺が小説家の話をしても最近は「そうか」としか言わなくなった。

反対されるより、聞き流される方が地味に刺さる。

「分かってんだけどなあ……」

夢を諦める。

口で言うほど簡単ではない。

かといって、このままではどうしようもない。

俺はスマホを手に取った。

小説が書けないなら、せめて新しいバイトでも探そう。

今のバイトより少しでも時給が高ければ、その分だけ勤務時間を減らせる。

そうすれば執筆時間も増える。

そんな都合のいい仕事があるとは思えないが。

求人アプリを開き、適当に条件を入力していく。

深夜。

未経験可。

時給高め。

検索。

飲食店。

倉庫。

警備員。

配送センター。

似たような求人が延々と続く。

「まあ、こんなもんだよな」

画面を流していた指が止まった。

「……ん?」

もう一度、上に戻す。

見間違いかと思った。

だが、何度見ても同じだった。

求人欄の端には、白い猫が黄色い三日月を抱えている、妙にかわいらしいマークが付いている。

ミッドマート。

都市部でも地方でも見かける全国チェーンのコンビニだ。俺も何度も使ったことがある。店によって多少の違いはあっても、弁当やおにぎり、飲み物が並んでいて、二十四時間明るい。ごく普通のコンビニ。

そのはずなのだが、募集内容だけがまったく普通ではなかった。

――ミッドマート北森店 深夜スタッフ募集。

勤務時間。

午後十時から翌朝七時。

そして。

時給。

三千円。

「……は?」

思わず声が出た。

「三千円?」

日給ではない。

時給だ。

午前十時から午後七時の間違いでもない。

深夜帯。

時給三千円。

「いや、絶対打ち間違いだろ」

千三百円を三千円と入力したとか。

そう考えるのが普通だ。

だが、求人ページを開いてさらに眉をひそめた。

履歴書不要。

学歴不問。

職歴不問。

経験不問。

資格不要。

未経験歓迎。

即日採用可。

「何もいらねえじゃん」

むしろ何なら必要なんだ。

勤務地は聞いたこともない山間の町だった。

求人ページの一番下には、細かな応募フォームすら存在しない。

書かれていたのは一本の電話番号だけ。

「怪しい」

どう考えても怪しい。

全国チェーンの看板がなかったら、迷わず閉じていたと思う。

時給三千円。

履歴書不要。

学歴も職歴も経験も何もかも不要。

そして電話番号一本。

普通なら閉じる。

俺だってそうする。

だが。

「……時給三千円か」

もう一度呟いた。

一日九時間。

もちろん休憩や細かい勤務条件はあるだろうが、それでも今のバイトとは比べものにならない。

勤務日数を減らしても生活できる。

昼間に小説を書く時間も作れる。

家賃の安い田舎なら、さらに生活費を抑えられるかもしれない。

怪しい。

ものすごく怪しい。

しかし。

「電話するだけならタダだしな」

俺は電話番号を押した。

数回の呼び出し音。

やがて。

『はいはーい』

随分と気の抜けた男の声が返ってきた。

声だけなら三十代くらいだろうか。少し低めなのに妙に明るく、人懐っこい。面接を受ける相手というより、知り合いから掛かってきた電話に出たような軽さだった。

「あ、もしもし。求人を見て電話したんですけど」

『ああ、コンビニ?』

「はい。北森店の深夜スタッフ募集っていう」

『あー、まだ募集してるよ』

電話の向こうから風の音が聞こえる。

時々、草木が擦れるような音まで混じっていた。少なくとも店の事務所から電話している感じではない。

『名前は?』

「瀬尾悠斗です」

『年いくつ?』

「二十二です」

『夜勤いける?』

「はい」

『週何日くらい?』

「えっと……四日くらいなら」

『コンビニ経験は?』

「一応あります。半年くらいですけど」

『おー、経験者じゃん』

男は妙に嬉しそうだった。

『じゃあ採用で』

「はい?」

『採用』

「…………」

俺はスマホを耳から離し、画面を確認した。

通話時間、一分二十七秒。

間違い電話ではない。

「あの」

『ん?』

「面接は?」

『今したじゃん』

「これで!?」

『名前聞いたし、年齢聞いたし、シフトも聞いたじゃん』

「履歴書とか……」

『いらないいらない』

「本当に求人に書いてある通りなんですね……」

『ああ。人足りないから助かるよ』

「はあ」

『じゃあ場所送っとくから。来週から来られる?』

「えっ」

『無理?』

「いや……行けますけど」

『じゃ、よろしく』

「あ、ちょ――」

通話が切れた。

「…………」

静かになった部屋で、俺はしばらくスマホを見つめた。

「どういう採用方式なんだよ」

それが、ミッドマート北森店の店長、御影壮一郎との初めての会話だった。

ちなみに。

その後、俺は彼と一度も直接会っていない。



送られてきた勤務地を地図で確認した時、最初に思ったのは、

「山じゃねえか」

だった。

田舎だとは書いてあった。

だが、これは俺が想像していた田舎とは少し違う。

駅から遠い。

繁華街から遠い。

というか、繁華街そのものが近くにない。

地図を縮小すると緑ばかりになる。

「こんなところに全国チェーンのコンビニ必要なのか?」

疑問だった。

それでも俺は行くことにした。

理由はいくつかある。

まず、時給三千円。

これは大きい。

いや、ほとんど全部と言ってもいい。

そしてもう一つ。

小説を書く場所なんて、ネットとパソコンさえあればどこでもいい。

都会に住んでいる必要はない。

むしろ静かな田舎の方が執筆には向いているかもしれない。

今の俺に必要なのは何か。

才能。

それはもちろん欲しい。

だが、少なくとも金で買えるものではない。

それ以上に現実的な問題として、俺には金と時間がなかった。

ならば。

時給三千円のバイトで金を稼ぎ、空いた時間で小説を書く。

「悪くない……よな?」

自分に言い聞かせるように呟いた。

こうして俺は、なけなしの貯金を使って北森店から通える場所へ引っ越した。

この決断を後悔したかと聞かれれば。

まあ。

少なくとも初日の夜は、かなり後悔した。



午後九時五十分。

山道を抜けた先で、暗闇の中に白い明かりが浮かび上がった。

ミッドマート北森店。

広めの駐車場に、平屋の店舗がぽつんと建っている。道路脇の高い看板には、濃紺の地に黄色い三日月、その月へ前足を掛ける丸っこい白猫のマーク。

周囲はほとんど真っ暗なのに、コンビニだけが昼間みたいに明るい。

見慣れた全国チェーンの看板が、こんな山奥では妙に頼もしく見えた。

自動ドアが開く。

軽い電子音と一緒に、空調の効いた空気と、コーヒー、それから微かな揚げ油の匂いが流れてきた。

店内は外から想像するより広かった。

中央には腰ほどの高さの商品棚が三列。菓子、カップ麺、日用品がきっちり前を向いて並んでいる。壁際にはペットボトルや缶飲料の冷蔵ケース。反対側には弁当、おにぎり、サンドイッチ、デザートの冷蔵棚。

入口の近くには雑誌棚とコピー機、ATM。右手のカウンターには二台のレジと半セルフ式の精算機があり、その横には透明なホットスナックケースが置かれている。

さらにカウンターの奥を覗けば、二槽式のフライヤーと作業台、その後ろにバックヤードへ続く扉。

どこを見ても、普通のコンビニだった。

ただ、レジ袋にも買い物かごにも値札の端にも、例の白猫がいる。

猫が好きな会社らしい。

「今日からよろしくお願いします」

レジの奥にいた男へ頭を下げる。

「ああ。よろしく」

低く、少しかすれた声だった。

名札には『榊原』。

榊原遼。二十九歳。

俺の教育係になる先輩らしい。

第一印象は、背が高い、だった。

百八十センチは優に超えている。細身に見えるが、肩幅があり、制服の袖から伸びる前腕も意外としっかりしている。黒髪は短めだが、寝癖を手ぐしで押さえただけみたいに無造作。切れ長というより眠たげな黒い目をしていて、表情にも立ち姿にもどこか力が抜けていた。

格好は、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン。

胸元には、三日月を抱いた白猫の刺繍。

背の高い、どこか近寄りがたい雰囲気の男が、やたらかわいい猫のエプロンを着けている。

その落差に、ほんの少しだけ目がいった。

「榊原さんですよね?」

「遼でいい。榊原でも先輩でも好きに呼べ」

「じゃあ先輩で」

「ん」

短い。

しかも一言一言が低く平坦で、喋ること自体を面倒くさがっているように聞こえる。

悪い人ではなさそうだが、ものすごくやる気のなさそうな人だ。

「着替えそこ。エプロンもあるから」

先輩が顎でバックヤードを示した。

俺が渡されたエプロンにも、当然のように白猫がいた。

着替えて戻り、胸元の猫を見下ろしていると、先輩が段ボールを一箱抱えて売り場へ出ようとしていた。

「先輩」

「あ?」

「このバイト、めちゃめちゃ時給いいですよね」

「そうだな」

「三千円ですよ?」

「ああ」

「なんでこんなに高いんですか?」

「人来ねえから」

「いや、人来ないからって三千円になります?」

「なってんだからなるんだろ」

適当すぎる。

「もしかして、この辺って治安悪いんですか?」

「別に」

「強盗が多いとか」

「ねえよ」

「店の前に熊が出るとか」

先輩は箱を棚の前へ置きながら、少しだけ考えた。

「たまには出るかもな」

「出るんだ……」

「心配すんな。客はみんな礼儀正しいから」

「そうなんですか?」

「ああ」

この立地でどれだけ客が来るのかという疑問はあったが、そこは初日なので黙っておいた。

仕事そのものは、本当に普通だった。

俺が菓子棚の商品を前へ揃えている間、先輩は飲料の段ボールを開け、冷蔵ケースへ補充していく。ペットボトルがきれいにラベルを正面へ向けて並ぶ。

次は弁当棚の賞味期限を確認し、端末を片手に廃棄予定の商品を拾う。

客が来ればレジへ戻る。

手が空けば床をモップで拭く。

「そこのカップ麺、二列目だけ前出し甘い」

「あ、はい」

やる気がなさそうな割に、先輩は店内をよく見ていた。

動きにも無駄がない。

重そうな飲料の箱も、片腕で位置を変えてしまう。

少なくとも、仕事をサボるタイプではないらしい。

「思ったより普通だな」

「何が」

「いや、もっと特殊な仕事なのかなと思ってました」

「特殊っちゃ特殊だぞ」

「やっぱり何かあるんですか」

「そのうち分かる」

「一番怖い言い方するじゃないですか」

「はぁ、だりぃ……」

午後十一時を過ぎた。

客は二人しか来ていない。

一人はトラック運転手。

黒い作業着姿で缶コーヒーと煙草を買い、駐車場で少し休んでから出ていった。

もう一人は近所に住んでいるらしい老人で、牛乳と食パンを買った。

それきり。

自動ドアはぴたりと動かなくなった。

「本当に暇ですね」

「今はな」

「今は?」

「もうすぐ忙しくなる」

「こんな時間から?」

「ああ」

時計は午後十一時二十分。

ガラス張りの正面を見る。

駐車場の白線だけが店の光に浮かんで、その先は真っ暗だった。街灯もほとんどなく、山の輪郭すら夜に溶けている。

車のライトも見えない。

「どこから客が来るんだ……?」

そう思いながら売り場へ戻る。

そして、さらに奇妙なことに気づいた。

「先輩、何してるんすか?」

「あ?」

先輩はカウンター奥のフライヤーの前に立っていた。

「フライ揚げんだよ」

「それは見れば分かりますけど」

二槽あるフライヤーの左側は洗浄中らしく、金属の蓋が外されている。

その隣。

右側の油はしっかり熱せられていた。

先輩は冷凍庫から出した袋を開け、金属のトングで骨なしフライドチキンを一つずつバスケットへ並べる。油へ沈めると、ジュワッ、と大きな音がして細かな泡が一気に広がった。

続けてコロッケ。

から揚げ。

深夜にしては明らかに量が多い。

「え? もう深夜ですよ?」

「知ってる」

「これからこんなに揚げるんですか?」

「そう」

「お祭りでもあるんすか?」

「んー」

先輩はタイマーを押しながら少し考えた。

「まあ、そんな感じかな」

「どんな感じですか」

「忙しくなる感じ」

答えになっていない。

「夜中ってフライヤー掃除する時間じゃないんですか?」

「だから片方掃除してるだろ」

「いや、そうじゃなくて。なんで片方動かしてるんです?」

「客来るから」

「この立地で?」

「来るんだよ」

「何人くらい?」

「日による」

「そんなに揚げ物売れるんですか?」

「売れる」

タイマーが鳴った。

先輩はバスケットを持ち上げ、油を切る。黄金色になったチキンをトングで一つずつ受け皿へ移し、温度管理されたホットスナックケースに並べていく。

透明なケースの中に、揚げたてのチキンやコロッケがきれいに揃った。

香ばしい匂いが店中に広がる。

「セルフレジだし、適当に立っとけばいいぞ」

「適当にって」

「ここの客はみんな礼儀正しいからな」

またそれだ。

礼儀正しい客。

そんなに強調することだろうか。

午後十一時五十分。

客はゼロ。

十一時五十五分。

ゼロ。

「本当に来るんですか?」

「来る」

十一時五十八分。

先輩はホットスナック用の耐油紙袋を補充し、カウンターを布巾で拭いた。

十一時五十九分。

今度はフライヤーの油温を確認する。

「よし」

先輩が呟いた。

「何がよしなんです?」

「時間だ」

「時間?」

その時。

時計が午前零時を示した。

ピッ。

どこかで電子音が鳴った。

店内の照明が一瞬だけ揺らいだ。

「……ん?」

停電?

そう思った。

だが違う。

店の中は何も変わっていない。

おにぎりも、雑誌も、猫のマークが付いた買い物かごも、さっきまでと同じ場所にある。

変わったのは、自動ドアの向こうだけだった。

「…………は?」

俺は目を疑った。

さっきまでそこには駐車場があった。

白線。

道路。

その向こうには山。

当然だ。

日本の山奥にあるコンビニなのだから。

なのに。

ない。

駐車場が消えている。

道路も消えている。

代わりにあったのは――森だった。

深い森。

店の屋根よりはるかに高い木々が、黒い柱のように何本も立っている。枝葉が空を覆い、わずかな月明かりさえ遮っていた。

コンビニの白い照明が、自動ドアの前にある湿った土と草を数メートルだけ照らしている。

その先は、完全な闇だ。

「……先輩」

「ん?」

「外」

「外がどうした」

「森なんですけど」

「森だな」

「さっき駐車場でしたよね?」

「そうだな」

「森なんですけど!?」

「見りゃ分かる」

「そういう問題じゃないでしょ!」

俺は自動ドアへ近づいた。

センサーが反応して、ウィーン、と扉が開く。

途端に冷たい夜気が頬を撫でた。

湿った土と木の匂い。

葉が擦れる音。

どこか遠くから、低く長い、聞いたことのない獣の鳴き声まで聞こえる。

映像でも、店の飾りでもない。

本物の森だ。

「何これ……」

「おい」

「はい?」

「来たぞ」

「何が――」

森の奥。

暗闇の中で、何かが動いた。

「……え?」

最初は、大きな動物かと思った。

それが店の明かりに近づくにつれて、輪郭が見えてくる。

二本足で歩いている。

人間より一回り――いや、二回り大きい。

背丈は二メートル近い。首は太く、肩幅も広い。胸板の厚い、がっしりした体格。その全身を、苔のような深い緑色の鱗が覆っていた。

喉元から腹にかけての鱗だけは少し薄い色をしている。

頭は完全に大型のトカゲだ。

琥珀色の目。

縦に細い黒い瞳孔。

口元から覗く小さな牙。

背中側からは、俺の腕より太そうな長い尻尾が伸びている。

上半身には擦れた茶色の革製ベスト。腰の太いベルトには革袋がいくつも下がり、その横には鞘に収められた幅広の剣まである。

両手の指先には、黒く硬そうな爪。

「……トカゲ?」

いや。

トカゲにしては、でかすぎる。

というか、立っている。

歩いている。

剣まで持っている。

そして。

こっちに来る。

「え、ちょ、待って……」

そいつは迷いなく店へ近づいてくる。

「先輩、先輩!」

「なんだよ」

「なんか来てます!」

「来てるな」

「でっかいトカゲが! 二本足で!」

「ああ」

「『ああ』じゃないですよ!」

ウィーン。

自動ドアが開いた。

「うわっ!?」

俺は反射的にレジの後ろへ一歩下がった。

巨大なトカゲ男は店内へ入ると、まず足元のマットで泥を落とした。

それから入口脇に積まれた買い物かごへ手を伸ばす。

太い指の黒い爪を器用に避けながら、プラスチックの取っ手を掴んだ。二メートル近い巨体が持つと、普通の買い物かごが妙に小さく見える。

「先輩! トカゲ! トカゲ人間!」

「リザードマンな」

「名前なんかどうでもいいですよ!」

「客だろ」

「いやいやいや!」

「いらっしゃいませ言え」

「無理ですよ!」

「なんでだよ」

「だって、あれ……リザードマンなんでしょ!?」

「差別すんなよ」

「そういう話!?」

俺が混乱している間にも、リザードマンは慣れた様子で店内を歩いていく。

長い尻尾が商品棚に当たりそうになると、身体を少し横へ向けて丁寧に避けた。

確かに、礼儀はいいらしい。

そして一直線にホットスナックのケースへ向かった。

「……あ」

俺はフライヤーを見る。

ついさっき先輩が大量に揚げたチキン。

コロッケ。

から揚げ。

「まさか」

「だから揚げとけって言ったろ」

「この人たち用!?」

「声でけえよ」

リザードマンがケースの前で足を止めた。

近くで見ると、本当にでかい。

レジカウンター越しでも目線が俺より高い。

そして口を開いた。

「いつものを三つ頼む」

低い声だった。

喉の奥で石を擦り合わせるような、ざらついた響きがある。それなのに言葉は不思議なくらいはっきり理解できた。

「はいよ。チキン三つな」

先輩が、まるで毎晩来る常連客を相手にするように答えた。

「…………」

俺はさらに固まった。

「喋った……」

「そりゃ喋るだろ」

「いや、日本語……!」

「細けえこと気にすんな」

「気にしますよ!」

先輩は俺を無視して、金属のトングを取った。

ホットスナックケースから骨なしフライドチキンを一つずつ取り出し、それぞれ耐油紙の袋へ入れる。

一個。

二個。

三個。

紙袋の口を軽く折り、三つまとめて小さな手提げ袋へ。

「ほら」

カウンターの上へ置く。

「……感謝する」

リザードマンは片手で受け取った。

黒い爪で紙を破らないようにしているのか、指の腹だけを使って慎重に持ち上げる。

見た目に反して、やたら丁寧だ。

すぐに食べるのかと思ったが、袋は買い物かごへ大事そうに収めた。

それから飲料棚へ向かう。

冷蔵ケースから二リットルのミネラルウォーターを一本。

次におにぎり棚へ移り、鮭、昆布、梅を一つずつ取る。

パッケージを乱暴に掴むこともなく、爪の先を浮かせるようにして一つ一つかごへ入れていった。

完全に買い慣れている。

「……常連なんですか?」

俺が小声で聞く。

「ほぼ毎日来る」

「ほぼ毎日!?」

「だから声でけえって」

リザードマンがレジへ戻ってきた。

先輩はまず水のバーコードを読み取る。

ピッ。

続いておにぎりを三つ。

ピッ、ピッ、ピッ。

ホットスナックはレジ画面から数量を入力する。

俺が呆然と見ている間にも、先輩の手はいつものコンビニ業務とまったく同じ速度で動いていた。

「千二百四十八円」

リザードマンが腰の革袋を外した。

紐を緩めると、中で金属同士がぶつかる重い音がする。

出てきたのは日本円ではなかった。

銀色の、百円玉より一回り大きくて分厚い硬貨。

表には角の生えた獣の横顔、裏には読めない文字のような模様が刻まれている。

「……硬貨?」

リザードマンは何枚かを大きな掌に乗せ、半セルフ式の精算機へ向けた。

太い指で一枚ずつ投入口へ入れていく。

「いやいやいや」

俺は思わず身を乗り出した。

「先輩、止めなくていいんですか!?」

「何を」

「そのお金! 絶対詰まりますって!」

チャリン。

チャリン。

見たこともない硬貨が、普通に機械へ吸い込まれていく。

数秒後。

『お支払いが完了しました』

「通った!?」

「通るよ」

「なんで!?」

「そういうレジだから」

「どういうレジだよ!」

先輩はレジ袋を一枚広げた。

水を底へ入れ、その横におにぎりを三つ。潰れないようにホットスナックの袋は最後に上へ載せる。

持ち手を揃え、カウンターの端へ置いた。

「はい」

リザードマンは二本の太い指を取っ手へ通し、袋を持ち上げた。

「今夜も世話になった」

「どうも」

先輩が軽く頭を下げる。

俺も反射的に、

「あ、ありがとうございました……」

と頭を下げた。

リザードマンはそこで初めて、まともに俺の方を見た。

琥珀色の瞳が細くなる。

「新しい者か」

「え?」

「励め」

「は、はい」

ぽん、と肩を叩かれた。

大きな掌が肩全体を覆う。

黒い爪がすぐ近くに見えて一瞬身体が固まったが、込められた力は驚くほど優しかった。

リザードマンは買い物袋を片手に提げ、長い尻尾を棚へ当てないようゆっくり向きを変える。

ウィーン。

自動ドアを抜け、白い店の光から暗い森へ踏み出していった。

緑の背中が木々の間へ消えていく。

ドアが閉まる。

店内に静寂が戻った。

その直後。

ピピッ。

フライヤーのタイマーが鳴った。

「あー、次上がった」

先輩は何事もなかったようにカウンターを離れ、フライヤーへ向かった。

新しく揚がったから揚げの油を切り始める。

「…………」

俺はしばらく何も言えなかった。

目の前にはいつものコンビニ。

白猫のマークが付いたレジ袋。

おにぎり。

弁当。

ペットボトル。

雑誌。

セルフ精算機。

フライヤー。

どれも、さっきまでと変わらない。

ただし入口の向こうは、見知らぬ森。

そして今、その森へ二メートル近いトカゲ人間が、コンビニ袋を提げて帰っていった。

「先輩」

「なんだ」

先輩はトングでから揚げを受け皿へ移しながら答えた。

「一個聞いていいですか」

「いいぞ」

「ここ」

「ああ」

「何なんですか?」

先輩は手を止めた。

眠そうな目で俺を見て、少しだけ首を傾げる。

何を今さら聞いているんだ、とでも言いたそうな顔だった。

そして。

「異世界につながるコンビニ」

と。

今日の天気でも教えるような低い声で言った。

「…………」

俺は時計を見た。

午前零時七分。

勤務終了まで、あと六時間五十三分。

「先に言えよ!」

俺の声が、白猫だらけの深夜のコンビニに響き渡った。

こうして。

小説のネタがないと嘆いていた俺の、

世界で一番ネタに困りそうにない深夜バイトが始まった。

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