異世界深夜コンビニ
第2話 新人研修は異世界仕様
「お、ちゃんと出勤してきたか」
午後十時。
ミッドマート北森店の裏口から入った俺を見て、榊原先輩は片手を上げた。
昨日と同じ、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン。胸元では、三日月を抱えた白猫がにこにこと笑っている。
そのかわいらしい刺繍の上にある本人の顔は、相変わらず眠そうだった。
「そりゃ来ますよ」
「そうか」
「……なんですか、その反応」
「別に」
先輩はそれだけ言うと、手にしていた段ボール箱を持ち直した。
「着替えたら品出し手伝え。飲料重いから」
「はい」
昨日、俺はこの店で二本足で歩く巨大なトカゲを見た。
そいつは普通に自動ドアから入ってきて、普通に買い物をして、普通に見たこともない銀貨で会計を済ませて帰っていった。
そして自動ドアの向こうには、日本の山道ではなく、真っ暗な森が広がっていた。
先輩は言った。
――異世界につながるコンビニ。
一晩寝ても、頭の中の整理はまるで追いついていない。
それでも俺が今日もここへ来た理由は単純だった。
時給三千円。
それに――。
いや、今は仕事だ。
俺はバックヤードで制服に着替え、売り場へ戻った。
先輩は飲料ケースの前にしゃがみ込み、箱からペットボトルを取り出していた。
「先輩」
「あ?」
「昨日のこと、聞いていいですか」
「仕事しながらならな」
「そこはちゃんと説明してくれないんですか」
「説明だけで給料もらえるなら喜んでする」
「時給三千円もらってるじゃないですか」
「じゃあ手動かせ」
正論だった。
俺は段ボールを開け、スポーツドリンクを一本ずつ冷蔵ケースへ入れていく。
「昨日、零時になったら森につながりましたよね」
「つながるな」
「毎日ですか?」
「毎日。零時から朝六時まで」
「六時間も?」
「そう」
先輩はペットボトルの列を前へ寄せながら、なんでもないことのように答える。
「じゃあ、その間ずっと昨日みたいな客が来るんですか?」
「来る日は来る」
「来ない日は?」
「暇」
「普通のコンビニと同じ答えだ……」
「コンビニだからな」
そこだけ切り取れば本当に普通の夜勤だった。
俺は次の箱に手を伸ばす。
「あと、昨日のことなんだけど」
先輩の声が少しだけ低くなった。
「外で喋るなよ」
手が止まった。
「……やっぱり秘密なんですか?」
「秘密っつーか、喋ろうとするとお前が忘れる」
「はい?」
「この店のこと」
「……はい?」
「二回言わせんな」
いや、一回で理解できる内容じゃない。
「忘れるって、昨日のリザードマンのことだけですか?」
「店のことまとめて、らしい」
「らしい?」
「俺も最初にそう言われただけだ」
先輩は空になった段ボールを畳み始めた。
俺はその横顔を見つめる。
「なんでそんなことになるんです?」
「知らねえ」
「え」
「知らねえよ。俺がこの店作ったわけじゃねえし」
「でも先輩、長く働いてるんですよね?」
「働いてたらレジの使い方は詳しくなるけど、レジの基板まで詳しくなるか?」
「……ならないですね」
「そういうことだ」
妙に納得してしまった。
「とにかく、家族でも友達でも、事情知らねえやつに本当のこと喋ろうとすんな。店のこと忘れて、次から来なくなる」
「来なくなる……」
「おかげでずっと人手不足だ」
先輩は畳んだ段ボールを抱えたまま、三本指を立てた。
「最長でも三日だぞ、三日」
「三日!?」
「毎回毎回、新人に仕事教え直すのめんどくせえんだよな……はぁ、だりぃ」
「先輩、教育係向いてないですよね」
「うるせえ。だからお前は口滑らせんなよ。次も来い。マジで」
「そこまで言われると逆に辞めたくなるんですけど」
「辞めんな。だりぃから」
「理由がひどい」
けれど、俺は少しだけ笑ってしまった。
笑ったあとで、改めて考える。
話したら、この店のことを忘れる。
昨日あれだけ衝撃を受けた光景も、ここで働き始めたことも。
全部。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、それなら話さなければいい。
少なくとも今のところ、時給三千円を捨てる理由にはならなかった。
「他に気をつけることあります?」
「客が来たら接客しろ」
「それ普通のコンビニでも同じです」
「じゃあ覚えやすくていいだろ」
「いや、そうじゃなくて。昨日みたいな……その、リザードマンとか」
「客だろ」
「剣持ってましたけど」
「買い物に来てるなら客」
「分かりやすいような、怖いような」
「慣れろ」
「雑だなあ」
先輩は気にせず次の箱を開けた。
「金は昨日見ただろ。分からん硬貨でも精算機に入れてもらえ。勝手に処理する」
「なんで処理できるんです?」
「知らん」
「また?」
「だから俺もバイトだっつってんだろ」
先輩が本当に少し面倒そうな顔をした。
「あと、零時過ぎたら勝手に外出んな」
「森に?」
「ああ」
「なんでです?」
「暗い森に仕事中のコンビニ店員が出てく理由あんのか?」
「……ないです」
「じゃあ出んな」
「危ない生き物とかいるんですか?」
「いるかもしれねえ」
「知らないんですか?」
「俺、あの森の管理人じゃねえし」
そう言って先輩は段ボールを持ち上げた。
「ほら、質問終わり。次、菓子」
「新人研修、だいぶ雑じゃないですか?」
「必要なことは言った」
「もっとこう、マニュアルとか」
「あるぞ」
「あるんですか!」
「普通のコンビニ業務のなら」
「異世界用は?」
「ない」
「ないんだ……」
俺は少しだけ、この店の人手不足が記憶消去だけのせいではない気がしてきた。
◇
それから二時間ほどは、驚くほど普通だった。
菓子を前に出し、弁当の期限を確認し、レジ横の商品を補充する。
二十三時を過ぎると、先輩は昨日と同じようにフライヤーの前へ立った。
一槽は洗浄中。もう一槽には新しい油が入っている。
「今日は俺もやります」
「火傷すんなよ」
「昨日見ましたから」
「見るのとやるのは違う」
先輩からトングを渡される。
冷凍のチキンをバスケットへ並べる。油に沈めた瞬間、細かな泡が一気に立ち上り、ぱちぱちと乾いた音が響いた。
熱気が頬に当たる。
「うわ、思ったより熱い」
「だから言っただろ」
「これ、毎晩こんなに揚げるんですか?」
「売れるからな」
「昨日の人、一人で三つ買ってましたもんね」
「だいたいそれくらい食う」
「リザードマンってみんな揚げ物好きなんです?」
「知らん」
「そこも知らないんですか」
「俺が会ったリザードマン全員に食生活のアンケート取ったと思うか?」
「思いませんけど」
「じゃあ昨日の客が好き。それでいいだろ」
確かにその通りだった。
先輩は異世界経験者っぽい。
でも、だからといって異世界の百科事典ではない。
昨日の俺は、勝手にこの人なら何でも知っているような気がしていた。
考えてみれば、そんなわけがない。
俺だって日本人だが、日本の全都道府県の郷土料理を説明しろと言われたら無理だ。
「揚がったぞ」
「あ、はい」
俺は慌ててバスケットを上げた。
油が切れるのを待ち、先輩に言われた通りチキンをホットスナックケースへ移していく。
香ばしい匂いがカウンター周りに広がった。
二十三時五十八分。
昨日と同じ時間が近づく。
なのに、昨日とは気分が違った。
怖くないわけじゃない。
ただ、何が起きるかを一度知っているだけで、人間はここまで落ち着けるらしい。
「そろそろですね」
「そうだな」
「先輩」
「ん?」
「今日も昨日のリザードマン、来ますかね」
「さあ」
「常連なんですよね?」
「だいたい来る」
「じゃあ来るんじゃ」
「来るまで分からん」
本当に余計なことを断言しない人だ。
時計の数字が切り替わった。
午前零時。
ピッ。
店のどこかで短い電子音が鳴った。
白い照明がほんの一瞬だけ揺れる。
自動ドアの向こうから、駐車場の白線も、道路脇のガードレールも消えた。
代わりに現れたのは、闇の中へ続く木々だった。
湿った土と草の匂いが、ドアの隙間から薄く流れ込んでくる。
昨日と同じだ。
分かっていたのに、俺はしばらく見入ってしまった。
「瀬尾」
「はい?」
「突っ立ってんな。客来るぞ」
「……はい」
その言葉から三分もしないうちだった。
森の奥で枝が揺れた。
ずし、ずし、と重い足音が近づいてくる。
昨日なら、この時点で先輩を呼んでいただろう。
今日は逃げずに、自動ドアの向こうを見た。
木々の間から、深緑の巨体が現れる。
俺より頭一つどころではない。二メートル近い身体。太い首と厚い胸板。苔のような色をした鱗。長い尾が地面すれすれを左右に揺れている。
擦れた革のベストに、腰の幅広い剣。
琥珀色の目が店の明かりを映した。
「あ」
昨日の客だ。
リザードマンは自動ドアの前まで来ると、一瞬だけ足を止めた。
ウィーン。
ドアが開く。
「い、いらっしゃいませ!」
少し声が裏返った。
先輩が隣で吹き出した気がした。
リザードマンの縦長の瞳孔が俺へ向く。
「昨夜の新人か」
低くざらついた声。
昨日聞いた時ほど怖くは感じなかった。
「はい。今日もいます」
「そうか」
大きな口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「励め」
「ありがとうございます」
なんだろう。
職場二日目にして、異世界人に仕事を励まされた。
リザードマンは迷うことなくホットスナックケースへ向かった。
やっぱりそこなんだ。
厚い指の先にある黒い爪で、ガラスを傷つけないよう少し距離を取って中を覗き込む。
黄色い照明の下には、揚げたてのチキン、コロッケ、フランクフルトが並んでいた。
「これを三つ」
指したのは昨日と同じチキンだった。
「はい。チキン三つですね」
俺はトングを握る。
昨日は先輩がやっていた作業だ。
紙袋を開き、チキンを一つずつ入れる。
一個目。
二個目。
三個目。
袋の口を折り、商品名のシールを貼る。
たったそれだけなのに、妙に緊張した。
「お待たせしました」
差し出すと、リザードマンは大きな手を伸ばした。
途中でぴたりと止まる。
黒い爪が紙袋に触れないよう、指の腹だけでそっと挟んだ。
昨日と同じ仕草だった。
見た目だけなら、今にも店の商品棚ごと壊せそうな手なのに、俺より丁寧に紙袋を扱っている。
「熱いので気をつけてください」
「承知した」
言えた。
普通の接客みたいに。
いや、普通の接客なのかもしれない。
客の姿が普通じゃないだけで。
リザードマンはそのまま飲料棚へ向かい、大きな透明ボトルの水を一本取った。
次におにぎりの棚の前で立ち止まる。
太い指が、一つの商品を指した。
「これは何だ」
「え?」
見ると、昆布のおにぎりだった。
「えっと……米の中に、海藻を甘辛く煮たものが入ってます」
「海藻」
「海の草みたいなものです」
説明してから、これで伝わるのか不安になった。
リザードマンはしばらくパッケージを見つめている。
「美味いか」
急に聞かれた。
「俺は好きです」
「ならば買おう」
「そんな決め方でいいんですか?」
思わず口に出た。
琥珀色の目がこちらを向く。
「店の者が食うものなら、毒ではあるまい」
「いや、毒は売ってないですけど」
後ろで先輩が小さく笑った。
リザードマンは昆布おにぎりを二つ、爪を立てないよう指の腹でつまみ、買い物かごへ入れた。
そしてレジへ来る。
ここからが、今日の俺にとって本番だった。
「こちらでお会計します」
商品を一つずつ読み取る。
ピッ。
ピッ。
バーコードを通すたび、聞き慣れた電子音が鳴る。
巨大な爬虫類の客を相手にしているのに、レジ画面に表示されるのは「チキン」「天然水」「昆布おにぎり」という見慣れた文字だ。
状況のちぐはぐさに、頭がおかしくなりそうだった。
「お支払いはこちらへお願いします」
俺は半セルフ精算機を示した。
リザードマンは腰の革袋を開き、昨日と同じ厚い銀色の硬貨を数枚取り出す。
一枚ずつ投入口へ入れた。
ちゃりん。
ちゃりん。
画面の表示が勝手に切り替わり、何事もなかったように会計が完了する。
やっぱり意味が分からない。
でも先輩に聞いても、たぶん答えは同じだ。
――知らん。
だから今は、それでいいことにした。
「袋、使いますか?」
「頼む」
「はい」
俺はレジ袋を広げた。
最初に水を入れ、その横へおにぎり。最後に、潰れないようチキンの紙袋を上に置く。
持ち手をまとめて差し出す。
リザードマンはまた爪を引っ込めるようにして、慎重に受け取った。
「ありがとうございました」
今度は声が裏返らなかった。
リザードマンは俺を見下ろした。
「昨日より店の者らしいな」
「まだ二日目ですけどね」
「二日あれば十分だ」
何を基準に十分なのかは分からない。
だが悪い気はしなかった。
「またお越しください」
「ああ」
太い尾を揺らしながら、リザードマンは自動ドアの向こうの森へ戻っていった。
ウィーン。
ドアが閉まる。
俺はしばらくその場に立ったままだった。
「瀬尾」
「……はい」
「レジ」
「え?」
「次の客来たら困るだろ。ぼーっとすんな」
「あ、はい」
慌ててレジ周りを整える。
先輩はホットスナックケースを確認し、減ったチキンの数を数えていた。
「先輩」
「なんだ」
「俺、今、普通に接客できてましたよね」
「普通ではなかったな」
「え」
「最初のいらっしゃいませ裏返ってた」
「そこですか?」
「あと昆布の説明長い」
「異世界の人に昆布をどう説明しろっていうんですか!」
「自分で考えろ。接客だろ」
「新人に厳しくないですか?」
「三日以内に覚えさせないと、また最初からになるかもしれねえからな」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「なら明日も来い」
「来ますよ。時給三千円ですから」
「よし」
先輩は満足そうでもなく、ただいつもの眠そうな顔で頷いた。
そして減ったチキンを指差す。
「じゃあ追加揚げるぞ」
「もうですか?」
「売れたからな」
俺はフライヤーの方を見る。
油の表面が照明を反射して光っていた。
昨日までなら、リザードマンが来たことの方が一大事件だった。
でも今は、その客がチキンを三つ買ったから、在庫を補充しなければならない。
異世界だろうがなんだろうが、売れた商品は補充する。
どうやらこの店では、それが一番正しいらしい。
「瀬尾、バスケット」
「はいはい」
「返事一回」
「はい」
俺は冷凍庫を開けた。
これが新人研修というなら、ずいぶん変わった研修だ。
マニュアルには載っていない。
先輩も、全部を知っているわけじゃない。
分からないことだらけのまま、それでも客が来れば「いらっしゃいませ」と言う。
たぶん、それでいい。
午前零時を少し回ったばかり。
俺の二日目の夜勤は、まだ始まったばかりだった。
午後十時。
ミッドマート北森店の裏口から入った俺を見て、榊原先輩は片手を上げた。
昨日と同じ、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン。胸元では、三日月を抱えた白猫がにこにこと笑っている。
そのかわいらしい刺繍の上にある本人の顔は、相変わらず眠そうだった。
「そりゃ来ますよ」
「そうか」
「……なんですか、その反応」
「別に」
先輩はそれだけ言うと、手にしていた段ボール箱を持ち直した。
「着替えたら品出し手伝え。飲料重いから」
「はい」
昨日、俺はこの店で二本足で歩く巨大なトカゲを見た。
そいつは普通に自動ドアから入ってきて、普通に買い物をして、普通に見たこともない銀貨で会計を済ませて帰っていった。
そして自動ドアの向こうには、日本の山道ではなく、真っ暗な森が広がっていた。
先輩は言った。
――異世界につながるコンビニ。
一晩寝ても、頭の中の整理はまるで追いついていない。
それでも俺が今日もここへ来た理由は単純だった。
時給三千円。
それに――。
いや、今は仕事だ。
俺はバックヤードで制服に着替え、売り場へ戻った。
先輩は飲料ケースの前にしゃがみ込み、箱からペットボトルを取り出していた。
「先輩」
「あ?」
「昨日のこと、聞いていいですか」
「仕事しながらならな」
「そこはちゃんと説明してくれないんですか」
「説明だけで給料もらえるなら喜んでする」
「時給三千円もらってるじゃないですか」
「じゃあ手動かせ」
正論だった。
俺は段ボールを開け、スポーツドリンクを一本ずつ冷蔵ケースへ入れていく。
「昨日、零時になったら森につながりましたよね」
「つながるな」
「毎日ですか?」
「毎日。零時から朝六時まで」
「六時間も?」
「そう」
先輩はペットボトルの列を前へ寄せながら、なんでもないことのように答える。
「じゃあ、その間ずっと昨日みたいな客が来るんですか?」
「来る日は来る」
「来ない日は?」
「暇」
「普通のコンビニと同じ答えだ……」
「コンビニだからな」
そこだけ切り取れば本当に普通の夜勤だった。
俺は次の箱に手を伸ばす。
「あと、昨日のことなんだけど」
先輩の声が少しだけ低くなった。
「外で喋るなよ」
手が止まった。
「……やっぱり秘密なんですか?」
「秘密っつーか、喋ろうとするとお前が忘れる」
「はい?」
「この店のこと」
「……はい?」
「二回言わせんな」
いや、一回で理解できる内容じゃない。
「忘れるって、昨日のリザードマンのことだけですか?」
「店のことまとめて、らしい」
「らしい?」
「俺も最初にそう言われただけだ」
先輩は空になった段ボールを畳み始めた。
俺はその横顔を見つめる。
「なんでそんなことになるんです?」
「知らねえ」
「え」
「知らねえよ。俺がこの店作ったわけじゃねえし」
「でも先輩、長く働いてるんですよね?」
「働いてたらレジの使い方は詳しくなるけど、レジの基板まで詳しくなるか?」
「……ならないですね」
「そういうことだ」
妙に納得してしまった。
「とにかく、家族でも友達でも、事情知らねえやつに本当のこと喋ろうとすんな。店のこと忘れて、次から来なくなる」
「来なくなる……」
「おかげでずっと人手不足だ」
先輩は畳んだ段ボールを抱えたまま、三本指を立てた。
「最長でも三日だぞ、三日」
「三日!?」
「毎回毎回、新人に仕事教え直すのめんどくせえんだよな……はぁ、だりぃ」
「先輩、教育係向いてないですよね」
「うるせえ。だからお前は口滑らせんなよ。次も来い。マジで」
「そこまで言われると逆に辞めたくなるんですけど」
「辞めんな。だりぃから」
「理由がひどい」
けれど、俺は少しだけ笑ってしまった。
笑ったあとで、改めて考える。
話したら、この店のことを忘れる。
昨日あれだけ衝撃を受けた光景も、ここで働き始めたことも。
全部。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、それなら話さなければいい。
少なくとも今のところ、時給三千円を捨てる理由にはならなかった。
「他に気をつけることあります?」
「客が来たら接客しろ」
「それ普通のコンビニでも同じです」
「じゃあ覚えやすくていいだろ」
「いや、そうじゃなくて。昨日みたいな……その、リザードマンとか」
「客だろ」
「剣持ってましたけど」
「買い物に来てるなら客」
「分かりやすいような、怖いような」
「慣れろ」
「雑だなあ」
先輩は気にせず次の箱を開けた。
「金は昨日見ただろ。分からん硬貨でも精算機に入れてもらえ。勝手に処理する」
「なんで処理できるんです?」
「知らん」
「また?」
「だから俺もバイトだっつってんだろ」
先輩が本当に少し面倒そうな顔をした。
「あと、零時過ぎたら勝手に外出んな」
「森に?」
「ああ」
「なんでです?」
「暗い森に仕事中のコンビニ店員が出てく理由あんのか?」
「……ないです」
「じゃあ出んな」
「危ない生き物とかいるんですか?」
「いるかもしれねえ」
「知らないんですか?」
「俺、あの森の管理人じゃねえし」
そう言って先輩は段ボールを持ち上げた。
「ほら、質問終わり。次、菓子」
「新人研修、だいぶ雑じゃないですか?」
「必要なことは言った」
「もっとこう、マニュアルとか」
「あるぞ」
「あるんですか!」
「普通のコンビニ業務のなら」
「異世界用は?」
「ない」
「ないんだ……」
俺は少しだけ、この店の人手不足が記憶消去だけのせいではない気がしてきた。
◇
それから二時間ほどは、驚くほど普通だった。
菓子を前に出し、弁当の期限を確認し、レジ横の商品を補充する。
二十三時を過ぎると、先輩は昨日と同じようにフライヤーの前へ立った。
一槽は洗浄中。もう一槽には新しい油が入っている。
「今日は俺もやります」
「火傷すんなよ」
「昨日見ましたから」
「見るのとやるのは違う」
先輩からトングを渡される。
冷凍のチキンをバスケットへ並べる。油に沈めた瞬間、細かな泡が一気に立ち上り、ぱちぱちと乾いた音が響いた。
熱気が頬に当たる。
「うわ、思ったより熱い」
「だから言っただろ」
「これ、毎晩こんなに揚げるんですか?」
「売れるからな」
「昨日の人、一人で三つ買ってましたもんね」
「だいたいそれくらい食う」
「リザードマンってみんな揚げ物好きなんです?」
「知らん」
「そこも知らないんですか」
「俺が会ったリザードマン全員に食生活のアンケート取ったと思うか?」
「思いませんけど」
「じゃあ昨日の客が好き。それでいいだろ」
確かにその通りだった。
先輩は異世界経験者っぽい。
でも、だからといって異世界の百科事典ではない。
昨日の俺は、勝手にこの人なら何でも知っているような気がしていた。
考えてみれば、そんなわけがない。
俺だって日本人だが、日本の全都道府県の郷土料理を説明しろと言われたら無理だ。
「揚がったぞ」
「あ、はい」
俺は慌ててバスケットを上げた。
油が切れるのを待ち、先輩に言われた通りチキンをホットスナックケースへ移していく。
香ばしい匂いがカウンター周りに広がった。
二十三時五十八分。
昨日と同じ時間が近づく。
なのに、昨日とは気分が違った。
怖くないわけじゃない。
ただ、何が起きるかを一度知っているだけで、人間はここまで落ち着けるらしい。
「そろそろですね」
「そうだな」
「先輩」
「ん?」
「今日も昨日のリザードマン、来ますかね」
「さあ」
「常連なんですよね?」
「だいたい来る」
「じゃあ来るんじゃ」
「来るまで分からん」
本当に余計なことを断言しない人だ。
時計の数字が切り替わった。
午前零時。
ピッ。
店のどこかで短い電子音が鳴った。
白い照明がほんの一瞬だけ揺れる。
自動ドアの向こうから、駐車場の白線も、道路脇のガードレールも消えた。
代わりに現れたのは、闇の中へ続く木々だった。
湿った土と草の匂いが、ドアの隙間から薄く流れ込んでくる。
昨日と同じだ。
分かっていたのに、俺はしばらく見入ってしまった。
「瀬尾」
「はい?」
「突っ立ってんな。客来るぞ」
「……はい」
その言葉から三分もしないうちだった。
森の奥で枝が揺れた。
ずし、ずし、と重い足音が近づいてくる。
昨日なら、この時点で先輩を呼んでいただろう。
今日は逃げずに、自動ドアの向こうを見た。
木々の間から、深緑の巨体が現れる。
俺より頭一つどころではない。二メートル近い身体。太い首と厚い胸板。苔のような色をした鱗。長い尾が地面すれすれを左右に揺れている。
擦れた革のベストに、腰の幅広い剣。
琥珀色の目が店の明かりを映した。
「あ」
昨日の客だ。
リザードマンは自動ドアの前まで来ると、一瞬だけ足を止めた。
ウィーン。
ドアが開く。
「い、いらっしゃいませ!」
少し声が裏返った。
先輩が隣で吹き出した気がした。
リザードマンの縦長の瞳孔が俺へ向く。
「昨夜の新人か」
低くざらついた声。
昨日聞いた時ほど怖くは感じなかった。
「はい。今日もいます」
「そうか」
大きな口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「励め」
「ありがとうございます」
なんだろう。
職場二日目にして、異世界人に仕事を励まされた。
リザードマンは迷うことなくホットスナックケースへ向かった。
やっぱりそこなんだ。
厚い指の先にある黒い爪で、ガラスを傷つけないよう少し距離を取って中を覗き込む。
黄色い照明の下には、揚げたてのチキン、コロッケ、フランクフルトが並んでいた。
「これを三つ」
指したのは昨日と同じチキンだった。
「はい。チキン三つですね」
俺はトングを握る。
昨日は先輩がやっていた作業だ。
紙袋を開き、チキンを一つずつ入れる。
一個目。
二個目。
三個目。
袋の口を折り、商品名のシールを貼る。
たったそれだけなのに、妙に緊張した。
「お待たせしました」
差し出すと、リザードマンは大きな手を伸ばした。
途中でぴたりと止まる。
黒い爪が紙袋に触れないよう、指の腹だけでそっと挟んだ。
昨日と同じ仕草だった。
見た目だけなら、今にも店の商品棚ごと壊せそうな手なのに、俺より丁寧に紙袋を扱っている。
「熱いので気をつけてください」
「承知した」
言えた。
普通の接客みたいに。
いや、普通の接客なのかもしれない。
客の姿が普通じゃないだけで。
リザードマンはそのまま飲料棚へ向かい、大きな透明ボトルの水を一本取った。
次におにぎりの棚の前で立ち止まる。
太い指が、一つの商品を指した。
「これは何だ」
「え?」
見ると、昆布のおにぎりだった。
「えっと……米の中に、海藻を甘辛く煮たものが入ってます」
「海藻」
「海の草みたいなものです」
説明してから、これで伝わるのか不安になった。
リザードマンはしばらくパッケージを見つめている。
「美味いか」
急に聞かれた。
「俺は好きです」
「ならば買おう」
「そんな決め方でいいんですか?」
思わず口に出た。
琥珀色の目がこちらを向く。
「店の者が食うものなら、毒ではあるまい」
「いや、毒は売ってないですけど」
後ろで先輩が小さく笑った。
リザードマンは昆布おにぎりを二つ、爪を立てないよう指の腹でつまみ、買い物かごへ入れた。
そしてレジへ来る。
ここからが、今日の俺にとって本番だった。
「こちらでお会計します」
商品を一つずつ読み取る。
ピッ。
ピッ。
バーコードを通すたび、聞き慣れた電子音が鳴る。
巨大な爬虫類の客を相手にしているのに、レジ画面に表示されるのは「チキン」「天然水」「昆布おにぎり」という見慣れた文字だ。
状況のちぐはぐさに、頭がおかしくなりそうだった。
「お支払いはこちらへお願いします」
俺は半セルフ精算機を示した。
リザードマンは腰の革袋を開き、昨日と同じ厚い銀色の硬貨を数枚取り出す。
一枚ずつ投入口へ入れた。
ちゃりん。
ちゃりん。
画面の表示が勝手に切り替わり、何事もなかったように会計が完了する。
やっぱり意味が分からない。
でも先輩に聞いても、たぶん答えは同じだ。
――知らん。
だから今は、それでいいことにした。
「袋、使いますか?」
「頼む」
「はい」
俺はレジ袋を広げた。
最初に水を入れ、その横へおにぎり。最後に、潰れないようチキンの紙袋を上に置く。
持ち手をまとめて差し出す。
リザードマンはまた爪を引っ込めるようにして、慎重に受け取った。
「ありがとうございました」
今度は声が裏返らなかった。
リザードマンは俺を見下ろした。
「昨日より店の者らしいな」
「まだ二日目ですけどね」
「二日あれば十分だ」
何を基準に十分なのかは分からない。
だが悪い気はしなかった。
「またお越しください」
「ああ」
太い尾を揺らしながら、リザードマンは自動ドアの向こうの森へ戻っていった。
ウィーン。
ドアが閉まる。
俺はしばらくその場に立ったままだった。
「瀬尾」
「……はい」
「レジ」
「え?」
「次の客来たら困るだろ。ぼーっとすんな」
「あ、はい」
慌ててレジ周りを整える。
先輩はホットスナックケースを確認し、減ったチキンの数を数えていた。
「先輩」
「なんだ」
「俺、今、普通に接客できてましたよね」
「普通ではなかったな」
「え」
「最初のいらっしゃいませ裏返ってた」
「そこですか?」
「あと昆布の説明長い」
「異世界の人に昆布をどう説明しろっていうんですか!」
「自分で考えろ。接客だろ」
「新人に厳しくないですか?」
「三日以内に覚えさせないと、また最初からになるかもしれねえからな」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「なら明日も来い」
「来ますよ。時給三千円ですから」
「よし」
先輩は満足そうでもなく、ただいつもの眠そうな顔で頷いた。
そして減ったチキンを指差す。
「じゃあ追加揚げるぞ」
「もうですか?」
「売れたからな」
俺はフライヤーの方を見る。
油の表面が照明を反射して光っていた。
昨日までなら、リザードマンが来たことの方が一大事件だった。
でも今は、その客がチキンを三つ買ったから、在庫を補充しなければならない。
異世界だろうがなんだろうが、売れた商品は補充する。
どうやらこの店では、それが一番正しいらしい。
「瀬尾、バスケット」
「はいはい」
「返事一回」
「はい」
俺は冷凍庫を開けた。
これが新人研修というなら、ずいぶん変わった研修だ。
マニュアルには載っていない。
先輩も、全部を知っているわけじゃない。
分からないことだらけのまま、それでも客が来れば「いらっしゃいませ」と言う。
たぶん、それでいい。
午前零時を少し回ったばかり。
俺の二日目の夜勤は、まだ始まったばかりだった。