異世界深夜コンビニ

第2話 新人研修は異世界仕様

「お、ちゃんと出勤してきたか」

 午後十時。

 ミッドマート北森店の裏口から入った俺を見て、榊原先輩は片手を上げた。

 昨日と同じ、薄いグレーのシャツに濃紺のエプロン。胸元では、三日月を抱えた白猫がにこにこと笑っている。

 そのかわいらしい刺繍の上にある本人の顔は、相変わらず眠そうだった。

「そりゃ来ますよ」

「そうか」

「……なんですか、その反応」

「別に」

 先輩はそれだけ言うと、手にしていた段ボール箱を持ち直した。

「着替えたら品出し手伝え。飲料重いから」

「はい」

 昨日、俺はこの店で二本足で歩く巨大なトカゲを見た。

 そいつは普通に自動ドアから入ってきて、普通に買い物をして、普通に見たこともない銀貨で会計を済ませて帰っていった。

 そして自動ドアの向こうには、日本の山道ではなく、真っ暗な森が広がっていた。

 先輩は言った。

 ――異世界につながるコンビニ。

 一晩寝ても、頭の中の整理はまるで追いついていない。

 それでも俺が今日もここへ来た理由は単純だった。

 時給三千円。

 それに――。

 いや、今は仕事だ。

 俺はバックヤードで制服に着替え、売り場へ戻った。

 先輩は飲料ケースの前にしゃがみ込み、箱からペットボトルを取り出していた。

「先輩」

「あ?」

「昨日のこと、聞いていいですか」

「仕事しながらならな」

「そこはちゃんと説明してくれないんですか」

「説明だけで給料もらえるなら喜んでする」

「時給三千円もらってるじゃないですか」

「じゃあ手動かせ」

 正論だった。

 俺は段ボールを開け、スポーツドリンクを一本ずつ冷蔵ケースへ入れていく。

「昨日、零時になったら森につながりましたよね」

「つながるな」

「毎日ですか?」

「毎日。零時から朝六時まで」

「六時間も?」

「そう」

 先輩はペットボトルの列を前へ寄せながら、なんでもないことのように答える。

「じゃあ、その間ずっと昨日みたいな客が来るんですか?」

「来る日は来る」

「来ない日は?」

「暇」

「普通のコンビニと同じ答えだ……」

「コンビニだからな」

 そこだけ切り取れば本当に普通の夜勤だった。

 俺は次の箱に手を伸ばす。

「あと、昨日のことなんだけど」

 先輩の声が少しだけ低くなった。

「外で喋るなよ」

 手が止まった。

「……やっぱり秘密なんですか?」

「秘密っつーか、喋ろうとするとお前が忘れる」

「はい?」

「この店のこと」

「……はい?」

「二回言わせんな」

 いや、一回で理解できる内容じゃない。

「忘れるって、昨日のリザードマンのことだけですか?」

「店のことまとめて、らしい」

「らしい?」

「俺も最初にそう言われただけだ」

 先輩は空になった段ボールを畳み始めた。

 俺はその横顔を見つめる。

「なんでそんなことになるんです?」

「知らねえ」

「え」

「知らねえよ。俺がこの店作ったわけじゃねえし」

「でも先輩、長く働いてるんですよね?」

「働いてたらレジの使い方は詳しくなるけど、レジの基板まで詳しくなるか?」

「……ならないですね」

「そういうことだ」

 妙に納得してしまった。

「とにかく、家族でも友達でも、事情知らねえやつに本当のこと喋ろうとすんな。店のこと忘れて、次から来なくなる」

「来なくなる……」

「おかげでずっと人手不足だ」

 先輩は畳んだ段ボールを抱えたまま、三本指を立てた。

「最長でも三日だぞ、三日」

「三日!?」

「毎回毎回、新人に仕事教え直すのめんどくせえんだよな……はぁ、だりぃ」

「先輩、教育係向いてないですよね」

「うるせえ。だからお前は口滑らせんなよ。次も来い。マジで」

「そこまで言われると逆に辞めたくなるんですけど」

「辞めんな。だりぃから」

「理由がひどい」

 けれど、俺は少しだけ笑ってしまった。

 笑ったあとで、改めて考える。

 話したら、この店のことを忘れる。

 昨日あれだけ衝撃を受けた光景も、ここで働き始めたことも。

 全部。

 怖くないと言えば嘘になる。

 でも、それなら話さなければいい。

 少なくとも今のところ、時給三千円を捨てる理由にはならなかった。

「他に気をつけることあります?」

「客が来たら接客しろ」

「それ普通のコンビニでも同じです」

「じゃあ覚えやすくていいだろ」

「いや、そうじゃなくて。昨日みたいな……その、リザードマンとか」

「客だろ」

「剣持ってましたけど」

「買い物に来てるなら客」

「分かりやすいような、怖いような」

「慣れろ」

「雑だなあ」

 先輩は気にせず次の箱を開けた。

「金は昨日見ただろ。分からん硬貨でも精算機に入れてもらえ。勝手に処理する」

「なんで処理できるんです?」

「知らん」

「また?」

「だから俺もバイトだっつってんだろ」

 先輩が本当に少し面倒そうな顔をした。

「あと、零時過ぎたら勝手に外出んな」

「森に?」

「ああ」

「なんでです?」

「暗い森に仕事中のコンビニ店員が出てく理由あんのか?」

「……ないです」

「じゃあ出んな」

「危ない生き物とかいるんですか?」

「いるかもしれねえ」

「知らないんですか?」

「俺、あの森の管理人じゃねえし」

 そう言って先輩は段ボールを持ち上げた。

「ほら、質問終わり。次、菓子」

「新人研修、だいぶ雑じゃないですか?」

「必要なことは言った」

「もっとこう、マニュアルとか」

「あるぞ」

「あるんですか!」

「普通のコンビニ業務のなら」

「異世界用は?」

「ない」

「ないんだ……」

 俺は少しだけ、この店の人手不足が記憶消去だけのせいではない気がしてきた。



 それから二時間ほどは、驚くほど普通だった。

 菓子を前に出し、弁当の期限を確認し、レジ横の商品を補充する。

 二十三時を過ぎると、先輩は昨日と同じようにフライヤーの前へ立った。

 一槽は洗浄中。もう一槽には新しい油が入っている。

「今日は俺もやります」

「火傷すんなよ」

「昨日見ましたから」

「見るのとやるのは違う」

 先輩からトングを渡される。

 冷凍のチキンをバスケットへ並べる。油に沈めた瞬間、細かな泡が一気に立ち上り、ぱちぱちと乾いた音が響いた。

 熱気が頬に当たる。

「うわ、思ったより熱い」

「だから言っただろ」

「これ、毎晩こんなに揚げるんですか?」

「売れるからな」

「昨日の人、一人で三つ買ってましたもんね」

「だいたいそれくらい食う」

「リザードマンってみんな揚げ物好きなんです?」

「知らん」

「そこも知らないんですか」

「俺が会ったリザードマン全員に食生活のアンケート取ったと思うか?」

「思いませんけど」

「じゃあ昨日の客が好き。それでいいだろ」

 確かにその通りだった。

 先輩は異世界経験者っぽい。

 でも、だからといって異世界の百科事典ではない。

 昨日の俺は、勝手にこの人なら何でも知っているような気がしていた。

 考えてみれば、そんなわけがない。

 俺だって日本人だが、日本の全都道府県の郷土料理を説明しろと言われたら無理だ。

「揚がったぞ」

「あ、はい」

 俺は慌ててバスケットを上げた。

 油が切れるのを待ち、先輩に言われた通りチキンをホットスナックケースへ移していく。

 香ばしい匂いがカウンター周りに広がった。

 二十三時五十八分。

 昨日と同じ時間が近づく。

 なのに、昨日とは気分が違った。

 怖くないわけじゃない。

 ただ、何が起きるかを一度知っているだけで、人間はここまで落ち着けるらしい。

「そろそろですね」

「そうだな」

「先輩」

「ん?」

「今日も昨日のリザードマン、来ますかね」

「さあ」

「常連なんですよね?」

「だいたい来る」

「じゃあ来るんじゃ」

「来るまで分からん」

 本当に余計なことを断言しない人だ。

 時計の数字が切り替わった。

 午前零時。

 ピッ。

 店のどこかで短い電子音が鳴った。

 白い照明がほんの一瞬だけ揺れる。

 自動ドアの向こうから、駐車場の白線も、道路脇のガードレールも消えた。

 代わりに現れたのは、闇の中へ続く木々だった。

 湿った土と草の匂いが、ドアの隙間から薄く流れ込んでくる。

 昨日と同じだ。

 分かっていたのに、俺はしばらく見入ってしまった。

「瀬尾」

「はい?」

「突っ立ってんな。客来るぞ」

「……はい」

 その言葉から三分もしないうちだった。

 森の奥で枝が揺れた。

 ずし、ずし、と重い足音が近づいてくる。

 昨日なら、この時点で先輩を呼んでいただろう。

 今日は逃げずに、自動ドアの向こうを見た。

 木々の間から、深緑の巨体が現れる。

 俺より頭一つどころではない。二メートル近い身体。太い首と厚い胸板。苔のような色をした鱗。長い尾が地面すれすれを左右に揺れている。

 擦れた革のベストに、腰の幅広い剣。

 琥珀色の目が店の明かりを映した。

「あ」

 昨日の客だ。

 リザードマンは自動ドアの前まで来ると、一瞬だけ足を止めた。

 ウィーン。

 ドアが開く。

「い、いらっしゃいませ!」

 少し声が裏返った。

 先輩が隣で吹き出した気がした。

 リザードマンの縦長の瞳孔が俺へ向く。

「昨夜の新人か」

 低くざらついた声。

 昨日聞いた時ほど怖くは感じなかった。

「はい。今日もいます」

「そうか」

 大きな口元が、ほんのわずかに緩んだ。

「励め」

「ありがとうございます」

 なんだろう。

 職場二日目にして、異世界人に仕事を励まされた。

 リザードマンは迷うことなくホットスナックケースへ向かった。

 やっぱりそこなんだ。

 厚い指の先にある黒い爪で、ガラスを傷つけないよう少し距離を取って中を覗き込む。

 黄色い照明の下には、揚げたてのチキン、コロッケ、フランクフルトが並んでいた。

「これを三つ」

 指したのは昨日と同じチキンだった。

「はい。チキン三つですね」

 俺はトングを握る。

 昨日は先輩がやっていた作業だ。

 紙袋を開き、チキンを一つずつ入れる。

 一個目。

 二個目。

 三個目。

 袋の口を折り、商品名のシールを貼る。

 たったそれだけなのに、妙に緊張した。

「お待たせしました」

 差し出すと、リザードマンは大きな手を伸ばした。

 途中でぴたりと止まる。

 黒い爪が紙袋に触れないよう、指の腹だけでそっと挟んだ。

 昨日と同じ仕草だった。

 見た目だけなら、今にも店の商品棚ごと壊せそうな手なのに、俺より丁寧に紙袋を扱っている。

「熱いので気をつけてください」

「承知した」

 言えた。

 普通の接客みたいに。

 いや、普通の接客なのかもしれない。

 客の姿が普通じゃないだけで。

 リザードマンはそのまま飲料棚へ向かい、大きな透明ボトルの水を一本取った。

 次におにぎりの棚の前で立ち止まる。

 太い指が、一つの商品を指した。

「これは何だ」

「え?」

 見ると、昆布のおにぎりだった。

「えっと……米の中に、海藻を甘辛く煮たものが入ってます」

「海藻」

「海の草みたいなものです」

 説明してから、これで伝わるのか不安になった。

 リザードマンはしばらくパッケージを見つめている。

「美味いか」

 急に聞かれた。

「俺は好きです」

「ならば買おう」

「そんな決め方でいいんですか?」

 思わず口に出た。

 琥珀色の目がこちらを向く。

「店の者が食うものなら、毒ではあるまい」

「いや、毒は売ってないですけど」

 後ろで先輩が小さく笑った。

 リザードマンは昆布おにぎりを二つ、爪を立てないよう指の腹でつまみ、買い物かごへ入れた。

 そしてレジへ来る。

 ここからが、今日の俺にとって本番だった。

「こちらでお会計します」

 商品を一つずつ読み取る。

 ピッ。

 ピッ。

 バーコードを通すたび、聞き慣れた電子音が鳴る。

 巨大な爬虫類の客を相手にしているのに、レジ画面に表示されるのは「チキン」「天然水」「昆布おにぎり」という見慣れた文字だ。

 状況のちぐはぐさに、頭がおかしくなりそうだった。

「お支払いはこちらへお願いします」

 俺は半セルフ精算機を示した。

 リザードマンは腰の革袋を開き、昨日と同じ厚い銀色の硬貨を数枚取り出す。

 一枚ずつ投入口へ入れた。

 ちゃりん。

 ちゃりん。

 画面の表示が勝手に切り替わり、何事もなかったように会計が完了する。

 やっぱり意味が分からない。

 でも先輩に聞いても、たぶん答えは同じだ。

 ――知らん。

 だから今は、それでいいことにした。

「袋、使いますか?」

「頼む」

「はい」

 俺はレジ袋を広げた。

 最初に水を入れ、その横へおにぎり。最後に、潰れないようチキンの紙袋を上に置く。

 持ち手をまとめて差し出す。

 リザードマンはまた爪を引っ込めるようにして、慎重に受け取った。

「ありがとうございました」

 今度は声が裏返らなかった。

 リザードマンは俺を見下ろした。

「昨日より店の者らしいな」

「まだ二日目ですけどね」

「二日あれば十分だ」

 何を基準に十分なのかは分からない。

 だが悪い気はしなかった。

「またお越しください」

「ああ」

 太い尾を揺らしながら、リザードマンは自動ドアの向こうの森へ戻っていった。

 ウィーン。

 ドアが閉まる。

 俺はしばらくその場に立ったままだった。

「瀬尾」

「……はい」

「レジ」

「え?」

「次の客来たら困るだろ。ぼーっとすんな」

「あ、はい」

 慌ててレジ周りを整える。

 先輩はホットスナックケースを確認し、減ったチキンの数を数えていた。

「先輩」

「なんだ」

「俺、今、普通に接客できてましたよね」

「普通ではなかったな」

「え」

「最初のいらっしゃいませ裏返ってた」

「そこですか?」

「あと昆布の説明長い」

「異世界の人に昆布をどう説明しろっていうんですか!」

「自分で考えろ。接客だろ」

「新人に厳しくないですか?」

「三日以内に覚えさせないと、また最初からになるかもしれねえからな」

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「なら明日も来い」

「来ますよ。時給三千円ですから」

「よし」

 先輩は満足そうでもなく、ただいつもの眠そうな顔で頷いた。

 そして減ったチキンを指差す。

「じゃあ追加揚げるぞ」

「もうですか?」

「売れたからな」

 俺はフライヤーの方を見る。

 油の表面が照明を反射して光っていた。

 昨日までなら、リザードマンが来たことの方が一大事件だった。

 でも今は、その客がチキンを三つ買ったから、在庫を補充しなければならない。

 異世界だろうがなんだろうが、売れた商品は補充する。

 どうやらこの店では、それが一番正しいらしい。

「瀬尾、バスケット」

「はいはい」

「返事一回」

「はい」

 俺は冷凍庫を開けた。

 これが新人研修というなら、ずいぶん変わった研修だ。

 マニュアルには載っていない。

 先輩も、全部を知っているわけじゃない。

 分からないことだらけのまま、それでも客が来れば「いらっしゃいませ」と言う。

 たぶん、それでいい。

 午前零時を少し回ったばかり。

 俺の二日目の夜勤は、まだ始まったばかりだった。

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