可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第一話 あの時、助けていただいたアザラシです
王宮の会議室には、ぴりついた空気が満ちていた。
「王太子殿下、動物保護院への予算がまた増額されているとの報告を受けました」
初老の伯爵が、書類を机に叩きつけるように置く。
「人間の孤児院、貧民救済院への予算すら十分でないというのに、なぜ獣にこれほどの金をかけるのですか」
周囲の貴族たちも、次々と頷く。
レオニスはまだ十二歳。王太子になるための勉強として父王の会議に出ていて、保護院のことだけは自分で説明してよいと言われていた。
けれど大人たちの目には、「動物好きが高じた子供の道楽」としか映っていない。
「保護院の活動は、単なる慈善ではありません」
静かに、しかし怯まず答える。
「傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかります。魚が減る理由や、網にかかる事故の原因を調べることにもつながっている。漁師たちの生活を守るための調査でもあるのです」
十二歳とは思えないほど筋の通った説明だったが、貴族たちの表情は変わらない。
「若さゆえの理想論」と切り捨てるような視線が、レオニスに突き刺さる。
「殿下のお気持ちはご立派ですが、まずは玉座にふさわしい振る舞いを学ばれてはいかがか」
会議は、結局結論を持ち越されたまま終わった。
重い足取りで廊下へ出たとき、聞き覚えのある声が響いた。
「レオニス様!」
振り返ると、海辺の領地を治めるフォーシール公爵が、小さな令嬢の手を引いてやってくるところだった。
銀色のふわふわとした髪、大きな黒い瞳。年の頃は五つほどだろうか。
「これはフォーシール公。ご無沙汰しております」
「殿下、実は今日は娘のセルキアがどうしても殿下にご挨拶したいと申しまして……」
公爵がそう言い終わる前に、セルキアはとことこと駆け寄り、満面の笑みで見上げた。
「あの時、助けていただいたアザラシです!」
思わず固まった。
五年前――七歳だったレオニスは、父王の視察について海岸を訪れた。
そこで、漁網に絡まって動けなくなった白い子アザラシを見つけた。
震える身体に自分の外套をかけ、裏地から裂いた青い布を傷へ巻いた。
やがて護衛たちが駆けつけ、一緒に保護院まで運んだ。あの夜のことは、今でもよく覚えている。
だが、目の前にいるのは、どこからどう見ても公爵家の令嬢だ。
「何か、証拠はあるのか?」
我ながら間抜けな質問だと思いつつ、聞かずにはいられなかった。
「泳ぎが得意です!」
「人間でも泳げる」
「おさかな、丸呑みいけます!」
「それは今後やめなさい」
「はぁい!」
素直に頷くセルキアに、思わず笑いそうになる。
しかし次の瞬間、セルキアの言葉に息を呑んだ。
「あのとき、青い布を巻いてくれました。それから、『大丈夫、もう独りじゃない』って言ってくれました」
誰にも話したことのない記憶だった。
あの夜、誰もいない浜辺で、震える子アザラシにそっと囁いた。それだけだ。
公爵にも、侍従にも話していない。
「フォーシール公。これは、どういうことですか」
「実は、殿下が保護なさった白い子アザラシは、翌朝には保護院から姿を消していたそうです」
「ああ。柵が壊れた跡もなく、海へ戻ったのだろうと聞いた」
「その同じ朝、我が領の浜辺で赤子が見つかりました。青い布を腕に巻いた、この子です」
公爵はセルキアの頭へ手を置いた。
「子に恵まれなかった私ども夫婦は、この子を娘として迎えました。言葉を覚えた頃から、自分はアザラシだった、殿下に助けられたのだと申しておりまして」
「最初から言っています!」
「……そうだったな」
どう考えても不思議な話だ。
それでも、青い布も、あの言葉も知っている。
まだ信じきれないまま立ち尽くすレオニスの手を、セルキアの小さな手が握った。
「冷たいお手てです。私を抱きしめると温かいですよ! 元アザラシなので!」
実際には、五歳児特有の高い体温がそう感じさせているだけだろう。
それでも思わずセルキアを抱き上げていた。
思ったより重く、一瞬よろけたところを、背後から護衛が慌てて支える。
「……確かに、温かいな」
「元アザラシですから!」
得意げに胸を張るセルキアを腕に抱いたまま、ふと彼女の瞳をじっと見つめた。
黒く、少し潤んだ、大きな瞳。
――そうだ。
あの日、漁網の中で怯えていた子アザラシの瞳も、こんな色をしていた。
会議で塞がれていたはずの心に、そのときだけあたたかな光が差し込んだ気がした。
あの日以来、セルキアは「恩返しをするのです!」と言って、王宮へ頻繁に通うようになった。
もっともその恩返しは、レオニスの手を煩わせることのほうが多かった。
「殿下、書類をお持ちします!」
「セルキア、それは重いから――」
止める間もなくセルキアは大量の書類を抱えたまま、見事に足をもつれさせて床に落とした。
バラバラと散らばる紙を前に、セルキアはしょんぼりと耳を垂らすように肩を落とす。
「陸の上は、まだ不慣れなのです……」
庭を歩けば、池を見るなり目を輝かせて駆け出そうとする。
「セルキア、そこは泳ぐところではない」
「でも、とても良い水面をしています!」
食堂で魚料理が出れば、行儀作法を忘れて前のめりになる。
「新鮮なおさかなの匂いがします!」
極めつけは、庭の隅に佇む鷺を見つけた瞬間だった。
無言のまま、素早くレオニスの背後にぴたりと隠れた。
「泳ぎなら負けないのではなかったか?」
からかうように尋ねると、くぐもった声が返ってくる。
「鷺は陸にいるので、ちょっと苦手です……」
そんな微笑ましいやり取りの最中、廊下の向こうから、優雅な足音とともにマリエッタが現れた。
十四歳にして三か国語を操り、王妃からも礼儀作法を褒められている妃候補の一人である。
マリエッタは、幼い頃から王太子妃になるための教育を受けてきた。
レオニスがセルキアにばかり構うのが、明らかに面白くないようだった。
「レオニス様。少しよろしいですか」
セルキアの前まで来ると、腰に手を当てて詰め寄る。
「あざらしだなんて、おかしいじゃありませんか!そのような方が王太子妃になれるはずがありませんわ!」
「そうなのですか?」
「王太子殿下、動物保護院への予算がまた増額されているとの報告を受けました」
初老の伯爵が、書類を机に叩きつけるように置く。
「人間の孤児院、貧民救済院への予算すら十分でないというのに、なぜ獣にこれほどの金をかけるのですか」
周囲の貴族たちも、次々と頷く。
レオニスはまだ十二歳。王太子になるための勉強として父王の会議に出ていて、保護院のことだけは自分で説明してよいと言われていた。
けれど大人たちの目には、「動物好きが高じた子供の道楽」としか映っていない。
「保護院の活動は、単なる慈善ではありません」
静かに、しかし怯まず答える。
「傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかります。魚が減る理由や、網にかかる事故の原因を調べることにもつながっている。漁師たちの生活を守るための調査でもあるのです」
十二歳とは思えないほど筋の通った説明だったが、貴族たちの表情は変わらない。
「若さゆえの理想論」と切り捨てるような視線が、レオニスに突き刺さる。
「殿下のお気持ちはご立派ですが、まずは玉座にふさわしい振る舞いを学ばれてはいかがか」
会議は、結局結論を持ち越されたまま終わった。
重い足取りで廊下へ出たとき、聞き覚えのある声が響いた。
「レオニス様!」
振り返ると、海辺の領地を治めるフォーシール公爵が、小さな令嬢の手を引いてやってくるところだった。
銀色のふわふわとした髪、大きな黒い瞳。年の頃は五つほどだろうか。
「これはフォーシール公。ご無沙汰しております」
「殿下、実は今日は娘のセルキアがどうしても殿下にご挨拶したいと申しまして……」
公爵がそう言い終わる前に、セルキアはとことこと駆け寄り、満面の笑みで見上げた。
「あの時、助けていただいたアザラシです!」
思わず固まった。
五年前――七歳だったレオニスは、父王の視察について海岸を訪れた。
そこで、漁網に絡まって動けなくなった白い子アザラシを見つけた。
震える身体に自分の外套をかけ、裏地から裂いた青い布を傷へ巻いた。
やがて護衛たちが駆けつけ、一緒に保護院まで運んだ。あの夜のことは、今でもよく覚えている。
だが、目の前にいるのは、どこからどう見ても公爵家の令嬢だ。
「何か、証拠はあるのか?」
我ながら間抜けな質問だと思いつつ、聞かずにはいられなかった。
「泳ぎが得意です!」
「人間でも泳げる」
「おさかな、丸呑みいけます!」
「それは今後やめなさい」
「はぁい!」
素直に頷くセルキアに、思わず笑いそうになる。
しかし次の瞬間、セルキアの言葉に息を呑んだ。
「あのとき、青い布を巻いてくれました。それから、『大丈夫、もう独りじゃない』って言ってくれました」
誰にも話したことのない記憶だった。
あの夜、誰もいない浜辺で、震える子アザラシにそっと囁いた。それだけだ。
公爵にも、侍従にも話していない。
「フォーシール公。これは、どういうことですか」
「実は、殿下が保護なさった白い子アザラシは、翌朝には保護院から姿を消していたそうです」
「ああ。柵が壊れた跡もなく、海へ戻ったのだろうと聞いた」
「その同じ朝、我が領の浜辺で赤子が見つかりました。青い布を腕に巻いた、この子です」
公爵はセルキアの頭へ手を置いた。
「子に恵まれなかった私ども夫婦は、この子を娘として迎えました。言葉を覚えた頃から、自分はアザラシだった、殿下に助けられたのだと申しておりまして」
「最初から言っています!」
「……そうだったな」
どう考えても不思議な話だ。
それでも、青い布も、あの言葉も知っている。
まだ信じきれないまま立ち尽くすレオニスの手を、セルキアの小さな手が握った。
「冷たいお手てです。私を抱きしめると温かいですよ! 元アザラシなので!」
実際には、五歳児特有の高い体温がそう感じさせているだけだろう。
それでも思わずセルキアを抱き上げていた。
思ったより重く、一瞬よろけたところを、背後から護衛が慌てて支える。
「……確かに、温かいな」
「元アザラシですから!」
得意げに胸を張るセルキアを腕に抱いたまま、ふと彼女の瞳をじっと見つめた。
黒く、少し潤んだ、大きな瞳。
――そうだ。
あの日、漁網の中で怯えていた子アザラシの瞳も、こんな色をしていた。
会議で塞がれていたはずの心に、そのときだけあたたかな光が差し込んだ気がした。
あの日以来、セルキアは「恩返しをするのです!」と言って、王宮へ頻繁に通うようになった。
もっともその恩返しは、レオニスの手を煩わせることのほうが多かった。
「殿下、書類をお持ちします!」
「セルキア、それは重いから――」
止める間もなくセルキアは大量の書類を抱えたまま、見事に足をもつれさせて床に落とした。
バラバラと散らばる紙を前に、セルキアはしょんぼりと耳を垂らすように肩を落とす。
「陸の上は、まだ不慣れなのです……」
庭を歩けば、池を見るなり目を輝かせて駆け出そうとする。
「セルキア、そこは泳ぐところではない」
「でも、とても良い水面をしています!」
食堂で魚料理が出れば、行儀作法を忘れて前のめりになる。
「新鮮なおさかなの匂いがします!」
極めつけは、庭の隅に佇む鷺を見つけた瞬間だった。
無言のまま、素早くレオニスの背後にぴたりと隠れた。
「泳ぎなら負けないのではなかったか?」
からかうように尋ねると、くぐもった声が返ってくる。
「鷺は陸にいるので、ちょっと苦手です……」
そんな微笑ましいやり取りの最中、廊下の向こうから、優雅な足音とともにマリエッタが現れた。
十四歳にして三か国語を操り、王妃からも礼儀作法を褒められている妃候補の一人である。
マリエッタは、幼い頃から王太子妃になるための教育を受けてきた。
レオニスがセルキアにばかり構うのが、明らかに面白くないようだった。
「レオニス様。少しよろしいですか」
セルキアの前まで来ると、腰に手を当てて詰め寄る。
「あざらしだなんて、おかしいじゃありませんか!そのような方が王太子妃になれるはずがありませんわ!」
「そうなのですか?」
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