可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第十三話 あと三年

 浜辺では、セルキアが子供たちに囲まれていた。
 北湾の一件をきっかけに、近隣の村から「あざらし幼稚園を見たい」という声が増えたのだ。
 今日は初めての子供向け見学会だった。

「では問題です! この子は元気でしょうか、元気ではないでしょうか!」

 セルキアが指したプールでは、若いアザラシが水面にぷかぷか浮いている。

「元気!」
「寝てる!」
「死んでる!?」
「死んでません!」

 子供たちが一斉に答え、セルキアが慌てて首を振る。

「よーく見てください。お鼻と、おめめと、泳ぎ方です!」
「わかんない!」
「では匂いを――」
「セルキア」

 後ろからレオニスが呼ぶ。

「普通の人間は、君ほど匂いを嗅ぎ分けられない」
「そうでした!」

 子供たちがどっと笑った。

 その中には、ミナもいた。
 弟の体調は少しずつ戻り、今日は弟と一緒に参加している。

「セルキア様。それじゃ、私たちには見分けられないじゃん」
「うーん……」

 腕を組み、真剣に考え込んだ。
 しばらくすると、急に顔を上げる。

「では、誰でもわかるところだけにしましょう!」

 地面へしゃがみ込み、持っていた板へ絵を描き始めた。

「元気な子は、お魚をよく食べます。いつもより食べない日が続いたら注意です」
「それならわかる!」
「泳ぐとき、片方だけに傾いていないか。目を開けにくそうにしていないか。呼吸がいつもより速くないか」

 ミナの弟が手を上げた。

「いつもって、どうやって知るの?」

 セルキアの手が止まった。

「……毎日、見る?」
「毎日は来られないよ」
「そうですよね」

 また考える。
 そして今度は、事務室から何枚かの紙を持ってきた。

「では、昨日までの記録と比べます! 職員さんが書いておけば、今日初めて来た人でもわかります」

 マリエッタが少し離れたところで、満足そうに頷いた。

「ようやく、記録の意味がおわかりになりましたわね」
「前からわかっています!」
「八歳のとき、『頭の中にあります』とおっしゃった方はどなたでしたかしら」
「昔の私です!」

 また笑い声が上がる。

 見学会の終わり、ミナがセルキアへ小さな包みを差し出した。
 中には干した魚が入っていた。

「これ、お父ちゃんから。保護院のみんなで食べてって」
「ありがとうございます!」
「アザラシの分だからね」
「……一匹くらい」
「セルキア」
「食べません!」

 名前を呼ばれただけで、背筋を伸ばした。

 帰っていく子供たちを見送りながら、セルキアは手元の板を見つめた。
 そこには、誰でも使えるよう、簡単な言葉と絵でまとめた「元気なアザラシの見分け方」が残っていた。

 自分だけがわかるのでは、足りない。
 誰かに伝わってこそ、助けられる命が増える。

「殿下」
「何だ」
「これ、ちゃんと書き直して、分院にも配っていいでしょうか」
「もちろんだ」
「では、絵も描きます!」
「アザラシはともかく、魚の絵はマリエッタに確認してもらえ」
「なぜですか!」
「前に君が描いた魚は、芋に見えた」
「お魚でした!」

 そのやり取りを窓越しに見ていたマリエッタが、くすりと笑う。

「あの子、すっかり先生ですわね」
「ああ」
「レオニス様。一つ、伺ってもよろしいかしら」
「何だ」
「いつまで、待つおつもりですの」

 レオニスの肩が、わずかに動いた。

「……何の話だ」
「とぼけないでくださいませ。この七年、あなたがあの子をどう見ているか、気づいていない者のほうが少ないですわ」

 マリエッタは容赦がなかった。

「保護院の職員は全員気づいております。フォーシール公爵も、公爵夫人も。おそらく国王陛下も」
「セルキアは気づいていない」
「そこが問題ですわね」

 彼女は帳簿を閉じた。

「あの子は、あなたを恩人として見ております。それ以上の言葉を、まだ持っていないのです」
「わかっている」
「では、なぜ待つのです」

 しばらく黙っていた。

「……あの子は、五歳のときに俺に会った」

 窓の外で、セルキアが子供の一人を肩車している。歓声が上がる。

「俺が手を伸ばせば、あの子は必ず頷くだろう。断ることを知らない」
「ええ」
「だが、それは選んだことにはならない」

 目を伏せた。

「あの子には、自分の意思で選べる年齢になってほしい。俺以外の道もあると知った上で、それでも隣にいたいと思うなら——そのときに、初めて聞く」

 長い沈黙のあと、マリエッタは小さく笑った。

「……ずいぶん、遠回りをなさいますのね」
「ああ」
「その間に、他の誰かに攫われても文句は言えませんわよ」
「そのときは、俺の負けだ」

 言葉とは裏腹に、レオニスの表情は硬かった。


 その夜、王宮に戻ったレオニスを、国王が私室へ呼んだ。

「北湾の件、見事だった」
「恐れ入ります」
「貴族どもを黙らせ、村の信を得た。王太子として申し分ない」

 国王は杯を傾け、それから何気ない調子で切り出した。

「ところでレオニス。そろそろ婚約を考えてはどうだ」

 レオニスの動きが止まる。

「候補は幾人も上がっておる。だが、おまえが一向に決めぬのでな」
「……父上」
「フォーシール公爵家の娘だろう」

 核心を突かれ、レオニスは言葉に詰まった。

「あれは良い娘だ。血筋は公爵家、素性は……まあ、多少変わってはおるが」
「多少どころではありませんが」
「王家に必要なのは、血の正しさより、民に信じられる者だ。あの娘は沿岸の民から慕われておる」

 国王は杯を置いた。

「なぜ待つ」
「本人が、自分の意思で選べる年齢になるまで待ちます」

 答えは即座だった。

「今の年齢では、俺が望めば断れない。それは、俺が選ばせたことになる」

 国王は、しばらく息子を見つめていた。

「……頑固なところは、母親似だな」
「そうでしょうか」
「そうだ」

 笑い、それから真顔に戻った。

「ならば、その日まで待とう。だが、覚えておけ」
「はい」
「待つのも選択だ。待った結果を、他人のせいにするな」

 深く頭を下げた。

「承知しております」

 窓の外では、冬の星が冴え冴えと輝いていた。

 その夜、レオニスは眠る前に、机の引き出しを開けた。
 中には、色褪せた青い布の切れ端が入っている。
 十二年前、外套の裏地を裂いて、小さな傷口へ巻いたもの。
 保護院に残されていたのを、後から譲り受けたものだった。

 布を指先でなぞる。

 ――あと三年。
 自分に言い聞かせるように、レオニスは引き出しを閉じた。
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