可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第十二話 見張り番
決定が下されたのは、その日の夕刻のこと。
しかし、事はそれで終わらなかった。
改修工事が始まって間もなく、保護院に急報が入る。
「殿下!製錬所の下流で、大量の魚が浮いております!」
駆けつけると、浜辺には無数の魚が打ち上げられていた。
腹を見せ、動かない。
「工事の途中で、汚れた水をためていた槽の底が抜けたようです」
「溜まっていたものが、一気に流れ出たのか」
最悪の事故。
しかも、その海域には——
「アザラシの群れがいます!」
セルキアが叫んだ。
「三十頭ほど。まだ気づいていません、こちらへ来ます!」
「追い払えるか」
「やってみます!」
言うが早いか、セルキアは海へ飛び込んだ。
「セルキア!」
レオニスが叫ぶ間もなく、白い身体が波を切って進んでいく。
群れの前方へ回り込み、水中で何かを叫んだ。
――低く、鋭い鳴き声。
群れが止まった。
先頭にいた大きな個体が、身を翻す。
それに続いて、群れ全体が向きを変えた。
汚れた海を避け、東の岩場へ回っていく。
「……追い払った」
バルトが呆然と呟いた。
「何と言ったのですかな」
「危険を知らせる鳴き声だと思います」
濡れたまま舟へ引き上げられたセルキアが、息を切らしながら答える。
「アザラシは、危ないときにああ鳴きます。私も、昔よく聞きました」
レオニスは水筒の栓を抜き、真っ先にセルキアの口元へ差し出した。
「すすげ」
「殿下、それより群れが——」
「先にすすげ」
逆らえない声だった。
セルキアが素直に従い、四度すすいで吐き出すのを見届けてから、レオニスはようやく毛布を広げた。
そして、そのまま強く抱き寄せる。
「無事か」
「はい」
「……よくやった」
その腕の力に、目を瞬かせた。
「殿下、少し痛いです」
「すまない」
だが、腕は緩まなかった。
「殿下?」
「……もう少しだけ、こうさせてくれ」
それ以上、何も言わなかった。
濡れた髪から滴が落ち、レオニスの上着に染みを作っていく。
波の音だけが、二人を包んでいた。
事故から半年が過ぎた。
工事は終わり、製錬所の汚れた水は、新しい設備できれいにしてから海へ流されるようになった。
王家が費用の三分の一を払ったことで、残りを負担する者たちも渋々従った。
だが、汚れた海底がすぐに元へ戻るわけではない。
「回復には、数年かかりますな」
バルトが浜辺で呟く。
「積もったものは、そう簡単には消えません」
「だが、これ以上は増えない」
レオニスが応じた。
「増えないというだけで、大きな違いだ」
その年の秋、北湾の一角で小さな変化が見つかった。
「殿下!海藻が生えています!」
浜から駆けてきたセルキアが、濡れた手に緑の切れ端を握っている。
十二歳になった彼女は、以前より背が伸び、腕にも力がついていた。
「浅いところですが、確かに新しい芽です!」
「本当か」
「はい!それから、小さな貝も戻ってきています!」
息を弾ませながら報告する。
この一年半、セルキアはずっと気を張っていた。
今ようやく、その顔が少し緩んだ。
その手にある海藻を見つめた。
たった一本の、小さな緑。
けれど、この一本を見るまでに長い時間がかかった。
二十日間の調査。荒れた会議。村で浴びた怒鳴り声。そして、事故の日の恐怖。
「セルキア」
「はい」
「君が最初に『匂いが違う』と言わなければ、誰も気づかなかった」
「私だけの手柄ではありません」
「わかっている。だが、始まりは君だった」
照れくさそうに視線を逸らし、それから思い出したように顔を上げた。
「殿下。あの村の子は、どうなりましたか」
「治療を受けている。医師の話では、この年齢なら回復が見込めるそうだ」
「よかったです……」
深く息を吐くセルキアの横で、レオニスも肩の力を抜いた。
その冬、沿岸五村から、王宮へ新たな書状が届いた。
以前のような、保護院を小さくしてほしいという手紙ではなかった。
『王立海洋動物保護院の存続を望む』
署名は、四百を超えていた。
以前、縮小を求めて署名した者たちの名も、そのまま並んでいる。
「……立場が逆転しましたわね」
マリエッタが、しみじみと書状を見ながら言った。
「あの村の方々、保護院へ魚を届けてくださるようになりましたのよ」
「金を取らずにか」
「『アザラシは俺たちの見張り番だ』と申しておりました」
思わず笑った。
「見張り番か」
「海がおかしくなれば、まずアザラシが倒れる。だから、あいつらを見ていれば、自分たちの海の様子がわかるのだと」
それは、レオニスが七年前に会議室で説明し、誰にも理解されなかったことだった。
傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかる。
漁師たちの生活を守るための調査でもある——と。
あのとき冷笑した貴族たちではなく、現場の漁師たちが、それを自分の言葉で言い始めていた。
「殿下」
マリエッタが、めずらしく改まった調子で言った。
「あなたは、正しかったのですわ」
「俺一人ではない」
「ええ。ですが、誰にも理解されなかった七年間、あなたは折れませんでした。それは、あなただけの功績です」
答えなかった。ただ、窓の外に目を向けた。
しかし、事はそれで終わらなかった。
改修工事が始まって間もなく、保護院に急報が入る。
「殿下!製錬所の下流で、大量の魚が浮いております!」
駆けつけると、浜辺には無数の魚が打ち上げられていた。
腹を見せ、動かない。
「工事の途中で、汚れた水をためていた槽の底が抜けたようです」
「溜まっていたものが、一気に流れ出たのか」
最悪の事故。
しかも、その海域には——
「アザラシの群れがいます!」
セルキアが叫んだ。
「三十頭ほど。まだ気づいていません、こちらへ来ます!」
「追い払えるか」
「やってみます!」
言うが早いか、セルキアは海へ飛び込んだ。
「セルキア!」
レオニスが叫ぶ間もなく、白い身体が波を切って進んでいく。
群れの前方へ回り込み、水中で何かを叫んだ。
――低く、鋭い鳴き声。
群れが止まった。
先頭にいた大きな個体が、身を翻す。
それに続いて、群れ全体が向きを変えた。
汚れた海を避け、東の岩場へ回っていく。
「……追い払った」
バルトが呆然と呟いた。
「何と言ったのですかな」
「危険を知らせる鳴き声だと思います」
濡れたまま舟へ引き上げられたセルキアが、息を切らしながら答える。
「アザラシは、危ないときにああ鳴きます。私も、昔よく聞きました」
レオニスは水筒の栓を抜き、真っ先にセルキアの口元へ差し出した。
「すすげ」
「殿下、それより群れが——」
「先にすすげ」
逆らえない声だった。
セルキアが素直に従い、四度すすいで吐き出すのを見届けてから、レオニスはようやく毛布を広げた。
そして、そのまま強く抱き寄せる。
「無事か」
「はい」
「……よくやった」
その腕の力に、目を瞬かせた。
「殿下、少し痛いです」
「すまない」
だが、腕は緩まなかった。
「殿下?」
「……もう少しだけ、こうさせてくれ」
それ以上、何も言わなかった。
濡れた髪から滴が落ち、レオニスの上着に染みを作っていく。
波の音だけが、二人を包んでいた。
事故から半年が過ぎた。
工事は終わり、製錬所の汚れた水は、新しい設備できれいにしてから海へ流されるようになった。
王家が費用の三分の一を払ったことで、残りを負担する者たちも渋々従った。
だが、汚れた海底がすぐに元へ戻るわけではない。
「回復には、数年かかりますな」
バルトが浜辺で呟く。
「積もったものは、そう簡単には消えません」
「だが、これ以上は増えない」
レオニスが応じた。
「増えないというだけで、大きな違いだ」
その年の秋、北湾の一角で小さな変化が見つかった。
「殿下!海藻が生えています!」
浜から駆けてきたセルキアが、濡れた手に緑の切れ端を握っている。
十二歳になった彼女は、以前より背が伸び、腕にも力がついていた。
「浅いところですが、確かに新しい芽です!」
「本当か」
「はい!それから、小さな貝も戻ってきています!」
息を弾ませながら報告する。
この一年半、セルキアはずっと気を張っていた。
今ようやく、その顔が少し緩んだ。
その手にある海藻を見つめた。
たった一本の、小さな緑。
けれど、この一本を見るまでに長い時間がかかった。
二十日間の調査。荒れた会議。村で浴びた怒鳴り声。そして、事故の日の恐怖。
「セルキア」
「はい」
「君が最初に『匂いが違う』と言わなければ、誰も気づかなかった」
「私だけの手柄ではありません」
「わかっている。だが、始まりは君だった」
照れくさそうに視線を逸らし、それから思い出したように顔を上げた。
「殿下。あの村の子は、どうなりましたか」
「治療を受けている。医師の話では、この年齢なら回復が見込めるそうだ」
「よかったです……」
深く息を吐くセルキアの横で、レオニスも肩の力を抜いた。
その冬、沿岸五村から、王宮へ新たな書状が届いた。
以前のような、保護院を小さくしてほしいという手紙ではなかった。
『王立海洋動物保護院の存続を望む』
署名は、四百を超えていた。
以前、縮小を求めて署名した者たちの名も、そのまま並んでいる。
「……立場が逆転しましたわね」
マリエッタが、しみじみと書状を見ながら言った。
「あの村の方々、保護院へ魚を届けてくださるようになりましたのよ」
「金を取らずにか」
「『アザラシは俺たちの見張り番だ』と申しておりました」
思わず笑った。
「見張り番か」
「海がおかしくなれば、まずアザラシが倒れる。だから、あいつらを見ていれば、自分たちの海の様子がわかるのだと」
それは、レオニスが七年前に会議室で説明し、誰にも理解されなかったことだった。
傷ついた海獣を保護し、記録を取ることで、海の変化がわかる。
漁師たちの生活を守るための調査でもある——と。
あのとき冷笑した貴族たちではなく、現場の漁師たちが、それを自分の言葉で言い始めていた。
「殿下」
マリエッタが、めずらしく改まった調子で言った。
「あなたは、正しかったのですわ」
「俺一人ではない」
「ええ。ですが、誰にも理解されなかった七年間、あなたは折れませんでした。それは、あなただけの功績です」
答えなかった。ただ、窓の外に目を向けた。