可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第十五話 海には線がありません
こちらの言葉を、すらすらと話した。
ぽかんとする。
「話せるのですか!?」
「少しだけ。父の仕事について来るので、勉強しています」
「では最初からこちらの言葉で……」
「それでは、あなたの練習にならないでしょう?」
にこりと笑われ、セルキアは机へ突っ伏したくなった。
「もう隣国語は嫌です……海の中なら、言葉がなくてもわかるのに」
「海の中?」
エルナが興味を示した。
「セルキア嬢は、海獣に詳しいと聞きました」
「はい!」
その話なら任せてください、とセルキアの顔が輝く。
使節団との茶会のはずだった。
けれど気づけば、卓上にはセルキアが持ち込んだ海図とアザラシの絵が広げられていた。
「この子たちは、春になると北へ移動します」
「国境を越えるの?」
「海には線がありませんから!」
指で海図をなぞった。
「こちらの国で元気だった子が、夏にはそちらの海岸で見つかることもあります。だから、こちらだけで守っても足りないのです」
「でも、うちの国では保護院はまだ少ないわ」
「では、一緒に記録を取りませんか!」
エルナが目を瞬く。
「一緒に?」
「はい。どこで見つかったか、何を食べていたか、どんな怪我をしていたか。国が違っても同じように書けば、移動した先まで追えます」
難しい隣国語では、まだうまく説明できない。
途中から紙へ絵を描き、知っている単語を並べ、それでも足りないところはマリエッタに助けてもらった。
やがてエルナは、海図を見ながら何度も頷いた。
「父にも話してみます。私たちの港でも、網にアザラシがかかることがあるから」
「本当ですか!」
「ええ。あなたが教えてくれたこと、持って帰りたい」
その言葉を聞いて、セルキアははっとした。
王宮にいてもいい人間になるため。
そう思って始めた勉強だった。
けれど、言葉が一つ増えただけで、自分の知っていることが海の向こうまで届く。
アザラシを助けられる場所が、一つ増えるかもしれない。
「マリエッタ様」
「何ですの」
「隣国語、もっと勉強します!」
「ようやく、その気になりましたのね」
「はい! でも匂いの言い方は、もう一度教えてください」
「当面、匂いの話は禁止といたします」
「そんな!」
エルナがまた楽しそうに笑った。
別れ際、二人は隣国語で「また会いましょう」と約束した。
今度は、間違えなかった。
しょんぼりする日もあったが、セルキアは翌日から前より熱心に教本を開くようになった。
「殿下!今日の晩餐のお魚、港から届いたばかりですよ!」
廊下でレオニスを見つけるなり、駆け寄ってくる。
「なぜ廊下でわかる」
「元アザラシなので!」
その返答は、十三歳になっても健在だった。
「マリエッタから、匂いの話は禁止されたのではなかったか」
「使節の方に言うのが禁止です!殿下は大丈夫です!」
「なぜ俺は大丈夫なんだ」
「殿下は、匂いの話をしても怒りませんから」
当然のことのように言った。
「殿下の前では、元アザラシでいられます」
思わず足を止めた。
この一年余り、彼女は必死に「公爵令嬢」であろうとしている。
それでも、自分の前では素のままでいられると言う。
――それは、どういう意味なのだろう。
尋ねたい衝動を、レオニスは飲み込んだ。
まだ、早い。
「そうか」
「はい!」
「では、晩餐が楽しみだな」
「私も楽しみです!」
弾むように歩いていくセルキアの背中を、レオニスはしばらく見送っていた。
十四歳の誕生日を過ぎた夏の終わり。
セルキアは、王宮の小広間で青ざめていた。
「本番まで、あとひと月ですわ」
マリエッタが扇を閉じる。
「そろそろ、実際に男性と踊る練習をいたしましょう」
「男性……ですか」
「舞踏会で、わたくしとばかり踊るおつもり?」
「それが一番安心です!」
「駄目ですわ」
即答され、セルキアはしょんぼりした。
「でも、どなたにお願いすれば……」
「もうお呼びしております」
扉が開く。
入ってきた人物を見て、セルキアは目を丸くした。
「殿下!?」
「練習相手が必要だと聞いた」
二十一歳になったレオニスは、いつもの執務服ではなく、動きやすい軽装だった。
「なぜ殿下なのですか!」
「嫌なら帰るが」
「嫌ではありません!」
「では始めなさい」
マリエッタが容赦なく音楽係へ合図する。
レオニスの前へ立った。
今まで何度も手を繋いだ。転びそうになれば抱き留めてもらった。子供の頃には抱き上げられたことだってある。
なのに。
「セルキア。手を」
「は、はい」
差し出された手へ自分の手を重ねた瞬間、妙に緊張した。
もう片方の手が腰へ添えられる。
「ひゃっ」
「……まだ何もしていない」
「わかっています!」
マリエッタが額へ手を当てた。
「セルキア。殿下のお顔を見て」
「無理です!」
「なぜですの」
「足がわからなくなります!」
「足は下ですわ!」
レオニスが笑いを堪えている。
「殿下も笑わないでください!」
「すまない。だが、君は海の中ではあれほど自由なのにな」
「舞踏会も海でやればいいのです!」
「客が全員溺れる」
最初の一周で、セルキアは二度レオニスの靴を踏んだ。
三周目には、どうにか音に合わせられるようになる。
「そう。今の歩幅ですわ」
「できていますか?」
「俺ではなく、前を見ろ」
言われて顔を上げる。
近い。
子供の頃から見慣れているはずの顔なのに、こんなに近くで見たことはなかった気がする。
十二歳の頃よりずっと背が高くなって、声も変わった。
手も、自分の手をすっぽり包むほど大きい。
「セルキア?」
「……なんでもありません!」
慌てて視線を落とす。
その拍子に、また足を踏んだ。
「すみません!」
「大丈夫だ」
「痛くありませんか?」
「北湾で二十日間舟に揺られたときよりは」
「比べるものがおかしいです!」
曲が終わる頃には、セルキアの頬はすっかり赤くなっていた。
「悪くありませんわ」
マリエッタが評価を下す。
「本番も、今くらい踊れれば十分です」
「本番も殿下と踊れば、できる気がします!」
ぽかんとする。
「話せるのですか!?」
「少しだけ。父の仕事について来るので、勉強しています」
「では最初からこちらの言葉で……」
「それでは、あなたの練習にならないでしょう?」
にこりと笑われ、セルキアは机へ突っ伏したくなった。
「もう隣国語は嫌です……海の中なら、言葉がなくてもわかるのに」
「海の中?」
エルナが興味を示した。
「セルキア嬢は、海獣に詳しいと聞きました」
「はい!」
その話なら任せてください、とセルキアの顔が輝く。
使節団との茶会のはずだった。
けれど気づけば、卓上にはセルキアが持ち込んだ海図とアザラシの絵が広げられていた。
「この子たちは、春になると北へ移動します」
「国境を越えるの?」
「海には線がありませんから!」
指で海図をなぞった。
「こちらの国で元気だった子が、夏にはそちらの海岸で見つかることもあります。だから、こちらだけで守っても足りないのです」
「でも、うちの国では保護院はまだ少ないわ」
「では、一緒に記録を取りませんか!」
エルナが目を瞬く。
「一緒に?」
「はい。どこで見つかったか、何を食べていたか、どんな怪我をしていたか。国が違っても同じように書けば、移動した先まで追えます」
難しい隣国語では、まだうまく説明できない。
途中から紙へ絵を描き、知っている単語を並べ、それでも足りないところはマリエッタに助けてもらった。
やがてエルナは、海図を見ながら何度も頷いた。
「父にも話してみます。私たちの港でも、網にアザラシがかかることがあるから」
「本当ですか!」
「ええ。あなたが教えてくれたこと、持って帰りたい」
その言葉を聞いて、セルキアははっとした。
王宮にいてもいい人間になるため。
そう思って始めた勉強だった。
けれど、言葉が一つ増えただけで、自分の知っていることが海の向こうまで届く。
アザラシを助けられる場所が、一つ増えるかもしれない。
「マリエッタ様」
「何ですの」
「隣国語、もっと勉強します!」
「ようやく、その気になりましたのね」
「はい! でも匂いの言い方は、もう一度教えてください」
「当面、匂いの話は禁止といたします」
「そんな!」
エルナがまた楽しそうに笑った。
別れ際、二人は隣国語で「また会いましょう」と約束した。
今度は、間違えなかった。
しょんぼりする日もあったが、セルキアは翌日から前より熱心に教本を開くようになった。
「殿下!今日の晩餐のお魚、港から届いたばかりですよ!」
廊下でレオニスを見つけるなり、駆け寄ってくる。
「なぜ廊下でわかる」
「元アザラシなので!」
その返答は、十三歳になっても健在だった。
「マリエッタから、匂いの話は禁止されたのではなかったか」
「使節の方に言うのが禁止です!殿下は大丈夫です!」
「なぜ俺は大丈夫なんだ」
「殿下は、匂いの話をしても怒りませんから」
当然のことのように言った。
「殿下の前では、元アザラシでいられます」
思わず足を止めた。
この一年余り、彼女は必死に「公爵令嬢」であろうとしている。
それでも、自分の前では素のままでいられると言う。
――それは、どういう意味なのだろう。
尋ねたい衝動を、レオニスは飲み込んだ。
まだ、早い。
「そうか」
「はい!」
「では、晩餐が楽しみだな」
「私も楽しみです!」
弾むように歩いていくセルキアの背中を、レオニスはしばらく見送っていた。
十四歳の誕生日を過ぎた夏の終わり。
セルキアは、王宮の小広間で青ざめていた。
「本番まで、あとひと月ですわ」
マリエッタが扇を閉じる。
「そろそろ、実際に男性と踊る練習をいたしましょう」
「男性……ですか」
「舞踏会で、わたくしとばかり踊るおつもり?」
「それが一番安心です!」
「駄目ですわ」
即答され、セルキアはしょんぼりした。
「でも、どなたにお願いすれば……」
「もうお呼びしております」
扉が開く。
入ってきた人物を見て、セルキアは目を丸くした。
「殿下!?」
「練習相手が必要だと聞いた」
二十一歳になったレオニスは、いつもの執務服ではなく、動きやすい軽装だった。
「なぜ殿下なのですか!」
「嫌なら帰るが」
「嫌ではありません!」
「では始めなさい」
マリエッタが容赦なく音楽係へ合図する。
レオニスの前へ立った。
今まで何度も手を繋いだ。転びそうになれば抱き留めてもらった。子供の頃には抱き上げられたことだってある。
なのに。
「セルキア。手を」
「は、はい」
差し出された手へ自分の手を重ねた瞬間、妙に緊張した。
もう片方の手が腰へ添えられる。
「ひゃっ」
「……まだ何もしていない」
「わかっています!」
マリエッタが額へ手を当てた。
「セルキア。殿下のお顔を見て」
「無理です!」
「なぜですの」
「足がわからなくなります!」
「足は下ですわ!」
レオニスが笑いを堪えている。
「殿下も笑わないでください!」
「すまない。だが、君は海の中ではあれほど自由なのにな」
「舞踏会も海でやればいいのです!」
「客が全員溺れる」
最初の一周で、セルキアは二度レオニスの靴を踏んだ。
三周目には、どうにか音に合わせられるようになる。
「そう。今の歩幅ですわ」
「できていますか?」
「俺ではなく、前を見ろ」
言われて顔を上げる。
近い。
子供の頃から見慣れているはずの顔なのに、こんなに近くで見たことはなかった気がする。
十二歳の頃よりずっと背が高くなって、声も変わった。
手も、自分の手をすっぽり包むほど大きい。
「セルキア?」
「……なんでもありません!」
慌てて視線を落とす。
その拍子に、また足を踏んだ。
「すみません!」
「大丈夫だ」
「痛くありませんか?」
「北湾で二十日間舟に揺られたときよりは」
「比べるものがおかしいです!」
曲が終わる頃には、セルキアの頬はすっかり赤くなっていた。
「悪くありませんわ」
マリエッタが評価を下す。
「本番も、今くらい踊れれば十分です」
「本番も殿下と踊れば、できる気がします!」