可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第十六話 最初の一曲
何気なく言った。
レオニスの動きが止まる。
マリエッタだけが、扇の向こうでにやりと笑った。
「……そうですわね。最初のお相手を殿下が選んでくだされば、ですが」
「殿下、私を選んでください!」
「……君は、本当に何もわかっていないな」
「何がですか?」
「いや。何でもない」
セルキアの頭へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そして代わりに、乱れた髪飾りを指先でそっと直す。
「本番では転ぶなよ」
「転びません!」
そう答えて、セルキアは部屋を出ようとした。
扉の手前で、レオニスが呼び止める。
「セルキア」
「はい?」
「……いや。よく練習した」
「はい!」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、セルキアはさっきの声を思い返していた。
――今、何かおっしゃりかけましたよね。
聞き返せばよかった。
でも、聞き返さなくてよかった気もする。
理由はわからないまま、セルキアは自分の頬を両手で挟んだ。
「……熱いです」
踊ったせいだろうと思うことにした。
その頃、小広間では。
「レオニス様」
「何だ」
「なぜ、途中でおやめになりましたの」
「……何の話だ」
「『よく練習した』の前に、別の言葉がありましたでしょう」
マリエッタは扇を閉じ、容赦なく続けた。
「わたくし、耳は良い方ですのよ」
「聞こえていたなら、聞くな」
「聞こえておりませんわ。ただ、お顔に書いてありましたの」
答えず、窓の外を見た。
「あと一年ですわね」
「……ああ」
「その一年で、あの子が誰かに攫われないとよろしいですが」
「縁起でもないことを言うな」
マリエッタは楽しそうに笑いながら、部屋を出ていった。
セルキアが十四歳になった年の秋、王宮で大きな夜会が開かれることになった。
隣国からの使節を歓待する、公式の場である。
「セルキア。今回は見学ではありませんわ」
支度部屋で、マリエッタが宣言した。
「あなたも正式な招待客として出席なさいます」
「……私が、ですか」
「何のために学んだと思っておりますの」
鏡の前に立たされたセルキアは、自分の姿を見て息を呑んだ。
深い青のドレスは、海の色をしていた。
白銀の髪は結い上げられ、首元には小さな真珠が並んでいる。
控えめだが、上質な仕立てだった。
「……これ、私ですか」
「他に誰がおりますの」
「なんだか、別の人みたいです」
「中身は変わりませんわ。走らなければ、ですけれど」
扇を広げ、セルキアの背筋を軽く叩いた。
「歩幅は狭く。視線はやや上。話しかけられたら、まず名乗る」
「はい!」
「返事は『はい』ではなく『ええ』ですわ」
「え、ええ!」
「……前途多難ですわね」
大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。
セルキアが入室した瞬間、ざわめきが起きた。
「あれが、フォーシール公爵家の……」
「北湾の一件で名を上げた娘か」
「まあ、なんて美しい髪」
視線が一斉に集まる。
背筋を伸ばし、教えられたとおりの歩幅で進んだ。
――大丈夫。歩けています。
心の中でそう唱えながら、壁際まで辿り着いたところで、若い令息が声をかけてきた。
「フォーシール嬢でいらっしゃいますね」
「ええ。セルキア・フォーシールと申します」
「シェリング伯爵家の長男、アルヴィスと申します。よろしければ、一曲お相手願えませんか」
差し出された手を前に、セルキアは一瞬固まった。
――どうしよう。断り方を習ったはずですが。
その時だった。
「アルヴィス卿」
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、レオニスが立っていた。
二十一歳になった王太子は正装をまとい、いつになく威厳のある雰囲気を漂わせている。
「殿下」
アルヴィスが慌てて頭を下げる。
「その手は、下ろしてもらえるか」
穏やかな口調だった。
それでも、逆らえる空気ではなかった。
「……失礼いたしました」
アルヴィスが下がると、レオニスは何事もなかったかのようにセルキアへ向き直った。
「セルキア」
「はい」
「一曲、いいか」
差し出された手を、セルキアは反射的に取った。
その瞬間、大広間のざわめきが一段と大きくなった。
「やはりセルキア嬢だ」
「王太子殿下が自ら手を取られたぞ」
「まだ婚約なさっていないのか?」
「もう時間の問題だろう」
周囲の視線を浴びながら、二人は中央へ進むと、静かに音楽が始まる。
「殿下。私、まだ上手ではありません」
「知っている」
「足を踏むかもしれません」
「踏まれてやる」
「では、遠慮なく踏みます!」
「遠慮はしなさい」
レオニスの手が、セルキアの背に添えられた。
最初の数歩は、確かにぎこちなかった。
うまく導いてくれたので、すぐに流れをつかんだ。
「……あら」
「うまいじゃないか」
「殿下が上手なのです!」
「二人で踊っているんだ。片方だけでは成り立たない」
回転のたびに、青いドレスの裾が広がる。
ふと、レオニスが小さく言った。
「……よく似合っている」
「え?」
「聞こえなかったなら、それでいい」
「聞こえました!」
「では、二度は言わない」
それからしばらく、足元を間違えた。
「セルキア。下を見るな」
「殿下のせいです!」
「俺は何もしていない」
「しました!」
言い返しながらも、視線を上げる。
近い。
ひと月前の練習でも、何度も握った手だった。
それなのに、大勢が見ている今夜は、なぜかあのとき以上に意識してしまう。
――殿下の手は、大きいです。
――どうして、こんなに落ち着かないのでしょう。
曲の終わりが近づいた頃、レオニスがもう一度だけ口を開いた。
「セルキア」
「はい」
「今夜、他の誰かと踊ってもいい」
「え」
「だが、最初は俺だった。それは変わらない」
レオニスの動きが止まる。
マリエッタだけが、扇の向こうでにやりと笑った。
「……そうですわね。最初のお相手を殿下が選んでくだされば、ですが」
「殿下、私を選んでください!」
「……君は、本当に何もわかっていないな」
「何がですか?」
「いや。何でもない」
セルキアの頭へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
そして代わりに、乱れた髪飾りを指先でそっと直す。
「本番では転ぶなよ」
「転びません!」
そう答えて、セルキアは部屋を出ようとした。
扉の手前で、レオニスが呼び止める。
「セルキア」
「はい?」
「……いや。よく練習した」
「はい!」
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、セルキアはさっきの声を思い返していた。
――今、何かおっしゃりかけましたよね。
聞き返せばよかった。
でも、聞き返さなくてよかった気もする。
理由はわからないまま、セルキアは自分の頬を両手で挟んだ。
「……熱いです」
踊ったせいだろうと思うことにした。
その頃、小広間では。
「レオニス様」
「何だ」
「なぜ、途中でおやめになりましたの」
「……何の話だ」
「『よく練習した』の前に、別の言葉がありましたでしょう」
マリエッタは扇を閉じ、容赦なく続けた。
「わたくし、耳は良い方ですのよ」
「聞こえていたなら、聞くな」
「聞こえておりませんわ。ただ、お顔に書いてありましたの」
答えず、窓の外を見た。
「あと一年ですわね」
「……ああ」
「その一年で、あの子が誰かに攫われないとよろしいですが」
「縁起でもないことを言うな」
マリエッタは楽しそうに笑いながら、部屋を出ていった。
セルキアが十四歳になった年の秋、王宮で大きな夜会が開かれることになった。
隣国からの使節を歓待する、公式の場である。
「セルキア。今回は見学ではありませんわ」
支度部屋で、マリエッタが宣言した。
「あなたも正式な招待客として出席なさいます」
「……私が、ですか」
「何のために学んだと思っておりますの」
鏡の前に立たされたセルキアは、自分の姿を見て息を呑んだ。
深い青のドレスは、海の色をしていた。
白銀の髪は結い上げられ、首元には小さな真珠が並んでいる。
控えめだが、上質な仕立てだった。
「……これ、私ですか」
「他に誰がおりますの」
「なんだか、別の人みたいです」
「中身は変わりませんわ。走らなければ、ですけれど」
扇を広げ、セルキアの背筋を軽く叩いた。
「歩幅は狭く。視線はやや上。話しかけられたら、まず名乗る」
「はい!」
「返事は『はい』ではなく『ええ』ですわ」
「え、ええ!」
「……前途多難ですわね」
大広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。
セルキアが入室した瞬間、ざわめきが起きた。
「あれが、フォーシール公爵家の……」
「北湾の一件で名を上げた娘か」
「まあ、なんて美しい髪」
視線が一斉に集まる。
背筋を伸ばし、教えられたとおりの歩幅で進んだ。
――大丈夫。歩けています。
心の中でそう唱えながら、壁際まで辿り着いたところで、若い令息が声をかけてきた。
「フォーシール嬢でいらっしゃいますね」
「ええ。セルキア・フォーシールと申します」
「シェリング伯爵家の長男、アルヴィスと申します。よろしければ、一曲お相手願えませんか」
差し出された手を前に、セルキアは一瞬固まった。
――どうしよう。断り方を習ったはずですが。
その時だった。
「アルヴィス卿」
背後から、低い声が響いた。
振り返ると、レオニスが立っていた。
二十一歳になった王太子は正装をまとい、いつになく威厳のある雰囲気を漂わせている。
「殿下」
アルヴィスが慌てて頭を下げる。
「その手は、下ろしてもらえるか」
穏やかな口調だった。
それでも、逆らえる空気ではなかった。
「……失礼いたしました」
アルヴィスが下がると、レオニスは何事もなかったかのようにセルキアへ向き直った。
「セルキア」
「はい」
「一曲、いいか」
差し出された手を、セルキアは反射的に取った。
その瞬間、大広間のざわめきが一段と大きくなった。
「やはりセルキア嬢だ」
「王太子殿下が自ら手を取られたぞ」
「まだ婚約なさっていないのか?」
「もう時間の問題だろう」
周囲の視線を浴びながら、二人は中央へ進むと、静かに音楽が始まる。
「殿下。私、まだ上手ではありません」
「知っている」
「足を踏むかもしれません」
「踏まれてやる」
「では、遠慮なく踏みます!」
「遠慮はしなさい」
レオニスの手が、セルキアの背に添えられた。
最初の数歩は、確かにぎこちなかった。
うまく導いてくれたので、すぐに流れをつかんだ。
「……あら」
「うまいじゃないか」
「殿下が上手なのです!」
「二人で踊っているんだ。片方だけでは成り立たない」
回転のたびに、青いドレスの裾が広がる。
ふと、レオニスが小さく言った。
「……よく似合っている」
「え?」
「聞こえなかったなら、それでいい」
「聞こえました!」
「では、二度は言わない」
それからしばらく、足元を間違えた。
「セルキア。下を見るな」
「殿下のせいです!」
「俺は何もしていない」
「しました!」
言い返しながらも、視線を上げる。
近い。
ひと月前の練習でも、何度も握った手だった。
それなのに、大勢が見ている今夜は、なぜかあのとき以上に意識してしまう。
――殿下の手は、大きいです。
――どうして、こんなに落ち着かないのでしょう。
曲の終わりが近づいた頃、レオニスがもう一度だけ口を開いた。
「セルキア」
「はい」
「今夜、他の誰かと踊ってもいい」
「え」
「だが、最初は俺だった。それは変わらない」