可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた

第二十一話 婚約

 十年前と、まったく同じ言葉。
 けれど、あの日の無邪気な恩返しではない。
 一人の令嬢が、自分の意思で告げた求婚だった。

 一歩近づいた。

「十年待った」
「はい」
「今さら撤回は認めない」
「いたしません!」
「海へ帰りたいと言っても、簡単には帰さない」

 セルキアが目を丸くする。

 ――そんなことを、心配していたのですか。

 やがて、花が開くように笑った。

「私はもう、帰る場所を決めています」
「どこだ」
「殿下のおそばです!」

 その言葉を聞いた瞬間、レオニスの身体が先に動いた。
 気づけば、セルキアを抱き上げていた。

「きゃっ」

 驚いた声を上げたセルキアが、反射的にレオニスの首へ腕を回す。

「もう、抱っこされる年齢ではないと言っていなかったか」
「殿下が勝手に抱き上げたのです!」
「ああ。俺が勝手にした」

 柔らかな髪が頬をくすぐる。
 ずっと触れたくて、それでも躊躇っていたものが、今は腕の中にあった。

 十年前とは違う。
 抱き締めた身体の温かさも、耳元で聞こえる息遣いも、頬を染める色も。

 セルキアはもう、守られるだけの小さな子供ではなかった。
 同じ未来を歩きたいと、自分から手を伸ばしてくれた相手だ。

 腕に、少しだけ力を込めた。

「殿下。抱きしめると温かいでしょう?」
「ああ」
「元アザラシなので!」
「今は、君だから温かいのだろう」

 セルキアの耳が、みるみる赤く染まる。

「そういうことを、急に言うのは反則です」
「先に求婚してきた君が言うのか」
「それとこれは別です!」
「別ではない」

 言い合いながら、レオニスはセルキアを砂の上へゆっくり下ろした。
 向かい合うと、彼女の頭は彼の胸のあたりまでしかない。

「セルキア」
「はい」
「目を閉じなさい」
「なぜですか?」
「……理由を聞くな」
「はい!」

 あまりに素直に目を閉じたので、レオニスは思わず動きを止めた。
 睫毛が細かく震えている。
 待っている。何を待っているのかもわからないまま、待っている。

 ――ずるいな。

 十年かけて、この子は何も変わらなかった。
 疑うことを知らないまま、まっすぐここまで来た。

「……殿下?」
「いや。何でもない」

 彼女の額へ、そっと唇を触れさせた。

 セルキアの身体が、ぴたりと止まる。

「……殿下」
「何だ」
「もう一度、お願いします」

 予想外の言葉に、レオニスは目を瞬いた。
 恥ずかしそうに目を伏せながら、それでも逃げなかった。

「今のは、少し短すぎました」
「君は、ときどき驚くほど大胆だな」
「元アザラシなので!」
「それは関係ないだろう」

 今度は、先ほどよりゆっくりと額へ口づける。

 銀色の髪が、また頬をくすぐった。
 顔を上げると、セルキアは幸せそうに目を細めていた。

「殿下」
「まだあるのか」
「いえ。……ただ、覚えておこうと思いまして」
「何をだ」
「今日のことを、全部です」

 自分の額に手を当てた。

「あとで記録帳に書きます」
「そこは書かなくていい」
「大事なことです!」
「わかった。好きにしなさい」

 十五年前、漁網の中で震えていた小さな命。
 独りではないと伝えた相手が、今度はレオニスへ同じことを教えてくれている。
 どれほど理解されない日があっても、自分の隣には彼女がいる。

「婚約祝いの料理は、何がいい」

 尋ねると、間髪入れずに答えた。

「おさかながいいです!」
「丸呑みは禁止だ」
「もうしませんってば!」
「大きさによるのだろう?」
「マリエッタ様から聞いたのですか!?」
「目の前で聞いていた」
「では、小さく切ってください!」
「最初からそうしなさい」

 腕の中で笑い、レオニスの肩へ頬を寄せた。

「殿下」
「何だ」
「幸せですか」

 ふわふわした髪へ頬を寄せる。

「ああ。もう、君に幸せにされている」

 寄せては返す波の音に、セルキアの笑い声が重なった。




 婚約が正式に発表されたのは、その年の初冬。
 王宮の大広間に集まった貴族たちの前で、レオニスがセルキアの手を取る。

「フォーシール公爵家息女、セルキア嬢との婚約を、ここに公表する」

 拍手が起きた。
 十年前、彼を「動物好きの道楽者」と嘲った貴族たちも、今は手を叩いている。
 北湾の一件以来、王太子の言うことに異を唱える者はいなくなっていた。

「殿下、おめでとうございます」
「セルキア様も、なんとお美しい」

 次々と祝いの言葉が寄せられる中、セルキアは背筋を伸ばして応じていた。
 二年間、マリエッタに叩き込まれた作法が、ここで役に立っている。

 ――歩幅は狭く。視線はやや上。返事は「ええ」。

 完璧だった。
 だが、給仕が魚料理を運んできた瞬間、その集中は崩壊した。

「殿下!あれは今朝の——」
「セルキア」
「……失礼いたしました」

 マリエッタが背後から扇で軽く肩を叩く。

「あと一時間ですわ。耐えなさい」
「はい……」
「返事は?」
「ええ!」

 式典が終わり、控えの間に戻った途端、セルキアは長椅子に倒れ込んだ。

「疲れました……」
「よくやりましたわ」

 茶を差し出す。

「今日のあなたは、どこへ出しても恥ずかしくございませんでした」
「マリエッタ様のおかげです」
「わたくしは教えただけですわ。覚えたのは、あなたです」

 珍しく素直な言葉に、セルキアは目を丸くした。

「……マリエッタ様?」
「何ですの」
「お褒めいただくのは、初めてです」
「明日からは、また厳しくいたしますわ」
「はい!」

 扇で口元を隠したが、その目は笑っていた。

 この二人は同じ王太子妃の座を争っていた。
 片方は追い出そうとし、片方は「では陸で勝負しましょう」と返した。

 その後の年月が、二人を姉妹のように変えた。

「セルキア」
「はい」
「保護院の運営は、これからも続けてくださいますわね」
「もちろんです!」
「王太子妃の公務と両立できますの?」
「します!」
「……そうおっしゃると思っておりましたわ」

 懐から書類を取り出した。

「では、これを」
「何ですか?」
「保護院の仕組みを変える案ですわ。王太子妃が全体をまとめ、実際の仕事は分院長が担う形にいたします」
「用意が良すぎませんか!?」
「三年前から準備しておりました」

 書類をめくり、手を止めた。
 最後のページに、新しく作られる役職の名が記されている。

『海獣観察指導官 セルキア・フォーシール』

「……これは」
「あなたが八歳のとき、『大きくなったらここで働かせてください』とおっしゃったでしょう」

 静かに言った。

「バルトが覚えておりましたわ。『報告書が書けるようになったら』と答えたそうですわね」

 セルキアの目に、涙が滲んだ。

「私、書けるようになりました」
「ええ。あの日から、ずっと」
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