可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第二十話 今度は私が、殿下を幸せにします
三日間は、驚くほど長かった。
セルキアは公爵邸に戻り、部屋にこもった。
窓を開け、海の音を聞きながら、ひたすら考えていた。
「セルキア。食事はどうします」
扉の向こうから、公爵夫人が声をかける。
「いりません」
「まあ。あなたが食事を断るなんて」
「……お魚なら、いただきます」
「そう来ると思って、持ってきましたよ」
夫人が扉を開けると、セルキアは机に向かっていた。
紙が何枚も散らばっている。
書いては消し、書いては丸め、を繰り返した跡だった。
「何を書いているの」
「殿下に、お伝えすることです」
「まあ」
皿を置き、娘の隣に立った。
「うまく書けなくて」
「あなたにしては珍しいわね。報告書はあれほど上手に書けるようになったのに」
「報告書は、事実を書くだけです」
ペンを置いた。
「でも、これは事実ではありません。……いいえ、事実ですが、書き方がわかりません」
笑って、娘の髪を撫でた。
「セルキア。あなたが十年間、殿下に言ってきた言葉を覚えている?」
「たくさん言いました」
「一番最初は?」
記憶を辿った。
「『あの時、助けていただいたアザラシです』」
「そう。あのとき、あなたは何も準備していなかったでしょう」
「はい。会ったら、そう言おうと思っていました」
「それで、伝わったのよね」
散らばった紙を集めて脇に寄せた。
「言葉は、飾らなくても届くものよ。あなたが本当に思っていることなら」
「……お母さま」
「何?」
「私、殿下に助けていただいたから、そばにいたのではありません」
夫人の手が止まる。
「最初はそうでした。でも、いつからか、違うものになっていました」
顔を上げた。
「私、殿下が好きです」
声に出したのは、初めてだった。
言った瞬間、頬が熱くなる。
それでも、不思議と後悔はなかった。
「ようやく言えたわね」
目尻に涙を浮かべていた。
「お父さまと、五年前から賭けをしていたのよ。あなたが自分で気づくのが先か、殿下が痺れを切らすのが先か」
「賭け!?」
「私が勝ちましたわ」
「お母さま!」
誕生日の朝が来た。
セルキアは、深い青のドレスを選んだ。一年前の夜会で着たものだ。
「あら。もっと華やかなものもございますよ」
「これがいいです。海の色ですから」
髪は結い上げず、下ろしたままにした。
白銀の髪が、風に揺れる。
馬車が浜辺へ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、セルキアは何度も深呼吸をした。
――大丈夫です。
――言葉は、飾らなくていいのです。
浜辺に着くと、すでにレオニスが立っていた。
夕暮れの潮風が、彼の外套を揺らしている。振り返った顔は、いつもより硬かった。
「来たか」
「はい」
「誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
波打ち際まで、二人は並んで歩いた。
ここは、レオニスが漁網に絡まった子アザラシを見つけた場所。
そして、マリエッタが海へ落ちた場所でもある。
「セルキア。今日は、君に伝えたいことがある」
レオニスが足を止めた。
指先に力が入るのが、自分でもわかった。
国の話をするときよりも、貴族たちを説得するときよりも喉が渇く。
「俺と——」
「殿下」
セルキアが、先に口を開いた。
目を見開く。
「……セルキア?」
「先に、言わせてください」
彼女は、まっすぐに彼を見上げた。
白銀の髪が、夕日を受けて輝いている。
黒く潤んだ大きな瞳が、彼だけを映していた。
「十年前のお約束を、覚えていらっしゃいますか」
言葉に詰まった。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……魚を丸呑みできるという話か」
「違います!」
「抱きしめると温かいという話か」
「それでもありません!」
頬を膨らませるセルキアに、レオニスは笑った。
緊張が、少しだけほどける。
「覚えている。君が、俺を幸せにすると言った」
セルキアの表情が、ふっと柔らかくなった。
彼女は胸の前で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、恩返しのために殿下のおそばにいたのではありません」
波の音が、遠くなった気がした。
「では、なぜだ」
「殿下が好きだからです」
まっすぐな声にレオニスの胸が、大きく鳴る。
「助けていただいたからではありません。動物にも、人間にも、同じように手を差し伸べる殿下を、ずっと見てきました」
セルキアの頬は赤く染まっている。それでも、視線を逸らさない。
「誰に笑われても、ご自分の信じるものを守ろうとなさる殿下が、好きなのです」
この十年で、彼女は多くを学んだ。
三か国語も、王宮での礼儀作法も、数字のまとめ方も。
だが今、彼女が使っているのは、五歳のときと同じ、飾らない言葉だった。
「今度は私が、殿下を幸せにします!」
セルキアは公爵邸に戻り、部屋にこもった。
窓を開け、海の音を聞きながら、ひたすら考えていた。
「セルキア。食事はどうします」
扉の向こうから、公爵夫人が声をかける。
「いりません」
「まあ。あなたが食事を断るなんて」
「……お魚なら、いただきます」
「そう来ると思って、持ってきましたよ」
夫人が扉を開けると、セルキアは机に向かっていた。
紙が何枚も散らばっている。
書いては消し、書いては丸め、を繰り返した跡だった。
「何を書いているの」
「殿下に、お伝えすることです」
「まあ」
皿を置き、娘の隣に立った。
「うまく書けなくて」
「あなたにしては珍しいわね。報告書はあれほど上手に書けるようになったのに」
「報告書は、事実を書くだけです」
ペンを置いた。
「でも、これは事実ではありません。……いいえ、事実ですが、書き方がわかりません」
笑って、娘の髪を撫でた。
「セルキア。あなたが十年間、殿下に言ってきた言葉を覚えている?」
「たくさん言いました」
「一番最初は?」
記憶を辿った。
「『あの時、助けていただいたアザラシです』」
「そう。あのとき、あなたは何も準備していなかったでしょう」
「はい。会ったら、そう言おうと思っていました」
「それで、伝わったのよね」
散らばった紙を集めて脇に寄せた。
「言葉は、飾らなくても届くものよ。あなたが本当に思っていることなら」
「……お母さま」
「何?」
「私、殿下に助けていただいたから、そばにいたのではありません」
夫人の手が止まる。
「最初はそうでした。でも、いつからか、違うものになっていました」
顔を上げた。
「私、殿下が好きです」
声に出したのは、初めてだった。
言った瞬間、頬が熱くなる。
それでも、不思議と後悔はなかった。
「ようやく言えたわね」
目尻に涙を浮かべていた。
「お父さまと、五年前から賭けをしていたのよ。あなたが自分で気づくのが先か、殿下が痺れを切らすのが先か」
「賭け!?」
「私が勝ちましたわ」
「お母さま!」
誕生日の朝が来た。
セルキアは、深い青のドレスを選んだ。一年前の夜会で着たものだ。
「あら。もっと華やかなものもございますよ」
「これがいいです。海の色ですから」
髪は結い上げず、下ろしたままにした。
白銀の髪が、風に揺れる。
馬車が浜辺へ向かう。
窓の外を流れる景色を見ながら、セルキアは何度も深呼吸をした。
――大丈夫です。
――言葉は、飾らなくていいのです。
浜辺に着くと、すでにレオニスが立っていた。
夕暮れの潮風が、彼の外套を揺らしている。振り返った顔は、いつもより硬かった。
「来たか」
「はい」
「誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます」
波打ち際まで、二人は並んで歩いた。
ここは、レオニスが漁網に絡まった子アザラシを見つけた場所。
そして、マリエッタが海へ落ちた場所でもある。
「セルキア。今日は、君に伝えたいことがある」
レオニスが足を止めた。
指先に力が入るのが、自分でもわかった。
国の話をするときよりも、貴族たちを説得するときよりも喉が渇く。
「俺と——」
「殿下」
セルキアが、先に口を開いた。
目を見開く。
「……セルキア?」
「先に、言わせてください」
彼女は、まっすぐに彼を見上げた。
白銀の髪が、夕日を受けて輝いている。
黒く潤んだ大きな瞳が、彼だけを映していた。
「十年前のお約束を、覚えていらっしゃいますか」
言葉に詰まった。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……魚を丸呑みできるという話か」
「違います!」
「抱きしめると温かいという話か」
「それでもありません!」
頬を膨らませるセルキアに、レオニスは笑った。
緊張が、少しだけほどける。
「覚えている。君が、俺を幸せにすると言った」
セルキアの表情が、ふっと柔らかくなった。
彼女は胸の前で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、恩返しのために殿下のおそばにいたのではありません」
波の音が、遠くなった気がした。
「では、なぜだ」
「殿下が好きだからです」
まっすぐな声にレオニスの胸が、大きく鳴る。
「助けていただいたからではありません。動物にも、人間にも、同じように手を差し伸べる殿下を、ずっと見てきました」
セルキアの頬は赤く染まっている。それでも、視線を逸らさない。
「誰に笑われても、ご自分の信じるものを守ろうとなさる殿下が、好きなのです」
この十年で、彼女は多くを学んだ。
三か国語も、王宮での礼儀作法も、数字のまとめ方も。
だが今、彼女が使っているのは、五歳のときと同じ、飾らない言葉だった。
「今度は私が、殿下を幸せにします!」