可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第四話 あざらし幼稚園の名物令嬢
その日の午後、セルキアは施設の奥にある「三番プール」の前で立ち止まった。
ここには、まだ人に慣れていない新入りが入れられる。
「向こうに、怪我をした子がいます!」
「三番の子は、擦り傷程度だと診察が出ていますが」
「違います、もっと向こうです。塀の外です」
セルキアが指したのは、保護院の敷地の外――砂浜へ続く岩場のほうだった。
「セルキア様、あちらには誰も行っておりませんし、報告も……」
「鳴き声がします。とても小さい声です」
職員が数人で岩場へ向かうと、岩の隙間に痩せ細った子アザラシが挟まり、動けなくなっていた。
潮が満ちれば溺れていた位置だった。
子アザラシを抱えて戻ってきた職員たちは、もうセルキアをただの「殿下のお気に入りのお嬢様」とは見ていなかった。
「セルキア様。あなたは、一体――」
言いかけて、口をつぐむ。
セルキアは救出された子アザラシに駆け寄り、覗き込むように顔を近づけていた。
「よかったです。間に合いました」
その声が、いつになく静かだった。
三年前、セルキアが保護院へ通い始めた理由は「殿下に恩返しをするため」だった。
書類を運び、庭を掃き、レオニスの役に立とうと空回りしていた。
だが今、彼女が岩場へ走った理由は、恩返しではない。
「バルトさん」
「はい」
「私、この子たちを助けたいです」
振り返ったセルキアの黒い瞳は、潤んでいながら、まっすぐだった。
「殿下に助けていただいたから、というだけではありません。ここにいる子たちが、みんな海へ帰れるようになってほしいのです」
しばらく言葉を探していた。やがて、皺だらけの手でセルキアの頭をそっと撫でる。
「……それは、我々と同じ願いですな」
「では、私も職員ですか!」
「まだ八歳では雇えませんよ」
「あと何年で雇えますか!」
「そうですなあ。報告書がお書きになれるようになったら、でしょうか」
その瞬間、セルキアの表情が固まった。
「……報告書」
「おや。何か心当たりでも」
背後から、涼やかな声が飛んできた。
「セルキア。報告書は?」
振り返ると、十七歳になったマリエッタが、帳簿を抱えて立っていた。
三年前より背が伸び、髪をきっちりと結い上げている。
保護院のお金の管理を学び始めた彼女は、今では運営にも深く関わっていた。
「頭の中にあります!」
「紙に書いてくださいませ」
「はい!」
即答したセルキアだったが、その場から動こうとしない。
「今すぐに、です」
「今は五番プールの子が――」
「昨日も同じことをおっしゃいましたわね」
「昨日は三番プールの子でした!」
「言い訳の質が下がっておりますわよ」
ため息をつき、セルキアの手を引いて事務室へ向かった。
この三年で、彼女はすっかりセルキアの教育係のようになっていた。
「あなたが海獣のことをおわかりになるのは、もう誰も疑っておりません。ですが、あなたにしかわからないままでは、あなたがいない日に何も残りません」
「……はい」
「記録を残せば、他の職員が同じ判断をできるようになります。あなたが助けた命の数が、増えるということですわ」
足を止めた。
「マリエッタ様」
「何ですの」
「報告書、書きます!」
「最初からそう言いなさい」
事務室の机に向かい、セルキアは羽根ペンを握った。
その手つきは、まだたどたどしい。
「『五番のこ、げんきありません』……あの、マリエッタ様。『元気がない』は、どう書けばよろしいのでしょう」
「『食欲低下および活動性の低下が見られる』ですわ」
「長いです!」
「正確なのです」
窓の外では、夕日が海を金色に染めていた。
その夜、王宮の執務室では、レオニスが保護院からの報告書に目を通していた。
十五歳になった彼は、以前より肩幅が広くなり、声も低くなった。
三年前は「若さゆえの理想論」と切り捨てられた予算案も、結果を出し続けたことで、今ではほとんど反対されなくなっていた。
「殿下。フォーシール公爵令嬢から、報告書が届いております」
侍従が差し出した紙を受け取り、レオニスは思わず眉を上げた。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる。においは、まだ悪くない。あと二日で食べなければ、あぶないと思います。セルキア』
子供の字だった。
難しい言葉と平仮名が入り混じり、途中で力尽きたように文字が大きくなっている。
だが、書かれていることは正しかった。
「……あの子が、報告書を」
口元を緩めた。
三年前、書類を廊下いっぱいにばら撒いていた少女が、今は自分で記録を書いている。
「マリエッタ嬢からも、添え書きがございます」
『殿下。セルキアの観察は正確です。ただし、羽根ペンの持ち方から教えております。三日かかりました。マリエッタ』
声を上げて笑った。
侍従が驚いた顔をする。
この三年、執務室で王太子が笑う姿はめったに見られなかった。
翌週、レオニスは久しぶりに保護院を訪れた。
馬車が門の前に停まると、砂利を蹴散らす音とともに白銀の影が飛び出してくる。
「殿下ー!」
「走ると転ぶぞ」
「もう転びません!」
言い終わる直前、セルキアは見事に足を滑らせた。レオニスが慌てて腕を伸ばし、抱き留める。
「……転んだな」
「今のは、砂利が悪いです」
「三年前と同じことを言っている」
頬を膨らませたが、すぐに顔を輝かせた。
「殿下、五番の子が魚を食べました!」
「報告書を読んだ。よく気づいたな」
「読んでくださったのですか!」
「王太子として、届いた報告書はすべて読む」
セルキアの瞳が、みるみる潤んでいく。
「私の書いたものが、王宮へ届いたのですね」
「ああ」
「では、私はもう職員でしょうか!」
「そこへ話が戻るのか」
苦笑しながら、セルキアの手を取って歩き出した。
八歳の手は、五歳の頃より少し大きい。それでも、まだ彼の手にすっぽり収まった。
プールを見て回りながら、セルキアは次々と説明していく。
「この子は、もう自分でお魚を捕れます。あと五日くらいで海へ帰れます」
「獣医の見立ても、ほぼ同じだ」
「こちらの子は、まだ人を怖がっています。近づくときは、右側から行くといいです」
「なぜ右側なんだ?」
「左の目が、少し見えにくいみたいです」
足を止めた。
「そんな記録はなかったはずだ」
「昨日、気づきました。左から近づくと、身体が跳ねます」
その日のうちに獣医が詳しく調べると、左目が少し濁っていることがわかった。
海へ帰して大丈夫か判断するためにも、大切なことだった。
ここには、まだ人に慣れていない新入りが入れられる。
「向こうに、怪我をした子がいます!」
「三番の子は、擦り傷程度だと診察が出ていますが」
「違います、もっと向こうです。塀の外です」
セルキアが指したのは、保護院の敷地の外――砂浜へ続く岩場のほうだった。
「セルキア様、あちらには誰も行っておりませんし、報告も……」
「鳴き声がします。とても小さい声です」
職員が数人で岩場へ向かうと、岩の隙間に痩せ細った子アザラシが挟まり、動けなくなっていた。
潮が満ちれば溺れていた位置だった。
子アザラシを抱えて戻ってきた職員たちは、もうセルキアをただの「殿下のお気に入りのお嬢様」とは見ていなかった。
「セルキア様。あなたは、一体――」
言いかけて、口をつぐむ。
セルキアは救出された子アザラシに駆け寄り、覗き込むように顔を近づけていた。
「よかったです。間に合いました」
その声が、いつになく静かだった。
三年前、セルキアが保護院へ通い始めた理由は「殿下に恩返しをするため」だった。
書類を運び、庭を掃き、レオニスの役に立とうと空回りしていた。
だが今、彼女が岩場へ走った理由は、恩返しではない。
「バルトさん」
「はい」
「私、この子たちを助けたいです」
振り返ったセルキアの黒い瞳は、潤んでいながら、まっすぐだった。
「殿下に助けていただいたから、というだけではありません。ここにいる子たちが、みんな海へ帰れるようになってほしいのです」
しばらく言葉を探していた。やがて、皺だらけの手でセルキアの頭をそっと撫でる。
「……それは、我々と同じ願いですな」
「では、私も職員ですか!」
「まだ八歳では雇えませんよ」
「あと何年で雇えますか!」
「そうですなあ。報告書がお書きになれるようになったら、でしょうか」
その瞬間、セルキアの表情が固まった。
「……報告書」
「おや。何か心当たりでも」
背後から、涼やかな声が飛んできた。
「セルキア。報告書は?」
振り返ると、十七歳になったマリエッタが、帳簿を抱えて立っていた。
三年前より背が伸び、髪をきっちりと結い上げている。
保護院のお金の管理を学び始めた彼女は、今では運営にも深く関わっていた。
「頭の中にあります!」
「紙に書いてくださいませ」
「はい!」
即答したセルキアだったが、その場から動こうとしない。
「今すぐに、です」
「今は五番プールの子が――」
「昨日も同じことをおっしゃいましたわね」
「昨日は三番プールの子でした!」
「言い訳の質が下がっておりますわよ」
ため息をつき、セルキアの手を引いて事務室へ向かった。
この三年で、彼女はすっかりセルキアの教育係のようになっていた。
「あなたが海獣のことをおわかりになるのは、もう誰も疑っておりません。ですが、あなたにしかわからないままでは、あなたがいない日に何も残りません」
「……はい」
「記録を残せば、他の職員が同じ判断をできるようになります。あなたが助けた命の数が、増えるということですわ」
足を止めた。
「マリエッタ様」
「何ですの」
「報告書、書きます!」
「最初からそう言いなさい」
事務室の机に向かい、セルキアは羽根ペンを握った。
その手つきは、まだたどたどしい。
「『五番のこ、げんきありません』……あの、マリエッタ様。『元気がない』は、どう書けばよろしいのでしょう」
「『食欲低下および活動性の低下が見られる』ですわ」
「長いです!」
「正確なのです」
窓の外では、夕日が海を金色に染めていた。
その夜、王宮の執務室では、レオニスが保護院からの報告書に目を通していた。
十五歳になった彼は、以前より肩幅が広くなり、声も低くなった。
三年前は「若さゆえの理想論」と切り捨てられた予算案も、結果を出し続けたことで、今ではほとんど反対されなくなっていた。
「殿下。フォーシール公爵令嬢から、報告書が届いております」
侍従が差し出した紙を受け取り、レオニスは思わず眉を上げた。
『五番プールのこども、しょくよくていかおよびかつどうせいのていかが見られる。においは、まだ悪くない。あと二日で食べなければ、あぶないと思います。セルキア』
子供の字だった。
難しい言葉と平仮名が入り混じり、途中で力尽きたように文字が大きくなっている。
だが、書かれていることは正しかった。
「……あの子が、報告書を」
口元を緩めた。
三年前、書類を廊下いっぱいにばら撒いていた少女が、今は自分で記録を書いている。
「マリエッタ嬢からも、添え書きがございます」
『殿下。セルキアの観察は正確です。ただし、羽根ペンの持ち方から教えております。三日かかりました。マリエッタ』
声を上げて笑った。
侍従が驚いた顔をする。
この三年、執務室で王太子が笑う姿はめったに見られなかった。
翌週、レオニスは久しぶりに保護院を訪れた。
馬車が門の前に停まると、砂利を蹴散らす音とともに白銀の影が飛び出してくる。
「殿下ー!」
「走ると転ぶぞ」
「もう転びません!」
言い終わる直前、セルキアは見事に足を滑らせた。レオニスが慌てて腕を伸ばし、抱き留める。
「……転んだな」
「今のは、砂利が悪いです」
「三年前と同じことを言っている」
頬を膨らませたが、すぐに顔を輝かせた。
「殿下、五番の子が魚を食べました!」
「報告書を読んだ。よく気づいたな」
「読んでくださったのですか!」
「王太子として、届いた報告書はすべて読む」
セルキアの瞳が、みるみる潤んでいく。
「私の書いたものが、王宮へ届いたのですね」
「ああ」
「では、私はもう職員でしょうか!」
「そこへ話が戻るのか」
苦笑しながら、セルキアの手を取って歩き出した。
八歳の手は、五歳の頃より少し大きい。それでも、まだ彼の手にすっぽり収まった。
プールを見て回りながら、セルキアは次々と説明していく。
「この子は、もう自分でお魚を捕れます。あと五日くらいで海へ帰れます」
「獣医の見立ても、ほぼ同じだ」
「こちらの子は、まだ人を怖がっています。近づくときは、右側から行くといいです」
「なぜ右側なんだ?」
「左の目が、少し見えにくいみたいです」
足を止めた。
「そんな記録はなかったはずだ」
「昨日、気づきました。左から近づくと、身体が跳ねます」
その日のうちに獣医が詳しく調べると、左目が少し濁っていることがわかった。
海へ帰して大丈夫か判断するためにも、大切なことだった。