可愛いすぎる五歳の令嬢が「あの時、助けていただいたアザラシです!」とやってきた
第五話 母と子
夕方、二人はプールを見下ろせる高台のベンチに腰かけていた。
潮風が心地よく吹き抜けている。
「セルキア」
「はい」
「君は、なぜここまでするんだ」
問いかけると、セルキアは足をぶらぶらさせながら考え込んだ。
「はじめは、殿下に恩返しがしたかったのです」
「ああ」
「でも、最近は少し違います」
夕日がプールの水面を照らし、そこに浮かぶアザラシたちの黒い頭を、点々と輝かせている。
「あの子たちが海へ帰るとき、とても嬉しいのです。私が助けたわけではなくても、嬉しいのです」
セルキアはレオニスを見上げた。
「殿下も、そうでしょう?」
「……ああ。そうだな」
三年前、五歳のセルキアが胸を張って言った「恩返し」は、いつの間にか別のものへ育っていた。
誰かに返すためではなく、自分の意志で誰かを助けたいという願いへ。
レオニスは、その変化を眩しく思った。
「殿下」
「何だ」
「私が大きくなったら、ここで働かせてください」
「公爵令嬢が職員になるのは、前例がないな」
「では、前例を作ります!」
あまりに真剣な顔で言うので、レオニスは笑ってしまった。
「わかった。考えておこう」
「本当ですか!」
「ただし、報告書を最後まで書けるようになったらだ」
「殿下まで!」
ベンチの上で飛び跳ねる。
その拍子にバランスを崩し、レオニスの肩へ倒れ込んだ。
「だから、落ち着きなさい」
「……殿下」
「何だ」
「今日も、温かいです」
小さな頭が、肩に寄りかかったまま動かない。
そのまましばらく黙っていた。
八歳の少女の重みは、五歳の頃より確かに増している。
あの日、外套に包んで抱き上げた小さな命が、こうして自分の隣で息をしている。
「セルキア」
「はい」
「魚は、丸呑みしていないな」
「……しています」
「していないと言え」
「嘘はいけません!」
夕日が沈むまで、二人はそこに座っていた。
その頃、事務室ではマリエッタが帳簿と格闘していた。
「マリエッタ様。休憩になさいませんか」
リナが茶を運んでくる。
「ありがとう。ですが、沿岸部への分院設立の見積もりを今日中に出さねばなりませんの」
「本当に、よく働かれますね」
「……そうでしょうか」
羽根ペンを置き、窓の外を見た。
高台のベンチに、レオニスとセルキアの影が並んでいる。
三年前、あの場所に自分が座ることを望んでいた。
王太子妃候補として、正しい振る舞いをすれば、正しい未来が手に入ると信じていた。
今は違う。
自分が数字を積み上げれば、分院が一つ増える。
分院が一つ増えれば、救われる命が増える。
それは、誰かの隣に座ることとは別の形の、確かな仕事だった。
「リナ」
「はい」
「わたくし、以前はここの匂いが嫌いでしたの」
「今は?」
「……悪くありませんわ」
茶を一口飲み、再びペンを取った。
「さあ、続きを。あの子が職員になりたいと言い出す前に、雇える体制を整えておかねばなりませんもの」
その年の秋、保護院に一頭の大きな雌アザラシが運び込まれた。
体長は成獣の中でも大きいほうで、後肢に古い傷跡がある。
網に絡まった経験があるらしく、人の姿を見ただけで威嚇の声を上げた。
「駄目です、近づかないでください!」
バルトが職員たちを制する。
歯を剥き出しにした成獣のアザラシは、子供が想像するような愛らしい生き物とはまったく違う。
噛まれれば骨まで達する。
「診察もできませんな。餌も口をつけません」
「弱り方がひどい。このままでは、三日ももたないかと」
獣医たちが頭を抱えていたところへ、セルキアがやってきた。
「新しい子が来たと聞きました!」
「セルキア様、今日はいけません。あちらは気が立っております」
バルトが慌てて止めるが、セルキアはプールの柵の前に立ち、じっと雌アザラシを見つめていた。
「……この子、怒っているのではありません」
「え?」
「怖がっています。それから、探しています」
「探す?」
「子供です。近くに、子供がいたはずです」
職員たちが顔を見合わせる。
「保護されたときは、一頭だけでしたが……」
「発見場所は、どちらですか」
「北の岩礁地帯です。漁師が通報してきました」
即座に振り返った。
「行きましょう。まだ、いるかもしれません」
その日のうちに、レオニスへ早馬が飛んだ。
翌朝には彼自身が保護院へ到着し、捜索隊が組まれた。
「殿下。八歳のご令嬢の言葉だけで、これだけの人手を動かすのですか」
同行した文官が、遠慮がちに尋ねる。
「あの子の言葉は、これまで一度も外れていない」
「しかし——」
「外れていれば、俺が責任を取る。それでいいだろう」
レオニスの声は静かだったが、反論を許さない強さがあった。
北の岩礁地帯は、潮の流れが複雑で、小舟でも入るのが難しい場所に捜索は難航した。
「セルキア。何かわかるか」
「風が邪魔をしています。もう少し、あちらへ」
舟の縁から身を乗り出すセルキアを、レオニスが背後から支える。
示された方向へ舟を進めること、およそ半刻。
「――います!」
セルキアが叫んだ。
「あの岩の裏です!鳴いています!」
職員が岩場へ上がると、狭い割れ目の奥に、生後間もない子アザラシが横たわっていた。
声もほとんど出せないほど弱っていた。
それでも、まだ息はある。
「間に合った……!」
保護院へ運び込まれた子アザラシは、すぐに治療を受けることに。
そして母親と同じ場所へ移された瞬間、あれほど人を威嚇していた雌アザラシの鳴き声が変わった。
低く、柔らかい鳴き声。
子アザラシが弱々しく応える。
「餌を食べました!母親のほうもです!」
リナが駆け込んできて報告する。事務室にいた職員たちが、一斉に息を吐いた。
「セルキア様のおかげですな」
バルトが呟く。
だが当のセルキアは、プールの柵にもたれかかり、静かに親子を見つめていた。
いつものように飛び跳ねてはいない。
レオニスが隣に立つ。
「セルキア。どうした」
「……あの子、独りでした」
「ああ」
「暗くて、冷たくて、誰も来なくて。私、あの気持ちを知っています」
小さな肩が、わずかに震えていた。
何も言わずに、その肩へ手を置いた。
「私には、殿下が来てくださいました」
「ああ」
「だから、私も行けました」
顔を上げる。潤んだ黒い瞳が、夕日を映していた。
「殿下。私、まだうまく言えないのですが」
「ゆっくりでいい」
「助けてもらった人が、次の誰かを助けに行ける。それって、すごいことではありませんか」
しばらく答えられなかった。
三年前、まだ幼い少女が海へ飛び込んで、マリエッタを救い上げた日。
あのとき彼女は、「溺れている子を助けるのは、当たり前です」と言った。
その言葉が、今こうして形になっている。
潮風が心地よく吹き抜けている。
「セルキア」
「はい」
「君は、なぜここまでするんだ」
問いかけると、セルキアは足をぶらぶらさせながら考え込んだ。
「はじめは、殿下に恩返しがしたかったのです」
「ああ」
「でも、最近は少し違います」
夕日がプールの水面を照らし、そこに浮かぶアザラシたちの黒い頭を、点々と輝かせている。
「あの子たちが海へ帰るとき、とても嬉しいのです。私が助けたわけではなくても、嬉しいのです」
セルキアはレオニスを見上げた。
「殿下も、そうでしょう?」
「……ああ。そうだな」
三年前、五歳のセルキアが胸を張って言った「恩返し」は、いつの間にか別のものへ育っていた。
誰かに返すためではなく、自分の意志で誰かを助けたいという願いへ。
レオニスは、その変化を眩しく思った。
「殿下」
「何だ」
「私が大きくなったら、ここで働かせてください」
「公爵令嬢が職員になるのは、前例がないな」
「では、前例を作ります!」
あまりに真剣な顔で言うので、レオニスは笑ってしまった。
「わかった。考えておこう」
「本当ですか!」
「ただし、報告書を最後まで書けるようになったらだ」
「殿下まで!」
ベンチの上で飛び跳ねる。
その拍子にバランスを崩し、レオニスの肩へ倒れ込んだ。
「だから、落ち着きなさい」
「……殿下」
「何だ」
「今日も、温かいです」
小さな頭が、肩に寄りかかったまま動かない。
そのまましばらく黙っていた。
八歳の少女の重みは、五歳の頃より確かに増している。
あの日、外套に包んで抱き上げた小さな命が、こうして自分の隣で息をしている。
「セルキア」
「はい」
「魚は、丸呑みしていないな」
「……しています」
「していないと言え」
「嘘はいけません!」
夕日が沈むまで、二人はそこに座っていた。
その頃、事務室ではマリエッタが帳簿と格闘していた。
「マリエッタ様。休憩になさいませんか」
リナが茶を運んでくる。
「ありがとう。ですが、沿岸部への分院設立の見積もりを今日中に出さねばなりませんの」
「本当に、よく働かれますね」
「……そうでしょうか」
羽根ペンを置き、窓の外を見た。
高台のベンチに、レオニスとセルキアの影が並んでいる。
三年前、あの場所に自分が座ることを望んでいた。
王太子妃候補として、正しい振る舞いをすれば、正しい未来が手に入ると信じていた。
今は違う。
自分が数字を積み上げれば、分院が一つ増える。
分院が一つ増えれば、救われる命が増える。
それは、誰かの隣に座ることとは別の形の、確かな仕事だった。
「リナ」
「はい」
「わたくし、以前はここの匂いが嫌いでしたの」
「今は?」
「……悪くありませんわ」
茶を一口飲み、再びペンを取った。
「さあ、続きを。あの子が職員になりたいと言い出す前に、雇える体制を整えておかねばなりませんもの」
その年の秋、保護院に一頭の大きな雌アザラシが運び込まれた。
体長は成獣の中でも大きいほうで、後肢に古い傷跡がある。
網に絡まった経験があるらしく、人の姿を見ただけで威嚇の声を上げた。
「駄目です、近づかないでください!」
バルトが職員たちを制する。
歯を剥き出しにした成獣のアザラシは、子供が想像するような愛らしい生き物とはまったく違う。
噛まれれば骨まで達する。
「診察もできませんな。餌も口をつけません」
「弱り方がひどい。このままでは、三日ももたないかと」
獣医たちが頭を抱えていたところへ、セルキアがやってきた。
「新しい子が来たと聞きました!」
「セルキア様、今日はいけません。あちらは気が立っております」
バルトが慌てて止めるが、セルキアはプールの柵の前に立ち、じっと雌アザラシを見つめていた。
「……この子、怒っているのではありません」
「え?」
「怖がっています。それから、探しています」
「探す?」
「子供です。近くに、子供がいたはずです」
職員たちが顔を見合わせる。
「保護されたときは、一頭だけでしたが……」
「発見場所は、どちらですか」
「北の岩礁地帯です。漁師が通報してきました」
即座に振り返った。
「行きましょう。まだ、いるかもしれません」
その日のうちに、レオニスへ早馬が飛んだ。
翌朝には彼自身が保護院へ到着し、捜索隊が組まれた。
「殿下。八歳のご令嬢の言葉だけで、これだけの人手を動かすのですか」
同行した文官が、遠慮がちに尋ねる。
「あの子の言葉は、これまで一度も外れていない」
「しかし——」
「外れていれば、俺が責任を取る。それでいいだろう」
レオニスの声は静かだったが、反論を許さない強さがあった。
北の岩礁地帯は、潮の流れが複雑で、小舟でも入るのが難しい場所に捜索は難航した。
「セルキア。何かわかるか」
「風が邪魔をしています。もう少し、あちらへ」
舟の縁から身を乗り出すセルキアを、レオニスが背後から支える。
示された方向へ舟を進めること、およそ半刻。
「――います!」
セルキアが叫んだ。
「あの岩の裏です!鳴いています!」
職員が岩場へ上がると、狭い割れ目の奥に、生後間もない子アザラシが横たわっていた。
声もほとんど出せないほど弱っていた。
それでも、まだ息はある。
「間に合った……!」
保護院へ運び込まれた子アザラシは、すぐに治療を受けることに。
そして母親と同じ場所へ移された瞬間、あれほど人を威嚇していた雌アザラシの鳴き声が変わった。
低く、柔らかい鳴き声。
子アザラシが弱々しく応える。
「餌を食べました!母親のほうもです!」
リナが駆け込んできて報告する。事務室にいた職員たちが、一斉に息を吐いた。
「セルキア様のおかげですな」
バルトが呟く。
だが当のセルキアは、プールの柵にもたれかかり、静かに親子を見つめていた。
いつものように飛び跳ねてはいない。
レオニスが隣に立つ。
「セルキア。どうした」
「……あの子、独りでした」
「ああ」
「暗くて、冷たくて、誰も来なくて。私、あの気持ちを知っています」
小さな肩が、わずかに震えていた。
何も言わずに、その肩へ手を置いた。
「私には、殿下が来てくださいました」
「ああ」
「だから、私も行けました」
顔を上げる。潤んだ黒い瞳が、夕日を映していた。
「殿下。私、まだうまく言えないのですが」
「ゆっくりでいい」
「助けてもらった人が、次の誰かを助けに行ける。それって、すごいことではありませんか」
しばらく答えられなかった。
三年前、まだ幼い少女が海へ飛び込んで、マリエッタを救い上げた日。
あのとき彼女は、「溺れている子を助けるのは、当たり前です」と言った。
その言葉が、今こうして形になっている。