夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第七話 ただそれだけで

それから数日が過ぎた。

 顔を上げると——蓮が立っていた。

 「……え」

 「こんにちは」

 息が、わずかに乱れていた。前髪もいつもより少し乱れている。コートを着たまま、まだ外の冷気を纏っているようだった。どこか急いで来たような雰囲気が、隠しきれていない。部屋をぐるりと見渡して、少し目を細めた。

 「ここが氷室凜先生の研究室ですか」

 「……はい」

 「おめでとうございます、助教のご就任」

 「あ、ありがとうございます」

 「この大学、御堂先生のゼミでよく来ていたので。懐かしいな……廊下の匂いまで同じで」

 蓮が少し笑った。どこか遠くを見るような顔だった。凜はその横顔を見ながら、この人もここで学んでいた時期があったのだと、ふと思った。

 「……なんで来たんですか。ロンドンじゃ」

 「帰ってきました」

 「……なんで」

 「凜さんの返信が、いつもと違ったので」

 凜は言葉に詰まった。

 「たったあれだけで——」

 「たったあれだけで分かります」

 蓮が凜の前に来た。

 「何かありましたか」

 凜は視線を落とした。言おうか、言うまいか。こんなことを言ったら——いや、でも言わないままでいる方が——でも——

 「……あの」

 「あの?」

 「……その」

 「その?」

 蓮が真顔でおうむ返しをしていた。凜は思わず顔を上げた。

 「——見ました!テレビで!蓮さんと、あの綺麗な方が一緒にいるのを!」

 勢いよく言ってしまってから、凜は少し後悔した。

 蓮が少し目を細めた。

 「あの人が気になりましたか」

 「……気になったというか」

 「凜さん」

 蓮が静かに言った。

 「凪は、僕の従兄弟です。男です」

 凜は顔を上げた。

 「……え」

 「母方の従兄弟で、HELIOSで第一秘書をしてもらっています。ロングのサラサラした髪の——」

 「あ」

 凜の頭に、あの夜のシルエットが浮かんだ。すらりとした長い髪。女性と見紛うほど美しい横顔。

 「……あの綺麗な方」

 「見た目はそうですね」

 蓮が少し困った顔をした。

 「ただ——喋ると、ものすごく男なので」

 「喋ると」

 「声がかなり低くて、言葉も端的で。初めて話した方はたいてい驚かれます。見た目と声のギャップが……なかなかすごいので」

 「……そうなんですか」

 凜はふと思った。

 「でも——いつも研究室に来られる時の秘書の方は、違う方でしたよね」

 蓮の表情が、わずかに動いた。

 「……はい」

 「なぜですか」

 少し間があった。

 蓮が、視線を少し逸らした。

 「……揶揄われるので」

 「え?」

 「凜さんに会いに行く時、凪を連れていくと……色々言われるので」

 蓮の耳が、かすかに赤くなっていた。

 凜はしばらく、その横顔を見ていた。

 「……そうですか」

 「血が繋がっています。恋愛感情は一切ありません。男性です」

 蓮がもう一度、念を押すように言った。

 凜はしばらく、蓮の顔を見つめた。

 頭の中で、色々なことが繋がった。あのレストランの前の夜。綺麗な人と一緒にいた蓮。噂の本命トップ3。全部——従兄弟だった。男の。しかも喋るとものすごく男の。

 「……知らなかった」

 「言う機会がなくて」

 蓮が少し笑った。それから、真剣な顔になった。

 「凜さん」

 「……はい」

 「一つ聞いていいですか」

 凜は頷いた。

 「僕のことが、気になっていますか」

 部屋が静かだった。

 凜は答えなかった。答えられなかった。でも——顔が、きっと全部を言っていた。

 「凜さん」

 蓮が一歩近づいた。

 「八年前、学会でお会いした時から——ずっと、あなたのことが忘れられませんでした」

 凜は息をのんだ。

 「世界が変わると思ったんです。あなたを見た瞬間。研究者として、じゃなくて——あなたという人間に、雷に打たれたみたいになって」

 蓮の目が、真剣だった。

 「ずっと言えなかった。タイミングがなかった。でも——今は言えます」

 蓮が一歩、凜に近づいた。

 「ずっと、あなたのことが好きでした」

 「……八年前から」

 「はい」

 凜は蓮を見つめた。

 八年前。学会のお手伝いに来ていた学部生。あの時も私のピンチを救ってくれた。その人が、今目の前にいる。

 「蓮さん」

 「はい」

 「……私、バツイチで、三十代で、五年間専業主婦だった女ですよ」

 「知っています」

 「それでも——」

 「それでも、です」

 蓮がまっすぐに言った。

 「凜さんは、凜さんです。研究者としてじゃなくて、あなた自身が好きです。八年前から、ずっと」

 凜の目が、熱くなった。

 その時、凜の視線がふと研究室の壁に貼ってあるHELIOSのプロジェクトポスターに止まった。

 HELIOS-AURORA Project——そのロゴマークに、白い蓮の花が描かれていた。そしてその花びらの中に、細く小さく、アルファベットが刻まれていた。

 R.I.N。

 凜は息をのんだ。

 「……これ」

 「気づきましたか」

 蓮が静かに言った。

 「会社を立ち上げた時から、ずっとそこにあります」

 「……なんで」

 「Resonate Innovation Nexus——革新を共鳴させる結節点。それが表向きの意味です」

 蓮が静かに続けた。

 「でも、本当のことを言えば——凜さんの研究が活きる場所を、作りたかったんです」

 凜は息をのんだ。

 「あの学会で、凜さんの発表を聞いた時。世界が変わると思った。この研究が正しく使われれば、どれだけの人が救われるか。でも当時の凜さんには、その舞台がなかった。そう感じた」

 蓮の目が、どこか遠くを見ていた。

 「結婚されて、研究の世界からいなくなったことは——噂で聞いていました」

 「……」

 「だから作った。凜さんが隣にいなくても。凜さんが誰かと幸せに生きていたとしても——いつかこの舞台で、またあなたの研究が動く日が来るかもしれないと思って」

 凜はポスターを見つめた。

 R.I.N。

 世界中のプレゼン資料に印刷されてきたロゴ。その中に、ずっと——

 「やっと、追いつけた気がします」

 蓮が静かに言った。

 「凜さんの隣に立てる場所に、ようやく」

 「一緒に咲きませんか」

 蓮が凜の手を取った。

 凜は顔を上げた。蓮がまっすぐに凜を見ていた。

 怖かった。また傷つくのが。また失うのが。

 でも——

 「……はい」

 凜は静かに言った。

 蓮の顔が、ぱあっと明るくなった。あの少年みたいな、無防備な笑顔だった。

 凜は思わず、くすりと笑った。

 「笑いましたよね」

 「笑いました」

 「今回は否定しないんですね」

 「……うるさいです」

 蓮がそのまま、凜を引き寄せた。

 そっと、抱きしめた。

 ホワイトムスクの香りがした。いつもの、仄かで清潔な香り。

 凜は目を閉じた。

 温かかった。

---

 後日談。

 凜が大学に戻ってしばらく経った頃、耕平を連れてHELIOSのチームの打ち上げパーティーに参加した。

 耕平は最初、場違いそうにきょろきょろしていた。でも明美に「生田さんって研究者なんですか?」と話しかけられた瞬間から、様子が変わった。

 「はい。氷室先生の研究室で——実家は農家なんですけど」

 「え、うちも!梨農家なんですけど!!」

 「僕は米農家で——」

 「農業×バイオインフォマティクスって絶対面白いですよね!?」

 「思ってました!!」

 二人は気がついたら部屋の端っこで熱く語り合っていた。

 凜と蓮はそれをちらりと見て、目を合わせた。

 「あれは——」

 「うまくいきそうですね」

 蓮がにこりとした。

 凜は小さく笑って、視線を前に戻した。

---

 春の夜、凜は窓の外を見た。

 東京の夜景が広がっていた。

 隣に、蓮がいた。

 五年間の闇が、嘘のようだった。でも——あの五年間があったから、今ここにいる。研究者として立ち上がれた。この人と出会えた。

 「凜さん」

 「はい」

 「幸せですか」

 凜は少し考えた。

 「……はい」

 「よかった」

 蓮が凜の手を握った。

 凜は窓の外を見たまま、静かに握り返した。

 泥水の中でも、清廉に咲く。

 二つで一つの花が、静かに、でも確かに、咲いていた。

---

第一部 完

———

ここまで読んでくださった皆さん、
本当にありがとうございました。

紫藤こよみ
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