夫に研究を奪われ家に縛られた私が、8年間待ち続けた男の隣で逆転するまで ~8年分の、ただそれだけで~

第六話 二つで一つの花

 論文掲載から数日後、黒瀬 幸子が凜のもとを訪ねてきた。

 ドアを開けると、幸子が立っていた。いつものプライドに満ちた顔ではなく、どこか小さくなったような、静かな顔で。

 「突然ごめんなさい。電話じゃなくて、直接言いたくて」

 凜は幸子を中に通した。

 向かい合って座ると、幸子はしばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。

 「あの子がしたことは、許されないことだわ。あなたにも、生田さんにも、本当に申し訳なかった」

 凜は少し驚いた。この人がこんな言葉を言う日が来るとは、思っていなかった。

 「……ありがとうございます」

 「あなたの論文、読んだわ。難しくてよく分からなかったけど——すごい人だったのね、あなたは」

 幸子の声が、かすかに震えた。

 「最初から分かっていれば良かった。あなたを追い詰めるようなことを、たくさん言ってしまって」

 「……お義母さん」

 「もういいのよ、そんな呼び方しなくて」

 短い沈黙があった。

 「元気でいなさい、凜さん。あなたには、これからの人生がある」

 幸子が帰った後、凜はしばらく座っていた。

 この人も、良識のある人だったんだ。

 ただ——黒瀬家を守ることが、すべてだと信じていただけで。

 嫁としてこうあるべき、黒瀬の血を絶やしてはならない。幸子自身もまた、そうやって育てられてきたのかもしれない。代々受け継がれてきた価値観を、疑うことなく樹に注いだ。樹もまた、その重さを背負って育った。悪意ではなく——その連鎖の中で、誰もが気づかないままに傷つけ合っていたのだ。

---

 キッチンカーは、HELIOSのオフィス近くの公園に来ていた。

 「あれです」

 蓮が指差した先に、カラフルなキッチンカーが止まっていた。クレープの甘い香りが漂ってくる。蓮が嬉しそうに歩き出すのを、凜は少し遅れてついていった。

 「何にしますか」

 蓮がメニューを覗き込みながら言った。目が輝いている。あの子犬みたいな顔だ。

 「……イチゴとカスタードで」

 「僕も同じにします」

 「今日は私が」と凜が言うと、蓮が少し驚いた顔をした。「お礼のクレープ、約束してたので」と言いながら財布を出す。

 「あっ……」

 受け取ったクレープを蓮に手渡すと、蓮が「ありがとうございます」と少し改まった声で言った。なぜかその一言がおかしくて、凜は小さく笑いそうになった。

 二人で並んでベンチに座った。

 秋の陽気だった。空は高く、風が少し冷たかった。

 「美味しいですよね、ここのクレープ」

 蓮が言った。

 「……本当に、ここが食べたかったんですか」

 「ずっと食べたかったです。一人だと何となく来られなくて」

 凜は蓮の横顔を見た。

 大企業のCEOが、一人でキッチンカーに来られなかった。それがなんだか可笑しくて、凜は小さく笑った。

 「……笑いましたよね」

 「笑っていません」

 「笑いました」

 「食べてください」

 蓮が嬉しそうに自分のクレープを食べ始めた。凜も一口食べた。甘くて、美味しかった。

 しばらく二人で並んで食べていた。公園の木々が風に揺れていた。こんな時間が、こんなに穏やかだとは思っていなかった。

 「凜さん」

 「はい」

 蓮が凜の顔を見た。

 「口、ついてますよ」

 「え」

 凜が手を伸ばす前に、蓮がさっと指先で口の端を拭った。それから、いたずらっ子みたいな顔でそのままパクっと自分の指を舐めた。

 「……っ」

 凜は固まった。

 蓮が何事もなかったような顔をしていた。でも耳が、かすかに赤かった。

 「……何をしているんですか」

 「クリームが勿体なかったので」

 「それは——」

 「美味しかったです」

 凜は視線を前に戻した。顔が熱かった。なんで熱いんだろう、と思いながら、もう一口クレープを食べた。甘さが、さっきより強く感じた。

 ——何をやっているんだろう、私は。

 離婚して、半年。樹との五年間の結婚生活があった。夫婦として共に過ごした時間が。

 なのに今、隣に座っているこの人の耳が赤いことに気づいて、自分の顔まで熱くなっている。

 こんな気持ちは、樹といた時には知らなかった。いや——最初に告白された時は、胸が高鳴ったのかもしれない。でもそれはもっとずっと単純な感情で、こんなふうに自分でも持て余すような、落ち着かない感じじゃなかった。

 初恋、とは違う。もっと大人になってからの、もっと複雑な何か。

 凜は小さく息を吐いた。

 私、どうしちゃったんだろう。

 帰り道、商店街を並んで歩いていた時だった。

 「こっちです」

 蓮が角を曲がりながら、自然に凜の手を掴んだ。こっちこっち、とでも言うような軽い仕草で。

 凜は掴まれた手を見た。

 「……」

 「あ」

 蓮が気づいた。でも、離さなかった。

 「……ダメですか」

 凜は少し考えた。

 「……急かさないでください」

 「急かしていません」

 「繋いだまま歩いています」

 「はい」

 蓮が前を向いたまま、にこにこしていた。隠しきれていない。

 凜は何も言わなかった。

 手は、繋いだままだった。

---

 それから、しばらく穏やかな日々が続いた。

 蓮と会う時は、いつも誰かと一緒だった。研究室にHELIOSの仕事で顔を出す時も、要人との会食でHELIOSの外部研究者として社員数名と連れていってもらう時も。

 ただ——その場では、蓮はさりげなく凜へのレディーファーストを欠かさなかった。ドアを開ける、椅子を引く、さりげなく先に立つ。他の研究員への対応とは、どこか違う。他の誰よりも、凜のことを気にかけてくれているような気がした。気がした、というだけで、確信はなかった。

 凜は時々、自分でも気づかないうちに蓮の方を見ていた。気づくと慌てて視線を戻す。それの繰り返しだった。

 それが——正直なところ、困った。

 何か言ってくれた方が、凜にとっては楽だったかもしれない。はっきりしていれば——

 断れる。

 そう思いかけて、凜は止まった。

 ……本当に、断れるのだろうか。断りたい、のだろうか。

 凜は研究室に戻る道すがら、何度か自分に問いかけた。

 私、どうしたいんだろう。

 答えは、出なかった。出したくなかった、というのが正直なところかもしれなかった。

 そんな穏やかな時間は、ある日を境に一変した。

 HELIOS-AURORAプロジェクトの成果が国際的な注目を集め始めたのだ。複数の海外機関から共同研究の打診が相次ぎ、蓮のスケジュールは一気に埋まった。シンガポール、ロンドン、ニューヨーク——出張が連続した。

 メッセージは来た。でも会えない日が続いた。

 凜は最初、自分がこんなにダメージを受けるとは思っていなかった。

 別に恋人でもない。約束をしたわけでもない。なのに——蓮がいない日が続くと、どこかが静かに欠けていく感じがした。研究室で画面を見ながら、ふと蓮に話しかけようとして、いないことに気づく。そのたびに、自分でも呆れた。

 私ったら、何をしているんだろう。

 凜は研究に集中しようとした。

 でも、うまくいかなかった。

 データを見ていると、ふと蓮の声が頭をよぎる。数式を書いていると、あの子犬みたいな顔が浮かぶ。こんなことは、今まで一度もなかった。樹と付き合っていた時でさえ、研究に没頭できないことはなかった。

 ——なんで。

 凜は自分でも、よく分からなかった。

---

 ある夜、テレビをつけると経済ニュースが流れていた。

 [IT業界の若き革命児・朝比奈蓮CEO、ロンドンでの投資家向けプレゼンが話題に——]

 凜はリモコンを置いた。

 画面の中の蓮は、いつものスーツ姿で、流暢な英語で話していた。その隣に——

 すらりとした、息をのむほど美しい人が立っていた。

 凜の心臓が、ぴくりと動いた。

 あの人だ。

 どこかで——確か——レストランの前で、蓮さんと一緒にいた。あの時の……あの綺麗な人だ。

 凜はリモコンを握ったまま、画面から目が離せなかった。

 アナウンサーの声が続いた。

 [朝比奈CEOのそばにはいつも美しいアシスタントの姿が——]

 凜はテレビを消した。

 部屋が静かになった。

 ——そうだ。あんなに素敵な人が、いつも隣にいる。

 凜は膝を抱えた。

 考えてみれば当たり前のことだった。蓮は若くて、有能で、あのルックスで、経営者で。女性が放っておくわけがない。遊び人という噂だって、最初から聞いていた。でも——一緒にいる時は、そんな気配を一度も感じなかった。凜にはそれがすっかり頭から抜けていたが……噂があること自体は、知っていた。それが今、じわじわと引っかかってくる。

 それに——私は何者だ。

 バツイチ。三十代半ば。五年間専業主婦だった女。

 蓮は私の研究を評価してくれている。でもそれは研究者としての自分であって——

 その時、樹の言葉が頭をよぎった。

 『そのうち飽きられて捨てられるのがオチだ。』

 違う。蓮さんはそんな人じゃない。

 でも——そもそも私たちは恋人でも何でもない。

 蓮さんが親切にしてくれているのは、単に研究者として評価してくれているから。私が勝手に意識しているだけで、向こうはそんなつもりは——

 でもあのハンカチは、八年間持っていてくれた——

 違う違う違う。

 凜は頭を抱えた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。こんなに取り乱したのは、いつ以来だろう。

 「……バカみたい」

 凜は呟いた。

 それでも、胸の痛みは止まらなかった。

---

 翌日、凜は大学へ向かった。

 辞令が出たのは先月のことだった。氷室 凜助教——その肩書きは、まだ少し新鮮だった。

 御堂先生が口添えしてくれた。樹が去った後の空きに、凜が戻ることになった。正式な授業担当は四月からだが、それまでは研究に専念できる。生田 耕平も、凜の研究室で研究を続けることになった。年明けからは他の研究員も加わる予定だと聞いていた。

 研究室の鍵を開けて、荷物を置いた。まだ自分の机、という感覚が薄かった。でも——悪くなかった。

 でも今日の凜は、どこか上の空だった。

 耕平に「黒瀬さ——氷室先生、大丈夫ですか」と言われても「大丈夫です」としか答えられなかった。

 蓮からメッセージが来た。

 <最近、元気ですか>

 凜はしばらく画面を見つめた。

 <元気です。お仕事頑張ってください>

 送信した。

 素っ気ない返信だと自分でも思った。でも、それ以上何を書けばいいか分からなかった。

 既読がついた。

 返信は、来なかった。

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次話へ続く
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