すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。
第1話 お嬢様、すべてを失う。
「会社を売ることにした」
父がそう言ったのは、夕食の席だった。
雨宮灯《あめみやあかり》は、箸を止めた。
正確には、止めたというより――動かす理由がなくなった。
目の前には、料理長が作った鯛の椀物。
母が好きな白磁の器。
庭では、夏の終わりを告げる虫が鳴いている。
いつもと同じ雨宮家の食卓だった。
だから余計に、その言葉だけが場違いだった。
「……会社を?」
「そうだ」
父は灯を見なかった。
母も何も言わない。
視線を落としたまま、冷めかけた椀物と箸
灯は二人の顔を交互に見た。
「どういう意味?」
「言葉の通りだ」
「それは分かってる」
少しだけ声が強くなった。
「どうして会社を売る話になるのかって聞いてるの」
父の眉間に皺が寄る。
灯はそれを見て、嫌な予感がした。
昔から父は、何かを隠している時だけ左の眉を触る。
今もそうだった。
「海外事業で、少し問題が起きた」
「少し?」
灯
母が小さく名前を呼んだ。
止めろ、という意味だ。
灯は無視した。
「少しの問題で、お祖父様が作った会社を売ったりしないでしょう」
父の指が止まる。
「……資金が足りない」
「いくら?」
「お前が知る必要はない」
「じゃあ、銀行は?」
「もう話した」
「取引先は?」
「話した」
「工場は?」
「止められない」
「だったら――」
「もう決まったんだ!」
父の声が、食堂に響いた。
庭の虫の声が、急に遠くなったように感じた。
灯は黙った。
父も黙った。
母だけが、箸を置いた。
長い沈黙のあと、父が低い声で続けた。
「……騙されたんだ」
「え?」
「海外の共同事業だ。現地企業との契約に問題があった。
資金を入れたあとで、数字の大半が虚偽だったと分かった」
灯は言葉を失った。
雨宮精密素材株式会社。
祖父が小さな工場から始めた会社だった。
特殊素材と精密部品。
派手な会社ではない。
一般の人が名前を知っているような企業でもない。
けれど、祖父が開発した二つの特許技術は、世界中の機械や通信設備の中で使われている。
子どもの頃、祖父によく言われた。
――目立たなくてもいい。
――誰かが気づかなくてもいい。
――世の中を支えてるものってのは、大抵、見えないところにあるんだ。
灯は、その言葉が好きだった。
だから雨宮という名字が好きだった。
「どれくらい……なくなったの?」
父は答えなかった。
「お父様」
「……九割近くだ」
灯の指から、箸が落ちた。
小さな音だった。
なのに妙に大きく聞こえた。
「九割……?」
「手元資金だけじゃない。
借入もある。
工場を止めれば違約金も出る。
給与も払わなければならない」
「そんな……」
灯は父を見る。
「どうして、そこまでになる前に――」
言いかけて、やめた。
遅い。
今それを責めても、一円にもならない。
灯は一度息を吐いた。
「……それで、買ってくれる会社が見つかったの?」
父が初めて灯を見る。
「ああ」
テーブルの端に置いていた書類を差し出した。
灯は受け取った。
何枚もの契約資料。
専門用語。
金額。
株式。
事業譲渡。
知的財産権。
そして表紙に書かれていた名前。
[b:[[rb:皇城 > こうじょう]]ホールディングス株式会社]。
灯でも知っている。
知らない方が難しい。
国内最大級の巨大テクノロジー企業。
半導体、通信、AI、宇宙、エネルギー。
ニュースを見れば、どこかで名前が出てくる。
「……皇城が?」
「ああ」
「だったら、会社は残るの?」
「事業は残る。工場も従業員も、原則維持するそうだ」
「じゃあ――」
ほんの少しだけ、胸が軽くなる。
「よかった……」
だが父は続けた。
「ただし、雨宮精密素材という会社は、実質的には皇城の傘下に入る」
灯の表情が止まった。
「……特許は?」
父が黙る。
その沈黙だけで分かった。
「お祖父様の特許も?」
「……譲渡対象だ」
「二つとも?」
「ああ」
「駄目」
考えるより先に出た。
父の眉が動く。
「会社は仕方ないとしても、お祖父様の特許まで渡す必要はないでしょう」
「それがなければ、誰がこの会社を買う」
「でも――」
「向こうが欲しいのは会社の名前じゃない。技術だ!」
灯は口を閉じた。
分かっている。
理屈では。
祖父が残した二つの技術こそ、今の雨宮精密素材の価値だ。
だからこそ。
「……他に方法は?」
「ない」
「本当に?」
「ない」
「全部調べたの?」
「灯!」
また父の声が大きくなる。
「お前に何が分かる!」
灯の身体が、わずかに固まった。
「経営もしたことがない。借金を背負ったこともない。何百人もの給料を払ったこともない!」
「だから聞いてるんでしょう」
「何?」
「分からないから聞いてるの!」
灯も初めて声を上げた。
「分からないから、何かできることがないか聞いてるの!」
父が黙る。
灯は続けた。
「私も働く」
「……は?」
「家も売ればいい。車だっていらない。服も宝石も全部売ればいい」
「そんな金でどうにかなる額じゃない」
「分かってる。でもゼロじゃないでしょう」
「灯」
「小さな家でいいじゃない」
今度は母を見る。
「三人で住めるところを探して。私も働くから」
母の顔が歪んだ。
灯はそれを、悲しみだと思った。
だから少し笑った。
「大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように。
「会社がなくなったって、私たちまでいなくなるわけじゃないでしょう?」
父も母も答えなかった。
その沈黙に、
灯の笑顔がゆっくり消えた。
「……何?」
母が目を伏せる。
「灯」
「何?」
「……私たちね、別れることになったの」
一瞬、意味が分からなかった。
「……別れる?」
「ええ」
「それって……離婚するってこと?」
母が答えるより先に、父が口を開いた。
「母さんは悪くない」
灯は父を見る。
「俺から言った。別れてくれって」
「なんで……?」
「母さんを、借金の肩代わりにできない。これ以上、迷惑をかけたくないんだ」
父はテーブルの上で両手を組んだ。
「失ったのは、財産の九割だけじゃない。会社は売ったら全部終わりってわけじゃないんだ。止められない仕事もある。取引先への対応も、海外事業の後処理も残ってる。銀行に借りてる金だって、まだ残ってる」
「だから離婚するの?」
「……今の俺には、母さんと一緒にいる資格がない」
「そんなの、お父様が勝手に決めることじゃ――」
「灯」
母が静かに名前を呼んだ。
怒っているようには見えなかった。
ただ、ひどく疲れていた。
「お父さんと話して、決めたことなの」
「……お母様は?」
「私はしばらく、田舎の親戚のところでお世話になるつもり」
「じゃあ……私は?」
母は少しだけ困ったように笑った。
「灯は、どうしたい?」
「え?」
「お母さんと一緒に来る?」
そこで一度、言葉を切った。
「それとも――働いて、自分で暮らしてみる?」
「…………」
「これも、いい機会かもしれないわ」
灯はすぐには答えられなかった。
二十五年間、当たり前だったものが、今夜だけで一つずつなくなっていく。
会社だけじゃない。
この家も。
この食卓も。
父と母がいる、この生活も。
全部、終わる。
ただ一つだけ、昨日までと違うことがあった。
最後の一つだけは、灯に選択肢が残されていた。
母についていくか。
それとも、自分で働くか。
灯はしばらく俯いていた。
やがて、顔を上げた。
「……働く」
母が灯を見る。
「私、働く」
声にしてしまえば、不思議と怖くなかった。
「今まで何もしてこなかったもの。お父様の言う通り、経営も知らない。借金も、会社のことも……何も知らない」
父がわずかに顔を上げた。
「だから、働く!いつか、またみんなで暮らせるよう・・・。」
灯は小さく息を吐いた。
「自分で生活してみる」
母は何も言わなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「……そう」
「うん」
「分かったわ」
灯も笑った。
笑えていたかは、分からない。
「そっか」
椅子を引く。
「灯?」
「ごちそうさま」
「まだ話は――」
「もう十分」
食堂を出た。
歩く。
廊下。
階段。
自分の部屋。
扉を閉める。
鍵をかける。
そこまでやって、
ようやく息を吐いた。
「…………」
泣かなかった。
泣けなかった。
何から泣けばいいのか、分からなかった。
会社。
祖父の特許。
家。
父。
母。
これまでの生活。
全部いっぺんに失うと、
人は意外と涙が出ないらしい。
灯はベッドに座った。
部屋を見回す。
家具。
本。
服。
写真。
昨日まで全部、
自分のものだと思っていた。
でも違った。
会社があるから。
父がお金を持っているから。
雨宮家の娘だから。
ここに置かれていただけなのかもしれない。
机の一番下の引き出しを開ける。
奥から、一冊の古いノートを取り出した。
黒い表紙。
角は擦れている。
祖父の字で、
『雨宮精密素材研究記録』
とだけ書かれている。
亡くなる少し前にもらったものだった。
「灯にはまだ難しいぞ」
そう言って笑っていた。
ページをめくる。
第一研究。
第二研究。
見覚えのある図。
数式。
何度見ても分からない。
そして後半。
途中から、急に空白が増える。
何度も書き直された計算。
失敗。
再検証。
また失敗。
最後の方に、
祖父の字が残っていた。
第三研究――未完。
灯は、その文字に指を置いた。
「……お祖父様」
返事はない。
当たり前だ。
それでも、
そのノートだけは胸に抱いた。
今夜初めて、
何かを取られないようにするみたいに。
***
翌朝。
灯が階段を下りると、
父が玄関に立っていた。
「灯」
「何?」
「お前の仕事だけは、頼んである」
灯は足を止めた。
「……仕事?」
「ああ」
父は灯を見ない。
「住む場所もある」
昨夜あんなことを言った人間が、
今さら父親らしいことをしている。
腹が立つのか。
ありがたいのか。
灯自身にも分からなかった。
「何の仕事?」
父がようやくこちらを見る。
ほんの少しだけ、
言いづらそうな顔をした。
「それは――」
灯はまだ知らなかった。
会社を失った翌日に、
自分が働くことになる場所を。
そして。
そこで出会うことになる、
三人の男たちを。
――第1話・了――