すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。
第2話 元令嬢の就職先は、メイドでした。
そこが就職先だと知った時、雨宮灯はしばらく車から降りられなかった。
「……ここ?」
運転席の男が、バックミラー越しに頷いた。
「はい。皇城邸です」
「皇城 (こうじょう)……」
聞き覚えのある名前だった。
昨日、嫌というほど見た。
皇城ホールディングス。
自分の家の会社を買った企業。
ただ、灯の中ではまだ、それと目の前の屋敷がうまく結びつかない。
というより。
「……ホテルじゃなくて?」
運転手が少し困った顔をした。
「個人のお宅です」
「これが?」
「はい」
灯はもう一度、窓の外を見た。
門から建物までが遠い。
庭園。
石畳。
噴水。
その向こうに、ホテルと呼ばれた方が納得できるほど大きな建物がある。
昨日まで自分も、世間一般で言えば裕福な家に住んでいた。
それでも思う。
これはやりすぎだ。
「……税金、大変そう」
運転手が一瞬こちらを見た。
灯は車を降りた。
***
玄関を入って最初に思ったのは、
広い。
次に思ったのは、
広すぎる。
三つ目は、
掃除する人、大変そう。
そして
その掃除する人になるのが自分だと思った
***
玄関先で待っていたメイド服の使用人に
「はじめまして、雨宮あかりです」
「はじめまして雨宮さん。
私が、屋敷の使用人のチーフになります。
話は伺っております。
本日より、こちらで住み込みとして勤務していただきます」
目の前の女性が淡々と説明する。
五十代くらいだろうか。
髪をきっちりまとめ、背筋がまっすぐ伸びている。
灯より少し背が低いのに、なぜか大きく見えた。
「勤務内容は、清掃、洗濯、配膳補助、客室管理、そのほか邸内業務全般です」
「……はい」
「最初の一週間は研修期間として、先輩使用人もしくは私についていただきます」
「はい」
「何か質問は?」
灯は少し考えた。
「一つだけ」
「どうぞ」
「私の仕事って……」
嫌な予感はしていた。
けれど、確認しなければならない。
「もしかして」
一拍。
「メイドですか?」
女性は眉一つ動かさなかった。
「はい」
「…………」
そうか。
メイドか。
雨宮灯、二十五歳。
昨日まで社長令嬢。
本日より、
メイド。
人生というものは、一日で随分と職種が変わるらしい。
「……分かりました」
女性が少しだけ灯を見る。
「驚かれないのですね」
「十分驚いてます」
「そうは見えませんが」
「顔に出にくいので」
本当は今すぐ父親へ電話して、
どういうこと?
と問い詰めたい。
でも。
仕事を頼んである。
住む場所もある。
父は確かにそう言った。
嘘ではなかった。
だいぶ説明が足りなかっただけだ。
「それでは、制服に着替えてください」
「制服……」
嫌な予感、その二。
***
鏡の前で、灯は自分を見た。
黒。
白。
長いスカート。
袖。
エプロン。
クラシカルという言葉を使えば聞こえはいい。
「……本当にメイドだ」
呟いた。
スカートの裾をつまむ。
長い。
くるぶし近くまである。
「動きにくそう……」
「慣れれば問題ありません」
後ろから即答された。
「そういうものですか」
「そういうものです」
「では邸内をご案内します」
***
覚えられる気がしなかった。
応接室。
食堂。
来客用食堂。
談話室。
書斎。
客室。
別の応接室。
別の談話室。
そのほかも
キッチン。
浴場。
物置。
使用人の部屋。etc
「さっきもここ通りませんでした?」
「別棟です」
「…………」
迷子になる自信がある。
廊下を進みながら、灯は必死に位置関係を覚える。
「こちらはご家族が日常的に使用されるリビングです」
扉を開ける。
広い。
けれど、それまで見てきた部屋より少し生活感があった。
ソファ。
大きなテレビ。
ゲーム機。
テーブルには読みかけの雑誌。
「少々散らかっていますね」
チーフが眉をひそめる。
「雨宮さん」
「はい」
「こちらを簡単に整えておいてください。私は隣室を確認してきます」
「分かりました」
「物の位置は大きく変えないように」
「はい」
扉が閉じる。
灯は一人になった。
「…………」
初仕事。
少し緊張する。
テーブルの雑誌を揃える。
空のグラスをトレーへ。
クッションを直す。
「これくらいなら……」
できる。
当然だ。
掃除くらい。
メイドをやったことはなくても、人間として二十五年間生きてきた。
その程度――
ピコッ。
「…………」
電子音。
灯の手が止まる。
ピコッ。
カチカチカチ。
「…………」
テレビの向こう。
大きなソファの端から、
足が一本出ている。
灯はしばらくそれを見る。
人がいる。
気づかなかった。
ソファの背もたれの向こうへ回る。
いた。
男。
ミルクティー色の柔らかな髪。
二十代前半くらい。
長い脚をソファから投げ出し、ゲーム機のコントローラーを握っている。
灯が来たことなど気づいていない。
いや。
「そこそこそこ――」
画面しか見ていない。
「よし」
完全に世界から切り離されている。
灯は迷った。
客?
家族?
使用人には見えない。
服装はかなりラフだ。
しかし、この家で勝手にゲームをしている以上、追い出すのも危険だ。
灯は仕事へ戻ることにした。
雑誌。
クッション。
テーブル。
「…………」
カチカチカチ。
「よしよし」
「…………」
うるさい。
カチカチカチカチ。
「うわ、それはないって!」
灯はクッションを置く手を止めた。
「……あの」
「ちょっと待って」
反射的に言われた。
灯:
「…………」
男:
「今いいとこだから」
灯:
「…………」
誰?
まあいい。
先に片づけよう。
グラスを取る。
男が突然、
「よっしゃ!」
立ち上がった。
「――!」
灯が驚いて振り向く。
そこで初めて、
男と目が合った。
「…………」
「…………」
男が瞬きをする。
一回。
二回。
「……え、誰?」
それはこっちの台詞だった。
「本日からこちらで勤務いたします、雨宮と申します」
「勤務?」
男の視線が灯の頭から足元まで移動する。
制服を見る。
顔へ戻る。
「なになに?」
コントローラーをソファへ放る。
「新しいメイド?」
「……はい」
男の顔が、
ぱっと明るくなった。
「可愛いじゃん」
「…………」
灯は反応に困った。
初対面の人間に言う言葉として適切なのだろうか。
「ありがとうございます」
とりあえず礼を言う。
男が近づいてくる。
「何歳?」
「二十五です」
「え、近いじゃん。俺二十四」
「そうですか」
「彼氏は?」
「いません」
答えてから、
灯は止まった。
「……なぜ答えなければならないんです?」
男が笑う。
「ちゃんと答えてから気づくんだ」
「質問されたので」
「真面目だねえ」
男は灯の周りを半周する。
「…………」
灯も目だけで追う。
「何ですか」
「いやー」
顔を見る。
制服を見る。
また顔。
「似合うなあと思って」
「ありがとうございます」
「でもちょっと長くない? スカート」
灯は初めて意見が一致した。
「私もそう思います」
「だよね」
「歩きにくいです」
「じゃあ短くする?」
「しません」
「即答」
男が笑う。
妙に距離が近い。
灯は半歩下がった。
すると男が半歩来た。
もう半歩下がる。
また来る。
「…………」
「…………」
灯:
「近いです」
「そう?」
「はい」
「俺、目悪くて」
「眼鏡をおすすめします」
「冷たいなあ」
楽しそうだ。
何がそんなに楽しいのか分からない。
「名前、何だっけ」
「雨宮です」
「下の名前」
「必要ですか?」
「俺が知りたい」
「…………灯です」
「あかり」
男が一度、その名前を口の中で転がす。
そして。
「あかりちゃん」
「雨宮でお願いします」
「えー」
「雨宮で」
「あかりちゃん」
「…………」
聞いていない。
灯は諦めた。
「それで」
男がソファの背に手をつく。
「元々メイドやってたの?」
「いいえ」
「じゃあ何してたの?」
灯の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
昨日まで。
何をしていた?
祖父の会社売却、家なくなる、借金、父と母離別、社長令嬢から翌日メイド?
本当に何してるんだろう・・・私
一瞬記憶がよぎった
「……色々です」
「ふーん」
男はそれ以上聞かなかった。
灯は少しだけ意外に思った。
軽そうなのに。
人の踏み込まれたくない場所には、
意外と入ってこないらしい。
――少なくとも、今は。
「あなたは?」
灯も聞く。
「俺?」
「こちらの方なんですよね?」
「まあね」
「お仕事は?」
「…………」
今度は男が止まった。
ほんの一瞬。
そして、にこっと笑う。
「色々?」
灯:
「…………」
さっきの仕返しだ。
「そうですか」
追及しない。
男が少し意外そうな顔をする。
その時だった。
「雨宮さん、お待たせしま――」
扉が開く。
チーフが入ってくる。
そして。
灯の前に立っている男を見る。
表情が変わった。
「凪 (なぎ)様!」
灯:
「…………」
様?
チーフが頭を下げる。
「お戻りでしたか」
「ずっといたよ」
「存じ上げませんでした」
「誰も俺のこと探してないもんね」
凪。
灯はその名前を頭の中で探す。
皇城家。
確か――
「ご紹介いたします。皇城家三男の、皇城凪 (こうじょうなぎ)様です」
灯:
「…………」
やってしまった。
完全に。
ただの暇そうな男だと思っていた。
いや。
暇そうなのは事実だ。
でも雇い主側の人間だった。
灯は即座に姿勢を正した。
「大変失礼いたしました。改めまして、本日より勤務いたします雨宮灯と申します」
頭を下げる。
「よろしくお願いいたします、凪様」
「…………」
返事がない。
灯が顔を上げる。
凪が不満そうに
「やだ、それ」
「はい?」
「それ」
「それ?」
凪が灯の顔を指差す。
「さっきの方がいい」
「さっきのとは?」
「さっきの喋り方、俺が誰か知らなかった時のやつ」
「それは、忘れてください。勤務先のご家族に対する態度ではありませんでした、失礼いたしました。」
「俺は先の方好き」
「っそういう問題じゃありません」
凪が笑う。
「そうそう、それ、それがいい」
灯は眉を寄せた。
この人。
苦手かもしれない。
「では、凪様。お邪魔でしたら私は――」
「あかりちゃん」
「雨宮です」
「あかりちゃん」
「雨宮です」
「あかりちゃん」
「…失礼します」立ち去るあかり
凪の勝ちだった。
***
それから灯は、
メイドという仕事を少し甘く見ていたことを知る。
「シーツは皺を残さないように」
「はい」
「角を合わせて」
「はい」
「違います」
「…………はい」
ベッドメイク。
やり直し。
二回。
三回。
「紅茶はカップを先に温めます」
「はい」
「お湯が熱すぎます」
「……はい」
「茶葉が多いです」
「…………はい」
洗濯物の畳み方。
食器の扱い。
掃除道具。
客室の備品。
覚えることが多い。
そして。
「雨宮さん!」
「はい!」
アイロン台から煙が上がった。
灯は固まった。
白いシャツ。
一部だけ、
見事に色が変わっている。
「…………」
チーフも見る。
「…………」
灯も見る。
「これは」
「はい」
「焦げていますね」
「……そうですね」
「どうしてこうなったと思います?」
「アイロンを置いたままにしたからでしょうか」
「分かっているなら、なぜやったのです?」
灯:
「…………」
正論すぎて何も言えない。
その時。
後ろから声がした。
「何これ、面白っ」
振り向かなくても分かった。
「凪様」
チーフの声が低くなる。
「研修中ですので、お邪魔なさらないでください」
「邪魔してないよ。見てるだけ」
「十分邪魔です」灯は少しだけ、
チーフのことが好きになった。
凪が焦げたシャツを見る。
「あかりちゃん、メイド向いてないね」
灯:
「…………」ムっ
今日一日で、
本人が一番よく分かっている。
「そうかもしれません」
凪が一瞬、黙った。
てっきり言い返してくると思ったらしい。
灯は焦げたシャツを見ながら続けた。
「でも」
「ん?」
「できないなら、覚えればいい」
新しいシャツを手に取る。
「もう一度やります」
凪:
「…………」
チーフ:
「次は焦がさないでください」
「はい」
灯はもう一度、アイロンを握った。
凪はしばらく、その横顔を見ていた。
昨日まで何をしていた女なのか。
どうして突然ここへ来たのか。
何も知らない。
ただ。
初対面で自分を『凪様』と呼ばなかった。
メイド服は似合うのに、
メイドは驚くほど下手。
失敗しても泣かない。
怒られても逃げない。
できないなら覚えると言う。
「…………」
凪の口元が少し上がる。
面白い子が来た。
それが、
皇城凪が雨宮灯に抱いた、
最初の印象だった。
そして灯が皇城凪に抱いた印象は――
仕事中にゲームをしている、距離感のバグってる暇人。
だいぶ違った。
――第2話・完――