すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。

第10話 この家が、嫌いじゃなくなった?



皇城邸へ来て、

一週間が経とうとしていた。

たった一週間。

なのに。

雨宮灯には、

もっと長くここにいるような気がしていた。

「雨宮さん」

「はい」

「そちら、お願いします」

「分かりました」

洗濯物を受け取る。

以前なら、

畳み方を確認していた。

今はもう、

手が動く。

タオル。

シーツ。

シャツ。

種類ごとに分ける。

「…………」

少しだけ、

速くなった。

ベッドメイクも。

掃除も。

アイロンも。

まだ完璧ではない。

でも。

少なくとも、

シャツを焦がすことはなくなった。

「三日前よりはマシね」

小さく呟く。

近くにいた先輩メイドAが笑った。

「三日前って」

灯「はい?」

先輩メイドA「ずいぶん基準低いですね」

灯「最初が酷かったので」

先輩メイドA「自分で言います?」

灯「事実ですから」

二人が少し笑う。

最初は。

元お嬢様。

そんな目で見られていた。

珍しそうに。

少しだけ、

面白がられて。

中には、

あまり良く思っていない人もいたかもしれない

でも。

灯は毎日働いた。

失敗したら覚えた。

分からなければ聞いた。

誰かが重いものを運んでいれば手伝った。

特別扱いを求めなかった。

それだけ。

先輩メイドB「雨宮さん」

灯「はい」

先輩メイドB「今日、午後のシーツ交換代わってもらえません?」

灯「いいですよ」

先輩メイドB「ほんと?」

灯「その代わり」

先輩メイドB「?」

灯「明日の朝、私のお茶の練習に付き合ってください」

先輩メイドB「会長の?」

灯「はい」

先輩メイドが笑う。

先輩メイドB「まだ“まずい”って?」

灯「毎日です」

先輩メイドB「よく心折れませんね」

灯は少し考えた。

灯「……最初よりは飲んでくださるので」

先輩メイドB「それ褒められてます?」

灯「たぶん」

先輩メイドB「前向きですね」

灯「そうでもありません」

そう答えて。

灯は少しだけ笑った。

***

午前十時。

和室。

巌蔵「まずい」

「…………」

今日もだった。

灯は巌蔵を見る。

巌蔵は茶を飲む。

一口。

二口。

三口。

灯「巌蔵様」

巌蔵「なんじゃ」

灯「もう半分飲まれましたけど」

巌蔵「喉が渇いとる」

灯「毎日ですね」

巌蔵「年寄りは水分補給が大事じゃ」

灯「ではお水をお持ちしましょうか」

巌蔵「いらん」

灯「なぜです?」

巌蔵「茶がある」

灯「…………」

この老人。

絶対、

最初より美味しくなっていることを認めたくないだけだ。

そして

わたしで暇をつぶしてると思った

灯「今日は何点です?」

巌蔵「点?」

灯「百点満点で」

巌蔵「十二点」

灯「昨日は?」

巌蔵「知らん」

灯「では昨日より上ですか?」

巌蔵「知らん」

灯「下ですか?」

巌蔵「知らん」

「…………」

巌蔵が茶を飲む。

灯はじっと見る。

巌蔵「何じゃ」

灯「いえ」

巌蔵「言いたいことがあるなら言え」

灯「玲司さんと似ていますね」

ブッ。

巌蔵が、

ほんの少し茶を吹いた。

灯「…………」

初めて見た。

灯「大丈夫ですか?」

巌蔵「……何がじゃ」

灯「いえ」

灯は笑いそうになる。

巌蔵「笑うな」

灯「笑ってません」

巌蔵「口元が笑っとる」

灯「気のせいです」

巌蔵「お前も言うようになったのう」

灯は俯いた。

でも。

少しだけ、

肩が揺れた。

巌蔵がそれを見る。

「…………」

灯は気づかない。

灯「なんです?」

巌蔵「いや」

巌蔵は茶碗を置いた。

巌蔵「ようやく笑ったな」

「…………」

灯の笑みが、

少し止まった。

灯「私、笑ってましたけど」

巌蔵「そうか」

灯「はい」

巌蔵「なら、そういうことにしておこう」

「…………」

また。

この人は、

何か分かったような顔をする。

そして。

説明しない。

灯「本当に変な方ですね」

巌蔵「お前に言われたくない」

灯「私は普通です」

巌蔵「それが厄介じゃと言っとる」

灯は急須へ手を伸ばす。

灯「もう一杯いります?」

巌蔵「まずいからいらん」

灯「そうですか」

「…………」

「…………」

巌蔵「半分」

灯「はいはい」

灯は笑いながら、

半分だけ注いだ。

***

和室を出る。

廊下の向こう。

見慣れた金髪。

凪「あかりちゃーん」

「…………」

見慣れたというのが、

少し腹立たしい。

灯「仕事です」

凪「まだ何も言ってない」

灯「昨日も聞きました」

凪「今日は違うよ」

灯「何でしょう」

凪が隣へ並ぶ。

「仕事終わったら遊んで」

灯「またですか?」

凪「今度は、違うゲーム、この前のリベンジしたくない?」

灯の足が、

ほんの少し遅くなる。

「…………」

凪が見逃さない。

「やりたい?」

灯「別に」

凪「やりたい顔」

灯「してません」

凪「負けたままでいいの?」

「…………」

卑怯だ。

この男。

人の性格を、

少し分かってきている。

それに、お願い取り消さないと、

またなぎさんペースに

灯「仕事が終わったらです」

凪の目が少し開く。

「え、今、いいって言った?」

灯「時間があれば、と言ったんです」

凪「んじゃ、いいと同じだね」

灯「違いますけど、もうそれでいいです」

「あかりちゃん」

凪が嬉しそうに笑う。

「今日何時に終わる?」

灯「分かりません」

凪「待ってる」

灯「先に遊んでいてください」

凪「一緒にやりたい」

「…………」

灯は凪を見る。

以前なら。

即答していた。

嫌です。

でも。

「……時間があれば」

それだけ言って、

歩き出した。

凪はその場に残る。

「…………」

少しして。

小さく。

凪「よっしゃ」

灯「聞こえてますよ」

凪「聞かせたの!」

灯「仕事してください」

凪「俺の仕事って何?」

灯が振り返る。

「それは私が聞きたいです」

「…………」

一瞬。

凪の笑顔が止まりかける。

でも。

すぐ戻る。

凪「ゲーム?」

灯「でしょうね」

灯は去っていく。

「…………」

「あ、今日勝ったら、お願いごとなしにしてもいいよ」

夜来るように仕向ける凪

「…………」なしになるならと、術中にハマる灯

凪 笑いながら灯を見送る

そして、昨日。

――あまり無理しないでくださいね。

今日。

――時間があれば。

少しずつ。

距離が変わっている。

凪はまだ、

それを何と呼ぶのか知らない。

ただ。

今日の夜が、

少し楽しみになった。

***

昼休みまであと少し。

「雨宮」

灯の足が止まった。

「…………」

今。

名前を呼ばれた。

振り返る。

黒髪。

眼鏡。

朔夜。

灯「何でしょう」

朔夜「昨日の」

灯「知りません」

朔夜「まだ何も言ってない」

灯「研究の話なら知りません」

「…………」

朔夜が灯を見る。

朔夜「絶対知ってる」

灯「何をです?」

朔夜「それを聞いてる」

灯「知りません」

朔夜「昨日のデータ」

灯「分かりません」

朔夜「環境変化への追従性について――」

灯「分かりません」

朔夜「まだ最後まで言ってない」

「…………」

朔夜の目が細くなる。

朔夜「雨宮」

灯「はい」

朔夜「隠すの下手だね」

ちょっとムッとした灯「…………朔夜さん」

朔夜「何」

灯「女性に嫌われるって言われません?」

朔夜「言われたことない」

灯「そうですか」

朔夜「そもそも女性とほとんど話さない」

「納得しました」

灯は去ろうとする。

朔夜「待って」

灯「仕事があります」

朔夜「じゃあ一個だけ」

しつこいと思った灯「嫌です」

朔夜「まだ聞いてない」

灯「聞いたら答えないといけなくなりそうなので」

「なら」

朔夜が言った。

「質問じゃなくて仮説」

灯「もっと嫌です」

朔夜「君は、あのデータに似た何かを見たことがある」

灯の足が止まる。

「…………」

朔夜「違う?」

灯は振り返らない。

「知りません」

そのまま歩く。

朔夜は追わなかった。

ただ。

背中を見る。

「…………」

確信した。

何かある。

そして。

なぜか。

それを知りたいと思った。

研究のため。

今はまだ、

そう説明できた。

***

午後。

玲司の書斎。

灯は机の横に立っていた。

夜出社する玲司のために至急書類整理していた

「こちら、昨日の案件です」

玲司「ああ」

灯「添付資料はどちらにありますか?」

玲司「右のところ」

灯が右側を見る。

三つある。

灯「どれです?」

玲司「青」

灯「二つあります」

玲司が顔を上げる。

玲司「上」

灯が取る。

「こちらですね」

玲司「それだね」

数秒。

玲司が言った。

「それが終わったら」

灯「はい」

静か。

以前ほど、

居心地は悪くなかった。

灯は資料を分類する。

玲司はパソコン。

互いに話さない。

十分。

二十分。

灯が一枚の資料を持つ。

「玲司さん」

「何」

「こちら、前回の資料と数字が違います」

玲司が見る。

「どこ?」

灯が横へ。

「ここです」

玲司が確認。

「…………」

灯「前回が四・八二。今回は四・二八です」

「入力ミスだな」

玲司が修正する。

「助かった」



今度は。

聞こえた。

はっきり。

「どういたしまして」

玲司が顔を上げる。

一瞬、

目が合う。

「…………」

灯が少し笑った。

「ちゃんとお礼言えるんですね」

「…………」

一瞬眉間が動いた玲司

「灯、お前はオレを鬼か何かだと思ってるのか?」

灯「いいえ」

玲司「横暴な独裁者とか」

灯「は、いいえっ」

玲司「今、はいって言いかけた?」

灯「はい、あっいいえ」

少し笑ったように見えた玲司

ほんの少しの会話

ちょっと打ち解けてる?

以前よりもやさしい。

あかりの頭によぎる

玲司は画面を見る。

「…………」

「優しくなったのか、と思ったか?」

「え?」頭の中覗かれたかと、一瞬動揺した灯

玲司「的確に仕事できる人に、横暴な態度は必要ないからな」

灯「そうですね」

あの言葉気にしてた?

玲司さん・・・実は、私が思ってたのと違うかもしれない

***

夜。

やっと今日の仕事が終わった。

凪とのゲームは。

結局、

できなかった。

終わるのが遅くなったからだ。

自室。

小さな部屋。

灯は扉を開けた。

「…………」

誰もいない。

当たり前。

一人部屋だ。

なのに。

口から、

自然に出た。

「ただいま」

「…………」

灯は止まった。

自分で言って、

少し驚いた。

以前の家。

広い部屋。

大きなベッド。

高価な家具。

クローゼット。

全部なくなった。

今は。

小さなベッド。

小さな机。

小さなクローゼット。

制服。

私物も少ない。

なのに。

「…………」

不思議だった。

ここへ戻ると、

少しだけ落ち着く。

灯はベッドへ腰掛ける。

「……慣れただけよね」

誰に言うでもなく、

呟く。

机の引き出しを開ける。

一冊の古いノート。

祖父の研究ノート。

灯が持ってきた、

数少ないものの一つ。

表紙を撫でる。

開く。

文字。

数式。

図。

灯には、

全部は分からない。

でも。

何度も見てきた。

祖父が、

最後まで完成させられなかったもの。

ページをめくる。

そして。

ある見出しで止まる。

《第三研究――自己適応型機能材料》

「…………」

昨日。

朔夜のモニターで見たデータ。

似ていた。

ほんの少し。

祖父の研究と。

「…………」

灯はノートを閉じる。

まだ。

何もできない。

知識も足りない。

お金もない。

場所もない。

会社もない。

今の自分にあるのは、

このノートだけ。

でも。

「……いつか」

小さな声。

まだ、

何をするとも決めていない。

ただ。

その一言だけが、

ベッドへ落ちた。

***

同じ頃。

皇城ホールディングス本社。

最上階。

ほとんどの社員が帰ったあとも、

一室だけ明かりがついていた。

玲司は、会社に戻って

仕事をしていた。

机には、

複数の案件。

買収。

統合。

研究開発。

海外事業。

その中から、

一つのファイルを開く。

表紙。

《雨宮精密素材株式会社
統合後事業報告》

玲司の目が、

数字を追う。

第二工場。

稼働維持。

従業員。

継続雇用。

主要取引先。

契約維持。

研究開発部門。

予算。

玲司の指が止まる。

「…………」

内線。

「俺だ」

『はい』

「雨宮精密の第二工場」

『はい』

「設備更新を予定通り進めろ」

『ですが、統合直後ですのでコストが――』

「古い設備を使って事故を起こす方が高くつく」

『承知しました』

「研究開発費も削るな」

『財務からは圧縮案が出ています』

「却下だ」

即答。

「技術を買った会社が、技術者を切ってどうする」

『……承知しました』

電話を切る。

玲司は報告書へ戻る。

そこには、

二つの技術が記載されている。

《極限環境耐久特殊複合素材》

《超低損失信号伝送技術》

そして。

権利欄。

皇城ホールディングスへ移管済。

玲司は、

何の感情もなくページをめくる。

経営判断として、

必要な買収だった。

技術。

工場。

従業員。

取引先。

数字。

契約。

すべてを見ている。

玲司にとって。

雨宮精密素材は、会社だった。

ただ、それだけ。

「…………」

次の案件へ。

資料を閉じる。

表紙にある、

雨宮

という二文字を見ても。

今日、

自分の書斎で資料を整理していた女の顔は、

浮かばなかった。

***

その頃。

皇城邸。

灯は、

祖父のノートを胸へ抱いていた。

同じ、

雨宮

という名前。

灯にとってそれは。

会社ではない。

数字でもない。

技術だけでもない。

祖父。

父。

母。

家。

失った日常。

自分が生きてきた、

二十五年間そのものだった。

二人は、

同じ名前を見ている。

なのに。

まだ、

繋がらない。

灯はノートを引き出しへ戻した。

照明を消す。

小さなベッドへ入る。

「…………」

明日も早い。

お茶。

掃除。

洗濯。

玲司の書斎。

たぶん凪にも捕まる。

もしかしたら朔夜にも。

「……忙しいな」

少しだけ、

笑った。

一週間前。

何もなくなったと思った。

会社。

家。

家族。

自分の居場所。

全部。絶望だった。

でも。

何もなくなった場所からでも、

人は一日ずつ生きられる。

失敗して。

怒られて。

覚えて。

働いて。

誰かと言い合って。

少し笑って。

そうやって。

もう一度、

何かを作っていく。

灯は目を閉じた。

ここが、

自分の居場所なのかは、

まだ分からない。

それでも。

明日の朝、

起きる場所はある。

今は、

それで十分だった。

ここで、生きていく。

少なくとも、

自分の足で立てるようになるまでは。

そして。

灯はまだ知らない。

この屋敷で始まった一週間が、

失った人生を取り戻すための時間ではなく。

新しい人生を、自分で作り始めた最初の一週間だったことを。

――第10話・完――

次回 第11話 長男坊は、人を試す。
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