すべてを失って、すべてを奪った一族のメイドになった。 ――未完成の特許と、三兄弟。

第9話 三兄弟が、気になり始める。



「雨宮さん」

午前の仕事中。

チーフに呼び止められた。

「はい」

「朔夜様がお呼びです」

灯の手が止まった。

「…………」

嫌な予感。

「何のご用でしょう」

「研究室へ来てほしいと」

「…………」

さらに嫌な予感。

昨日。

――ふしだらだ。

思い出す。

「行かなければ駄目ですか?」

「お呼びですので」

「……分かりました」

皇城家に来てから、

断れない用事ばかり増えている。

***

研究室。

コンコン。

「雨宮です」

「入って」

以前よりは、

まともな返事だった。

灯が入る。

朔夜はパソコンを見ている。

灯「何でしょう」

朔夜「昨日のこと」

灯「…………」

やっぱり。

朔夜は画面を見たまま言った。

「凪の部屋から出てきた時」

灯「誤解です」

朔夜「まだ何も言ってない」

灯「顔に書いてあります」

朔夜が灯を見る。

「何が」

灯「ふしだら」

「…………」

当たっていた。

灯は手を差し出す。

「これです」

朔夜「なに?」

灯「これを塗ってもらっていただけです」

朔夜が見る。

「何を」

灯「ハンドクリーム」

「…………」

灯の手を見る。

確かに。

数日前より、

乾燥は落ち着いている。

「ほら」

朔夜「…………」

灯「分かりました?」

朔夜「いや」

灯「なぜです?」

朔夜「手が保湿されていることは分かる」

灯「はい」

朔夜「それが凪の部屋で起きたことの全てだという証明にはならない」

灯「…………」

面倒くさい。

ものすごく。

朔夜「説明と事実は別」

灯「じゃあ、どうしたら信じるんですか」

朔夜「検証できれば」

灯「ハンドクリーム塗っただけのことをどう検証するんですか!」

朔夜は少し考えた。

「だから保留してる」

「…………」

朔夜「否定も肯定もしてない」

「もう好きにしてください」

灯はため息をつく。

「…………それだけですか?」

朔夜「違う」

朔夜がモニターを指す

「こっち」

「?」

灯は近づいた。

画面には、

大量の数値。

グラフ。

意味の分からない記号。

灯「何ですか?」

朔夜「昨日から取ってるデータ」

灯「私に見せて分かると思います?」

朔夜「分からなくていい」

灯「ではなぜ呼んだんです?」

朔夜がマウスを動かす。

「これ」

グラフの一部を指す。

朔夜「前に君が研究室を荒らした時」

灯「荒らしてません」

朔夜振り向く

「瓶を落としかけた」

灯「落としてません」

朔夜「落としかけた」

灯「……それは反省しています」

「その時」

朔夜が目線をパソコンに戻す

「ここ見て、何かに気づいた」

画面。

灯は目を細める。

「見てました?」

朔夜「見てた」

灯「よく覚えてますね」

朔夜「一度見たものはだいたい覚えてる」

灯「私の名前は忘れてましたよね」

朔夜「興味がなかったから」

灯「…………」

朔夜は気にしない。

「それで」

グラフを拡大する。

「この変化を見た時、何か言おうとしてた」

灯は画面を見る。

「私が?」

朔夜「うん」

何かに気づいた変化を見逃さなかった

「ここ」

灯が近づく。

「?」

朔夜も近づく。

本人は、

距離を気にしていない。

顔が、

灯のすぐ横。

「…………」

「このブラフが不安定になった時――」

朔夜の手が、

灯の手の上からマウスを掴んだ。

「…………」

指が重なる。

肩も近い。

顔も近い。

灯「朔夜さん」

朔夜「何?」

画面しか見ていない。

灯「近いです」

朔夜「何が?」

灯「あなたが」

「…………」

ようやく。

朔夜が灯を見る。

近い。

ものすごく。

「…………」

朔夜の顔が赤くなる。

「……っ」

勢いよく離れた。

朔夜は眼鏡を直す。

意味もなく。

「それで」

画面を見る。

「この条件の時――」

数秒後。

また研究へ集中する。

「ここを0.02下げてーーー」

近づく。

手を伸ばす。

また、

灯の手の上からマウス。

「…………」

灯が手を見る。

朔夜の手。

次に、

朔夜を見る。

朔夜は画面しか見ていない。

灯「朔夜さん」

朔夜「何?」

灯「また近いです」

「…………」

手を見る。

距離を見る。

「…………」

離れる。

灯「忘れるの早くないですか?」

朔夜「研究中だから」

灯「便利ですね、その言葉」

朔夜「そういうつもりはない。」

灯「そうですか・・・」

灯は集中すると距離感なくなる男、やっぱり遺伝だと思った

だが。

数値を眺めているうちに。

「…………」

灯の表情が、

少し変わった。

朔夜は見逃さなかった。

「何?」

灯「いえ」

朔夜「今、何か分かった?」

灯「分かりません」

朔夜「嘘」

灯「なぜです?」

朔夜「目が変わった」

灯「…………」

この人も、

変なところを見ている。

もう一度画面を見る。

グラフ。

環境条件。

信号。

変化。

灯の頭の中に、

昔の記憶が浮かぶ。

祖父の研究室。

ノート。

何度も聞いた言葉。

――素材はな、耐えるだけじゃ駄目なんだ。

「…………これ」

灯が言った。

朔夜の指が止まる。

「何?」

灯「信号が弱くなっているんじゃなくて」

真剣な朔夜「…………」

灯「環境の変化に、追いつけてないだけじゃないですか?」

沈黙。

朔夜が灯を見る。

さっきまでとは、

まったく違う目。

朔夜「……なんでそう思った?」

灯は我に返った。

しまった。

「なんとなくです」

朔夜「なんとなくで言うな」

「では忘れてください」

灯が離れる。

「待って、今の発想、どこから出た」

朔夜が立つ。

灯「だから、なんとなく」

朔夜「何か知ってる?」

灯「知りません」

朔夜「雨宮!」

灯「何も知りません」

朔夜「まだ質問してない」

灯「…………」

朔夜の目が細くなる。

「今」

一歩近づく。

朔夜「答えるまでに間があった」

灯「っ、何と答えるかを、考えただけです」

朔夜「それを普通は――」

灯「朔夜さん」

灯は少し強く言った。

「仕事がありますので、失礼します」

逃げた。

自分でも分かった。

だから余計に、

朔夜の視線が鋭くなる。

「…………」

灯は立ち上がる。

早く出よう。

これ以上話したら、

何か気づかれる。

祖父の研究。

未完成のノート。

そして。

皇城家。

まだ、

見せたくない。

灯「では――」

勘付かれる前に、急いで足を引く。

その時。

灯「――あ」

椅子へ当たった。

身体がよろける。

肘が机へ。

カタン。

二人の顔色が変わった。

「!」

机の端。

小さな試料ケースが、

転がった。

「待っ――」

灯が手を伸ばす。

届かない。

身体がさらに傾く。

灯「きゃっ」

落ちる。

そう思った瞬間。

腰へ腕が回った。

「――!」

強く引かれる。

灯の身体が止まった。

「…………」

朔夜。

片腕が、

灯の腰を抱いている。

もう片方の手は机。

二人とも固まった。

試料ケースは。

机の端で、

ぎりぎり止まっていた。

落ちていない。

「…………」

灯は試料を見る。

そして。

自分の腰を見る。

朔夜の腕。

「…………」

朔夜も見る。

「……あ」

今さら気づいたように、

腕を離した。

「すみません」

灯は体勢を戻す。

朔夜は試料ケースを確認する。

無事。

「…………」

灯は少しだけ、

朔夜を見る。

あの瞬間。

試料が落ちそうだった。同時に、自分も転びそうだった。

そして朔夜は。

先に、

自分を支えた?

灯「……ありがとうございます」

朔夜「何が」

灯「支えてくださったので」

朔夜「反射」

即答。

灯「そうですか」

朔夜「うん」

灯は少し笑った。

「なら、反射神経にお礼を言っておきます」

「…………」

変な女。

この男は、

祖父と似た研究をしている。

研究以外、

何も見えていないような人。

そう思っていた。

でも。

思っていたより、

嫌な人ではないのかもしれない。

ほんの少しだけ。

そう思った。

体勢を立て直した灯「では、仕事がありますので、これで失礼します」

朔夜は仕方なく「…………わかった」

そして諦めきれない朔夜であった。

その答えを探す意欲が

のち大変な行動を引き起こすことになること気づかずに

***

夕方。

灯が廊下を歩いていると、

向こうから凪が来た。

凪「あかりちゃーん」

灯「凪さん」

凪「遊ぼ?」

灯「仕事です」

凪「えーんじゃ、夜は?」

灯「疲れていたら寝ます」

凪「相変わらず、冷たいw」

灯「凪さんも寝た方がいいですよ」

凪「俺?」

灯「はい」

灯はすれ違う。

凪が振り返る。

「んじゃ一緒に寝よ?w」

無視した灯

何か思い出したかのように足が、

ほんの少し止まった。

振り返らない。

ただ、

静かに言った。

灯「あまり無理しないでくださいね」

そして、

そのまま歩いていった。

凪「…………」

笑顔。

いつもの笑顔。

数秒。

「…………え」

頭の中。

え。

え、え、え?

なんかバレてる?

何が?

どこまで?

ゲーム・・作っ?

いや。

パソコンは見られてない。

昨日も閉じていた。

「…………」

じゃあ何で?

エラーコード?

寝てる時間?

何か見た?

「…………」

凪は、

灯が消えた廊下を見る。

その洞察力にちょっと怖いと思った

なのに。

「……無理しないで、か」

口元が緩む。

心配された。

それは。

少しだけ、

嬉しかった。

「…………」

すぐに顔をしかめる。

「いやいやいや」

違う。

問題はそこじゃない。

と思ったあと、ぼそっと

「ま、いっかw」

やっぱり軽かった

凪には何かバレたくない秘密があった

***

夜。

玲司の書斎。

灯は資料を分類していた。

以前より、

ずっと慣れた。

灯「これはこちらでいいですか?」

玲司「ああ」

灯「こちらは?」

玲司「それは、そのままでいい。」

灯「分かりました」

玲司も、

以前ほど細かく灯の動きを見なくなった。

触るな。

勝手に動かすな。

最初は、

そればかりだった。

今は。

玲司「昨日と同じ分類でまとめてくれればいい」

灯「承知しました」

任されるものが増えた。

灯が最後の資料を置く。

灯「終わりました」

玲司「ああ」

「では失礼いたします」

扉へ。

玲司「灯」

灯「はい?」

玲司はパソコンを見たまま。

「…………」

数秒。

「資料、助かった」

小さい。

聞き間違いかと思うほど。

灯は少し驚いた。

「…………」

玲司はもう、

仕事へ戻っている。

灯の口元が、

ほんの少し緩んだ。

「どういたしまして」

返事はない。

灯は部屋を出た。

***

同じ夜。

研究室。

朔夜は一人、

今日のデータを見ていた。

だが、

見ているのは数字だけではなかった。

――環境の変化に、追いつけてないだけじゃないですか?

なぜ、あの発想が出た?

頭の中で何度もその言葉がぐるぐる

雨宮灯。

何を知っている。

そして。

机の端を見る。

試料。

灯が転びかけた瞬間。

自分の腕は、

試料ではなく。

先に、

灯へ伸びた。

「…………」

なぜ?

反射。

それで説明できる。

たぶん。

「…………」

でも。

もう一つ。

灯の腰を抱いた感触。

手。

距離。

――近いです。

「…………」

朔夜は眼鏡を外した。

額を押さえる。

分からない。

最近。

研究以外に、

考えることが増えた。

それが何より、

面倒だった。

一方。

別の部屋。

凪はベッドで天井を見ながら考えていた。

――あまり無理しないでくださいね。

「…………」

何で分かった?

そして。

なぜ少し、

嬉しかった?

さらに。

書斎。

玲司は仕事をしながら、

整理された資料へ一度だけ目を向けた。

以前なら、

他人に机を触らせること自体が嫌だった。

なのに今は、

雨宮灯が整理したものを、

何の疑問もなく使っている。

「…………」

三人の男の中で。

少しずつ。

違う何かが、

変わり始めていた。

朔夜は思う。

あの女は、何か知っている。

凪は思う。

あかりちゃん、何か気づいてる?

玲司は思う

あの女、補助として使えるかもしれない。

そして灯だけが、

何も知らない。

自分が少しずつ、

皇城家の男たちの日常へ入り込んでいることを。

――第9話・完――

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