学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。

第5話 知らない誰かに笑いかけないで


文化祭当日の教室は、コーヒーの香りと生クリームの甘い匂いが入り混じって、いつもとまるで違う場所のようだった。

「日向さん、オーダー入りました! 三番テーブル!」

「はーい!」

エプロン姿で駆け回る茜の頬は、朝からずっと上気していた。クラス企画の喫茶店は開店直後から大盛況で、休む間もなく注文の紙が回ってくる。

◇

「すみませーん、注文いいですか」

呼ばれてテーブルに向かうと、よその学校の制服を着た男子生徒が三人、興味津々といった様子で茜を見上げていた。

「えっと、ご注文は――」

「あ、それより、この後暇? よかったら一緒に他のとこ回らない?」

唐突な誘いに、茜は言葉に詰まった。

「あ、いや、私、まだシフトが」

「シフト終わったらでもいいからさ。連絡先とか――」

その先が続く前に、すっと横から伸びてきた手が、茜の持っていたトレーをそっと支えた。

「お待たせしてすみません。オーダー、こちらで伺います」

涼しい声とともに現れたのは、私服姿の蓮だった。休憩時間だったはずなのに、いつのまにか戻ってきていたらしい。

「あ、蓮くん」

「休憩、代わろうか。手、震えてる」

言われて初めて、自分の手が微かに震えていたことに気づいた。断り方が分からず固まっていた自分を、蓮はちゃんと見ていたらしい。

「え、あ、うん……お願いします」

戸惑いながら場所を譲ると、蓮はにこりともせず、けれど丁寧な態度でテーブルの注文を取り始めた。よその学校の男子たちは、その空気に気圧されたように、大人しく注文を告げて大人しく席についた。

◇

裏の控室代わりの空き教室で一息ついていると、悠真がにやにやしながら顔を覗かせた。

「見た見た。さっきの、完全に威嚇してたね、あいつ」

「威嚇って」

「普段あんなに愛想よく接客する男じゃないんだよ、蓮って。今日だけ妙に丁寧だったでしょ」

そう言われてみれば、蓮の接客はどこか演技めいて、いつもより表情が硬かった気がする。

「もしかして、怒ってた……のかな」

「怒ってたっていうか、面白くなかったんじゃない? 自分の目の届かないところで、茜が知らない男に声かけられてるの」

悠真の言葉に、茜の胸の奥がとくんと跳ねた。

「な、なんでそんなこと分かるの」

「長い付き合いだからね」

曖昧に笑ってはぐらかす悠真の向こうで、廊下を歩く蓮の姿が見えた。休憩を終えて戻ってきたのか、真っ直ぐこちらへ向かってくる。

「茜、少し出よう」

「え? でもシフトが」

「もう果穂に代わってもらった。少しだけでいいから」

有無を言わせない口調に押されて、茜は蓮に連れられるまま、人混みを避けて渡り廊下の端まで歩いていった。

◇

校舎の喧騒が少し遠くなる場所で、蓮はようやく足を止めた。

「さっきの人たちに、連絡先渡した?」

「渡してないよ、渡す前に蓮くんが来たから」

「よかった」

心底ほっとしたような声に、茜は思わず蓮の顔を見上げた。いつも余裕たっぷりに見える彼の表情に、今はどこか余裕のなさが滲んでいる。

「もしかして、心配してくれたの?」

「うん」

素直な即答に、今度は茜のほうが言葉を失った。

「心配、っていうか」

蓮はそこで一度言葉を切って、視線を逸らした。夕暮れ前の橙色の光が、彼の横顔をやわらかく照らしている。

「知らない誰かに、茜が笑いかけてるところとか、あんまり見たくない」

「……それ」

「わがままなの、分かってる」

わがままだと分かっていながら、それでも口にしたという事実が、茜の心臓を大きく揺らした。誰にでも同じことを言っているとは、もうどうしても思えなかった。

「わがままだなんて、思わないよ」

気づけば、そう答えていた。蓮が驚いたように目を見開く。

「本当に?」

「うん。だって、私も」

その先を言いかけて、急に恥ずかしくなって口をつぐんだ。蓮はそんな茜を、まっすぐな目でじっと見つめている。

「私も、何?」

「な、なんでもない! そろそろシフト戻らなきゃ」

誤魔化すように早口で言って、茜は逃げるようにその場を離れた。背中越しに、蓮の小さな笑い声が聞こえた気がした。

文化祭の喧騒に紛れながら、茜は自分の胸がまだ大きく高鳴っているのを感じていた。
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