学校一の王子様は、私にだけ甘すぎる。
第6話 傘に残る、古い記憶
朝は晴れていたはずなのに、放課後になると空はすっかり灰色に変わっていた。
「うそ、傘忘れた……」
下駄箱の前で天を仰いだ茜の隣で、果穂が申し訳なさそうに手を合わせる。
「ごめん、私こっちの方向じゃないから貸せない。先生に借りるビニール傘、まだ残ってるかな」
「見てくる」
◇
職員室前の傘立ては、すでに空っぽだった。仕方なく校舎の玄関先で雨宿りをしながら、茜は小降りになるのを待つことにした。
「傘、忘れた?」
振り返ると、蓮が一本の傘を手に立っていた。
「うん……先生のも借りられなくて」
「一緒に入る?」
差し出された傘は、よく見る透明のビニール傘だった。どこにでもあるはずのそれを、蓮はなぜか少しの間、じっと見つめていた。
「蓮くん?」
「……ううん、なんでもない」
我に返ったように瞬きをして、蓮は傘を開いた。二人で一本の傘に入ると、必然的に肩が触れるくらいの距離になる。茜は自分の心臓の音が、雨音に混ざって聞こえてしまわないか心配になった。
◇
並んで歩く通学路は、雨のせいでいつもより静かだった。傘に落ちる雨粒の音だけが、二人の間を埋めている。
「懐かしいな、こういうの」
ふいに漏れた呟きに、茜は顔を上げた。
「こういうのって?」
「雨の日に、誰かと傘に入ること」
「蓮くんでも、そういう経験あるんだ」
「うん。昔、一回だけ」
その声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。茜は何気なく聞き返す。
「どんな思い出?」
蓮はしばらく黙っていた。雨音の中、彼の横顔には、うまく言葉にできない何かを探しているような表情が浮かんでいた。
「……昔、雨の中で泣いてた時に、傘を貸してくれた人がいたんだ」
「へえ」
「その人の言ったことが、今でもたまに、頭に残ってる」
「なんて言われたの?」
「それは、まだ秘密」
はぐらかすように笑う蓮に、茜は少しむくれた顔をしてみせる。
「なにそれ、気になるじゃん」
「そのうち話す。ちゃんと言える時が来たら」
前にも聞いた台詞だった。茜はそのたびに、彼の中に自分の知らない何かが眠っているのを感じる。それが少し寂しくて、同時に、いつか教えてもらえる日が来ることを、なぜか信じてしまう。
◇
茜の家の前まで来ると、雨は思ったより弱まっていた。
「送ってくれてありがとう」
「うん」
「その、傘の思い出の人って……女の子?」
聞くつもりのなかった質問が、口からこぼれ落ちた。蓮は少し驚いた顔をしたあと、小さく笑った。
「さあ、どうだったかな」
「教えてくれないの?」
「今はまだ」
そう言って、蓮は傘を差したまま、自分の帰り道へと歩き出した。茜はその背中が見えなくなるまで、玄関先に立ち尽くしていた。
(傘を貸してくれた人、か)
自分にも、似たような記憶がうっすらとある気がした。けれど、それがいつのことだったか、どうしても思い出せない。
夜、部屋の机に向かいながら、茜は引き出しの奥にしまったままの古い絵日記のことを、ふと思い出していた。開くかどうか迷って、結局そのままそっと引き出しを閉じた。
雨の匂いが、まだ制服の袖にほんのり残っていた。