朝の徒花
1-7.気付き

「……宮本さん、どうしたの?何かあった?」

ボクが問い掛けると、受話器の向こうで微かに息を呑む気配がした。

「えっ……? い、いえ、何でもないです。大丈夫です、何もありません」

慌てて取り繕ったような、上擦った声。
吉田さんへ電話を繋ごうとする彼女の表情が、受話器越しにひどく動揺しているのが伝わってきた。

大丈夫、なわけがない。
ボクが古巣のオフィスを去ってからまだわずか一ヶ月ちょっと。
受話器から聞こえる彼女の声は、かつて毎朝オフィスで快活に「おはようございます!」と花が咲くように挨拶をしていた、あの明るさを完全に失っている。
すっかり擦り切れて、今にも消えてしまいそうなほど細い声。

「本当に、大丈夫ですよ。
今、吉田さんに代わりますね。」
「待って。」

ボクは無意識に、受話器を握る手に力を込めていた。

「宮本さん。
ボクの経験的にね、本当に大丈夫な人は『なんでですか?』とか、冷静に、自分がどうしてそう言われたかを危機感なく聞き返すんだよ。
でも、そうやって『大丈夫です』って反射的に返す人は、本当はもう限界で、放っておいてはだめな状態なんだと思っている。」

一呼吸置き、声をさらに一段落とす。
彼女に落ち着いてもらえるように、少しでもボクの話に耳を傾けてもらえるようにゆっくりと話し掛けた。

「……何か、最近の不安や不満があったら聞くよ、ボクで良ければ。」

コンプライアンスを気にして突き放した元上司と部下の距離感、既婚者同士の守るべき一線。
朝のモーニングコールをやめた時にあれほど自分に言い聞かせたはずのブレーキだが、彼女の今にも泣き出しそうな気配を前にすれば、今はそんなことを気にしている時じゃない。

受話器の向こうで、張り詰めていた糸が切れたような小さな、震える吸気音がした。

「……室長、わたし、もう……」

そこからは、堰を切ったように彼女の苦悩が溢れ出してきた。
前職のシステム経験を買われ、新しい室長からOAトレーナーと働き方改革推進リーダーを押し付けられたこと。
資材契約の基礎もまだ曖昧な中で、4月の定期交渉と単価改定の繁忙期が重なり、キャパシティが完全に崩壊していること。
周囲の同僚も他人事として捉えて手伝ってくれない、頼ることができないこと。
旦那さんにも頼れず、家でも孤独で、もう会社を辞めてしまいたいと考えていること。

ボクの知る宮本穂花は、弱音を吐くような子ではなかった。
中途採用のハンデを感じさせないほど真面目で、ひたむきに仕事を覚えようとしていた優秀な部下だ。
その彼女がわずか半年足らずのキャリアで「退職」の文字を口にするまで追い詰められている。

胸の奥が、怒りと切なさで締め付けられるようだった。
引き継ぎもそこそこに彼女を残して異動してしまった自分が不甲斐ない。
新天地での慣れない業務で精一杯になり、彼女のSOSのチャットにビジネスライクな返信しかしていなかったことへの後悔が押し寄せる。

「宮本さん、ボクが渡した業務は手伝うから一緒にやろうか。
必要なら帰りにそっちの事務所にも寄るよ。
だけど、他の業務は門外漢だから牛歩作戦で問題を先送りにしよう。
働き方改革とかはアンケートって形で期日を設けて発信すればその期日までは進捗がなくても問題ない。
まずは他の業務を終わらせるまでの時間を稼ごう。
今はもう無理をしないで頼って欲しい。」
「……はい」
「大丈夫、ちゃんと頑張っているって分かっている。
だからこそ先達であるボクに頼ってね。」

そう言って電話を切った後、ボクはデスクに両肘をついて、深く深くため息をついた。
手元のスマホの画面を見つめる。
昨日までの静寂が嘘のように、このスマホが急に熱を持ったかのように思えた。

ボクは今、隣の地区の管理職だ。
もう彼女の直属の上司ではない。
今の資材契約室にはボクとは別の室長がいて、この新体制にボクが直接口を挟むことは越権行為にあたる。

だけども、あのボロボロに傷ついた彼女の声を、聞いて見ぬ振りなどできるはずがない。

(……なら、ボクはどう動くべきだ?)

元上司の「前任者」という立場を使って、新しい室長に人員配置や役割分担について相談を入れたらどうか。
人事室にも優秀な人材を流出するリスクについて、本当にそれでよいのか相談しよう。

彼女に必要なのは心のケアよりも先に業務量の見直しや安心して通える職場環境の確立だと思った。

きっと、明日から世間一般ではゴールデンウィークの連休が始まるが、今の彼女の精神状態では休まるものも休まらないだろう。
ここまで放置してしまった後悔とふつふつとした憤りを自分自身に感じる。
机の上の書類を見つめながら、ボクは強い衝動に激しく揺さぶられながら自分が今すべきことが何かを考えていた。
< 8 / 9 >

この作品をシェア

pagetop