朝の徒花
1-6.憔悴

4月、新しい上司を迎えた資材契約室は慌ただしく新年度のスタートを切った。

引き継ぎの余韻に浸る暇もなく、普段の業務に加えて前任の奈良さんが言っていた「定期交渉」と「定期単価改定」の荒波が、
経験のない私に容赦なく押し寄せてきた。
過去の膨大なデータや資料をひっくり返し、見積書と睨み合う日々。
どうしても資料だけでは読み解けない壁にぶつかったとき、私は迷わず彼へのチャットを開く。

「奈良さん、お忙しいところ恐れ入ります。JSテック社との定期交渉に際して事前に確認しときたいのですが、この契約が出来た過去の経緯や当時のやり取りってご存知ないですか?」

画面の向こうの彼は、もう同じ事務所にはいない。
少しのタイムラグがあって、返ってきたのはビジネスライクな文章だった。

「それはフォルダ内の『2025年度交渉経緯』という資料を参考にしたらいいよ。
当時の担当が労務時給の単価条件を譲らなくてね。
基本はその資料通りで大丈夫だけど、今回は原材料の高騰分をどこまで織り込むかがポイントになるね」
「ありがとうございます、助かりました。
確認してみます。」

本当に必要なことだけを言い合う、数通のチャット。
「ぴーん」と通知音が鳴るたびに胸が跳ねるけれど、そこに他愛のない雑談が挟まれることは二度となかった。
彼は完璧に「前任の、別拠点の管理職」として私に接していたし、私も「頼りになる前任者に質問する部下」でしかなかった。

そんな中、新しい室長から面談の席で告げられたのは、予想もしない言葉だった。

「宮本さんは前職がシステム系だったよね。
その経験を買って、今年度から我が室のOAトレーナーと、働き方改革推進リーダーの仕事を任せる事にしたよ。」

有無を言わせず、決定事項の積み上げ。
中途入社なので、ある程度即戦力を見込まれての採用だと思う。
その為、半年もすれば『新人』とは甘え難いが本業である資材契約の仕事は過去経緯や他部署の業務内容など会社内の業務に精通していなければ交渉の舞台に立つことも難しい。
こういった知っていて当然とされる知識を把握して応用するこの部署のやり方を覚えるだけでも手一杯なのに、重なる繁忙期の対応。
そして、新たに上乗せされた業務。
自分一人でやり切れる自信はなかった。


案の定、私のキャパシティはひと月程の瞬く間に限界を迎えていった。

毎日、パソコンの画面を見つめすぎて頭痛がする。
家に帰っても仕事の段取りが頭を離れず、愛犬の散歩に行く元気すら残っていない。
心身の負荷は、確実にピークに達していた。

「……ねえ、ちょっと聞いてよ」

ある夜、リビングでテレビを見ている旦那さんに、耐えかねて愚痴をこぼした。
新しく任された仕事の理不尽さ、業務量の多さ。
だけど、社外の人間である旦那さんに、JS物流の複雑な社内事情や、資材契約の専門的な苦労など分かるはずもなかった。

「そっか、穂花がそれだけ頼られているってことかもしれないけど大変そうだね。
体、大丈夫?」

旦那さんは心配そうに、けれどどこか他人事のような、優しいだけの言葉を口にする。

「……大丈夫しか言えないの?」

八つ当たりだと分かっていながら、トゲのある言葉が口から突いて出た。
何も分かっていない。
何も分かってくれない。
私はこんなに苦しいのに、ただ形式的な優しさしか返せない旦那さんに猛烈にイライラしてくる。
全部が嫌だった。
3月までは仕事に対してあんなにやりがいを感じていたのに5月2日現在でもう辞めてしまおうかと考えている。
そして、わずか半年程のキャリアで弱音を吐き、退職という逃げまで考えている自分に嫌気を覚え、どんどんとマイナス思考に陥っていく。

翌日もどんよりとした頭痛を抱えたまま出社し、ただロボットのようにキーボードを叩いていた。

午後、室内の固定電話が鳴った。
生気のない声で、受話器を耳に当てる。

「はい、JS物流資材契約室です…。」
「お疲れ様です、奈良です。あ、宮本さん? お疲れ様。」

受話器の向こうから聞こえた溌剌とした懐かしい声に、頭の芯がカッと熱くなった。

「ごめんね、吉田さんいるかな?
ちょっと確認したいことがあってさ。」

用件は私宛ではない、「あ、はい、少々お待ちください」と、いつも通りに吉田さんへ繋ごうとした。

吉田さんの席へ保留を押そうとした瞬間、受話器の向こうの彼が、ハッとしたように声を低くした。

「……宮本さん、どうしたの?何かあった?」

ただ一言、そう問いかけられた。
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